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2015年6月25日 (木)

シュタイナーの精神病論2-「カルマ」について

前回に引き続いて、シュタイナーの精神病論の観点3、 「カルマ」及び「ルシファーやアーリマンとの関わり」について述べたい。これは、観点1,2と比べても、「精神病」について、最も霊的なレベルを掘り下げた観点からの考察になる。そこでは、「カルマ」という、これまであまり触れて来なかった観念が、中心的な働きをなす。そこで、今回は、この「カルマ」について、概観しておくことにしたい。

シュタイナーも、(前回述べたように、普段はあまりしないことだが)『シュタイナーのカルマ論』(春秋社)の中で、「カルマ」について、ある程度明確な理解を与えるべく、要点を概説することをしている。「カルマ」については、特に当時の西洋人にとっては、なじみのない、曖昧な言葉であったし、人によって理解も異なるものだったからである。

シュタイナーは、「カルマ」とは一言で言えば、「霊的な因果法則」だという。つまり、原因と結果の法則である。ただし、それは「霊的」レベルに働くもので、物理的な因果法則とは異なる、独自のものである。その法則には、いくつかの要素がある。それらをあげると、

まず、「反作用性」、つまり、結果が、他のものではなく、それを引き起こした原因そのものに、立ち返ってくるのであること。ただし、その結果が返ってくる「原因」とは、その結果を引き起こした「原因」と同一の存在でなければならない。いわば、「同一性」ということである。さらに、その結果は、自分自身が意図したこととは、別のところで、客観的に生じていること。言い換えれば、本人自身からは「見えない」レベルで、「因果法則」が働くものであることである。

「カルマ」とは、元々古代インドで言われたもので、「行為」とか「業」ということを意味した。それは最もシンプルには、1の「反作用」の意味で、その「行為」の結果が「業」として、自分自身に返ってくることといえる。要するに、「行為」とは、誰に、あるいは何に対するものであれ、それは「宇宙」に対するものといえ、その「宇宙」は、いわば鏡のようなものとして、その行為を反射して、本人に返すということが、最もシンブルな理解の仕方と思う。

物理的な法則にも、「作用・反作用の法則」というのがあって、ある物体に力を作用させれば、それと同じだけの反作用を受ける。これは、「カルマ」を理解するうえで、非常に参考となるものである。だたし、それは、物理的法則のように、「目に見える」ものではない。3で述べられたように、自らの意図と関わりないところで、働く反作用を受けるのである。また、その「行為」には、「思い」というものも含まれる。ダスカロスも、「エレメンタル」(想念形態)が、それを発した者に返ってくることが、「カルマ」の基盤となると言っているが、「思い」も霊的にはエネルギー的基盤があるので、そうなるのである。

また、それは、「物理的因果法則」のように、一対一の対応をする、一義的で融通の利かない法則なのでもない。後にみるように、「意味」的に置き換えの可能なもので、同等の意味を有する他の結果に置き換えたり、さらには、法則そのものを乗り越えたりすることも可能なものである。

「カルマ」の一つの重要なポイントとして、2に述べた「同一性」ということがあるが、これは、「輪廻転生」の発想と絡むことになる。「原因」の結果が、それを引き起こした存在の生前に、その存在に返ってくるなら、問題はないが、この法則は、宇宙的な規模で働くもので、そのような短い時間単位の中で働くことを想定していない。つまり、その結果を引き起こした「原因」が、死んで、転生した後に結果を受けることを想定しており、その「転生」ということを通じて、「同一性」ということが満たされるのである。つまり、前世の行為の結果が、その存在の死後、転生した後に返ってくることになるが、その場合も、その存在には、「同一性」があるからこそ、「カルマ」となるということができるのである。

そのようにして、「カルマ」は「輪廻転生」ということと、密接に結びつくことになる。古代インドでもそうだったが、この点は、シュタイナーでも同じなのである。また、現在でも、一般にそのようなものとしてイメージされていることが多い。

ただ、この「輪廻転生」ということの理解の仕方は様々であり、それにより、「カルマ」の理解も、大きく変わってくることになる。シュタイナーの「カルマ」論の特色も、この「輪廻転生」の理解の仕方と結びついているといえる。

シュタイナーでは、地球の場合に限ると断っているが、「個別的な魂」のようなものが、輪廻の主体として、死後も生まれ変わり、「転生」するという理解である。だから、前世の行為を行った「原因」の存在と、来世で結果を受ける存在は、「主体」として継続性があり、同一と考えるのである。(私自身は、この点にはかなり疑問もあるのだが、一般的な受け取り方として、とりあえずこのように解しておくことは可能とは思っている。)(※)

さらにシュタイナーでは、この「転生」は、自ら「主体的」になされるものとみなされる。つまり、死後から新たな誕生までの期間に、自ら主体的に計画したうえで、なされるということである。その基盤は、「カマロカ期」とよばれる、死後に「アストラル」界で、生前の自分の行為を客観的、俯瞰的に回想する時期にある。そのような時期には、生前の狭い視野の意識とは異なり、全体を俯瞰する「高次の意識」が働き、生前の行為を反省して、来世で償ったり、行為のあり方を修正してバランスを図りたいという衝動を生じる。そのような衝動が、「魂」(アストラル体)に刻まれ、来世の肉体の条件を規定し、あるいは、生まれる環境を規定する。そのようなことが、来世での「カルマ」の基礎になるのである。

だから、シュタイナーでは、「カルマ」の法則自体が、とても「主体的」なもので、受動的、「運命的」なものではなく、自ら、自分の行為を修正しようとする意志に基づくものとされるのである。この点は、古代インドや、現代の一般の理解とはかなり異なっている。

ただし、「カルマ」とは、宇宙の法則なのであって、単に「個人」の法則なのでもなければ、「人間」の法則なのでもない。「人間」についても、個人レベルでの「カルマ」があるとすれば、もっと集合的な「民族」や「人類」レベルでの「カルマ」もある。これらは、交錯しており、「民族」レベルや「人類」レベルでの「カルマ」を、「個人」が受けることもあるのである。

さらに、人間以外の「神々」や、「地球」や「宇宙」そのものにも、「カルマ」はある。それらが、複雑に交錯し合って、「カルマ」が生じているということである。単純に、個人の意志による「カルマ」に還元できるものでもなければ、民族や人類レベルの「カルマ」や、神々や地球、宇宙レベルの「カルマ」を、受動的、他律的に被ってしまうというものでもないのである。

だから、「カルマ」が主体的なものとして自ら選びとられるものと言っても、そこには、もともと「神々」や「宇宙」の法則として設定されたものという面もある。
これらは、重なり合って存在しているのであり、それを理解するには、前に記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html)で述べていた、「創造された創造者」という発想を参照するのがいいかもしれない。

つまり、「カルマ」とは、そもそも「創造」という行為があってこそ、それに伴って生じたものであり、人間を越えたレベルで、「創造者」によって設定されたという面が確かにある。しかし同時に、「創造された創造者」として、「創造者」の一面を有する「人間」によって、自ら、選びとり直された(いわば「再創造」された)ものでもあるということである。

何しろ、このように、「カルマ」は他律的なものではなく、「主体的」な法則で自ら選びとっているというのが、シュタイナーの「カルマ論」の一つの重要な特色である。それは、西洋近代の「自我」の発想と通じる面があり、シュタイナーも、そのような発想を通り越しているからこそ、それを取り込んでいるという面もある。

また、これまでみてきたように、シュタイナーでは、輪廻転生が、「霊的進化」という目的と結びついているから、そこに「主体」の意味が強く前面に出てくるのも当然といえる。シュタイナーの「霊的進化」とは、個別的な存在として、物質界での経験を積み重ねることで、霊的な認識を高めるということなので、そこには、「輪廻転生」が当然組み込まれて来る。とともに、それは、目的的なもの、かつ主体的なものとなることになる。また、同時に、それは、非常に物質的に焦点化された、地球という環境における、一つの特殊な「実験」のような意味合いを帯びることにもなる。

さらに、シュタイナーの、「霊的進化」の目的の一つは「自由」ということであり、「カルマ」というものも、その自由を前提とするものである。自由意志つまり選択の自由があるからこそ、「カルマ」を受ける余地があるのであり、そうでなければ、そもそも「カルマ」を受けることには意味がない。言い換えれば、人間は、「悪」の方向に誤る可能性があるからこそ、「カルマ」を受けてそれを自覚し、主体的に修正する可能性も生じるのである。

ただし、シュタイナーは、「カルマ」を受けることに「自由」があるのではなく、それを乗り越えることにおいて、初めて「自由」が達成されるということを強調する。つまり、誤る可能性を越えて、もはや「カルマ」を受けなくなること、「カルマ」など必要としなくなることが「自由」なのである。「カルマ」は、法則であるとともに、越えられるべきものともなるのである。

また、シュタイナーは、「カルマ」の前提となる、「悪」の可能性を人間に与えた存在として、ルシファー存在やアーリマン存在との関わりを重視する。ルシファー存在は、人間の「アストラル体」に自らの本質の一部である、「低次の自我」を植え付け、欲望や激情から行動するように仕向けた。これは、カスタネダのドンファンが、「捕食者」によって、「外来の心」が植え付けられたということのシュタイナー的な捉え方である。

それによって、人間は、「悪」に陥る可能性とともに、「カルマ」を引き受ける基盤を作った。そして、そのようなルシファー的な影響が、今度は、アーリマン存在の影響を外部から被る可能性を招き寄せた。前に述べたように、アーリマン存在は、ルシファー的なものが現れ出ているところに、ハエのように集るのであり、その影響を刈り取るのである。そのようにして、人間は、アーリマン的な「虚偽」、「幻想」を生きるようになったとともに、欲望と激情から発する行為が、虚しく刈り取られるという、絶望を味わうこととなった。

こういった、内面からの、ルシファー的影響と外界からのアーリマン的影響が、人間に、「悪」の可能性とともに、「カルマ」をもたらす基盤となる。ルシファー存在の影響は、「アストラル体」に刻まれ、アーリマン存在の影響は「エーテル体」に刻まれる。いわば、人間は、不調和な霊的身体を引き受けて、転生を繰り返すことになる。それは、肉体を条件づけるものとなり、さまさまな「病気」をもたらすことにもなる。

だから、シュタイナーによれば、「病気」というのは、「カルマ」的結果の中でも、最たるものである。言いかえれば、その「病気」を通して、「カルマ」が修正され、ルシファー存在やアーリマン存在の影響を乗り越える可能性も与えられる。すなわち、「自由」の可能性である。

「病気」については、様々な「病気」が論じられるが、「精神的な病」についてもまた、論じられている。それは、「統合失調」状況そのものでもある。次回は、そのような「精神的な病」と「カルマ」の関係及び、ルシファー存在とアーリマン存在の関わりを、具体的にみてみたい。

最後に、既に、これまでみてきたことから明らかのはずだか、「カルマ」について、現在多くみられる誤解について、簡単に解いておきたい。

最もよくみられる誤解は、「カルマ」とは、前世になした「悪い行い」に対する「罰」のようなもので、甘んじて受けるべきもの、あるいは、受けさせて然るべきものというものである。これは、「カルマ」を、受動的な「運命」または「宿命」のようなものとして、受け取ることによるものだし、さらに、融通の効かない、硬直な法則として受け取ることにもよっている。こういうものが、少なくとも、シュタイナーの主体的で、「意味」的に等価なものに置き換え可能なもの、さらに「乗り越える」べきものとしての「カルマ」論とは、全く異なるものであることは、明らかである。

さらに、この誤解は、「カルマ」が個人的なものばかりでなく、人類レベルや宇宙レベルのものと交錯していることを、看過している。「個人のカルマ」に帰せられない、「不幸」な出来事は、いくらも起こり得るが、これは、すべてを、「個人のカルマ」に帰す発想によっているということである。

また、「カルマ」とは、その結果として起こっていることに対して、どう対処するかということも、また「原因」として、含み込んでいるものである。言いかえれば、現に起こっている出来事に、どう対処するかということが、不断に、「カルマ」として原因を作り出すことにもなるのである。だから、「カルマ」だということで、ただ人にそれを受けさせるような、冷淡な態度は、それ自体が、新たな「カルマ」を作っていく元にもなる。

しかし、私は、このような誤解は、そもそも「カルマ」の問題である以前に、「病気」なら「病気」という結果を、「悪いもの」と決めつける見方の方に存していると思う。それが、「悪いもの」と決めつけるから、「カルマ」という「罰」が働いたという見方を引き寄せるので、「悪いもの」という見方が、「カルマ」の見方をも、規定しているのである。

それは、あらゆる「病気」に言えるが、「精神的な病気」については、特にそれが顕著である。むしろ、「悪い」という見方こそが、それを「病気」として固定的に位置づけることに、大きく作用しているのである。

このようなあり方も、ある意味、現代の人間の「カルマ」そのものとも言えるが、「カルマ」とは、決して「悪いもの」であることを前提とするものではないことは、確認しておいてほしい。

※ 8月17日

「輪廻転生」の捉え方というのは、本当に踏み込もうとするなら、「魂」または「自我」とは何か、そもそもどのように「創造」されたのか、という問題と密接に絡む、容易ならざる問題である。 そこで、いずれ、それについて、結論めいたことというよりも、考え方の基本や問題点の指摘をしておきたいと思う。

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