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2015年8月 1日 (土)

「カルマを超える」ことと「野狐禅」

前回及び前々回、「カルマを超える」ということを述べた。しかし、それは、あくまで、「カルマ」を「カルマ」とはっきり認識して、「原因」を見定め、その自らの無意識的な行為を自覚にのぼらせ、「カルマ」を通して修正しようとしたことを、自ら意識して、自己教育的になすことができるようになるということだった。

だから、それは、もはや「カルマを受けない」とか、「カルマに落ちることがない」などということではない。また、それは、「カルマ」ということを、軽んじているのではなく、むしろ、厳粛に受け止めるからこそ、可能になることである。

このことに関して、禅の公案に、「百丈野狐」という面白い話がある、ここに簡潔にまとめられたものがあるので、参照されたい。(http://www.geocities.co.jp/Beautycare/7975/m-002.htm)

百丈和尚の説法のあと、一人の老人が、かつて弟子に、「修行を完成した人、つまり悟った人は、因果に落ちることはあるのか」と聞かれて、「不落因果」(因果に落ちることはない)と答えたために、野狐の身にされてしまったというのである。

その老人は、何と答えれば良かったのか分からないので、百丈に同じ質問をすることになった。すると、百丈は、「不昧因果」(因果に昧からず、あるいは、因果に昧まされず)と答えた。その意を悟った老人は、瞬時に、野狐の身を脱することができた。

「因果」とは、まさに「カルマ」のことであり、老人は、悟った者は、もはや「カルマに落ちない」などと、「思い上がっ」て、誤ったことを言ったために、野弧の身にされてしまった。まさに、図らずも、「カルマ」を受けてしまったのである。

この質問に関する「正解」は、「不昧因果」、つまり、「カルマに暗からず」、あるいは「カルマに眩まされず」だった。これは、どちらにしても、要するに、「カルマ」を「カルマ」とはっきり見定めて、それに明るいが故に、それに眩まされたり、囚われることがない、ということである。その意味を悟った老人は、まさに、自らの思い上がりを修正して、長年の「カルマ」の結果を脱することができたのである。

この公案は、「野狐禅」という言葉のもとになっているものである。「野狐禅」とは、一般に、「生半可に悟った気になっている禅」のことを、言う。しかし、「野狐」とは、人を化かしたりする、悪賢い「妖狐」、つまり「精霊」としての狐を指すのであり、単に「生半可」ということでは、済まないものがある。それは、もっと、本質的に、「邪悪な力」を帯びた、「思い上がり」なのであり、強く誘惑されたものである。

要するに、それは、「ルシファー」の働きそのものであり、「野狐禅」とは、ほかならぬ、「ルシファー禅」のことなのである。禅でも、「魔境」という言い方をするが、前回もみたように、「宗教体験」や「悟り」のような、内面の変化に深く関わる事にこそ、「ルシファー」の影響力も強まって、それに囚われる者を増やしめるのである。実際、単刀直入に、「悟り」を目指す「禅」ほど、「ルシファー」の影響を受けやすいものもないと言えるだろう。

一般のイメージとしても、禅または禅の和尚には、「暴力的」とも言えるような、「邪悪さ」や「思い上がり」のイメージがつきまとうのではないか。日蓮なども、「禅天魔」と言って、当時の禅のあり様を貶した。「天魔」とは、まさに「ルシファー」のことであり、「禅」は「ルシファー」に支配された邪悪な宗教というのである。

禅者である道元も、このような事態を憂いていたようで、晩年、「十二巻本正法眼蔵」の中の「深信因果」という巻で、「因果」の問題を集中的にとりあげている。まず、「百丈野狐」の話をあげつつ、悟った者は「因果に落ちない」という発想が、いかに外道の誤ったもので、禅の悟りとは無関係であるかを、力説している。さらに、様々な禅の師匠の説をあげて、「因果に落ちない」どころか、「因果」を「深く信じる」ことこそが、禅の基本であることを、説いているのである。それは、どこか、経典をたくさんあげつつ、阿弥陀仏の本願を信じることがすべてと説く、親鸞に近いものを感じさせる。およそ、禅者らしくないといえば言えるのである。

それは、それだけ、「野狐禅」的なあり方を憂いていたということで、「ルシファー」的な「思い上がり」の怖さを、身にしみて、感じ取っていたのだろう。

いずれにしても、前回みたとおり、「カルマ」の元には、「ルシファー」の影響が強く働いているのだった。だから、「カルマ」を軽んじることは、「ルシファー」の働きを軽んじることになり、結局は、それに捕えられることを意味する。「カルマ」については、ただそれだけを云々するのではなく、その元にある、「ルシファー」の働きをも深く見定めることが、必要になってくるというべきなのである

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