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2015年8月

2015年8月24日 (月)

シュタイナーの「人智学」について

シュタイナーについては、記事『シュタイナーの「悪魔論」について』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-fee0.html)でも述べたとおり、私の興味は、全体の「神秘学」ないし「霊学」にも及んでいるが、基本的に、中心は、自分の体験によく符合し、他には見い出すことのできない、「2系統の悪魔論」ということになる。「統合失調」に絡めて参照にしたのも、この「悪魔論」が多かった。

しかし、最近の記事『シュタイナーの精神病論3―「幻覚」と「妄想」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-054b.html)で、「アーリマン」に対抗する「判断力」は、「神智学を研究する」ことで養われるということ、さらに、シュタイナーは、この「神智学」を「自分の霊学」の意味で言っているのに違いないことを述べた。

また、シュタイナーは、「カルマ」的結果としての、病気などに代えることのできるものとしても、「神智学」を真剣に学ぶことをあげている。つまり、「神智学」を学ぶことで、深いところから、霊的な認識を自分に作用させることで、「カルマ」的結果を受け取るのと、同じ意味のことをなすことができるということである。

このように、シュタイナーの霊学を学ぶこと自体の重要性を明らかにしたので、改めて、シュタイナーの霊学について、どのような性質のものなのか、一とおり述べておこうと思う

シュタイナーの霊学は、「人智学」とも呼ばれる。これは、ブラバッキーなどによって伝えられた、特定の霊的知識体系としての、「神智学」を受け継ぎつつ、それに対抗して、新しく立てられたものである。「神智学協会」には、当時シュタイナー自身、指導者として関わっていたのだが、シュタイナーは、その組織を離れて、自らの「人智学」を打ち出すことになる。その直接の理由は、まだ少年だったクリシュナムルティを、協会が、世界教師として、一種の救世主として仰ぎ出したからである。

当時、存在した霊的知識体系としては、まず、「スピリチュアリズム」があったが、これは、高級霊と称する霊的存在が、霊媒を通して語った、「霊界通信」を知識の内容の中心としている。同様に、「神智学」も、大師(マスター)と呼ばれる、超越的存在ないし人類の指導者が、仲介者を通して語った教えを、内容の中心としている。

それらには、確かに、人間的なものを越えた「きらめき」がみられる部分があるのも、事実である。そのような、人間的なものを越えた「きらめき」は、人々を魅了し、ひきつけるものがある。しかし、それらは、人間的なものによって、確かめられたり、咀嚼されたものではない。

そのような要素が、無批判に受け入れられれば、幻想的な熱狂や耽溺を生み、地上生活を疎かにさせる。あるいは、人間を越えたと思われるものへの、「崇拝」を膨らませ、クリシュナムルティを救世主として仰ぐようなことを起こさせる。(最近の記事でも述べたように、要するに、ルシファー的な誘惑が入り込みやすいということである。)

シュタイナーは、「神智学」の「神」を「人」にして、「神智学」の、そのような「神的な要素」を、「人間的なもの」に変えるべく、「人智学」を打ち立てたのだといえる。それは、シュタイナーの、あくまで、人間的な超感覚的能力と人間的な思考能力または論理によって、咀嚼され直した、「神智学」ということである

それは、ある意味で、「神的なもの」を「人間的なもの」に、引き降ろしたのである。だから、そこには、「スピリチュアリズム」や「神智学」にはあったかもしれない、超人間的な「きらめき」は、もはやほとんどみられない。シュタイナーの語りや文章は、基本「味気」がなく、「つまらない」ものである。また、シュタイナーは、「分からない」ことは、基本「分からない」ままに、放置する。「スピリチュアリズム」や「神智学」のように、上段から、一方的に、結論めいたことを言い放ったりはしない。

また、霊的なものの実像を浮き上がらせるのは、あくまで、「人間的な論理」を通してである。それは、本来、「そのもの」を端的に言い表すには、相応しいものではなく、様々な観点から切り込むことで、何とか全体像を浮かび上がらせるという,迂遠な方法で、迫るしかないものである。結果としても、どこか曖昧で、端的には捉え難い、もどかしさを感じさせるものにならざるを得ない。

このように、霊的知識体系としては、必ずしも、インパクトのあるものでも、「面白み」のあるものでも、学びやすいものでも、ないのである。恐らく、多くの人は、シュタイナーの「霊学」を学ぼうとしても、そのような感想をもち、とっつきにくいと思うことだろう。

さらに、シュタイナーの特徴は、私も注目したように、独自の「2系等の悪魔論」であり、「悪魔論」としても、他のものと比べて、かなり具体的で、深く踏み込んだ内容のものである。シュタイナーは、霊的な認識や実践においても、これら「悪魔」的存在の影響がいかに強く働くかを強調し、それらの性質(自らの内部に働く性質でもある)をよく認識して、その影響を避けつつ、実践していくことを重視するのである。その意味では、とても慎重なものであり、また、道徳的な態度を要求するなど、ある意味、説教臭いものでもある。霊的な真実に向って、直截に突き進んでいくといった性質のものではない。

一般には、霊的知識を学ぼうとするとき、非日常的で未知なものである、「霊的な真実」について、単刀直入に知りたいと思うことであろう。あまり興味の湧かない「悪魔論」とか、その影響を避けるための、道徳性や判断力など、煩わしい限りのものに違いない。そういう点からも、シュタイナーの霊学は、一般に取り入りやすいものとは思えない。

その点は、いかんともし難いが、ただ、「統合失調状況」なり、何らかの、「霊界の境域」に関わる「恐ろしい」体験をした者は、シュタイナーの言っていることが、いかに的確かを、身にしみて感じることになるはずである。また、そういう、(その他の部分はかっこに入れておき)自分が、本当に体験的に納得できることを、受け取っていくという態度で接するならば、むしろ、シュタイナーのように、地道ではあるが、人間的に咀嚼された内容のものの方が、しっかりと身についていくということも言えるのである。

私自身そうであり、何度も言うように、全体として、シュタイナーの言っていることを受け入れているわけではない。特に宇宙進化論(地球進化論)の部分などは、むしろ、「神智学」を引き継ぐ部分が多過ぎるのが問題で、「神智学」からもっとはっきりと離れて、自分の感覚と論理に忠実に独自に打ち立てた方が、いいものになったはずなのである。

いずれにしても、多くの人とって、シュタイナーを読んでみたいという思いはあっても、なかなかとっつきにくくて、そうできないというのが現実でははないかと思う。

そこで、私の一つの提案は、一般に、主要著書とされる、『神智学』や『神秘学概論』、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』ではなく、『シュタイナーのカルマ論』を読んでみることである。この書では、他に比べて、割と、明確に語るということがなされているし、内容も濃く、「カルマ」という問題を通して、シュタイナーの考えの全体像も、ある程度みえるものになっている。「カルマ」は、誰もが興味のある問題と思うし、病気などを通して、強い関心をもつ人もかなりいるはずである。

私も記事で、この書をとりあげている(『シュタイナーの精神病論2及び3』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-6351.html, http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-054b.html)が、それも大いに参照になるはずである。それで、さらに読みたくなれば、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』などを読めばいいのである。これは、自ら自覚的に霊的な認識を獲得するための、修行の方法を示した書だが、「霊界の境域」でどんなことが生じ、それに対処するにはどんな方法があるのか、という視点から読むことも可能である。

何しろ、「霊的なもの」に真剣に関わろうとする者、あるいはそうせざるを得なくなった者にとって、他のものでは得難いものが、多くあることは確かである。

2015年8月11日 (火)

「ルサンチマン」と病気への傾向

「病気への傾向」は、「カルマ」的な結果なのであり、それは、それまでのあり方を修正し、乗り越えるための機会でもある、ということだった。

しかし、それとは別に、単に、「個人的なカルマ」の結果というのではなく、人間は一般に、「病気への傾向」を抱え込みやすく、衰弱、退廃へと向かいやすいということがある。後にみるように、それも、人間としての普遍的な「カルマ」といえるのだが、最近は、特に、その傾向が強くなってるいると思われる。あるいは、むしろ、好んでそのような性向に、浸る傾向が強まっているといえる。

最近、「病気」か増えていることには、(もちろん、これまでみて来たとおり、あえて「作られている」という面は確実にあるのだが)こういった背景もあると思う。ある意味で、「病気であることそのもの」、つまり、治ったり、乗り越えたりすることではなく、その状態にあることそのものが、「欲されている」のである。

記事『「統合失調症」という「アイデンティティ」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html )でも、このことに通じる一面をみたが、これはもっと普遍的で、根の深い問題ということである。

あるきっかけで、ニーチェの『この人を見よ』(岩波文庫)のページをめくっていたら、ちょうど、このことに関わる文章が出ていて、いろいろ考えさせられた。

まず、それをあげると、

本質的に病弱な人間は、健康になることはできない。まして自分で自分を健康にすることはできない。だが、本質的に健康な人間にとっては、逆に、病気であることが、生きること、より多量に生きることへの強力な刺激にさえなりうるのである。

「本質的に病弱な人間」、つまり、「病気への傾向」を強く抱えていて、それが優っている人間は、健康になることができない。が、それがなく、「本質的に健康な人間」にとっては、「病気」がむしろ、生きることへの強力な刺激として作用するという。

最近みてきた、個人的な「カルマ」に基づく「病気」についても、このことが言えそうである。つまり、本質的に健康な人間は、そのような「病気」も、「カルマ」の修正と克服の機会として、利用することができる。しかし、全体としての「病気への傾向」に捉えられ、本質的に「病弱」になっている場合、そのような個人的な「カルマ」に基づく病気も、「病気への傾向」に飲み込まれて、克服されることはなく、ただ「病気」でいることの方に、利用されてしまう。個人的な「カルマ」に基づく病気が、治りにくいのには、そのような理由もある、ということである。

ニーチェは、このような「病気への傾向」は、端的に言うと、「ルサンチマン」によるものという。同じく、『この人をみよ』から、このことに関する文書をあげてみよう。

「そもそも、病気であること、虚弱であることにたいして何か非難をすることがあるとしたら、それは、そういう状態にあっては、人間の内部にある本来の治癒本能、すなわち防衛と武装の本能が脆弱になるということである。……人間も事物もあつかましく感じられ、体験はふかく胸に突き刺さり、思い出は膿んだ傷となる。病気であるということが、すでに一種の怨恨感情そのものなのだ。」

「人間をすみやかに焼きつくしてしまうものは、怨恨の情にまさるものはない。憤懣、病的な傷つきやすさ、復讐を遂げる力がなくて復讐を渇望すること、あらゆる意味での毒薬調合―これは衰弱した病者にとっては確かにもっとも不利な反応のしかたである。……怨恨は病人にとって御法度そのもの―彼の悪であり、困ったことには、彼のもっとも自然な性向でもあるのだ。」 

「ルサンチマン」とは、「怨恨」や「反感」と訳されることが多いが、前に記事でもみた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-b50e.html)ように、単なる「怨恨」や「反感」という感情自体を意味するのではない。それは、「ねじ曲がった<生への意志>」ともいうべきもので、真っすぐには発現できなくなった<生への意志>(エネルギー)が、屈折して、そのような感情となって現れ出たものである。それは、他人に対して、向かうこともあるが、自分自身に内向して、破壊的な攻撃性を帯び、衰弱や退廃をもたらすことにもなる。

また、むしろ、そのような状態こそを、望ましいものとして、欲されたり、耽溺されたりする。それは、ときに甘美ともいえる、「自己憐憫」の感情に浸らせるし、そのような「状態」こそが、一種の「アイデンティティ」として、自分の存在意義を高めたりするのである。

このように、<生への意志>をねじ曲げることになった事情は、さまざまであるだろう。ニーチェも、「ニヒリズム」の時代というように、一般に、生きる意味や目的を見い出せないという、時代的なものが大きく作用している。個人的な事情もいろいろあり、「虐待」などは、大きく影響するはずである。

しかし、その根本を言うならば、やはり、人間に、「ルシファー」的性向が植え込まれたという、普遍的な事実にある、というべきである。

「ルシファー」的な欲望や激情は、<生への意志>を補強し、力づけるという面もある。が、そこに「アーリマン」的な力が絡んでくることにより、事態は、逆方向に揺れることになる。「アーリマン」は、「ルシファー」的な欲望や激情を虚しく刈り取り、多くの場合、それが適えられないようにした。つまり、それは、苦悩と絶望をもたらすのが、普通のことになった。「ルシファー」的な欲望や激情は、それが激しく、<生への意志>と結びつくほど、人を苦しめる結果をもたらすのである。

そこで、人は、そのような「ルシファー的」性向に突き動かされながらも、一方で、それを深く嫌悪し、抑え込むという、ねじ曲がった事態に陥った。それを本当に抑え込むということは、それと結びついて発現している、<生への意志>をも、ねじ曲げるということを意味する。そうして、それは、「ルサンチマン」として、人間の内に、常態化することになったのである。

そのような、常態化した「ルサンチマン」が、「病気への傾向」をもたらし、実際に、「病気」を呼び寄せることとなった。そのような傾向が、人間を全体として包んでいるとすれば、そこでは、個人的な「カルマ」による病気なども、それを克服する機会として、十分機能することは望めないのも当然といえる。

だから、その意味でも、「病気」というのは、単に「個人的」な問題に帰し得るもなのではないことを、改めて感じる。社会や時代の問題と密接に結びついているし、さらに、根本的には、人類全体の「カルマ」と結びついているのである。

そこで、「個人的」なカルマによる病気を、個人の問題として、克服し得るようになるためにも、人間全体としての、「病気への傾向」という問題を、いくらかでも乗り越えることが、必要ということになってくるのである

2015年8月 1日 (土)

「カルマを超える」ことと「野狐禅」

前回及び前々回、「カルマを超える」ということを述べた。しかし、それは、あくまで、「カルマ」を「カルマ」とはっきり認識して、「原因」を見定め、その自らの無意識的な行為を自覚にのぼらせ、「カルマ」を通して修正しようとしたことを、自ら意識して、自己教育的になすことができるようになるということだった。

だから、それは、もはや「カルマを受けない」とか、「カルマに落ちることがない」などということではない。また、それは、「カルマ」ということを、軽んじているのではなく、むしろ、厳粛に受け止めるからこそ、可能になることである。

このことに関して、禅の公案に、「百丈野狐」という面白い話がある、ここに簡潔にまとめられたものがあるので、参照されたい。(http://www.geocities.co.jp/Beautycare/7975/m-002.htm)

百丈和尚の説法のあと、一人の老人が、かつて弟子に、「修行を完成した人、つまり悟った人は、因果に落ちることはあるのか」と聞かれて、「不落因果」(因果に落ちることはない)と答えたために、野狐の身にされてしまったというのである。

その老人は、何と答えれば良かったのか分からないので、百丈に同じ質問をすることになった。すると、百丈は、「不昧因果」(因果に昧からず、あるいは、因果に昧まされず)と答えた。その意を悟った老人は、瞬時に、野狐の身を脱することができた。

「因果」とは、まさに「カルマ」のことであり、老人は、悟った者は、もはや「カルマに落ちない」などと、「思い上がっ」て、誤ったことを言ったために、野弧の身にされてしまった。まさに、図らずも、「カルマ」を受けてしまったのである。

この質問に関する「正解」は、「不昧因果」、つまり、「カルマに暗からず」、あるいは「カルマに眩まされず」だった。これは、どちらにしても、要するに、「カルマ」を「カルマ」とはっきり見定めて、それに明るいが故に、それに眩まされたり、囚われることがない、ということである。その意味を悟った老人は、まさに、自らの思い上がりを修正して、長年の「カルマ」の結果を脱することができたのである。

この公案は、「野狐禅」という言葉のもとになっているものである。「野狐禅」とは、一般に、「生半可に悟った気になっている禅」のことを、言う。しかし、「野狐」とは、人を化かしたりする、悪賢い「妖狐」、つまり「精霊」としての狐を指すのであり、単に「生半可」ということでは、済まないものがある。それは、もっと、本質的に、「邪悪な力」を帯びた、「思い上がり」なのであり、強く誘惑されたものである。

要するに、それは、「ルシファー」の働きそのものであり、「野狐禅」とは、ほかならぬ、「ルシファー禅」のことなのである。禅でも、「魔境」という言い方をするが、前回もみたように、「宗教体験」や「悟り」のような、内面の変化に深く関わる事にこそ、「ルシファー」の影響力も強まって、それに囚われる者を増やしめるのである。実際、単刀直入に、「悟り」を目指す「禅」ほど、「ルシファー」の影響を受けやすいものもないと言えるだろう。

一般のイメージとしても、禅または禅の和尚には、「暴力的」とも言えるような、「邪悪さ」や「思い上がり」のイメージがつきまとうのではないか。日蓮なども、「禅天魔」と言って、当時の禅のあり様を貶した。「天魔」とは、まさに「ルシファー」のことであり、「禅」は「ルシファー」に支配された邪悪な宗教というのである。

禅者である道元も、このような事態を憂いていたようで、晩年、「十二巻本正法眼蔵」の中の「深信因果」という巻で、「因果」の問題を集中的にとりあげている。まず、「百丈野狐」の話をあげつつ、悟った者は「因果に落ちない」という発想が、いかに外道の誤ったもので、禅の悟りとは無関係であるかを、力説している。さらに、様々な禅の師匠の説をあげて、「因果に落ちない」どころか、「因果」を「深く信じる」ことこそが、禅の基本であることを、説いているのである。それは、どこか、経典をたくさんあげつつ、阿弥陀仏の本願を信じることがすべてと説く、親鸞に近いものを感じさせる。およそ、禅者らしくないといえば言えるのである。

それは、それだけ、「野狐禅」的なあり方を憂いていたということで、「ルシファー」的な「思い上がり」の怖さを、身にしみて、感じ取っていたのだろう。

いずれにしても、前回みたとおり、「カルマ」の元には、「ルシファー」の影響が強く働いているのだった。だから、「カルマ」を軽んじることは、「ルシファー」の働きを軽んじることになり、結局は、それに捕えられることを意味する。「カルマ」については、ただそれだけを云々するのではなく、その元にある、「ルシファー」の働きをも深く見定めることが、必要になってくるというべきなのである

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