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2015年5月21日 (木)

一過性の現象としての「統合失調」

久しぶりに、「統合失調」について述べる。「統合失調」については、本来、「一過性の現象であり得る」ということが、見失われてしまっていることが、大きな問題だと改めて思う。

一過性の現象で「あり得る」とはどういうことか。

『物語としての精神分裂病』(赤坂憲雄)もいうように、近代以前の伝統文化、特に未開社会では、「統合失調」は、一過性の錯乱現象としてしか知られていなかった。つまり、現に、一過性の現象で「あった」のである。

しかし、それは、共同体の全体が、この現象を自らのことのように受け止めて、受け継がれた伝統的な方法とシステムに則って、その解消に当たったからである。

たとえば、日本の江戸期であれば、記事『「分裂病」と「憑きもの」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-dc36.html)で詳しくみたように、憑きもの筋の者と憑かれる者という、独特の二分化された「憑き」の理解のもと、共同体全体として、そのような状態を解消するシステムをもっていたのである。

そのように、「集団的な癒し」の方法が、生きていたから、一過性の現象で治まっていたということである。

やはり、『物語としての精神分裂病』でもとりあげられているが、野田正彰著『狂気の起源をもとめて』(中公新書)は、パプアニューギニアのいくつかの地域での、精神的な病のあり様をレポートした貴重な記録である。かなり古いものだが、ちょうど、西洋文明との接触のほとんどない伝統文化そのものの地域の人々、西洋文明の影響を受けてかなり変容した地域の人々、その中間的な境界上の人々という、それぞれの相違が鮮明となる時代だったからこそ、それぞれの精神的な病のあり方の違いも、鮮明に浮かび上がっていて興味深いのである。

それによると、西洋文明との接触のほとんどない伝統文化そのものの地域の人々では、一過性の錯乱現象として以外に、「精神的な病」などというものはみられない。ところが、西洋文明の影響を受けてかなり変容した地域では、継続的に幻覚や妄想に捕えられたり、孤立し、荒廃した生を生きる、典型的な「精神的病」というものが生じている。そして、現に異文化と接しつつある、境界的な人々では、切迫した、急性的な分裂病的反応や、誇大妄想などの現象が、現に発生する現場をみることができるのである。

著者も、精神病というものは、もともとあったものではなく、西洋文明という異文化との接触による危機の反応として、起こるものと結論づけている。そして、それは、貨幣経済や個人主義などの、異質なシステムの導入により、伝統的な共同体のシステムが崩れ、切り離された個人と社会という関係の中においては、継続的なものへと追いやられることにもなる。

それは、より一般化して言えば、それまでは、一過性の錯乱現象でしかなかったものが、共同体による癒しのシステムを失ったがために、一過性のものでは終わらなくなった。そこに、社会としても、それを処理する必要に迫られ、精神病なる「概念」を作り出し、その者を抱え込む、精神病院なる「治療」のシステムも生み出されることになったということである。

しかし、共同体による、集団的癒しのシステムを失い、一過性の錯乱現象とは言えなくなったとしても、その現象の「実質」そのものが、全く変わってしまうわけではない。「精神病」も、その「治療システム」も、まずは何より、それを理解する方法を失い、対処する手立てを失ったことの、埋め合わせとして、その現象に被せられた、「概念」ないし「装置」でしかない。

その「実質」が変わっていない以上、それは、今でも、「一過性の現象」で「あり得る」のである。あるいは、「原則」と「例外」ということで言うなら、本来、「一過性の現象」であるのが、「原則」なのである。「一過性で終わらない」ことの方が、異常で例外的な事態だということである。

ところが、それを、『ブログの趣旨』でも触れたような、「一生または長い間」「治らない病気」とか、「同じく」「精神病院に入院しなければならない病気」とか、「同じく」「薬を飲み続けなければならない病気」などというのは、全く、転倒した、「虚構」のイメージというほかない。

そこには、理解と対処の手立てを失ったものに対する、多くの者の、恐怖と絶望が反映されている。とともに、そのような「危険」な者から、社会を防衛するための、「封じ込め」の発想が、込められている。さらに、そのような基盤に乗じて、支配層と製薬業界、医療機関の上層部が、莫大な利益を収奪し続けるシステムを構築したこと、さらには、被支配者層を薬漬けにして、弱体化を図るという戦略などが、積み重ねられた結果でもある。

そのようにして、恐怖と無理解ばかりが膨らまされ、本来の原則を、転倒させた、「真逆」の方向に突き進んでしまったのである。そのイメージは、今も、容易には変え難いものとして、塗り固められてしまっている。しかし、繰り返すが、「長い期間治療を要する」のが「原則」なのではなく、「一過性の現象」であるのが「原則」なのである。この、本来、「一過性の現象であり得る」ということを、見失わないで、抑えておくことが、とても重要である。

最近は、統合失調が「軽症化」したなどと言われるが、これは、社会の締め付けが、、多少とも緩くなったからで、もともと、「一過性の現象」であるのが「原則」なのだから、その場合そうなるのは、当然のことなのである。

また、記事『「狐に化かされる」こと/一時的な「幻覚」「妄想」状態』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8560.html)や『「統合失調症」という「アイデンティティ」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html)でも触れたように、特に思春期には、自我が大きく揺らいで不安定になり、その期間、幻覚や妄想を生じてしまうことも起こり得る。それは、確かに、「統合失調」そのもののような現象なのだが、しかし、その思春期の揺らぎが自然に治まるのに伴って、そのような現象も解消されてしまう可能性が高い。つまり、「一過性の現象」に終わるわけだが、それも、もともと、「一過性の現象」であるのが「原則」であれば、当然のことなのである。

一過性の現象に終わるものは、「統合失調ではない」のではなく、本来、「統合失調」も一過性のもので終わり得るのである。

とは言え、「統合失調」一般について、それを、本当に、「一過性の現象」に終わらせるというのは、やはり、一つの大きな問題である。現在の個人主義的な社会システムにおいて、もはや、伝統的な集団的治癒のシステムを復活させることは、無理に等しいことだろう。だとすれば、現在においては、かつての、集団的な理解や対処の方法に代わるものを、「個人」が何らかのし方で、身につけ、担う必要があることになる。

それは、容易いことではないし、ただ、抽象的な知識や観念として、身につければいいというものでもない。最低限の知識は当然のこととして、実際に、その状態を体験する過程を通して、具体的に学ばれ、身につけるしかないものである。そのためには、少なくとも一定期間、集中的に、その体験と向き合い、治癒のための施設に入るようなことも、必要になるだろう。つまり、社会の側の支援も、一定限度は必要になる。

私は、そのようなことが実現すれば、すぐさま、「一過性」で終わるとはいかないものの、3カ月から6カ月の期間があれば、まず、ほとんど回復することになる、と考えている。

その施設では、必要とあれば、体験者やカウンセラーなどの助言や援助も受けられる。薬については、私は、生命の危険がはっきりと認められるときに限って、しかも、一時的な処置であることを明示したうえで、最低限使うことは、認められてもいいと思う。それは、現在そのようなときに、普通に使われている、拘束や電気ショックに比べれば、マシであろうという消極的な理由からである。しかし、記事でも何度も述べているように、このような危険は、「統合失調」状態で起こっていることや、「幻覚」を、通常の「現実」そのものと混同することから生じているのがほとんどなので、それを解消することができれば、大幅に減少するはずなのである。

「統合失調」に対する恐れは、現在でも、このような「何をするか分からない」「危険」のイメージが多くを占めていて、その「危険」のイメージのために、長期の入院や服薬を押しつける面が大きい。だから、「一過性の現象」を取り戻すうえで、鍵になるのは、多くの者にとっては、このような「危険」のイメージの解消であり、本人自身からすれば、「幻覚」を「現実」そのものと混同することを、回避できることである。そして、そのこと自体は、「幻覚」について、ある程度予備知識を得たり、実際の経験の積み重ねによって、さほど難しいことでもないのである。

そのようにして、今後―具体的にいつかは分からないが―、かつての集団的な理解や対処の方法に代わるものを、「個人」がいわば、「探索的」「実験的」に身につけるような経験が、積み重ねられていく。そうすれば、「統合失調」の「実像」は、恐らく、かつての集団的な理解以上のものに、精度を高められたうえで、広く浸透していく。そのとき、「統合失調」は、かつての、「一過性の現象」というあり方を取り戻すというだけでなく、積極的な「イニシエーション」としての、さらなる意義を見出されることにもなるだろう。

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コメント

確かに若気の至りで若い時にははめを外したり滅茶苦茶なことを試したり思春期は有りがちです。血の気が多いし大体の若者はせいぜい高校大学将来何をやりたいか考えて無茶するものです

統合失調状態、を自認し、こちらに辿りつきました。(独りしゃべりが多い。耳が悪くなった、と思っていたら、どうも認知障害の可能性が高い→人の話を聞いている時、他の事に瞬間的に気になってしまい、結果、話をちゃんと聞けていないのです。)
統合失調症かどうかは、これから専門医を訪ねようと思っています。しかし、薬漬けの日々にも抵抗があります。
このような、「一時的な現象」との見解は私に力を与えてくれます。
成育歴等、いろいろありまして、現在いい年なのですが、思春期だと思っています(これ自体が妄想的かもしれませんが・・・)
よって、思春期の一過性の不適応状態、と都合よく考えることにして、少しずつ自分を位置づけていこうと思います。
このような、社会学?的考察は新鮮でした。ためになりました。ありがとうございました。

コメントありがとうございます。

あくまで、二つの記事につけられたコメントを読む限りでの、私の率直な感想ですが、「統合失調」という感じはいたしません。

「人の話を聞いているときに、思考がほかのことに飛んでしまって聞けなくなる」「独語が激しい」というところが、「統合失調」に近いと言えば、言えるし、他人や医師がそこを捉えて、「統合失調」だと思ってしまうことは十分あり得ます。それくらい、「統合失調」の判断やイメージというのは、一般にも、精神科医ですら、不確かで怪しいものなので、私は、診察を勧める気にはなりません。(たとえ、明らかに「統合失調」の可能性があると思っても、よほど信頼のおける医師でも見つからない限り、勧める気はありません。)

ただ、「人の話を聞いているときに、思考がほかのことに飛んでしまって聞けなくなる」ときに、その人が話していることと、「違うこと」が聞えてしまうようだと、それは「幻聴」ということになります。「統合失調」の人は、ここでその聞えている声が、本人が話していることと「違う」ことだというのが判断できず、本人自身の声だと思ってしまうため、自分が迫害されているなどの「妄想」を形成してしまうことが多いです。その聞えてくる、人が話していることと「違う」ことというのは、「批難」や「嘲笑」あるいは、もっと「暗示的でわけの分からないこと」だったりするので、妄想のもとになってしまうのです。

でも、そのようなことがあれば、たとえ自覚がなくても、何かしら気になって表現に現れてしまうものですが、そういうことも感じられないので、多分そういうこともないのでしょう。「独語」も同じで、何か「声」が聞えるために、それと対話するような感じで「しゃべって」しまう(他人からみれば、完全な「独語」)のが、「統合失調」の「独語」なのですが、あなたの場合は、やはりそのようには感じられません。

あと、特徴として感じるのは、({「思考」が追いつかないくらい)「感覚」が非常に鋭敏になっていることと、「ファンタジー」への傾向が強いことで、これからすると、「アスペルガー」かあるいは「解離」であるという可能性はあると思います。

「思考」が追いつかないくらいの「感覚」の洪水というのも、「統合失調」の場合は、もう「幻聴」や「幻覚」が激しく押し寄せていて、どうしようもなくそうなってしまうという感じです。あなたの場合、やはり、そのようなことは感じられず、日常の感覚そのものが、鋭敏になっているものと感じられます。これは、「アスペルガー」に特徴的なものですね。「ファンタジー」への傾向が強いのは、むしろ「解離」を感じさせますが、これらは「併存」し得るものですし、誰もがそれなりにもつ傾向でもありますね。このようなことは、「傾向」としてあっても、あまり「病気」として、気にしたり囚われたりする必要はないものと思います。

また、ご自分でも、いま「思春期的」な変化のときと感じられているようだし、それは、普段からこのようなことがあったわけではなく、最近の現象または最近強まって来た現象ということなのでしょうから、本当に「一時的な現象」として経過してしまう可能性も十分あると思います。

いずれにしても、私としては、しばらく「様子」をみると同時に、自分なりに「受け止め」たり、「対処」できるものは、可能な限りそうしていくということにするのかいいのではないかと思います。そのようなことに、私のブログの記事が役立つようであれば幸いです。

コメントありがとうございます。

確かに、「統合失調」とは違うのかもしれませんね。
最近、人の言ってることが特にわからなくなっております。耳鳴りもあり、聴覚機能自体が落ちている、ということもあるのですが、それにしても、話を上手く把握できないのです。
注意力が散漫なのか、論理を追いかけていけないのか(別に普通の話を聞いてるだけなのですが)
そこに不安があり、いろいろ探しているうちにこちらに辿りつきました。

幻聴については、たしかにティエム様のご指摘とは違うような気もします。
ただ、自己内対話、というのでしょうか、その中で突然、「自分を責めたり、人を責めたり」する言葉が出てきて
困惑する時もあります(人の話を聴いてるときなど)。
それで、「今のはなんだ」とそちらに囚われてしまうと、その後の話が聞けないのです。
(相手が言っているように聞こえる、というより、突然、その声が状況の中に入ってくる感じ、なんですよね。幻聴というか、自分から発せられる言語、という感じ。ただ、出所が相手なのか、自分なのか、それ以外の空間からなのか、というのは、もう少し観察が必要かもしれません)

私自身が別の問題(対人恐怖等)で、信頼できる精神科にかかっていた経験があります。
そちらでは、薬でどうこうする、という方針ではなく、グループワークに参加するよう促すクリニックなので
一定程度、製薬会社の片棒を担いでいる所とは違うスタンスなのでは、と信頼しております。
精神科受診とは、そこで、「統合失調状態」について聞いてみよう、と思っている程度です。
(改めて、統合失調の専門医にかかる、ということではないのです。ただこのクリニックは統合失調の方もみておられることを私自体が知っています。)

思春期時期に、「統合失調状態」になり、一時的な「統合失調"的"状態」に困惑している、という程度なら問題ないのですが、最近の、話の聴きずらさ、理解のできなさに、ちょっと圧倒されていて困っているので、何か一定程度の状況把握を求めているのかもしれません。

いずれにしても、ありがとうございました。

「別の問題」と言われていますが、前の「対人恐怖」のときにかかった医師は、「解離」ということは何も話していなかったですか。

今回、

「ただ、自己内対話、というのでしょうか、その中で突然、「自分を責めたり、人を責めたり」する言葉が出てきて困惑する時もあります」

という話を聞いて、これは「解離性幻聴」の可能性が高いと思いました。「対人恐怖」や「人の話を聞きずらい」というのも、「解離」と結びついている可能性はありますね。(前回言ったように、「アスペルガー」とも関わりますが)

「解離」は、幼少期の「トラウマ」と関係している場合が多いですし、それをほどくには特別の技術もいるので、もし医師にかかるとするならば、やはり信頼のおけるというだけでなく、相当の技量のある医師にかかることも必要になりますね。

もともとかかっていたという医師に相談するとするならば、「統合失調」ということを聞いたり、話されるよりも、まず、今の自分の状態を率直に話されて、アドバイスを伺うのがいいと思います。「決めつけ」をしない医師なら、「統合失調」ということには慎重になるはずだし、「解離」の可能性があるということを必ず言うはずだと思います。

ティエムさんの「解離性幻聴との相違」という項目も拝見させて頂き、自分なりに分析してみました。
解離性幻聴が、自分から切り離された人格の声、という所でなんとなく私のケースが納得できました。

おそらく、ティエムさんのおっしゃる解離性幻聴の定義に近いことしか、私には起こっていない気がします。
トラウマ的な条件からの自罰的・他罰的な声、が私の場合ほとんどだからです。
いわゆる統合失調的な、全く無関連な他者の声、ということは経験がありません。

なにかしら、プレッシャーのかかる状況で、不安に圧倒され、こういった声を聞く、ということが多いからです。

ただ、最近、ちょっとその頻度が多くなっていること、及び、一人でいる時、一人で考え事をしている時にも、そういう声に脅かされるので困っているといえば困っているのです。

おっしゃる通り、担当医には、統合失調ということは言わないで、症状をそのまま伝えてみようと思います。

私の通っているクリニックは、トラウマを抱えた治療で、有名な先生の所です(有名だからいいとは限らないのはわかっていますが)。技術うんぬんはわかりませんが、他の患者さんとのグループワークでのスタンスとか、非常に好感を持っています。本人が、ご自身をグル化しないよう配慮している所がかいま見える点、信用しています。
私にはとても合うクリニックだと思っていて、信頼しています。ラポールは大事ですから、そこで今の状況を聞いてみようと思っています。


いずれにしても、こちらのブログは為になります。ありがとうございます。

そうですね。そうされるのがよいと思います。

とりあえず、担当医が、「トラウマ治療」に通じている医師だというのは、幸いなことでしたね。(中には、「解離」のことなど何も分からない医師も多いと思うので)

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