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2015年4月 9日 (木)

「自閉」の3つの型と「原因」

ふなっしー型(妖精型)」=「先天(陽性)型」=自然な躍動、興奮の発露
江頭型(妖怪型)」=「後天(陰性)型」=反発、不満、うっ屈の表現
神経毒反応型(人為型)」=「環境撹乱型」=自然にでも、反発やうっ屈によってでもなく、人為的な神経毒の(蓄積)作用により、興奮状態、混乱状態にさらされるもの。

前回みたように、上記の3つの型は、「自閉」にも、基本的に当てはまるものといえる。

ただ、「ふなっしー型」の「自閉」というあり方は、「多動」の場合の、「自然な躍動、興奮の発露」というのとはかなり違っている。むしろ、人や環境によって、本来の自然な躍動や興奮が、抑えられたとき、「開く」というあり方を、拒ませられたときに、生じるものである

それにしても、そこには、「多動」の場合と通じる、先天的な性質が大きく反映している。本来の、制限されない、流動的な感覚世界を保持し、人や世界に対して、閉じられた「自我」という「防壁」をもっていない。ところが、それらは、大人を中心とする、多くの者の「共通」のあり方とは、異なっているから、それを押し付けられるときには、「自閉」という反応を、せざるを得ないことになる。

また、そのような者は、東田もドナも言っていたように、「魂」が「身体」に閉じ込められるというあり方に、強い違和感を抱えている(「妖精」的というのは、そのような面を捉えてのことでもある)。閉じられた「自我」をもちにくいのも、その影響だし、身体の中に、落ち着いて、長くいずらいという性質を抱えている。そこで、その「魂」の反応として、状況により、「身体から抜け出る」ようなときは、「自閉」という反応が生じ、「身体を駆け巡る」ようなときは、「多動」という反応が生じるのものといえる。

「江頭型」についても、「多動」の場合と異なり、「反発、不満、うっ屈の表現」という「積極的」な意味合いは、認め難い。むしろ、それらの表現すら抑えられ、封じられているのが、「自閉」のあり方といえる。あるいは、ごく幼少のころは、「多動」だったのが、年を重ねるにつれて、その表現すら諦められて、「自閉」にいたるということもあるだろう。

そのように、先天的性質をもっている者が、この社会で、不適応状態を起こしやすく、「自閉」を生じやすいということは、みえやすい。しかし、特に先天的性質があるわけではなくても、後天的な様々な影響により、「自閉」にいたるということも、多いはずである。その中でも、前回も述べた、「虐待」の影響は、見逃せない

たとえば、杉山登志郎著『発達障害のいま』という本でも、虐待の影響ということを、多くとりあげている。もともと、「障害」の傾向があることが、虐待の誘発因子になるという面を強調しているが、これらは、まさに鶏と卵のような関係で、どちらが先とも言い難い、相乗効果をもたらす。いずれにしても、幼児期における、ネグレクトを含む虐待が、「自閉」という反応をもたらすことは、みえやすい。

かつては、発達障害は、親の育て方の問題といわれたことの反動として、先天性の脳の機能障害とされていた。しかし、「虐待」の影響が、脳に見える形での、障害をもたらすことが、最近の研究では分かっている。私は、当たり前のことと思うのだが、脳に何らかの障害が見つかることが、「先天性」という理由にはなるものではなく、後天的な様々な影響により、生じて何ら不思議はない。次に述べる、神経毒の作用などもその例だが、「物質的」な影響に限らず、「社会心理的」な影響も多くあるはずである。

ただし、「自閉」については、「虐待」ということには、普通と違った視点も必要になるはずである。特に、乳幼児や胎児などの場合、普通には、「虐待」と解されないようなことも、「自閉」に大きく影響する可能性がある。これらの時期に、本来必要なことを、単に親が個人的にというのではなく、社会的になしていないとすれば、それは社会的な「虐待」とも言い得るのである。

さらに、これも「虐待」と言えるものではないかもしれないが、グレゴリー・ベイトソンが統合失調をもたらす要因として重視した、「ダブルバインド状況」は、「自閉」に関しても、かなり当てはまることと思う。いずれ、もっと詳しくみるが、コミュニケーションにおいて、文字通りの意味以外の意味の理解が苦手なのは、「ダブルバインド状況」に多くされされた結果、そのような言外の意味への注目を「禁止」されている面もあるからである。

最後に、「神経毒反応型」について。これについては、神経毒や向精神作用をもたらす物質の作用のし方により、「多動」(興奮型)や「自閉」(沈静型)という違った現れが生じるのも、不思議ではない。前回、「多動」について述べたことは、ほとんどそのまま、「自閉」にも当てはまると思われる。最近は、いくらか、このような視点からの研究も、進められているようで(たとえば http://www.med.nagoya-cu.ac.jp/ecoaichi/english/pages/specials_kind_01/#top)、ネット上にも、こういった研究論文(http://www.actbeyondtrust.org/wp-content/uploads/2012/02/Kagaku_201306_Kimura_Kuroda.pdf )がある。

個別の物質の効果だけではなく、蓄積による効果、「エピジェネティック」な遺伝効果なども作用するので、簡単に判明することではないだろうが、こういう研究が進められることは、望ましいことである。さらに、前回も言った、電磁波や音などの、環境効果への着目も重要である。

特に、やはり、私の世代頃から、普通になり出した、産院での出産は、さまざまな機械化、合理化が施されていて、そこには、「自閉」をもたらす環境要因が多く含まれる可能性がある。また、出生時に、必要な、人間的処置がなされないという意味で、「江頭型」で述べた「虐待」に通じる要素も、多くもたらすことが考えられる。

今回は、ざっと概要をみただけだが、このように、「自閉」についても、3つ型の捉え方は、基本的に当てはまるといえる。ただ、前回言ったように、これらは、モデル的なものなので、他の型というのもあり得るし、それぞれが、重なるように影響し合うことも、もちろんある。

こうみてくると、「自閉」の「原因」ということで言うならば、「自閉」についても、結局は、「自閉」になりやすい、先天的な性質というものか基礎にあり、それに、物質的、社会心理的な、さまざまな後天的影響が加わり、生じているというほかないことになる。多様な「原因」が重なり合って生じているので、一つの「原因」などは、取り出すことができないのである。統合失調についても、記事「狂気(統合失調症)の「原因」」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html)で、「原因」というべきものを、まとめてみたが、基本的に、その場合と同じである。

しかし、そればかりか、そもそも、ある人物がある性格や個性を備える「原因」は、何かと問うた場合、それを説明するのも、結局は、そのような性格になりやすい、先天的な性質というものが基礎にあり、それに、物質的、社会心理的な、さまざまな後天的影響が加わり、そうなったというほかないのである。

つまり、このことは、精神的な「障害」と言われるものに、「原因」を問題とすることは、本来「無意味」であることを示している。それは、誰にもある、「個性」や「性格」について問題とするのと、何ら違わないものである。ただ、それについて、あえて、「原因」を問題にしようとするのは、まさに、それを「問題視」して、それを、変えなければならない、「マイナス」のものという見方をするからである。

「自閉」をもたらしやすい、先天的性質とは、決して「マイナス」のものと言えないことは、これまでにも何度もみて来たし、それどころか、我々が「失った」ものとして、取り戻すべきものを指し示してもいる(ドナの例などを参照しながら、今後もこれについては、述べていく)。

「自閉」について、このような視点がない限り、「原因」を問題とすることは、単に、「自閉」を全体として、「マイナス」のものとみ、「厄介払い」しようとすることの現れでしかない

しかし、「自閉」について、何らかの「対処」や「防衛」ということの必要も認める限り、その範囲で、「原因」と目されるものをあぶり出すことも、必要ではあるだろう。その場合、「原因」とは、それを認めることで、対処の可能性のあること、あるいは、その影響を減らすことのできることでなければ意味がない(「統合失調」の場合に、「外的要因」を強調するのも、この意味からである)。「先天的な性質」などというのは、初めから、この意味の「原因」とはなり得ないのである。

そこで、「自閉」について、あえて「原因」ということを言うならば、「江頭型」の、特に「虐待」、それに「神経毒反応型」の「原因物質」や「環境」ということが、特にあげられることになる。それらは、確かに、「自閉」というマイナスの影響をもたらす、対処可能な、あるいは、社会的に問題とし、減らすことの可能な「要因」だからである。さらには、特に、最近において、明らかに増えているという「異常現象」の「要因」として、見逃せないものでもあるからである。

私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
「総まとめ(旧「闇を超えて」より)」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)

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コメント

ティエム様

今回の記事もまた、文章にし難い「たゆとうような」内容を含みながら、神経毒、出産時の影響と、多岐に渡る考察を頂いております。

「発達障害」「発達傷害」、どちらの呼び方もあるのですね。

これは意図をもって造られた虚語であることは言うまでもありません。

「ある人物がある性格や個性を備える原因は何かと問うた場合……そうなった、としか言いようがないのである。」の文から、或る名勝地で見た、石榴(ざくろ)の木を思い出しました。台風の直撃で、小さな登り口をふさぐようにうち倒れてしまった石榴の木です。

根が残ったため枯れ死は免れましたが、とくに由来もない一本の小木、間もなく撤去されるものと思われました。

しかし石榴は伐られず、訪れる人々は道を少し迂回して行き来するようになりました。

あれから二十年余り、石榴の木は捻れるようにそこにいて、幹に幾つもの裂目をたえながら、風に身を枯らしながら、枝を伸ばし若葉をなびかせています。石段を敷くように影をおき、一枚の絵のように。

遠足姿の幼稚園児たちが、しゃべったりぼーっと居たりして、木を眺めていました。会話しているように見えました。石榴は子供たちに何と話したのでしょうか。

これが毎日、機械や画像やアスファルトを眺めるだけなら、子供たちはまた違った人間になっていくのかもしれません。

伐らなかった大人もいれば、無情に伐る大人もいるということを、社会で彼らは見るでしょう。これは木だけではなく、人間も含めてのはなしです。

すいません。「発達傷害」は変換の誤りに気づかなかったものです。多分?、そんな言い方は、ないと思います。訂正しておきます。

でも、(「先天型」は除きますが)いっそのこと、発達過程の「障害」なのではなく、虐待や毒、環境により「傷害」されているのだということで、「発達傷害」にしてしまいましょうか(笑)。

私も、たまにですが、明らかに「伐れなかったのだな」と思う、不自然な仕方で残っている、木に出会うことがあります。木の醸し出す威容に押されてそうなるのか、ある種の直感がそうさせるのか、まあ、日本人も捨てたものではないと思いときがあります。

一方、記事にも書いたのですが、「捕食者」が、かつて神木のような木に宿っていたらしき、蛇姿の精霊になり変わって、「なんでオレの木伐った!」と、脅すように迫られたことがあります。

神木のごとき木にしても、伐られた木は、果てしなく多かったということですね。

ありゃりゃ誤変換でしたか
Ψ( ̄∇ ̄)Ψ

しかし、ティエム様、只の誤変換ではないように感じ、少し驚いております。主題からそれて恐縮ですが書いてみます。

ティエム様からのご返信の冒頭文が、不思議にこの頃の私の意識と、共鳴しシンクロしているような内容でありました。

ここ数年私は「発△障△、この世間に膾炙されている“魔語”を、一体どうしたものか」と思案し続けておりました。(ティエム様は「魔女狩り」と的確に表現なさいましたね)

最近になって、ふっと「発達障害の定義自体を、まるごと代えるなら?」と思いつきました。
ティエム様が記されたお言葉と、同義ですf(^_^;

「発達障害」の正しい定義ーーーそれはーーー「人間、とくに幼少期〜青年期の成長発達を『障害、傷害、阻害、危害、妨害、している人間関係、並びに周辺環境を指す」

…大学生の息子に対する母親の過保護と過干渉は、明らかに発達(に対し)障害となっている。

…教師は、ときに自らの種々の未熟さが生徒に対して「発達障害行為」となる可能性を認め、常に自省と研鑽を積むべき存在である。…等

紙面が足りなくなりますね(笑)あちこちで提案してみます。

「病名や概念に疑問を感じている」日本中に少なからずそのような「意識」が発生しているから、いまこの場所でシンクロが起きたような気もしております。

いつの間にか、こちら激しい雨です。コメント本題を書けなくてすみません。では又後ほど

そうですね。私も、(意識レベルでは意図しない)「誤変換」てはあったものの、そこには無意識的、あるいは集合意識的な、何らかの「意味」(メッセージ性)があったのかと、後で思ったりしました。こういう「誤り」であったり、何の気ない一言だったり、あるいは、録音した音声を逆再生した言葉にも現れるなどとも言われていますが、何らかの「共時性」的な「意味」が現れるということは、よくあることだと思います。(あまり、それに囚われるのも、統合失調的な「妄想」と紙一重になり、注意が必要ですが)

「「発達障害」の正しい定義ーーーそれはーーー「人間、とくに幼少期?青年期の成長発達を『障害、傷害、阻害、危害、妨害、している人間関係、並びに周辺環境を指す」」

私も、最も広くとるなら、そのようにとるべきだと思います。

「発達障害」という言い方は、確かに、かつて、すべてを親の育て方の問題にする流れがあったことの「反動」という面はあるにしても、「障害」というマイナスの見方そのものは固定しつつ、すべてをその本人の(主に脳の)「先天性」の問題に帰して、周りの誰もが責任を負わないで済むようにすること。さらに悪いことに、その問題をすべて精神医療による治療の問題に帰して(「医療化」)、精神薬その他の物質的処理方法で強引に片づけてしまおうとすること、などの方策と結びついていると思います。要するに、「スケープゴート」であり「魔女狩り」なわけですね。(結局は、「統合失調」や「うつ」とも同じことなのですが)。

私としては、「マイナスの見方を固定する」というところに、まず大きな「イデオロギー性」を感じますので、主に「自閉」にみる、マイナスとは言えない側面に十分注目したいと考えています。が、同時に、確かに、マイナスの側面というか、問題のある側面は、それとして、「原因」や対処の方法を探っていくことは当然で、そちらも、疎かにはしたくないと思っています。

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