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2015年7月 7日 (火)

シュタイナーの精神病論3―「幻覚」と「妄想」

「病気」というのは、「カルマ」的な結果といえることを前回みた。しかし、それは、前世でのあり方を修正し、克服するため、自ら意志的に選ばれたものでもあった。だから、「病気」は、「カルマ」の結果であるとともに、それを修正し、克服する機会でもある。

一方、この「病気」への傾向には、人類全体としての、「ルシファー存在」や「アーリマン存在」との関わりが大きく作用しており、それは、「人類のカルマ」という面も併せもっていた。つまり、「病気への傾向」は、人類の誰もが共通して持つ、普遍的なものであり、たまたま、ある生において、特定の誰かがある「病気」になり、他の者はならなかったとしても、それは単に、その生において、「機が熟して」いたかどうかの違いに過ぎないのである。

だから、「病気」を、単に個人的な「悪いカルマ」として、自分とは切り離された、他人事のようにみなすことは、全く無意味である。

そのようなことを踏まえて、今回は、特に「精神的な病」について、より詳しくみていくことにする。

「精神的な病」は、肉体にまで作用する、精神的な印象や感情によって、引き起こされるといえる。が、シュタイナーは、意識化された印象は、抵抗にあうため、肉体に強く作用しないが、意識にのぼらない、無意識的な印象こそが、肉体に強く作用して、より「病気」のもとになるという。たとえば、幼児期に受けた印象というのは、記憶にものぼりにくく、意識化されにくいが、むしろ、肉体には強く作用して、「神経症」などの原因となる。

また、それは、前回みたような、死後の「カマロカ」期において、前世の行為を俯瞰するときに受けた印象についても、いえることである。それは、現世に生まれた後は、忘却され、意識にのぼらないことがほとんどだが、無意識レベルでは、肉体に強く、また深く作用し続け、ときに「精神病」などの病気の原因となるのである

「カマロカ」期の印象は、現世における幼児期の体験以上に、強烈なもので、より肉体に強く作用し、「重い病気」をもたらしやすいのである。だから、「神経症」は、現世に原因を見い出せるとしても、「精神病」は、現世に原因を見い出すことができないのが普通で、前世の行為の「カルマ」的な結果というべき場合が多いのである。

これらのことは、「治る病気」「治らない」病気ということとも関わってくる。「精神病」もそうだが、「重い病気」は、事実上「治らない」ことも多い。それは、「その生」の範囲においては、克服し得るだけの条件が整っていないこと、言い換えれば、一つの生だけでは克服し難い、それだけ強い「カルマ」的影響の現れであることを物語っているわけである。

このような「病気」への傾向は、「ルシファー存在」と「アーリマン存在」との関わりという観点からみると、まず「アストラル体」に「ルシファー存在」の影響が植えつけられ、人間に、欲望と情念から発する、利己的な行為がもたらされたことに発していた。次に、それが「アーリマン」の影響を招き、「エーテル体」に影響を受けて、外界についての正しい認識が阻害され、誤謬と、虚偽への傾向をもたらした。そして、それらの結果が、「アストラル体」と「エーテル体」に刻まれることで、「肉体」の条件が規定され、「病気」を招く「虚弱」な身体をもたらしたのである。(シュタイナーは、これらの段階を、次のように簡単にまとめている。すなわち、まず、軽薄で、表面的な人生→次に、虚偽への傾向→次に、病的な体質ということである。)

この「ルシファーの影響」と「アーリマンの影響」は、それぞれ、「ルシファー的な病気」と「アーリマン的な病気」をもたらすということもできる。

「ルシファー的な病気」は、「アストラル体」の異常であり、「痛み」を伴うものである。「痛み」は、「異常」を自覚させ、修復のきっかけを与える点で、むしろ好ましいもの(ルシファーに反対する勢力が与えたものという)とされる。

それに対して、「アーリマン的な病気」は、「エーテル体」の異常で、それは肉体により深く入り込んだ、悪性の強いものである。それは、「痛み」も伴わずに、つまり、意識化するきっかけも与えずに、深いレベルで進行し、器官を弱らせ、遂には崩壊に導くのである。ただし、器官が崩壊することは、それ以上深く「アーリマンの影響」を受け続けることから、解放させるという意味では、好ましいことでもある(これもアーリマンに反対する勢力の影響という)。

シュタイナーは、このような「アーリマン的な病気」の例として、幻視や幻聴などの「幻覚」と、迫害妄想に代表される、「妄想」をあげているのである。それはまさに、「統合失調状況」そのものである。ただ、シュタイナーは、それを「分裂病」という言い方で示すことは、していない。前々回もみたように、実際、シュタイナーが、「分裂病」をどういうものとして捉えていたか不明なのだが、何しろ、それは結果的に、「分裂病」以外のなにものでもないものを、明らかに示すことになっているのである。

これまでに何度もみてきたように、シュタイナーも、幻視や幻聴などの「幻覚」は、「アーリマン」がもたらすものという。それは、一種の「見霊能力」ではあるのだが、実質、「見せかけ」の幻影であり、要するに、外界(霊的世界を含む)についての「正しい認識」から外れた、「誤謬」なのである。

このような「アーリマン」の影響は、「ルシファー」の影響が強く現れ出ているところに生じるのだった。たとえば、自分を誇大視した、傲慢な意識であり、まさに、「アーリマン」は、そのようなものにつけこんで、あたかも、その者にだけ特別に与えられたかのような、「意味ありげ」な「幻影」を与えるのである。内部にある、「ルシファー的」な欲望や幻想に引っかけ、それを元にしてこそ、「アーリマン的」な「幻影」が成り立つということである。だから、「アーリマン」の強い影響が働いているということは、自己の内に、「ルシファー」的な欲望や思い上がりが強くある、ということなのである。

あるいは、「迫害妄想」に結びつくような、「攻撃的」で「恐怖」に満ちた「幻覚」は、これらと違うかのような印象を与えるかもしれない。しかし、そのような場合にも、自己の誇大視や、利己的な幻想がどこかに潜んでおり、「迫害」の意識は、その裏返しとして生じているという面が、必ずあるものである。

そして、そのような、「迫害妄想」に代表される「妄想」もまた、「アーリマン」の影響によるものである。シュタイナーは、「妄想」に捉えられた者に対しては、この世的な「論理」でもって、それが誤りであることを説得しようとしても、無意味であることを強調する。それは、前世の「カルマ」から来るもので、「エーテル体」に刻まれた性質を通して、「誤謬」が強く意識に反映されるからである。この世的な「論理」は、「エーテル体」の作用を修正し得るものではなく、むしろ、「妄想」を根拠づけることに、利用されるだけである。

要するに、その者は、「幻覚」や「妄想」を通して、「アーリマン」的な力に捕らえられて、逃れ難く、その「虚偽」「誤謬」の世界に絡め取られているのであるそして、それは、「ルシファー的」な影響を、内に強く抱えていたことの、「カルマ」的な結果であるということである

私は、「妄想」は、破壊的な状況に対する「防衛反応」だとも言った。それは、壊れかかった「自我」を、「補償」する働きをなすからである。しかし、その「妄想」が、「妄想」として、殊更、迫害とか誇大とかの方向に、いわば「色付け」されるのは、やはり、「アーリマン的」な影響に強く捕らえられているからというほかない。

このような「幻覚」や「妄想」に囚われ、「アーリマン的な力」の影響に強くさらされ続けれれば、シュタイナーのいうように、「器官」を弱らせ、さらに崩壊させることにもなっても不思議ではない。この場合の「器官」とは、「脳神経」器官のことになる。つまり、幻覚、妄想への囚われの果てに、脳の働きがシャットアウトされ、精神的には、もはや死んだような、荒廃した状態をもたらすことにもなり得る。

シュタイナーは、このような「幻覚」や「妄想」に対する対処―すなわち、「アーリマン的な力」に対する対処―は、「この地上生活で育成された」「健全な判断力」以外にないという。この「判断力」こそが、「幻覚」を「幻覚」、「妄想」を「妄想」と気づかせて、軌道を修正させるということである。それは、「アーリマン」の力をも、たじろがせるものという。

ただし、この「健全な判断力」とは、先のような「この世的な論理」や「一般的な常識」などでないのは当然である。これは、たとえば「幻覚」を、「霊的な知覚」と認識したうえで、それにも拘わらず、一種の「幻影」と見抜かせるだけのものでなければならない。そこには、「この世的な論理」や「一般的な常識」では届かない、「霊的なもの」に対する判断も含まれてくるのである。

また、「この判断力」は、「妄想」に囚われている状態を、愚かなことと、はっきりと気づかせるものでもある。先にみたように、「この世的な論理」では、とても説得できないような、「カルマ」に突き動かされた「妄想への囚われ」をも、気づかせるだけのものということである。それはまた、そこに、いかに、「ルシファー的」な、自己の過大視や傲慢さが潜んでいるかを、自覚できるものということでもある。

シュタイナーは、この「判断力」について、「神智学の研究によって鍛えられた判断力と識別能力」とも言っている。「神智学」とは、より一般的に言えば、「霊的な事柄に関する系統だった知識」のこと(※)で、要するに、そのような研究を通して、真に身につけられた、判断力と識別能力いうことになる。

ただし、ポイントは、それが、「地上生活で育成される」、というところである。一般に、「霊的な方面への希求」は、地上生活を軽視し、地上生活から足が離れたものになりやすい。「霊的なもの」を「地上的なもの」より、高級なものとみなし、そういうものに関わる自分を、高級なものとみなしたりするからである。「ニューエイジ」や「スピリチュアル」といわれるものにも、この傾向が顕著である。それは、実際、「ルシファー」の誘惑なのであり、それでは、幻想を膨らませこそすれ、健全な判断力が育つわけもないのである。

シュタイナーは、「地上生活」を重視したうえで、それを通して本当に鍛えられた、堅実な研究態度が、そのような「判断力」を身につけさせるというのである。

それは、同時に、「意識」と結びついた、健全な「自我」の発達ということでもある。たとえば、「幻覚」というものは、半ば催眠に近い、半意識的な状態で起こることが多い。しかし、そのような半意識的な状態こそ、「アーリマン的」な影響力をますます助長するのである。シュタイナーは、そこに、意識と結びついた「自我」を介入させることが重要という。そのような「自我」は、まさに、この「物質的」な「地上生活」を通してこそ、身につけられ、発達されるわけだが、それを、そのような「霊的な領域」にも、持ちこせるようになることが重要なのである。

霊的な認識を高めるためにこそ、地上的、または物質的な経験が必要となる」というのが、シュタイナーの「霊的進化」の発想の基礎に、常にある。それは、当然、「物質的なもの」を軽視しないという態度ともなり、前々回みたように、「精神的な病」についても、「物質的な基盤」を看過しないということに、つながってくる。

さらには、先にみたように、「意識」にのぼらない、「無意識的な過程」こそ、病的な働きを強めるのだったが、そこに、「意識」が本当に介入できれば、その過程を逆にたどって、それを「意識的な過程」に変えることができる。つまり、無意識的な「カルマ」の働きを、霊的な認識を通して、「自覚」にもたらし、それを、意識的な働きかけを通して、同等の意味のことを、別の仕方で成就させるということである。そこでは、もはや、「病気」という結果を、必要としなくなる。「病気」を通して、修正したり、乗り越えようとしたことを、自らの意識の力で、「自己教育」として、なすことができるようになる、ということである

これは、要するに、前世の死後に意図したり、志向したことを超えて、現世での経験と学びを通して、「カルマ」を乗り越える可能性を身につけたということになる。

このように、「カルマ」とは、決して、硬直で、融通のきかない法則なのではなく、同等の「意味」のものに置き換えたり、乗り越えたりすることも可能なものなのである。

ちなみに、私自身は、一連の体験時には、強くカルマの影響ということを、意識せざるを得なかった。記事にも、自分は、仏伝に出てくるアングリマーラの生まれ変わりではないかという思いに、囚われたと言った。「悪魔」などという存在に、四六時中つけまとわれるとは、それだけの深い縁があるということで、よほど前世で悪い行いをしたに違いないと思ったからである。

それは、もちろん、極端な発想だが、「カルマ」という点では、そのとおりと言え、実際、その後には、ある程度はっきりと、それに関する前世のビジョンが浮かび上がったりもした。ただし、「悪魔」(=「ルシファー」及び「アーリマン」)との関わりという点では、それは人類に普遍的なものであることが、当時は理解できておらず、今では、たまたま、その関わりを強く意識する機会に見舞われたに過ぎないことが、よく理解できる。とはいえ、「アーリマン」との関わりについては、自分が「ルシファー的な傾向」が強いことと、それは、前世から引き継いでいる傾向に違いないことは、十分自覚している。また、そういった一連の過程全体は、結局、自分自身が志向して、もたらしたものであることも、自覚している。

※ 8月16日

 ただし、「神智学」ということで、シュタイナーの本当に言いたかったことは、あくまで「自分の霊学」であるのは間違いないだろう。つまり、一般の霊的知識体系は、「スピリチュアリズム」にしても「神智学」にしても、ルシファーに捕えられやすい性質をもっているが、ルシファーやアーリマンについて本当に深く研究され、その影響を周到に避けつつ、それを乗り越えることをも内容としている、「私の霊学」ということである。

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コメント

ティエムさん、こんにちは。息子が半年前から精神的な病的状態(統合失調症的)なのですが、非公開でご意見を伺ったりすることは可能なのでしょうか?

あくまで参照意見ということになりますが、希望される場合には、メールアドレスあてに、私の意見をお送りすることはできます。

どうもありがとうございます。少し検討させて頂いて、状況説明や質問がまとまりましたら、またご投稿させていただきます。その際、私からの内容は自動的にネットに公開されてしまうのでしょうか?

NHさんのメールアドレスあてお送りした私のメールの方に質問等されれば、そちらの方でお答えしたいと思います。こちらのコメントあて投稿された場合は、こちらでお答えしますので、その場合は、自動的に公開されることになります。

(コメントを承認制にすれば、公開を留保できますが、現在のところは承認制にはしていません。読者が増えたこともあり、いずれ承認制にすることは検討したいと思います。)

はじめまして。以前より、シュタイナーに興味をもっています。
精神病と同じなのか、ひきこもりについては、シュタイナーの感覚からいうと、どうなんでしょうね。
現代の病なので、質問すること自体、的外れなのかもしれませんが、よければ、ご意見聞かせてください。
メールのほうでも、かまいません。よろしくおねがいします。

シュタイナーが、「ひきこもり」について何か言っているかどうかは知りません。

ひきこもりは、難しいです。ひきこもりそのものは、病気ではありません。しかし、現在のひきこもりは、荒廃や病的状態を生むことになりやすいのは確かでしょう。

本来、一時期のひきこもりは、成長のために必要なものと思います。「ビジョンクエスト」など、先住民のイニシエーシションでも、一人で「籠もる」ということが重視されます。自分と向き合うことと、精霊のような存在との集中的な交流を促されるものです。

しかし、現在のひきこもりに、このようなことが期待できるとはあまり思えません。基本、学校とか仕事とか、人間関係とかが嫌で、「逃げ」の動機に動かされて陥るもので、そのネガティブさは、いろんなところに反映されてしまいます。とはいえ、それを非難できるかというとそうでもなく、現在の状況に、あまりにそうなっておかしくないだけの理由があり過ぎます。

私も、学生時代に、近い状態になったことがありますが、あまり、積極的な意味合いはもたらさなかったと思います。「何もかもか嫌になる」ような状態でした。現在では、「集団ストーカー」とか「テクノロジー犯罪」なる発想をもたらす温床でもあります。精霊というより、低級な自然霊との交流をもたらしやすいからです。

しかし、結局は、制度またはシステム全体の問題なので、現在として、何か解決に向けたものは、見出しにくいと思います。

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