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2015年8月11日 (火)

「ルサンチマン」と病気への傾向

「病気への傾向」は、「カルマ」的な結果なのであり、それは、それまでのあり方を修正し、乗り越えるための機会でもある、ということだった。

しかし、それとは別に、単に、「個人的なカルマ」の結果というのではなく、人間は一般に、「病気への傾向」を抱え込みやすく、衰弱、退廃へと向かいやすいということがある。後にみるように、それも、人間としての普遍的な「カルマ」といえるのだが、最近は、特に、その傾向が強くなってるいると思われる。あるいは、むしろ、好んでそのような性向に、浸る傾向が強まっているといえる。

最近、「病気」か増えていることには、(もちろん、これまでみて来たとおり、あえて「作られている」という面は確実にあるのだが)こういった背景もあると思う。ある意味で、「病気であることそのもの」、つまり、治ったり、乗り越えたりすることではなく、その状態にあることそのものが、「欲されている」のである。

記事『「統合失調症」という「アイデンティティ」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html )でも、このことに通じる一面をみたが、これはもっと普遍的で、根の深い問題ということである。

あるきっかけで、ニーチェの『この人を見よ』(岩波文庫)のページをめくっていたら、ちょうど、このことに関わる文章が出ていて、いろいろ考えさせられた。

まず、それをあげると、

本質的に病弱な人間は、健康になることはできない。まして自分で自分を健康にすることはできない。だが、本質的に健康な人間にとっては、逆に、病気であることが、生きること、より多量に生きることへの強力な刺激にさえなりうるのである。

「本質的に病弱な人間」、つまり、「病気への傾向」を強く抱えていて、それが優っている人間は、健康になることができない。が、それがなく、「本質的に健康な人間」にとっては、「病気」がむしろ、生きることへの強力な刺激として作用するという。

最近みてきた、個人的な「カルマ」に基づく「病気」についても、このことが言えそうである。つまり、本質的に健康な人間は、そのような「病気」も、「カルマ」の修正と克服の機会として、利用することができる。しかし、全体としての「病気への傾向」に捉えられ、本質的に「病弱」になっている場合、そのような個人的な「カルマ」に基づく病気も、「病気への傾向」に飲み込まれて、克服されることはなく、ただ「病気」でいることの方に、利用されてしまう。個人的な「カルマ」に基づく病気が、治りにくいのには、そのような理由もある、ということである。

ニーチェは、このような「病気への傾向」は、端的に言うと、「ルサンチマン」によるものという。同じく、『この人をみよ』から、このことに関する文書をあげてみよう。

「そもそも、病気であること、虚弱であることにたいして何か非難をすることがあるとしたら、それは、そういう状態にあっては、人間の内部にある本来の治癒本能、すなわち防衛と武装の本能が脆弱になるということである。……人間も事物もあつかましく感じられ、体験はふかく胸に突き刺さり、思い出は膿んだ傷となる。病気であるということが、すでに一種の怨恨感情そのものなのだ。」

「人間をすみやかに焼きつくしてしまうものは、怨恨の情にまさるものはない。憤懣、病的な傷つきやすさ、復讐を遂げる力がなくて復讐を渇望すること、あらゆる意味での毒薬調合―これは衰弱した病者にとっては確かにもっとも不利な反応のしかたである。……怨恨は病人にとって御法度そのもの―彼の悪であり、困ったことには、彼のもっとも自然な性向でもあるのだ。」 

「ルサンチマン」とは、「怨恨」や「反感」と訳されることが多いが、前に記事でもみた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-b50e.html)ように、単なる「怨恨」や「反感」という感情自体を意味するのではない。それは、「ねじ曲がった<生への意志>」ともいうべきもので、真っすぐには発現できなくなった<生への意志>(エネルギー)が、屈折して、そのような感情となって現れ出たものである。それは、他人に対して、向かうこともあるが、自分自身に内向して、破壊的な攻撃性を帯び、衰弱や退廃をもたらすことにもなる。

また、むしろ、そのような状態こそを、望ましいものとして、欲されたり、耽溺されたりする。それは、ときに甘美ともいえる、「自己憐憫」の感情に浸らせるし、そのような「状態」こそが、一種の「アイデンティティ」として、自分の存在意義を高めたりするのである。

このように、<生への意志>をねじ曲げることになった事情は、さまざまであるだろう。ニーチェも、「ニヒリズム」の時代というように、一般に、生きる意味や目的を見い出せないという、時代的なものが大きく作用している。個人的な事情もいろいろあり、「虐待」などは、大きく影響するはずである。

しかし、その根本を言うならば、やはり、人間に、「ルシファー」的性向が植え込まれたという、普遍的な事実にある、というべきである。

「ルシファー」的な欲望や激情は、<生への意志>を補強し、力づけるという面もある。が、そこに「アーリマン」的な力が絡んでくることにより、事態は、逆方向に揺れることになる。「アーリマン」は、「ルシファー」的な欲望や激情を虚しく刈り取り、多くの場合、それが適えられないようにした。つまり、それは、苦悩と絶望をもたらすのが、普通のことになった。「ルシファー」的な欲望や激情は、それが激しく、<生への意志>と結びつくほど、人を苦しめる結果をもたらすのである。

そこで、人は、そのような「ルシファー的」性向に突き動かされながらも、一方で、それを深く嫌悪し、抑え込むという、ねじ曲がった事態に陥った。それを本当に抑え込むということは、それと結びついて発現している、<生への意志>をも、ねじ曲げるということを意味する。そうして、それは、「ルサンチマン」として、人間の内に、常態化することになったのである。

そのような、常態化した「ルサンチマン」が、「病気への傾向」をもたらし、実際に、「病気」を呼び寄せることとなった。そのような傾向が、人間を全体として包んでいるとすれば、そこでは、個人的な「カルマ」による病気なども、それを克服する機会として、十分機能することは望めないのも当然といえる。

だから、その意味でも、「病気」というのは、単に「個人的」な問題に帰し得るもなのではないことを、改めて感じる。社会や時代の問題と密接に結びついているし、さらに、根本的には、人類全体の「カルマ」と結びついているのである。

そこで、「個人的」なカルマによる病気を、個人の問題として、克服し得るようになるためにも、人間全体としての、「病気への傾向」という問題を、いくらかでも乗り越えることが、必要ということになってくるのである

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