「オープンダイアローグ」と「放置療法」の併用
記事『一過性の現象としての「統合失調」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-eb39.html)で述べたように、「統合失調」は、かつて近代以前には、共同体による「集団的癒し」により治癒がもたらされていた。だから、「統合失調」も、本来「一過性」のものであり得るということである。ただ、「共同体」が解体された現代においては、かつてのような、「集団的癒し」を復活させることは難しい。そこで、それに代わるようなものを、個人が身につけていくしかないと、私は述べいていた。
ところが、前回述べた「オープンダイアローグ」は、このような、共同体的な「集団的癒し」を志向するものといえる。恐らく、フィンランドの西ラップランド地方では、かつての共同体のあり方が、まだかなり残っているのだろう。それで、このような療法は、受け入れられやすい基盤があったと思われる。
もちろん、現代の共同体は、かつての濃密な共同体とは異なるし、実際、治療に当たるのも、医療スタッフと家族などの関係者であって、「共同体」なのではない。それは、いわば、「疑似的な共同体」であるが、「オープンな対話」により、何とか、かつての共同体に近い治癒的な環境を、作出しようとしたということができる。
「統合失調状況」についても、かつてのように、予め、「共同体的な理解」をもっているわけではないが、「オープンな対話」を通して、かつての「共同体的な理解」に近い、何らかの「共同化し得る言語化」をもたらすことで、なんとか癒しの効果を期したといえる。
そこには、個人主義の時代を通過しているからこその、個人の重視という面もあるのだが、基本的には、かつての「共同体的な癒し」が、モデルとされていると解される。それは、もはや伝統に基づいた、確たる方法ではなく、不確かで、手探りのものだが、それでも、現代において、十分の治療成績を上げているのは、逆に、いかに、現代の精神医療が酷いものかを、示すものなのである。
いずれにしても、このような「共同体志向」は、コンセプトとして、十分頷けるものがある。
また、現に「統合失調状況」にある本人にとっても、かつての「理解」が失われたのは周りの者と同じであり、特に、「幻覚」に苛まれる急性期において、「理解」の手掛かりが得られないことは、大きな苦しみをもたらす。また、誰にも理解されず、孤独に追いやられることにもなる。そこで、前回みたように、急性期において、この療法を施すことで、何らかの「共同化」がもたらされることは、そのような苦しみや、孤独を和らげ、治癒に向けて、よい効果を及ぼすことも、頷けることである。
だから、私も、急性期において、このような療法を施すことには、基本賛成である。
しかし、このような療法も、「集団」による「介入」なのであり、本当に「オープン」になされるのでない限り、結局は、これまでと何ら変わりない、集団の側の見方や都合の「押しつけ」に化してしまう可能性が高い。むしろ、「オープン」という大義がある分、実質「押しつけ」でしかないものを、体よく誤魔化すのに、利用される可能性も高まる。あるいは、「オープンダイアローグ」を形式的に採用しつつ、それでは治癒が成功しなかったとして、これまでのような薬物中心の医療をなすための、口実として利用される可能性もある。
そもそも、どんな相手であれ、人間が真に「オープン」になるということは、稀なことである。まして、確かに、危険性も秘めた、難かしい状況にある人間に対して、「オープン」になるなどということは、さらに難いことである。
実際、「オープン」というのは、前回みたように、医療関係者も含めた、集団の側が、「病気」とか「治療」という一方的な見方を止めるか、少なくとも棚上げにしなければ、成り立たないことである。そのようなことが、「集団」の力が強く、「医療」や「薬」への盲目的な信仰の甚だしい、日本のような環境で、可能なことかは、かなり怪しいと言わねばならない。
そこで、このような療法は、取り入れるとしても、それに頼るようなことは避け、急性期において、実験的に、なすに止めたいのである。
私は、前から述べていたように、「介入」ではなく、「一人で放っておいてあげる」こともまた、治癒に向けての、重要な要素だと考える。一種の、「放置療法」である。(記事『「精神病」の「放置療法」と抵抗』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-e1b2.html 参照)本人の陥っている状況について、理解が得られないことや、孤独が苦しみになるのは、確かであるが、一方、本人にとっては、他人や集団からヘタに干渉されることも、大きな苦しみとなるのである。なまじっかな干渉や介入がなされるぐらいなら、放置される方がよぼどよいし、治癒的な環境としても、適しているといえる。
このような「介入」による苦しみは、現代の社会及び精神医療が、「患者」を「病人」として、一方的に、治療の対象として扱うことによっているし、周りの者との、さまざまな葛藤や軋轢が避けられないことにもよっている。このような状況にあっては、それらを避けることが、むしろ「治癒」的な環境を、整えるのである。「オープンダイアローグ」の発想は、「集団的介入」ではあっても、少なくとも、こういうものを遠ざける方向にあるので、その限りで、治癒的な効果を発揮できるのである。
しかし、「一人で放っておかれる」ことの真の意義は、そういうことにはない。それは、起こっている現象と、時間をかけて、じっくりと向き合うことを可能にする、ということにこそある。既にみたように、「オープンダイアローグ」も、かつての「集団的癒し」のような強力なものではなく、基本的に、混乱や苦悩の状態を、和らげるのに過ぎない。それは、真に、体験を共有するものでもなければ、真の「理解」をもたらすものでもない。結局は、そういったことば、本人である自分がなすしかないことなのである。
言い換えれば、「オープンダイアローグ」のような療法は、単に、混乱に陥る前の、元の状態に戻るという意味での、「治癒」を目指すものである。ところが、「放置療法」的な、「一人でじっくり向き合うこと」は、単に元の状態に戻るというのではなく、混乱の状況を乗り越えることで、元の状態を超えていくことまでをも目指す。「イニシエーション」として、乗り越えることで、成長を果たすということである。少なくとも現代では、そのような点にまで、共同体が関与することは、あり得ないことなので、個人が努力により、なすしかないのである。
ただ、繰り返すが、「一人で向き合う」ことは、最も激しく現象に見舞われている、急性期において、やみくもに混乱を深めたり、それを防衛するため、「妄想」を固定するなど、マイナスの方向にも大きく作用する可能性はある。そして、その場合、「一人」では、それを修正する機会に欠けることにはなる。だから、それを解消できるようなものとして、「オープンダイアローグ」を実験的に施すことには、意義がある。実際には、この点も、予めの知識が行き渡れば、一人で対処できる可能性も高まるのだが、現状では、「共同性」の力を借りる方が、効果を発揮することも多いと思われる。
そういうわけで、一見相反するようだが、「放置療法」的な発想と、「オープンダイアローグ」的な療法を、うまく併用していくのが、「治癒」に向けたよい方法といえる。しかし、その場合にも、全体としてのコンセプトを言うなら、「放置療法」的な発想の方こそが主になるべきで、「介入」はあくまで最低限に抑えることにしたい。
但し、現に混乱の状況にある者を、「一人で放っておいてあげる」には、ある程度保護的な環境が必要となる。つまり、そのための、一種の「施設」が必要である。しかし、記事『「精神医学」と「もともとの問題」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-436a.html)でも述べていたが、それは「治療」を施す「病院」とは全く異なり、あくまで、本人の「療養」のための施設である。
ただ、本人が必要とすれば、先の「オープンダイアローグ」のような療法、または、カウンセラーや体験者などのアドバイスを受けることができる。医師は、最低限の身体的ケアをなすものとして、関与を認めてもよいだろうが、それは、精神科医である必要はないから、精神科医の関与という余地はもはや生じない。(つまり、精神医療は不要になり、それまでそれに当たられた莫大な費用が、そのような施設の運用につぎ込めるということである!)
もちろん、現在のところ、こういった治癒方法には、あまり現実味はないし、もし、なされるとすれば、かなりの危険が伴うことも予想される。それを受け入れるかどうかは、社会の問題であるが、しかし、その危険が、現在の精神医療がもたらすものに比べて、より大きいものかというと、そんなことはないはずなのである。
いずれ、実験的にでも、そのような方向に踏み出す試みが、なされればと思う。
※ 「荒廃」をもたらすもの
未だに、「統合失調」を放置すると、「荒廃」し「廃人」になる、などと信じている人も多い。それも、「統合失調症」という「病気」が厳としてあって、その「病気」が、必然的に「荒廃」をもたらす、というのである。何とも、「オカルト」じみた、「病気」が信じられているものである。これはまさに、一つの「都市伝説」である。実際、このことは、多くの者が、「統合失調」に、何らかの「オカルト」的なものを含みみていることを、浮かび上がらせてしまっている。
確かに、「統合失調」という「状況」が、「荒廃」をもたらすことはある。しかし、それは、その者の陥った、具体的な状況が、「荒廃」をもたらすのであって、何か「病気」とういうものがあって、それから必然的に、もたらされるわけではない。
しかも、その「状況」には、その者を取り巻く、社会的状況というのものが、大きく関わっている。中でも、精神医療との関わりこそが、多くを占める。記事『長期化させる要因』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-573b.html )でも、まとめた(「荒廃」とは「長期化」ということの一つの現れである)ように、「病気というレッテル貼り」、「病院という劣悪な環境」、「精神薬」など、多くが、精神医療との関わりで生じているのである。
つまり、実際には、精神医療こそが、「荒廃」をもたらす、大きな要因となっているのである。
「オカルト」的なものに対する「恐れ」こそが、この「都市伝説」の元なのだが、その「オカルト」的なものを封じ込めようとして、実際には、医療が、「荒廃」を生み出している。そして、その「原因」を、元々の「病気」なるものに転嫁して済ますとき、この「都市伝説」は「リアリティ」をもって再生産されるのである。
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