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2015年4月18日 (土)

『自閉症という体験』

「悟性は感覚システムへの鍵は保持していません。しかしそのシステムを閉め出してしまう鍵はたくさん持っているのです。」

「悟性を越え、解釈を越え、見かけを超えて感覚する能力なしには、他者はすべてはかなく崩れ去る建造物であり、そこには実体も永続性も一切ありません。」

「解釈なしの世界では、私たちはより動物のようになるでしょう。けれども感覚の欠落した世界では、私たちは徐々に、よほど動物以下になってゆくのです。」

記事「「自閉」の感覚世界/他の表現例」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-3f2a.html)の(※)で、触れたように、ドナ・ウィリアムズ著『自閉症という体験』(誠信書房)は、驚くべき本で、『自閉症だったわたしへ』よりはるかに深く、根源的に、「自閉」の本質を、内から掘り起こし、語り尽くしている。

私は、「統合失調」においては、その体験者が、内部から、本質的に語り尽くしたというものに出会ったことはない。しかし、「自閉」においては、ドナのこの本において、そういうものに出会ったということができる。即ち、「自閉」の本質については、この本を本当に理解することができるなら、それ以上に必要なものは何もないということができる。ドナは、自閉の世界を体験的に語り明かした先駆者のはずだが、そのドナにおいて、既にここまで、本質が語り尽くされていたというのは、改めて驚きである。

『自閉症だったわたしへ』は、あくまでドナの自伝であり、恐らく、最初の書き物だったこともあるのだろう。世間の一般的な見方、即ち、この本によれば、「解釈システム」に対して、相当「迎合」しつつ書いているところがある。それゆえ、読みやすく、理解しやすいものにはなっているが、「自閉」の本質という点については、甚だ曖昧であり、「解釈システム」に対抗するものとして、力強く提示することもできていない。

ところが、この本では、「自閉の本質」にとっては、欠かすことのできない「感覚システム」について、余すところなく説き起こし、また、「解釈システム」を凌駕する、本来的な「知」として、少しの妥協もなく、提示することができている。

もちろん、「解釈システム」の意義も認めており、ドナもそれを一応とも身につけたからこそ、このような本が書けているのではある。しかし、それは、ドナが現にそうであるように、あくまで、「感覚システム」に従属すべきものとされている。ところが、一般においては、「感覚システム」はもはや失われ、悟性による「解釈システム」があるだけである。その「悟性」による「解釈システム」こそが、「正常な発達」の徴とみなされているのである。

だから、この本は、「自閉」を「病気」としてマイナスのものとみる者にとっては、それを「逆転」させた、「反逆」以外の何ものでもないであろう。

(冒頭の引用は、これらのことを端的に示す文章をあげたので、もう一度読み直してほしい。)

このことを理解する鍵は、私も何度も述べて来たように、一般における、通常の知覚は、本来の感覚そのものではなく、「制限」されたものであることを理解することである。ドナも、悟性の「解釈システム」は、感覚を「詐称する」と言うが、要するに、通常の感覚は、それ自体が、既に「解釈システム」に汚染され、意味づけられたものである、ということである。通常の「知覚世界」を、本来の感覚と思っている限り、本来の感覚世界は閉め出され、「自閉」の世界は、そこから逸脱した、「異常」な世界でしかあり得ない

このことは、「感情」といわれるものについても言えることである。通常は、その「解釈システム」によって、汚染された「感覚」に基づく「感情」を、「感情」と呼んでいる。しかし、それはドナも言うように、「紛いものの感情」である。そして、その意味での「感情」を共有しない者、それに共感できない者を、「自閉症」などと呼んでいるのである。しかし、「自閉症」は、「感情」に共感できないのではなく、より原初的な、「感覚システム」に基づく「感情」の方に住んでいるため、その「人間的」な、「紛いものの感情」には、共感できないのである

この「感覚システム」的な「感情」に基づく「共感」は、もはや、「分離」を前提とする、単なる「共感」ではなく、「エネルギー」(通常は「魂」と解してよい)レベルでの、「一体化」または「融合」に基づく、「共振」とされる。『自閉症だったわたしへ』では、さらりと触れられてしかいなかった、この「一体化」と「共振」ということが、どのようなものなのか、この本では、具体的に明らかにされている。

この「一体化」に基づく「共振」は、「生命あるもの」だけでなく、「物」に対しても起こる(「物」もまた、ある種の「感情」をもっていることになる)、というよりも、むしろ、人間などよりも、「物」に対してこそ、起こりやすいものでもある。一般に、自閉の者が、人間よりも、「物」の世界に興味をひかれるのは、このようなことに基づいているといえる。

さらに、この「共振」は、悟性による「解釈システム」とは違った意味で、むしろ、より本質的な、「知」をもたらすものでもある。一例として、「縁の感覚」というものがあり、生物や物のエネルギー的な境界の「縁」(「一種の「オーラ」のようなものだろう)を感覚することによって、そのものの「みかけ」に関わらない、より本質的な「性質」を知ることができるという。

このように、「感覚システム」は、単に、「物質的」なものだけでなく、「霊的」といわれるものにも関わる、感覚を含んでいる。しかし、ドナも、「心霊能力」という言い方は相応しくないと言うように、「物質的」と「霊的」というのもまた、「解釈システム」による区分けに過ぎず、「感覚システム」というのは、実際には、その区分け以前の、「ありのまま」の感覚であるに過ぎないのである。それは、本来、誰もが幼少の頃には、内に持ち合わせていたのであるが、「解釈システム」へと移行する過程で、失ったものということなのである。

また、この解釈以前の「感覚システム」は、ドンファンの指導を受けながら、カスタネダが体験し、記述した世界とも非常に似通っている。『跳びはねる思考』の解説者も、東田の記述する世界が、カスタネダの世界と類似することに触れていた。それは、近代人として、集合的、文化的に、失った感覚でもあるわけである。

こうみてきて分かるように、「自閉の者」と「通常の者」との「齟齬」とは、要するに、この「感覚システム」に住んでいるか、それを失って、「解釈システム」に住んでいるかの違いによっているのである

ただ、ドナも述べているように、「発達の遅れ」その他の理由により、この「感覚システム」を保持する度合いが高い者も、「解釈システム」への移行に際して、その侵襲を受け、「感覚システム」も「解釈システム」も、「中途半端」な形で混在することになる者が多い。だから、「自閉」と言っても、このように、「感覚システム」が十分完成された上に、「解釈システム」を身につける、などということにはならないのが普通である。

つまり、「自閉」の者が、「適応」上、問題を抱え込まざるを得ないことは確かであり、必ずしも、ここに述べられたような「感覚システム」を、保持しているわけでもない。そして、それを純粋になし遂げたかにみえる、ドナ自身も、恐らく、この「感覚システム」については、自分の内から、多分に、(純粋な形に)「理念化」して取り出したところがあるのたと思う。

いずれにしても、「解釈システム」一方に偏り、「感覚システム」を失った現代の多くの者は、その「感覚システム」を取り戻し、「解釈システム」と均衡をもたらさなければならないことを、ドナは訴えかけているのである。

先に、自閉の本質については、「この本を本当に理解することができるなら、それ以上に必要なものは何もない」と言った。但し、いくつかの評なども言うように、この本の内容は、「感覚システム」の世界の体験がない者にとっては、理解し難いものであろうし、「詩的」などと言われるが、「感覚システム」の知を反映した、独特の文体で、決して、読みやすい文章でもない。

そこで、その内容を、ほとんど手に取るように理解し、納得するが、ドナよりは、「解釈システム」に「毒」されている度合いの強い私は、かえって、それを一般に分かりやく説明する、かけ橋になれると思う。

今回この本について述べたことは、ほんの要点に過ぎないので、今後、「自閉」について述べる際に、ドナのこの本の記述にもなるべく触れながら、その説明を取り込んでいくようにしたい。

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コメント

いつも良い刺激をいただき感謝しております。
「感覚システム」と「解釈システム」は本当に興味深いです。私は常々「感覚システム」の大事さを思ってきたように思います。現代は「解釈システム」全盛の時代だと思います。「感覚システム」による体験など曖昧で、主観的で、社会的価値などないかのように思われているように思います。
でも「解釈」しているかぎり、それは過去に基づいて現在を把握しようとしているだけで、今生きている生命には届かないように思います。またその解釈には、どこか権力志向がまぎれこみやすいような気がします。しかし未来は過去に依存するのではなく、一瞬一瞬ゼロから生み出されるもの、なのではないでしょうか。
私が医学が好きになれないのは、その第一歩として「見立て」という判断、解釈があるからです。困難にある人に対して、見立てることなく関わることはできないのでしょうか。そのヒントが「感覚システム」にあるように思います。
ドナ・ウィリアムズさんの本を是非読んでみたいと思います。

コメントありがとうございます。

「「解釈」しているかぎり、それは過去に基づいて現在を把握しようとしているだけで、今生きている生命には届かないように思います。またその解釈には、どこか権力志向がまぎれこみやすいような気がします」

そのとおりですね。「解釈」は常に、基準となる範例を過去から現在に持ち込んで成り立っているものですからね。

医学の「見たて」も、「病気」という「解釈」や「判断」の基準を、現在の目の前の人に、持ち込んでくることで成り立っているものといえます。そこには、それを固定化し、普遍化しようとする、「権力」の発想が明らかに紛れ込んでいます。

ドナの本是非読んでみて下さい。「感覚システム」の見事な「大逆転」に、きっと驚かれると思います。

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