「霊的な方向」と「ルシファー」との関わり
前回、人間のカルマや病気は、欲望や利己性など、「ルシファー存在」の本質が、人類に植え込まれたという、普遍的な事実に端を発することをみた。「アーリマン存在」との関わりも、この、内側からの「ルシファー的」な性向に基づいてこそ起こるので、「アーリマン的」な影響の結果もまた、この事実に発しているといえるのである。
「ルシファー的性向」は、このように、人類に普遍的な性向とはいえ、個々人における現れは、その者の生き方や時節、さらに、時代や文化などの影響により、様々であり得る。ある時、ある時代には、強く現れないで、平穏な人生が送れたとしても、ある時、ある時代には、強く現れ、「病気」などのカルマ的な結果をもたらすこともある、ということである。
そして、この「ルシファー的な性向」の一つの特徴は、実は、「霊的な方向」に進めば進むほど、強まる可能性もより高まる、ということにあるのである。
「ルシファー」とは、本来「光」の存在なのであり、人間にとっては、地上的なものを離れた、「霊的な輝き」に、強い羨望と、希求をもたらす。それは、一つの原動力ではあるのだが、しかし、一方で、地上生活を疎かにさせ、幻想的な耽溺をもたらし、実質、高慢なエゴを膨らませるだけのことにもなる。
旧「オウム」のようなカルト宗教に、このことが顕著だが、前回みたように、「ニューエイジ」や「スピリチュアル」にも、このような、「ルシファーの誘惑」という傾向は多分にみられる。
一般には、欲望や利己性というと、むしろ、「物質的」な、この地上生活に特有のことと思われるかもしれない。しかし、実際には、そのような「物質性」から、「霊的な方向」に目覚めるほどに、むしろ、このような誘惑が強まることに、注意しなければならないのである。
現代の社会は、唯物論か支配している社会といえるが、この「唯物論」が、ある意味、このような意味の欲望を、制限してきた面がある。「唯物論」も、「アーリマン的」な影響力の結果なのであり、当然、物質的なものや金銭、権力など、この世的な欲望を膨らませる元になる。しかし、それは、所詮、「私」という存在が、この世において生きている限りの、一時のものであり、「私」が死ねば、もはや意味を失う。そうであるならば、それは、もともと意味のないものともいえるのである。そのような、ある種の「ニヒリズム」が、「唯物論」にはつきまとい、その欲望に、全面的にかけさせるだけの情熱には、欠かせるのである。
ところが、「私」は死後においても存続し、物質とは異なった、価値あるものということになると、事情は変わってくる。物質的なものであれ、霊的なものであれ、「私」という存在がかける、欲望や情熱も、制限されないものになるのである。それは、地上的な限界を打ち破って、どこまでも、駆け巡っていく可能性を孕む。しかし、実質は、「私」というエゴを、地上生活でなし得た以上に、無限に膨らませるだけの結果ともなるのである。
ところで、物質的支配の行き届いた、現代の世界の「支配層」の人々は、やはり「唯物論」の信奉者なのであろうか。私は、決して そんなことはないと思う。もちろん、彼らは、人々を、彼らの支配下に置き続け、他の可能性などないと思わせるために、人々に向っては、「唯物論」を押し広めてきた。しかし、自らは、単に、この世限りの存在ではなく、「永遠」の存在として、人々に君臨するためにこそ、強い意志と情熱をもって、人々に対する「支配」を実行して来たのである。それは、人間的なものを越えた、「悪魔的」な知恵と結びついた、本物の「悪魔主義」といえ、単に「ルシファー」的な欲望を越えて、「アーリマン」的な支配力にまで達している。だからこそ、ときに、一般の者には、不可解なほどの力を発揮できるのである。
ところが、物質的なものの限界も、霊的なものについての情報も、広く知れ渡った今後は、多くの人々も、もはや「唯物論」に支配されるだけの時代とは、なり難い。いやでも、「霊的なもの」に目覚める人々は、増えて来るということである(※2)。しかし、それは、望ましい方向性とは、一概に言えない。同時に、これまで「唯物論」によってこそ抑えられていた、「ルシファー的」な欲望や傲慢な利己性を、解放させる方向でもある。そのような方向は、「支配層」の支配を何ら脅かさないばかりか、むしろ助長さえするだろう。
このように、「ルシファー的」影響力の増大は、今後の一般的な傾向の問題となるはずである。それは、当然、前回述べたような、「精神的な病」というカルマ的な結果の増大をももたらす。今までは、そういったものと無縁のように思えた人―従って、前回の私の論にもあまり現実感をもてなかった人―にとっても、今後はそうとは限らなくなることを意味している。
ところで、シュタイナーは、一般的な傾向というよりも、特定の個人において、「霊界参入」が深まるにつれて、「ルシファーヘ的な性向」が強くなる可能性について述べている。それを引用してみよう。
(物質界の背後の霊界に参入するときは、「アーリマン」による幻影の力が強まるが)魂の内部に強く沈潜しようとするときは、ルシファーの力が特別大きくなります。私たちが、神秘家として、好運にも魂の内部に没頭できたとき、その前に予め自分の性格の中にある高慢や虚栄心などに対抗する手段を見い出しておかなかったなら、神秘家として生きながら、内部から魂に働きかげるルシファーの誘惑に陥ってしまうでしょう。神秘家は道徳的な修行をしませんと、神秘体験をもつようになればなるほど、大きな危険にさらされてしまうのです。これまで以上にルシファーの影響の揺り戻しを受けて、いっそう虚栄心のある、高慢な人になってしまうのです。ですから、どんな場合にも、現れてくる虚栄心、自己顕示欲、誇大妄想、高慢な心の誘惑に対する対抗手段を予め獲得できなければなりません。そして謙虚さを失わず、下座の行に励まなければなりません。神秘道を歩む人にとって、これはとりわけ必要なことなのです。 (『シュタイナーのカルマ論」』 p.138)
このように、今後は、一般的にも、個人的にも、霊的な方向への関わりが増すほど、ルシファーの影響や誘惑も強まってくる、ということになる(※1)。だから、これまでは、あまり意識されなかったとしても、今後は、それに対する対処法も、意識して身につける必要がある。
引用文からも分かるとおり、その対処法というのは、シュタイナーは、やはり、この地上生活でこそ身につけられた、「道徳的な力」以外にはないという。それは、「謙虚な態度で、自分を過大評価しないこと」とも言い換えられる。これは、実際、これまでにも述べてきた、「統合失調状況」(「霊界の境域」での出来事)に対する対処法そのものであり、「個人的に受け取らないこと」など、「関係妄想」に対処する方法そのままでもある。今後は、そのことの意味が、より強く、普遍的なものとして、要求されてくるということである。
※1 このように、個人的にも、一般の方向としても、霊的な方向に進むことは、より葛藤や闘いを強め、試練に満ちたことになる、というのは、前に紹介した「ナイト・ヘッド」の、主要なテーマでもあったのだった。もっとも、そのような、霊的な方向に行くが故の混乱や堕落は、人類は既に「歴史」上、「アトランティス」において経験済みのことなのでもあった。だから、ポイントは、やはり、そのアトランティス後の、地上生活において、かつてのような堕落を乗り越えられるだけのものを身につけたか否か、ということになるのだろう。
※2 しかし、これだけ物質的な方向の限界が見え、霊的な情報が行き渡っているのに、全体として霊的な方向に踏み出さないことこそ、上に述べたような、霊的な方向に進むことに伴う危険性の予感を、多くの者が潜在的にも嗅ぎ取っていることの表れなのかもしれない。それは、アスランテイスの集合的な記憶によるのかもしれないし、あるいは、現代の唯物的世界観のタガが外れることで、訳のわからないものが無際限に解放されてしまうという、漠然たる恐怖に過ぎないのかもしれない。しかし、いずれにしても、全体として、いずれは、そのような方向に踏み出さざるを得なくなることは、もはや必然の流れといえると思う。
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