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2015年7月

2015年7月18日 (土)

「霊的な方向」と「ルシファー」との関わり

前回、人間のカルマや病気は、欲望や利己性など、「ルシファー存在」の本質が、人類に植え込まれたという、普遍的な事実に端を発することをみた。「アーリマン存在」との関わりも、この、内側からの「ルシファー的」な性向に基づいてこそ起こるので、「アーリマン的」な影響の結果もまた、この事実に発しているといえるのである。

「ルシファー的性向」は、このように、人類に普遍的な性向とはいえ、個々人における現れは、その者の生き方や時節、さらに、時代や文化などの影響により、様々であり得る。ある時、ある時代には、強く現れないで、平穏な人生が送れたとしても、ある時、ある時代には、強く現れ、「病気」などのカルマ的な結果をもたらすこともある、ということである。

そして、この「ルシファー的な性向」の一つの特徴は、実は、「霊的な方向」に進めば進むほど、強まる可能性もより高まる、ということにあるのである

「ルシファー」とは、本来「光」の存在なのであり、人間にとっては、地上的なものを離れた、「霊的な輝き」に、強い羨望と、希求をもたらす。それは、一つの原動力ではあるのだが、しかし、一方で、地上生活を疎かにさせ、幻想的な耽溺をもたらし、実質、高慢なエゴを膨らませるだけのことにもなる。

旧「オウム」のようなカルト宗教に、このことが顕著だが、前回みたように、「ニューエイジ」や「スピリチュアル」にも、このような、「ルシファーの誘惑」という傾向は多分にみられる。

一般には、欲望や利己性というと、むしろ、「物質的」な、この地上生活に特有のことと思われるかもしれない。しかし、実際には、そのような「物質性」から、「霊的な方向」に目覚めるほどに、むしろ、このような誘惑が強まることに、注意しなければならないのである

現代の社会は、唯物論か支配している社会といえるが、この「唯物論」が、ある意味、このような意味の欲望を、制限してきた面がある。「唯物論」も、「アーリマン的」な影響力の結果なのであり、当然、物質的なものや金銭、権力など、この世的な欲望を膨らませる元になる。しかし、それは、所詮、「私」という存在が、この世において生きている限りの、一時のものであり、「私」が死ねば、もはや意味を失う。そうであるならば、それは、もともと意味のないものともいえるのである。そのような、ある種の「ニヒリズム」が、「唯物論」にはつきまとい、その欲望に、全面的にかけさせるだけの情熱には、欠かせるのである。

ところが、「私」は死後においても存続し、物質とは異なった、価値あるものということになると、事情は変わってくる。物質的なものであれ、霊的なものであれ、「私」という存在がかける、欲望や情熱も、制限されないものになるのである。それは、地上的な限界を打ち破って、どこまでも、駆け巡っていく可能性を孕む。しかし、実質は、「私」というエゴを、地上生活でなし得た以上に、無限に膨らませるだけの結果ともなるのである

ところで、物質的支配の行き届いた、現代の世界の「支配層」の人々は、やはり「唯物論」の信奉者なのであろうか。私は、決して そんなことはないと思う。もちろん、彼らは、人々を、彼らの支配下に置き続け、他の可能性などないと思わせるために、人々に向っては、「唯物論」を押し広めてきた。しかし、自らは、単に、この世限りの存在ではなく、「永遠」の存在として、人々に君臨するためにこそ、強い意志と情熱をもって、人々に対する「支配」を実行して来たのである。それは、人間的なものを越えた、「悪魔的」な知恵と結びついた、本物の「悪魔主義」といえ、単に「ルシファー」的な欲望を越えて、「アーリマン」的な支配力にまで達している。だからこそ、ときに、一般の者には、不可解なほどの力を発揮できるのである。

ところが、物質的なものの限界も、霊的なものについての情報も、広く知れ渡った今後は、多くの人々も、もはや「唯物論」に支配されるだけの時代とは、なり難い。いやでも、「霊的なもの」に目覚める人々は、増えて来るということである(※2)。しかし、それは、望ましい方向性とは、一概に言えない。同時に、これまで「唯物論」によってこそ抑えられていた、「ルシファー的」な欲望や傲慢な利己性を、解放させる方向でもある。そのような方向は、「支配層」の支配を何ら脅かさないばかりか、むしろ助長さえするだろう。

このように、「ルシファー的」影響力の増大は、今後の一般的な傾向の問題となるはずである。それは、当然、前回述べたような、「精神的な病」というカルマ的な結果の増大をももたらす。今までは、そういったものと無縁のように思えた人―従って、前回の私の論にもあまり現実感をもてなかった人―にとっても、今後はそうとは限らなくなることを意味している。

ところで、シュタイナーは、一般的な傾向というよりも、特定の個人において、「霊界参入」が深まるにつれて、「ルシファーヘ的な性向」が強くなる可能性について述べている。それを引用してみよう。

(物質界の背後の霊界に参入するときは、「アーリマン」による幻影の力が強まるが)魂の内部に強く沈潜しようとするときは、ルシファーの力が特別大きくなります。私たちが、神秘家として、好運にも魂の内部に没頭できたとき、その前に予め自分の性格の中にある高慢や虚栄心などに対抗する手段を見い出しておかなかったなら、神秘家として生きながら、内部から魂に働きかげるルシファーの誘惑に陥ってしまうでしょう。神秘家は道徳的な修行をしませんと、神秘体験をもつようになればなるほど、大きな危険にさらされてしまうのです。これまで以上にルシファーの影響の揺り戻しを受けて、いっそう虚栄心のある、高慢な人になってしまうのです。ですから、どんな場合にも、現れてくる虚栄心、自己顕示欲、誇大妄想、高慢な心の誘惑に対する対抗手段を予め獲得できなければなりません。そして謙虚さを失わず、下座の行に励まなければなりません。神秘道を歩む人にとって、これはとりわけ必要なことなのです。                  (『シュタイナーのカルマ論」』 p.138)

このように、今後は、一般的にも、個人的にも、霊的な方向への関わりが増すほど、ルシファーの影響や誘惑も強まってくる、ということになる(※1)。だから、これまでは、あまり意識されなかったとしても、今後は、それに対する対処法も、意識して身につける必要がある。

引用文からも分かるとおり、その対処法というのは、シュタイナーは、やはり、この地上生活でこそ身につけられた、「道徳的な力」以外にはないという。それは、「謙虚な態度で、自分を過大評価しないこと」とも言い換えられる。これは、実際、これまでにも述べてきた、「統合失調状況」(「霊界の境域」での出来事)に対する対処法そのものであり、「個人的に受け取らないこと」など、「関係妄想」に対処する方法そのままでもある。今後は、そのことの意味が、より強く、普遍的なものとして、要求されてくるということである。

※1  このように、個人的にも、一般の方向としても、霊的な方向に進むことは、より葛藤や闘いを強め、試練に満ちたことになる、というのは、前に紹介した「ナイト・ヘッド」の、主要なテーマでもあったのだった。もっとも、そのような、霊的な方向に行くが故の混乱や堕落は、人類は既に「歴史」上、「アトランティス」において経験済みのことなのでもあった。だから、ポイントは、やはり、そのアトランティス後の、地上生活において、かつてのような堕落を乗り越えられるだけのものを身につけたか否か、ということになるのだろう。 

※2  しかし、これだけ物質的な方向の限界が見え、霊的な情報が行き渡っているのに、全体として霊的な方向に踏み出さないことこそ、上に述べたような、霊的な方向に進むことに伴う危険性の予感を、多くの者が潜在的にも嗅ぎ取っていることの表れなのかもしれない。それは、アスランテイスの集合的な記憶によるのかもしれないし、あるいは、現代の唯物的世界観のタガが外れることで、訳のわからないものが無際限に解放されてしまうという、漠然たる恐怖に過ぎないのかもしれない。しかし、いずれにしても、全体として、いずれは、そのような方向に踏み出さざるを得なくなることは、もはや必然の流れといえると思う。

2015年7月 7日 (火)

シュタイナーの精神病論3―「幻覚」と「妄想」

「病気」というのは、「カルマ」的な結果といえることを前回みた。しかし、それは、前世でのあり方を修正し、克服するため、自ら意志的に選ばれたものでもあった。だから、「病気」は、「カルマ」の結果であるとともに、それを修正し、克服する機会でもある。

一方、この「病気」への傾向には、人類全体としての、「ルシファー存在」や「アーリマン存在」との関わりが大きく作用しており、それは、「人類のカルマ」という面も併せもっていた。つまり、「病気への傾向」は、人類の誰もが共通して持つ、普遍的なものであり、たまたま、ある生において、特定の誰かがある「病気」になり、他の者はならなかったとしても、それは単に、その生において、「機が熟して」いたかどうかの違いに過ぎないのである。

だから、「病気」を、単に個人的な「悪いカルマ」として、自分とは切り離された、他人事のようにみなすことは、全く無意味である。

そのようなことを踏まえて、今回は、特に「精神的な病」について、より詳しくみていくことにする。

「精神的な病」は、肉体にまで作用する、精神的な印象や感情によって、引き起こされるといえる。が、シュタイナーは、意識化された印象は、抵抗にあうため、肉体に強く作用しないが、意識にのぼらない、無意識的な印象こそが、肉体に強く作用して、より「病気」のもとになるという。たとえば、幼児期に受けた印象というのは、記憶にものぼりにくく、意識化されにくいが、むしろ、肉体には強く作用して、「神経症」などの原因となる。

また、それは、前回みたような、死後の「カマロカ」期において、前世の行為を俯瞰するときに受けた印象についても、いえることである。それは、現世に生まれた後は、忘却され、意識にのぼらないことがほとんどだが、無意識レベルでは、肉体に強く、また深く作用し続け、ときに「精神病」などの病気の原因となるのである

「カマロカ」期の印象は、現世における幼児期の体験以上に、強烈なもので、より肉体に強く作用し、「重い病気」をもたらしやすいのである。だから、「神経症」は、現世に原因を見い出せるとしても、「精神病」は、現世に原因を見い出すことができないのが普通で、前世の行為の「カルマ」的な結果というべき場合が多いのである。

これらのことは、「治る病気」「治らない」病気ということとも関わってくる。「精神病」もそうだが、「重い病気」は、事実上「治らない」ことも多い。それは、「その生」の範囲においては、克服し得るだけの条件が整っていないこと、言い換えれば、一つの生だけでは克服し難い、それだけ強い「カルマ」的影響の現れであることを物語っているわけである。

このような「病気」への傾向は、「ルシファー存在」と「アーリマン存在」との関わりという観点からみると、まず「アストラル体」に「ルシファー存在」の影響が植えつけられ、人間に、欲望と情念から発する、利己的な行為がもたらされたことに発していた。次に、それが「アーリマン」の影響を招き、「エーテル体」に影響を受けて、外界についての正しい認識が阻害され、誤謬と、虚偽への傾向をもたらした。そして、それらの結果が、「アストラル体」と「エーテル体」に刻まれることで、「肉体」の条件が規定され、「病気」を招く「虚弱」な身体をもたらしたのである。(シュタイナーは、これらの段階を、次のように簡単にまとめている。すなわち、まず、軽薄で、表面的な人生→次に、虚偽への傾向→次に、病的な体質ということである。)

この「ルシファーの影響」と「アーリマンの影響」は、それぞれ、「ルシファー的な病気」と「アーリマン的な病気」をもたらすということもできる。

「ルシファー的な病気」は、「アストラル体」の異常であり、「痛み」を伴うものである。「痛み」は、「異常」を自覚させ、修復のきっかけを与える点で、むしろ好ましいもの(ルシファーに反対する勢力が与えたものという)とされる。

それに対して、「アーリマン的な病気」は、「エーテル体」の異常で、それは肉体により深く入り込んだ、悪性の強いものである。それは、「痛み」も伴わずに、つまり、意識化するきっかけも与えずに、深いレベルで進行し、器官を弱らせ、遂には崩壊に導くのである。ただし、器官が崩壊することは、それ以上深く「アーリマンの影響」を受け続けることから、解放させるという意味では、好ましいことでもある(これもアーリマンに反対する勢力の影響という)。

シュタイナーは、このような「アーリマン的な病気」の例として、幻視や幻聴などの「幻覚」と、迫害妄想に代表される、「妄想」をあげているのである。それはまさに、「統合失調状況」そのものである。ただ、シュタイナーは、それを「分裂病」という言い方で示すことは、していない。前々回もみたように、実際、シュタイナーが、「分裂病」をどういうものとして捉えていたか不明なのだが、何しろ、それは結果的に、「分裂病」以外のなにものでもないものを、明らかに示すことになっているのである。

これまでに何度もみてきたように、シュタイナーも、幻視や幻聴などの「幻覚」は、「アーリマン」がもたらすものという。それは、一種の「見霊能力」ではあるのだが、実質、「見せかけ」の幻影であり、要するに、外界(霊的世界を含む)についての「正しい認識」から外れた、「誤謬」なのである。

このような「アーリマン」の影響は、「ルシファー」の影響が強く現れ出ているところに生じるのだった。たとえば、自分を誇大視した、傲慢な意識であり、まさに、「アーリマン」は、そのようなものにつけこんで、あたかも、その者にだけ特別に与えられたかのような、「意味ありげ」な「幻影」を与えるのである。内部にある、「ルシファー的」な欲望や幻想に引っかけ、それを元にしてこそ、「アーリマン的」な「幻影」が成り立つということである。だから、「アーリマン」の強い影響が働いているということは、自己の内に、「ルシファー」的な欲望や思い上がりが強くある、ということなのである。

あるいは、「迫害妄想」に結びつくような、「攻撃的」で「恐怖」に満ちた「幻覚」は、これらと違うかのような印象を与えるかもしれない。しかし、そのような場合にも、自己の誇大視や、利己的な幻想がどこかに潜んでおり、「迫害」の意識は、その裏返しとして生じているという面が、必ずあるものである。

そして、そのような、「迫害妄想」に代表される「妄想」もまた、「アーリマン」の影響によるものである。シュタイナーは、「妄想」に捉えられた者に対しては、この世的な「論理」でもって、それが誤りであることを説得しようとしても、無意味であることを強調する。それは、前世の「カルマ」から来るもので、「エーテル体」に刻まれた性質を通して、「誤謬」が強く意識に反映されるからである。この世的な「論理」は、「エーテル体」の作用を修正し得るものではなく、むしろ、「妄想」を根拠づけることに、利用されるだけである。

要するに、その者は、「幻覚」や「妄想」を通して、「アーリマン」的な力に捕らえられて、逃れ難く、その「虚偽」「誤謬」の世界に絡め取られているのであるそして、それは、「ルシファー的」な影響を、内に強く抱えていたことの、「カルマ」的な結果であるということである

私は、「妄想」は、破壊的な状況に対する「防衛反応」だとも言った。それは、壊れかかった「自我」を、「補償」する働きをなすからである。しかし、その「妄想」が、「妄想」として、殊更、迫害とか誇大とかの方向に、いわば「色付け」されるのは、やはり、「アーリマン的」な影響に強く捕らえられているからというほかない。

このような「幻覚」や「妄想」に囚われ、「アーリマン的な力」の影響に強くさらされ続けれれば、シュタイナーのいうように、「器官」を弱らせ、さらに崩壊させることにもなっても不思議ではない。この場合の「器官」とは、「脳神経」器官のことになる。つまり、幻覚、妄想への囚われの果てに、脳の働きがシャットアウトされ、精神的には、もはや死んだような、荒廃した状態をもたらすことにもなり得る。

シュタイナーは、このような「幻覚」や「妄想」に対する対処―すなわち、「アーリマン的な力」に対する対処―は、「この地上生活で育成された」「健全な判断力」以外にないという。この「判断力」こそが、「幻覚」を「幻覚」、「妄想」を「妄想」と気づかせて、軌道を修正させるということである。それは、「アーリマン」の力をも、たじろがせるものという。

ただし、この「健全な判断力」とは、先のような「この世的な論理」や「一般的な常識」などでないのは当然である。これは、たとえば「幻覚」を、「霊的な知覚」と認識したうえで、それにも拘わらず、一種の「幻影」と見抜かせるだけのものでなければならない。そこには、「この世的な論理」や「一般的な常識」では届かない、「霊的なもの」に対する判断も含まれてくるのである。

また、「この判断力」は、「妄想」に囚われている状態を、愚かなことと、はっきりと気づかせるものでもある。先にみたように、「この世的な論理」では、とても説得できないような、「カルマ」に突き動かされた「妄想への囚われ」をも、気づかせるだけのものということである。それはまた、そこに、いかに、「ルシファー的」な、自己の過大視や傲慢さが潜んでいるかを、自覚できるものということでもある。

シュタイナーは、この「判断力」について、「神智学の研究によって鍛えられた判断力と識別能力」とも言っている。「神智学」とは、より一般的に言えば、「霊的な事柄に関する系統だった知識」のこと(※)で、要するに、そのような研究を通して、真に身につけられた、判断力と識別能力いうことになる。

ただし、ポイントは、それが、「地上生活で育成される」、というところである。一般に、「霊的な方面への希求」は、地上生活を軽視し、地上生活から足が離れたものになりやすい。「霊的なもの」を「地上的なもの」より、高級なものとみなし、そういうものに関わる自分を、高級なものとみなしたりするからである。「ニューエイジ」や「スピリチュアル」といわれるものにも、この傾向が顕著である。それは、実際、「ルシファー」の誘惑なのであり、それでは、幻想を膨らませこそすれ、健全な判断力が育つわけもないのである。

シュタイナーは、「地上生活」を重視したうえで、それを通して本当に鍛えられた、堅実な研究態度が、そのような「判断力」を身につけさせるというのである。

それは、同時に、「意識」と結びついた、健全な「自我」の発達ということでもある。たとえば、「幻覚」というものは、半ば催眠に近い、半意識的な状態で起こることが多い。しかし、そのような半意識的な状態こそ、「アーリマン的」な影響力をますます助長するのである。シュタイナーは、そこに、意識と結びついた「自我」を介入させることが重要という。そのような「自我」は、まさに、この「物質的」な「地上生活」を通してこそ、身につけられ、発達されるわけだが、それを、そのような「霊的な領域」にも、持ちこせるようになることが重要なのである。

霊的な認識を高めるためにこそ、地上的、または物質的な経験が必要となる」というのが、シュタイナーの「霊的進化」の発想の基礎に、常にある。それは、当然、「物質的なもの」を軽視しないという態度ともなり、前々回みたように、「精神的な病」についても、「物質的な基盤」を看過しないということに、つながってくる。

さらには、先にみたように、「意識」にのぼらない、「無意識的な過程」こそ、病的な働きを強めるのだったが、そこに、「意識」が本当に介入できれば、その過程を逆にたどって、それを「意識的な過程」に変えることができる。つまり、無意識的な「カルマ」の働きを、霊的な認識を通して、「自覚」にもたらし、それを、意識的な働きかけを通して、同等の意味のことを、別の仕方で成就させるということである。そこでは、もはや、「病気」という結果を、必要としなくなる。「病気」を通して、修正したり、乗り越えようとしたことを、自らの意識の力で、「自己教育」として、なすことができるようになる、ということである

これは、要するに、前世の死後に意図したり、志向したことを超えて、現世での経験と学びを通して、「カルマ」を乗り越える可能性を身につけたということになる。

このように、「カルマ」とは、決して、硬直で、融通のきかない法則なのではなく、同等の「意味」のものに置き換えたり、乗り越えたりすることも可能なものなのである。

ちなみに、私自身は、一連の体験時には、強くカルマの影響ということを、意識せざるを得なかった。記事にも、自分は、仏伝に出てくるアングリマーラの生まれ変わりではないかという思いに、囚われたと言った。「悪魔」などという存在に、四六時中つけまとわれるとは、それだけの深い縁があるということで、よほど前世で悪い行いをしたに違いないと思ったからである。

それは、もちろん、極端な発想だが、「カルマ」という点では、そのとおりと言え、実際、その後には、ある程度はっきりと、それに関する前世のビジョンが浮かび上がったりもした。ただし、「悪魔」(=「ルシファー」及び「アーリマン」)との関わりという点では、それは人類に普遍的なものであることが、当時は理解できておらず、今では、たまたま、その関わりを強く意識する機会に見舞われたに過ぎないことが、よく理解できる。とはいえ、「アーリマン」との関わりについては、自分が「ルシファー的な傾向」が強いことと、それは、前世から引き継いでいる傾向に違いないことは、十分自覚している。また、そういった一連の過程全体は、結局、自分自身が志向して、もたらしたものであることも、自覚している。

※ 8月16日

 ただし、「神智学」ということで、シュタイナーの本当に言いたかったことは、あくまで「自分の霊学」であるのは間違いないだろう。つまり、一般の霊的知識体系は、「スピリチュアリズム」にしても「神智学」にしても、ルシファーに捕えられやすい性質をもっているが、ルシファーやアーリマンについて本当に深く研究され、その影響を周到に避けつつ、それを乗り越えることをも内容としている、「私の霊学」ということである。

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