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2015年6月

2015年6月25日 (木)

シュタイナーの精神病論2-「カルマ」について

前回に引き続いて、シュタイナーの精神病論の観点3、 「カルマ」及び「ルシファーやアーリマンとの関わり」について述べたい。これは、観点1,2と比べても、「精神病」について、最も霊的なレベルを掘り下げた観点からの考察になる。そこでは、「カルマ」という、これまであまり触れて来なかった観念が、中心的な働きをなす。そこで、今回は、この「カルマ」について、概観しておくことにしたい。

シュタイナーも、(前回述べたように、普段はあまりしないことだが)『シュタイナーのカルマ論』(春秋社)の中で、「カルマ」について、ある程度明確な理解を与えるべく、要点を概説することをしている。「カルマ」については、特に当時の西洋人にとっては、なじみのない、曖昧な言葉であったし、人によって理解も異なるものだったからである。

シュタイナーは、「カルマ」とは一言で言えば、「霊的な因果法則」だという。つまり、原因と結果の法則である。ただし、それは「霊的」レベルに働くもので、物理的な因果法則とは異なる、独自のものである。その法則には、いくつかの要素がある。それらをあげると、

まず、「反作用性」、つまり、結果が、他のものではなく、それを引き起こした原因そのものに、立ち返ってくるのであること。ただし、その結果が返ってくる「原因」とは、その結果を引き起こした「原因」と同一の存在でなければならない。いわば、「同一性」ということである。さらに、その結果は、自分自身が意図したこととは、別のところで、客観的に生じていること。言い換えれば、本人自身からは「見えない」レベルで、「因果法則」が働くものであることである。

「カルマ」とは、元々古代インドで言われたもので、「行為」とか「業」ということを意味した。それは最もシンプルには、1の「反作用」の意味で、その「行為」の結果が「業」として、自分自身に返ってくることといえる。要するに、「行為」とは、誰に、あるいは何に対するものであれ、それは「宇宙」に対するものといえ、その「宇宙」は、いわば鏡のようなものとして、その行為を反射して、本人に返すということが、最もシンブルな理解の仕方と思う。

物理的な法則にも、「作用・反作用の法則」というのがあって、ある物体に力を作用させれば、それと同じだけの反作用を受ける。これは、「カルマ」を理解するうえで、非常に参考となるものである。だたし、それは、物理的法則のように、「目に見える」ものではない。3で述べられたように、自らの意図と関わりないところで、働く反作用を受けるのである。また、その「行為」には、「思い」というものも含まれる。ダスカロスも、「エレメンタル」(想念形態)が、それを発した者に返ってくることが、「カルマ」の基盤となると言っているが、「思い」も霊的にはエネルギー的基盤があるので、そうなるのである。

また、それは、「物理的因果法則」のように、一対一の対応をする、一義的で融通の利かない法則なのでもない。後にみるように、「意味」的に置き換えの可能なもので、同等の意味を有する他の結果に置き換えたり、さらには、法則そのものを乗り越えたりすることも可能なものである。

「カルマ」の一つの重要なポイントとして、2に述べた「同一性」ということがあるが、これは、「輪廻転生」の発想と絡むことになる。「原因」の結果が、それを引き起こした存在の生前に、その存在に返ってくるなら、問題はないが、この法則は、宇宙的な規模で働くもので、そのような短い時間単位の中で働くことを想定していない。つまり、その結果を引き起こした「原因」が、死んで、転生した後に結果を受けることを想定しており、その「転生」ということを通じて、「同一性」ということが満たされるのである。つまり、前世の行為の結果が、その存在の死後、転生した後に返ってくることになるが、その場合も、その存在には、「同一性」があるからこそ、「カルマ」となるということができるのである。

そのようにして、「カルマ」は「輪廻転生」ということと、密接に結びつくことになる。古代インドでもそうだったが、この点は、シュタイナーでも同じなのである。また、現在でも、一般にそのようなものとしてイメージされていることが多い。

ただ、この「輪廻転生」ということの理解の仕方は様々であり、それにより、「カルマ」の理解も、大きく変わってくることになる。シュタイナーの「カルマ」論の特色も、この「輪廻転生」の理解の仕方と結びついているといえる。

シュタイナーでは、地球の場合に限ると断っているが、「個別的な魂」のようなものが、輪廻の主体として、死後も生まれ変わり、「転生」するという理解である。だから、前世の行為を行った「原因」の存在と、来世で結果を受ける存在は、「主体」として継続性があり、同一と考えるのである。(私自身は、この点にはかなり疑問もあるのだが、一般的な受け取り方として、とりあえずこのように解しておくことは可能とは思っている。)(※)

さらにシュタイナーでは、この「転生」は、自ら「主体的」になされるものとみなされる。つまり、死後から新たな誕生までの期間に、自ら主体的に計画したうえで、なされるということである。その基盤は、「カマロカ期」とよばれる、死後に「アストラル」界で、生前の自分の行為を客観的、俯瞰的に回想する時期にある。そのような時期には、生前の狭い視野の意識とは異なり、全体を俯瞰する「高次の意識」が働き、生前の行為を反省して、来世で償ったり、行為のあり方を修正してバランスを図りたいという衝動を生じる。そのような衝動が、「魂」(アストラル体)に刻まれ、来世の肉体の条件を規定し、あるいは、生まれる環境を規定する。そのようなことが、来世での「カルマ」の基礎になるのである。

だから、シュタイナーでは、「カルマ」の法則自体が、とても「主体的」なもので、受動的、「運命的」なものではなく、自ら、自分の行為を修正しようとする意志に基づくものとされるのである。この点は、古代インドや、現代の一般の理解とはかなり異なっている。

ただし、「カルマ」とは、宇宙の法則なのであって、単に「個人」の法則なのでもなければ、「人間」の法則なのでもない。「人間」についても、個人レベルでの「カルマ」があるとすれば、もっと集合的な「民族」や「人類」レベルでの「カルマ」もある。これらは、交錯しており、「民族」レベルや「人類」レベルでの「カルマ」を、「個人」が受けることもあるのである。

さらに、人間以外の「神々」や、「地球」や「宇宙」そのものにも、「カルマ」はある。それらが、複雑に交錯し合って、「カルマ」が生じているということである。単純に、個人の意志による「カルマ」に還元できるものでもなければ、民族や人類レベルの「カルマ」や、神々や地球、宇宙レベルの「カルマ」を、受動的、他律的に被ってしまうというものでもないのである。

だから、「カルマ」が主体的なものとして自ら選びとられるものと言っても、そこには、もともと「神々」や「宇宙」の法則として設定されたものという面もある。
これらは、重なり合って存在しているのであり、それを理解するには、前に記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html)で述べていた、「創造された創造者」という発想を参照するのがいいかもしれない。

つまり、「カルマ」とは、そもそも「創造」という行為があってこそ、それに伴って生じたものであり、人間を越えたレベルで、「創造者」によって設定されたという面が確かにある。しかし同時に、「創造された創造者」として、「創造者」の一面を有する「人間」によって、自ら、選びとり直された(いわば「再創造」された)ものでもあるということである。

何しろ、このように、「カルマ」は他律的なものではなく、「主体的」な法則で自ら選びとっているというのが、シュタイナーの「カルマ論」の一つの重要な特色である。それは、西洋近代の「自我」の発想と通じる面があり、シュタイナーも、そのような発想を通り越しているからこそ、それを取り込んでいるという面もある。

また、これまでみてきたように、シュタイナーでは、輪廻転生が、「霊的進化」という目的と結びついているから、そこに「主体」の意味が強く前面に出てくるのも当然といえる。シュタイナーの「霊的進化」とは、個別的な存在として、物質界での経験を積み重ねることで、霊的な認識を高めるということなので、そこには、「輪廻転生」が当然組み込まれて来る。とともに、それは、目的的なもの、かつ主体的なものとなることになる。また、同時に、それは、非常に物質的に焦点化された、地球という環境における、一つの特殊な「実験」のような意味合いを帯びることにもなる。

さらに、シュタイナーの、「霊的進化」の目的の一つは「自由」ということであり、「カルマ」というものも、その自由を前提とするものである。自由意志つまり選択の自由があるからこそ、「カルマ」を受ける余地があるのであり、そうでなければ、そもそも「カルマ」を受けることには意味がない。言い換えれば、人間は、「悪」の方向に誤る可能性があるからこそ、「カルマ」を受けてそれを自覚し、主体的に修正する可能性も生じるのである。

ただし、シュタイナーは、「カルマ」を受けることに「自由」があるのではなく、それを乗り越えることにおいて、初めて「自由」が達成されるということを強調する。つまり、誤る可能性を越えて、もはや「カルマ」を受けなくなること、「カルマ」など必要としなくなることが「自由」なのである。「カルマ」は、法則であるとともに、越えられるべきものともなるのである。

また、シュタイナーは、「カルマ」の前提となる、「悪」の可能性を人間に与えた存在として、ルシファー存在やアーリマン存在との関わりを重視する。ルシファー存在は、人間の「アストラル体」に自らの本質の一部である、「低次の自我」を植え付け、欲望や激情から行動するように仕向けた。これは、カスタネダのドンファンが、「捕食者」によって、「外来の心」が植え付けられたということのシュタイナー的な捉え方である。

それによって、人間は、「悪」に陥る可能性とともに、「カルマ」を引き受ける基盤を作った。そして、そのようなルシファー的な影響が、今度は、アーリマン存在の影響を外部から被る可能性を招き寄せた。前に述べたように、アーリマン存在は、ルシファー的なものが現れ出ているところに、ハエのように集るのであり、その影響を刈り取るのである。そのようにして、人間は、アーリマン的な「虚偽」、「幻想」を生きるようになったとともに、欲望と激情から発する行為が、虚しく刈り取られるという、絶望を味わうこととなった。

こういった、内面からの、ルシファー的影響と外界からのアーリマン的影響が、人間に、「悪」の可能性とともに、「カルマ」をもたらす基盤となる。ルシファー存在の影響は、「アストラル体」に刻まれ、アーリマン存在の影響は「エーテル体」に刻まれる。いわば、人間は、不調和な霊的身体を引き受けて、転生を繰り返すことになる。それは、肉体を条件づけるものとなり、さまさまな「病気」をもたらすことにもなる。

だから、シュタイナーによれば、「病気」というのは、「カルマ」的結果の中でも、最たるものである。言いかえれば、その「病気」を通して、「カルマ」が修正され、ルシファー存在やアーリマン存在の影響を乗り越える可能性も与えられる。すなわち、「自由」の可能性である。

「病気」については、様々な「病気」が論じられるが、「精神的な病」についてもまた、論じられている。それは、「統合失調」状況そのものでもある。次回は、そのような「精神的な病」と「カルマ」の関係及び、ルシファー存在とアーリマン存在の関わりを、具体的にみてみたい。

最後に、既に、これまでみてきたことから明らかのはずだか、「カルマ」について、現在多くみられる誤解について、簡単に解いておきたい。

最もよくみられる誤解は、「カルマ」とは、前世になした「悪い行い」に対する「罰」のようなもので、甘んじて受けるべきもの、あるいは、受けさせて然るべきものというものである。これは、「カルマ」を、受動的な「運命」または「宿命」のようなものとして、受け取ることによるものだし、さらに、融通の効かない、硬直な法則として受け取ることにもよっている。こういうものが、少なくとも、シュタイナーの主体的で、「意味」的に等価なものに置き換え可能なもの、さらに「乗り越える」べきものとしての「カルマ」論とは、全く異なるものであることは、明らかである。

さらに、この誤解は、「カルマ」が個人的なものばかりでなく、人類レベルや宇宙レベルのものと交錯していることを、看過している。「個人のカルマ」に帰せられない、「不幸」な出来事は、いくらも起こり得るが、これは、すべてを、「個人のカルマ」に帰す発想によっているということである。

また、「カルマ」とは、その結果として起こっていることに対して、どう対処するかということも、また「原因」として、含み込んでいるものである。言いかえれば、現に起こっている出来事に、どう対処するかということが、不断に、「カルマ」として原因を作り出すことにもなるのである。だから、「カルマ」だということで、ただ人にそれを受けさせるような、冷淡な態度は、それ自体が、新たな「カルマ」を作っていく元にもなる。

しかし、私は、このような誤解は、そもそも「カルマ」の問題である以前に、「病気」なら「病気」という結果を、「悪いもの」と決めつける見方の方に存していると思う。それが、「悪いもの」と決めつけるから、「カルマ」という「罰」が働いたという見方を引き寄せるので、「悪いもの」という見方が、「カルマ」の見方をも、規定しているのである。

それは、あらゆる「病気」に言えるが、「精神的な病気」については、特にそれが顕著である。むしろ、「悪い」という見方こそが、それを「病気」として固定的に位置づけることに、大きく作用しているのである。

このようなあり方も、ある意味、現代の人間の「カルマ」そのものとも言えるが、「カルマ」とは、決して「悪いもの」であることを前提とするものではないことは、確認しておいてほしい。

※ 8月17日

「輪廻転生」の捉え方というのは、本当に踏み込もうとするなら、「魂」または「自我」とは何か、そもそもどのように「創造」されたのか、という問題と密接に絡む、容易ならざる問題である。 そこで、いずれ、それについて、結論めいたことというよりも、考え方の基本や問題点の指摘をしておきたいと思う。

2015年6月14日 (日)

シュタイナーの「精神病論」1

これまでにも、何度か参照にして来たシュタイナーの「精神病論」(統合失調論)だが、今回は、一通り、まとめてみることにしたい。 

シュタイナーは、一般に、あるテーマについて、あまり要点をまとめる書き方や話し方をせず、著作や講演ごとに、さまざまな角度から述べることで、全体像を浮かび上がらせようとすることが多い。それは、霊的な事柄について、短絡的に、捉えられることを恐れるためだろうが、要点がつかみにくく、著作も多数にのぼるので、全体像をつかもうとするのは大変なことである。

「精神病」に関しても、私はよくは知らないが、著作や講演で触れられているものは多いはずである。また、「精神病」については、確かに、多くの観点から見られてしかるべき事柄であり、実際シュタイナーも、ときに相反すると思えるような、大きく違った視点から述べていることもある。だから、注意しないと、シュタイナーの「精神病」に関する考えを、ある著作を読んで、一面的に捉えてしまう恐れがある。しかし、一方、だからと言って、それらの多くの著作をいちいち追っていたら、きりがないし、焦点がぼやけるという欠点もある。

そこで、私は、次の3つの観点に絞って、まとめるのがよいと思う

1は「物質的基盤」という観点。2は「霊界の境域での体験」という観点。3は
「カルマ」及び「ルシファーやアーリマンとの関わり」という観点である。

これらは、それぞれ代表する著作と対応しており、3つの観点との対応を示すと、次のようになる。

1  「物質的基盤」という観点―『病気と治療』(イザラ書房)
2  「霊界の境域での体験」という観点―『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫)(以下『いかにして』と略)
3  「カルマ」及び「ルシファーやアーリマンとの関わり」という観点―『シュタイナーのカルマ論』(春秋社)

まず、1について

これについては、記事『「分裂病」と周辺領域の病との混乱』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-acc7.html)でも簡単に触れていた。シュタイナーは、この書で、「精神病」について、「精神病は、実際には精神病ではない。精神は病気になることはないから」ということを述べている。つまり、肉体的なものの方に、原因があると言うのである。また、「精神分裂病」という病名をはっきりあげたうえ、「幼児期に、(神経を阻害する)よくないものを食べたのが原因」とも述べている。(ただし、それがどのように働くかについては、多分に霊的な面もみている。)

霊的なものを重視するシュタイナーとしては、全く意外な観点である。だが、これは、文字通りに解するには問題がある。まず、初めの「精神は病気にならない」の「精神」は(「ガイスト」の訳として)「霊」と読むべきものである。シュタイナーも、病気とは、人間の4つの構成要素間の不調和から生ずると言っているので、霊的なものと肉体的なものとの関わりに起こる「魂」ないし「精神」は、病むことになるはずである。ただし、「霊」そのものが病む訳ではないという意味では、そのとおりと言え、それ故、「精神病」においては、肉体という「物質的基盤」の方に、原因の多くがかかることがあるということは、確かに言えることだろう。

また、「精神分裂病」については、「青年期かそれ以降に痴呆化すること」と述べており、「早発性痴呆」という当時の言われ方そのままの理解で述べている。当時としては、「精神分裂病」の概念も、曖昧であり、人により、捉え方も大きく異なっていた。私は、シュタイナーがここで想定していたのは、今の「統合失調症」も含み得るにしても、どうも、それとは違ったものではなかったかと思う。恐らく、今で言う「自閉症」や「知的障害」の方を、主に念頭においていたのではないかと思う。

いすれにしても、当時から、神経を阻害する物質の影響を重視していたのは、慧眼だし、私も、前回の記事でも述べたが、「統合失調」についても、その影響が大きく働くことは確かと思う。

何しろ、シュタイナーは、次に述べるように、精神病や統合失調症を全体として見る限り、決して、肉体や物質的な原因ばかりを重視していたわけではない。
       
しかし、この書では、肉体的、物質的原因について、特に注意を促していることは確かである。そこで、ここでのシュタイナーの記述は、「精神病」あるいは「統合失調症」については、一般に、精神的な面にばかり注意がいきがちだが、「肉体的、物質的なものに、原因の基盤がある」こと、それも「食物等の後天的な影響」を、看過してはならない、ということを強調した、という風に受け止めるのが、適当と思う。

実際、脳、神経に脆弱性を抱えていれば、それは、統合失調状態を招きやすい基盤となるし、その状態での耐性も弱くなる。それは、先天的な遺伝という形でも起こり得るが、シュタイナーが述べているように、後天的な影響という形でも、起こり得るものである。この点は、「精神病」を生得的なものとみる立場からも、精神的なものとみる立場からも、一つの盲点のようになっているので、看過してはならないということだろう。

しかし、このような、物質的な基盤のみでは、「精神病」や「統合失調症」に陥る一定の条件は、明らかにできても、具体的に、それに陥るメカニズムは、理解できるものにならない。また、そればかりを重視するのでは、現代の精神医学と何ら異ならず、薬などの物質的治療手段を正当化するのと変わりないことになる。

実際、次に見るように、シュタイナーは、霊的な面においても、多くの理解の可能性を与えているのである。

次に2について

これについても、記事で何度も述べ(たとえば『「霊界の境域」と「思考・感情・意志」の「分裂」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post-deb9.html)、関連書籍の『いかにして』のところでも、簡単に触れている。この『いかにして』は、あくまで、自ら主体的に行う、霊的な修行において、感覚的な世界から霊的な世界へ移行する際に、その「境界」的な領域で起こることを、説明しているものである。そこでは、特に「精神病」や「統合失調症」のことが、テーマとして述べられている訳ではない。

しかし、そのような霊的修行の実践者が、初めに、「霊界の境域」に参入するときに、起こるさまざまな現象や、それが招く混乱は、あまりに「統合失調」の場合と、共通している。たとえば、「霊界の境域」では、霊界の客観的な性質が見える以前に、自らの想念が、「霊的鏡像」として跳ね返ってくるなどのことである。だから、それについての認識がないと、自らの想念が投影されたものを、「現実」そのものとして受け取ってしまい、混乱し、あるいは誤謬(妄想)のもととなるのである。

さらに、「人格の分裂」という章では、まさに、「分裂病」そのままのことが述べられている。「霊界の境域」にそれなりに深く参入する頃には、「人格の分裂」すなわち、「思考・感情・意志」の分裂が起こるという。それは、もともと、人間の構成上、宇宙的な作用力により統合されていたものだが、この段階においては、分裂するので、それぞれが、ばらばらになり、それらのバランスが取れていないと、どれかが勝手に暴走することになる。まさに、「分裂病」においてみられるままの、異常な事態が起こるのである。ただし、それは、自然な統合を超えて、高次の自我にり、新たな(主体的な)「統合」を果たす契機として、必要なものである。「思考・感情・意志」に支配されず、自由に使えるものにするということであり、それが、霊的な領域にさらに深く入って、認識を高めるためには、必要な過程というのである。

繰り返すが、これらは、霊的な修行により、自ら意図して、「霊界の境域」に参入しようとする場合について、述べたものである。

しかし、「霊界の境域」には、さまざまな理由から、意図せずに、つまり「望まずに」入ってしまう場合もある。特に、体質的に、霊媒体質であったり、自我が希薄であったり、脳が脆弱であったりする場合には、そういうことも起こりやすい。シュタイナー自身は、この書において、特にそのようなことは想定していないが、その場合にも、シュタイナーが述べているようなことは起こるのである。それはまさしく、「統合失調」状況そのものであり、予期もなく、「望まずに」入っているだけに、意図して入る場合以上に、混乱と病的事態は、拡大されるのである

先にみたように、シュタイナーが、「分裂病」について、どのようなイメージをもっていたかは不明で、恐らく、この場合は、シュタイナー自身のイメージとは合致していなかったのかもしれない。が、それは、期せずして、「分裂病」に陥る過程を、非常に具体的に示す、格好のものとなっているのである

そこで、この書の「霊界の境域」に入ることで何が起こるかを記述した部分は、シュタイナーの「統合失調症論」として受け取ることが、十分可能なのである。さらに、そのような状態にどのように対処すべきかも、意図的に入る場合と本質的な違いがある訳ではないので、大きく参考になるものかあるのである。

次回は、これまであまりとりあげていなかった観点である3について、少し詳しく述べようと思う。

2015年6月 2日 (火)

長期化させる要因

前回みたように、「統合失調」は、共同体による、集団的な理解と治癒の方法を失って、本来一過性の現象であるものが、継続的なものへと追いやられたのだった。

そのように、「共同体による集団的な理解と治癒の方法を失った」というのが、「統合失調」を「長期化」させる要因としては、直接のものである。ただ、そのことの具体的な現れは、さまざまであるとともに、近代以降の複雑な社会の中で、それには、さまざまな要因が加算されてもいる。

そこで、それらの具体的な要因について(これまでにも何度も述べて来ていることだが)、この機会にいくつかまとめておきたい。

これは、とりあえず、「外的要因」と「内的要因」に分けられる。

外的要因

1 周囲との葛藤、軋轢

「共同体による理解と治癒」を失ったということは、周りの者に理解されなくなったということであり、治癒に向けた環境や場を失ったということでもある。これは、要するに、周りの者から、訳の分からないものとして、怖がられ、忌避されるようになったということであり、それは、本人にとってもまた、迫害の意識を強めるものになったということである。さらに、そこから、互いに、さまざまな葛藤や軋轢を生むものとなったということであり、このような状況が、本人の状態を悪化させないわけがないのである。

2 「病気」というレッテル貼り

前者とも関わるのだが、こちらは、このような本人の状態を、「病気」としてレッテル貼りすることによって、殊更生じるもののことである。それが、わけの分からないもので、恐れられ、忌避されるものという実質は何ら変わらない上に、「病気」というレッテルが貼られることで、ますますマイナスのイメージに固定される。それは、当然に長期的な「治療」の対象となり、社会の防衛のため、長期間精神病院へ「隔離」することが正当化される。このような「見方」そのものが、いわば、初めから、「治癒」という可能性を排除するものとなっている。また、そのような「処遇」そのものが、本人をますます絶望的にさせ、回復から遠ざけ、本当に「病気」という状態へと追いやっていくことにもなる。

3 病院という劣悪な環境

治癒が働くには、それなりに心地よくリラックスできる環境が必要である。ところが、「病者」は、狭く、過酷な環境に閉じ込められ、虐待まがいの、非人間的な扱いを受けて日々を過ごす。そのような環境で、治癒どころか状態が悪化しないはずがない。実は、世間から隔離された状態に置くということ自体は、環境条件や扱い次第では、プラスに働く余地がある。1の周囲との葛藤や軋轢を避け、自分に起こっていることとじっくり向き合う環境を提供できるからである。ところが、そのようなことも、劣悪な環境の病院では、期待できないのである。

4  投薬による撹乱、慢性化

精神薬は脳に働きかけ、起こっている事態を撹乱させる。本来、一過性で終わり得るものも、予測のつかないものに変えられる。本人にとっても、一体自分は、起こっている現象そのものに向き合っているのか、薬の作用に向き合っているのか、分からないものになる。たとえ、精神薬が一時的に鎮静に成功したとしても、それは、何らの解決ではなく、結局は、事態を「慢性化」させるに過ぎない。そればかりか、事態に向き合ったり、対処したりする意欲や能力そのものも減退させてしまうのは、致命的である。既に、2の「病気」というレッテル貼りと3の病院という環境が大きなダメージになっているところに、精神薬は、いわばとどめの役割を果たす。

5  化学物質、食物などによる脳神経の阻害、脆弱化

脳神経の阻害や脆弱化が、統合失調の状態を招く基盤となり、あるいは悪化させたり、耐久力や対処する能力を減退させて、長期化させる方向に働くのは言うまでもない。これには、先天的な性質としての問題もあるが、化学物質や食物による影響も、近代、特に産業革命以降、飛躍的に付け加えられた事態である。これは、「発達障害」の要因となるだけでなく、「統合失調」を長期化させる要因としても無視できないはずである。

内的要因

1 社会との軋轢、生き方の行き詰まり

これは、外的要因としてみた、既に「統合失調」状態にあるときの、周囲との葛藤、軋轢というのとは別に、共同体が解体されて、切り離された個人と社会との関係の中で、社会にうまく適応できない個人が、社会との軋轢や、生き方そのものを行き詰らせることで、孤立や荒廃に陥り、それが「統合失調」を招く大きな要因となると同時に、治癒の見通しの立たない、長期化の要因にもなるということである。共同体が解体されたことによって生じた、最も直接の要因といえる。

2  妄想の固定化

「妄想」は、「統合失調」の破壊的状況から、自我を護ろうとして起こる防衛反応なのだが、その固定化は、拮抗状態を長引かせ、結局その状態を長期化させることになる。その「妄想」とは、かつての「集団的理解」に代わるものとして、個人として、その状況で即席に作出された応急的な「理解」で、その意味でも、集団的理解が失われたことを引きずっている。また、「妄想」は、次の3の幻覚と現実の混同という事態から、否応なく生じるものでもある。

3  幻覚と現実の混同

多くの「妄想」は、起こっている「幻覚」を「現実」そのものと混同することから生じている。近代以降、「現実」とは「この世的」、「物質的」なものに一元化されて理解されたために、「幻覚」を、それとは別の「現実」と理解する余地がなくなった。すなわち、「幻覚」は、全くの「非現実」か、そうでなければ、「この世的」、「物質的」な「現実」そのものと混同されるしかなくなったのである。そして、多くの場合、実際の「幻覚」の「現実的」な性質に囚われて、後者となってしまう。「現実」の次元そのもので捉えられた「妄想」は、ますます周囲との葛藤や軋轢を強め、事態を悪化させる方向に働く。このような結果は、近代以降の新たなものの見方の反映であり、それが、「統合失調」を長期化させる大きな要因ともなっているのである。

こうみてくると、「統合失調の長期化」ということは、近代以降の社会システムと密接に関わることで、その根本的見直し抜きには、解消されることの期待できるものではないことが分かる。しかし、そのような流れは、現在、徐々にではあっても、確実に起こっていることではあるし、そのシステムの中で作り出された「統合失調症」の「虚構性」ということを、本当に理解するならば、前回述べたように、本来の「一過性の現象」を取り戻す方向に進むことは、可能のばずなのである。

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