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2015年4月

2015年4月28日 (火)

「発達障害と社会」の図

「統合失調」については、社会全体との関係を分かりやすく図にしていた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-5717.html、なお、端的に「統合失調状況」そのものを示した図はこちら http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-f18a.html)ので、「発達障害」といわれるものについても、社会全体との関係を図にしてみた。

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精神医学に限らず、医学というのも、(もちろん他のあらゆる学問も)この社会の全体構造の中に組み込まれてあるので、社会との関係抜きに、「病気」というものを考えることは、無意味である。ましてや、精神医学は、単に社会の全体構造に組み込まれているだけでなく、この社会を、逸脱する者から守り、裏から支える重要な役目を果たしている。(記事「精神科に「やりたい放題」にさせた「システム」   http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html 、 「精神医学」と「オカルト」的なもの  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html 参照)いわば、「社会の番人」である。

それ故、社会との関係という視点は、むしろ不可欠のものである社会との関係という視点こそ、「すべて」といえるものである

図そのものは、これまで述べて来たことからも、明白なので、説明はほとんど不要であろう。

「発達障害」といわれる枠組みが、この社会への「適応」、というより、むしろ「隷属」ということを指標に、立てられた発達の基準から、「逸脱」する者に与えられる。ただし、この「逸脱」は、「統合失調」を代表とする「病気」の場合ほどのものではなく、いわば「病気」との中間段階を、さまようものである。

そのさまよう行き先は、いろいろある。社会の側は、それらの者を、まず「定型発達」へと「取り込も」うとし、「支援」という名の、聞こえのいい、抱え込みの試みをする。しかし、それでも、功を奏しない者、乗らない者は、「不適応者」として、「病気」の方へと、押しやられる(つまり、病院にまわされる)可能性が高い。(図の右側の「病気」というのは、まさに、最初にリンクした「統合失調」の場合の図の「病気」と重なるものである。)

このような「取り込み」や「不適応」のほかにも、うまくいけば、その方向性のまま、社会の中で、才能を発揮しつつ成功したり、社会の中というよりも、その周辺辺りで、独自の生き方を貫いたりする場合もあるだろう。そのような場合こそ、望ましいことだが、それには、社会の側の、「支援」というより、最低限の「理解」は、必要になることも多いであろう。

しかし、そのようなことは、なかなか期待し得ない。むしろ、「発達障害」とされる者が、「定型発達」なるものが、必ずしも優れたものでも、望ましいものでもないことを、自らの生き方で「証明」し、社会に何らかのインパクトを与えるぐらいでないと、そのような「理解」も得られ難い。また、そのような、いい意味での「理解」が得られれば、自然と、押し付け的でない、「支援」のようなことも、ついて来ることになるはずである。

そのように、現在のところ、「発達障害」とされる者は、「狭い道」を苦労して進みつつ、社会に何らかのインパクトを与えて、変革的な方向づけを与える役割を、果たして行くしかないのだろう。

2015年4月18日 (土)

『自閉症という体験』

「悟性は感覚システムへの鍵は保持していません。しかしそのシステムを閉め出してしまう鍵はたくさん持っているのです。」

「悟性を越え、解釈を越え、見かけを超えて感覚する能力なしには、他者はすべてはかなく崩れ去る建造物であり、そこには実体も永続性も一切ありません。」

「解釈なしの世界では、私たちはより動物のようになるでしょう。けれども感覚の欠落した世界では、私たちは徐々に、よほど動物以下になってゆくのです。」

記事「「自閉」の感覚世界/他の表現例」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-3f2a.html)の(※)で、触れたように、ドナ・ウィリアムズ著『自閉症という体験』(誠信書房)は、驚くべき本で、『自閉症だったわたしへ』よりはるかに深く、根源的に、「自閉」の本質を、内から掘り起こし、語り尽くしている。

私は、「統合失調」においては、その体験者が、内部から、本質的に語り尽くしたというものに出会ったことはない。しかし、「自閉」においては、ドナのこの本において、そういうものに出会ったということができる。即ち、「自閉」の本質については、この本を本当に理解することができるなら、それ以上に必要なものは何もないということができる。ドナは、自閉の世界を体験的に語り明かした先駆者のはずだが、そのドナにおいて、既にここまで、本質が語り尽くされていたというのは、改めて驚きである。

『自閉症だったわたしへ』は、あくまでドナの自伝であり、恐らく、最初の書き物だったこともあるのだろう。世間の一般的な見方、即ち、この本によれば、「解釈システム」に対して、相当「迎合」しつつ書いているところがある。それゆえ、読みやすく、理解しやすいものにはなっているが、「自閉」の本質という点については、甚だ曖昧であり、「解釈システム」に対抗するものとして、力強く提示することもできていない。

ところが、この本では、「自閉の本質」にとっては、欠かすことのできない「感覚システム」について、余すところなく説き起こし、また、「解釈システム」を凌駕する、本来的な「知」として、少しの妥協もなく、提示することができている。

もちろん、「解釈システム」の意義も認めており、ドナもそれを一応とも身につけたからこそ、このような本が書けているのではある。しかし、それは、ドナが現にそうであるように、あくまで、「感覚システム」に従属すべきものとされている。ところが、一般においては、「感覚システム」はもはや失われ、悟性による「解釈システム」があるだけである。その「悟性」による「解釈システム」こそが、「正常な発達」の徴とみなされているのである。

だから、この本は、「自閉」を「病気」としてマイナスのものとみる者にとっては、それを「逆転」させた、「反逆」以外の何ものでもないであろう。

(冒頭の引用は、これらのことを端的に示す文章をあげたので、もう一度読み直してほしい。)

このことを理解する鍵は、私も何度も述べて来たように、一般における、通常の知覚は、本来の感覚そのものではなく、「制限」されたものであることを理解することである。ドナも、悟性の「解釈システム」は、感覚を「詐称する」と言うが、要するに、通常の感覚は、それ自体が、既に「解釈システム」に汚染され、意味づけられたものである、ということである。通常の「知覚世界」を、本来の感覚と思っている限り、本来の感覚世界は閉め出され、「自閉」の世界は、そこから逸脱した、「異常」な世界でしかあり得ない

このことは、「感情」といわれるものについても言えることである。通常は、その「解釈システム」によって、汚染された「感覚」に基づく「感情」を、「感情」と呼んでいる。しかし、それはドナも言うように、「紛いものの感情」である。そして、その意味での「感情」を共有しない者、それに共感できない者を、「自閉症」などと呼んでいるのである。しかし、「自閉症」は、「感情」に共感できないのではなく、より原初的な、「感覚システム」に基づく「感情」の方に住んでいるため、その「人間的」な、「紛いものの感情」には、共感できないのである

この「感覚システム」的な「感情」に基づく「共感」は、もはや、「分離」を前提とする、単なる「共感」ではなく、「エネルギー」(通常は「魂」と解してよい)レベルでの、「一体化」または「融合」に基づく、「共振」とされる。『自閉症だったわたしへ』では、さらりと触れられてしかいなかった、この「一体化」と「共振」ということが、どのようなものなのか、この本では、具体的に明らかにされている。

この「一体化」に基づく「共振」は、「生命あるもの」だけでなく、「物」に対しても起こる(「物」もまた、ある種の「感情」をもっていることになる)、というよりも、むしろ、人間などよりも、「物」に対してこそ、起こりやすいものでもある。一般に、自閉の者が、人間よりも、「物」の世界に興味をひかれるのは、このようなことに基づいているといえる。

さらに、この「共振」は、悟性による「解釈システム」とは違った意味で、むしろ、より本質的な、「知」をもたらすものでもある。一例として、「縁の感覚」というものがあり、生物や物のエネルギー的な境界の「縁」(「一種の「オーラ」のようなものだろう)を感覚することによって、そのものの「みかけ」に関わらない、より本質的な「性質」を知ることができるという。

このように、「感覚システム」は、単に、「物質的」なものだけでなく、「霊的」といわれるものにも関わる、感覚を含んでいる。しかし、ドナも、「心霊能力」という言い方は相応しくないと言うように、「物質的」と「霊的」というのもまた、「解釈システム」による区分けに過ぎず、「感覚システム」というのは、実際には、その区分け以前の、「ありのまま」の感覚であるに過ぎないのである。それは、本来、誰もが幼少の頃には、内に持ち合わせていたのであるが、「解釈システム」へと移行する過程で、失ったものということなのである。

また、この解釈以前の「感覚システム」は、ドンファンの指導を受けながら、カスタネダが体験し、記述した世界とも非常に似通っている。『跳びはねる思考』の解説者も、東田の記述する世界が、カスタネダの世界と類似することに触れていた。それは、近代人として、集合的、文化的に、失った感覚でもあるわけである。

こうみてきて分かるように、「自閉の者」と「通常の者」との「齟齬」とは、要するに、この「感覚システム」に住んでいるか、それを失って、「解釈システム」に住んでいるかの違いによっているのである

ただ、ドナも述べているように、「発達の遅れ」その他の理由により、この「感覚システム」を保持する度合いが高い者も、「解釈システム」への移行に際して、その侵襲を受け、「感覚システム」も「解釈システム」も、「中途半端」な形で混在することになる者が多い。だから、「自閉」と言っても、このように、「感覚システム」が十分完成された上に、「解釈システム」を身につける、などということにはならないのが普通である。

つまり、「自閉」の者が、「適応」上、問題を抱え込まざるを得ないことは確かであり、必ずしも、ここに述べられたような「感覚システム」を、保持しているわけでもない。そして、それを純粋になし遂げたかにみえる、ドナ自身も、恐らく、この「感覚システム」については、自分の内から、多分に、(純粋な形に)「理念化」して取り出したところがあるのたと思う。

いずれにしても、「解釈システム」一方に偏り、「感覚システム」を失った現代の多くの者は、その「感覚システム」を取り戻し、「解釈システム」と均衡をもたらさなければならないことを、ドナは訴えかけているのである。

先に、自閉の本質については、「この本を本当に理解することができるなら、それ以上に必要なものは何もない」と言った。但し、いくつかの評なども言うように、この本の内容は、「感覚システム」の世界の体験がない者にとっては、理解し難いものであろうし、「詩的」などと言われるが、「感覚システム」の知を反映した、独特の文体で、決して、読みやすい文章でもない。

そこで、その内容を、ほとんど手に取るように理解し、納得するが、ドナよりは、「解釈システム」に「毒」されている度合いの強い私は、かえって、それを一般に分かりやく説明する、かけ橋になれると思う。

今回この本について述べたことは、ほんの要点に過ぎないので、今後、「自閉」について述べる際に、ドナのこの本の記述にもなるべく触れながら、その説明を取り込んでいくようにしたい。

2015年4月 9日 (木)

「自閉」の3つの型と「原因」

ふなっしー型(妖精型)」=「先天(陽性)型」=自然な躍動、興奮の発露
江頭型(妖怪型)」=「後天(陰性)型」=反発、不満、うっ屈の表現
神経毒反応型(人為型)」=「環境撹乱型」=自然にでも、反発やうっ屈によってでもなく、人為的な神経毒の(蓄積)作用により、興奮状態、混乱状態にさらされるもの。

前回みたように、上記の3つの型は、「自閉」にも、基本的に当てはまるものといえる。

ただ、「ふなっしー型」の「自閉」というあり方は、「多動」の場合の、「自然な躍動、興奮の発露」というのとはかなり違っている。むしろ、人や環境によって、本来の自然な躍動や興奮が、抑えられたとき、「開く」というあり方を、拒ませられたときに、生じるものである

それにしても、そこには、「多動」の場合と通じる、先天的な性質が大きく反映している。本来の、制限されない、流動的な感覚世界を保持し、人や世界に対して、閉じられた「自我」という「防壁」をもっていない。ところが、それらは、大人を中心とする、多くの者の「共通」のあり方とは、異なっているから、それを押し付けられるときには、「自閉」という反応を、せざるを得ないことになる。

また、そのような者は、東田もドナも言っていたように、「魂」が「身体」に閉じ込められるというあり方に、強い違和感を抱えている(「妖精」的というのは、そのような面を捉えてのことでもある)。閉じられた「自我」をもちにくいのも、その影響だし、身体の中に、落ち着いて、長くいずらいという性質を抱えている。そこで、その「魂」の反応として、状況により、「身体から抜け出る」ようなときは、「自閉」という反応が生じ、「身体を駆け巡る」ようなときは、「多動」という反応が生じるのものといえる。

「江頭型」についても、「多動」の場合と異なり、「反発、不満、うっ屈の表現」という「積極的」な意味合いは、認め難い。むしろ、それらの表現すら抑えられ、封じられているのが、「自閉」のあり方といえる。あるいは、ごく幼少のころは、「多動」だったのが、年を重ねるにつれて、その表現すら諦められて、「自閉」にいたるということもあるだろう。

そのように、先天的性質をもっている者が、この社会で、不適応状態を起こしやすく、「自閉」を生じやすいということは、みえやすい。しかし、特に先天的性質があるわけではなくても、後天的な様々な影響により、「自閉」にいたるということも、多いはずである。その中でも、前回も述べた、「虐待」の影響は、見逃せない

たとえば、杉山登志郎著『発達障害のいま』という本でも、虐待の影響ということを、多くとりあげている。もともと、「障害」の傾向があることが、虐待の誘発因子になるという面を強調しているが、これらは、まさに鶏と卵のような関係で、どちらが先とも言い難い、相乗効果をもたらす。いずれにしても、幼児期における、ネグレクトを含む虐待が、「自閉」という反応をもたらすことは、みえやすい。

かつては、発達障害は、親の育て方の問題といわれたことの反動として、先天性の脳の機能障害とされていた。しかし、「虐待」の影響が、脳に見える形での、障害をもたらすことが、最近の研究では分かっている。私は、当たり前のことと思うのだが、脳に何らかの障害が見つかることが、「先天性」という理由にはなるものではなく、後天的な様々な影響により、生じて何ら不思議はない。次に述べる、神経毒の作用などもその例だが、「物質的」な影響に限らず、「社会心理的」な影響も多くあるはずである。

ただし、「自閉」については、「虐待」ということには、普通と違った視点も必要になるはずである。特に、乳幼児や胎児などの場合、普通には、「虐待」と解されないようなことも、「自閉」に大きく影響する可能性がある。これらの時期に、本来必要なことを、単に親が個人的にというのではなく、社会的になしていないとすれば、それは社会的な「虐待」とも言い得るのである。

さらに、これも「虐待」と言えるものではないかもしれないが、グレゴリー・ベイトソンが統合失調をもたらす要因として重視した、「ダブルバインド状況」は、「自閉」に関しても、かなり当てはまることと思う。いずれ、もっと詳しくみるが、コミュニケーションにおいて、文字通りの意味以外の意味の理解が苦手なのは、「ダブルバインド状況」に多くされされた結果、そのような言外の意味への注目を「禁止」されている面もあるからである。

最後に、「神経毒反応型」について。これについては、神経毒や向精神作用をもたらす物質の作用のし方により、「多動」(興奮型)や「自閉」(沈静型)という違った現れが生じるのも、不思議ではない。前回、「多動」について述べたことは、ほとんどそのまま、「自閉」にも当てはまると思われる。最近は、いくらか、このような視点からの研究も、進められているようで(たとえば http://www.med.nagoya-cu.ac.jp/ecoaichi/english/pages/specials_kind_01/#top)、ネット上にも、こういった研究論文(http://www.actbeyondtrust.org/wp-content/uploads/2012/02/Kagaku_201306_Kimura_Kuroda.pdf )がある。

個別の物質の効果だけではなく、蓄積による効果、「エピジェネティック」な遺伝効果なども作用するので、簡単に判明することではないだろうが、こういう研究が進められることは、望ましいことである。さらに、前回も言った、電磁波や音などの、環境効果への着目も重要である。

特に、やはり、私の世代頃から、普通になり出した、産院での出産は、さまざまな機械化、合理化が施されていて、そこには、「自閉」をもたらす環境要因が多く含まれる可能性がある。また、出生時に、必要な、人間的処置がなされないという意味で、「江頭型」で述べた「虐待」に通じる要素も、多くもたらすことが考えられる。

今回は、ざっと概要をみただけだが、このように、「自閉」についても、3つ型の捉え方は、基本的に当てはまるといえる。ただ、前回言ったように、これらは、モデル的なものなので、他の型というのもあり得るし、それぞれが、重なるように影響し合うことも、もちろんある。

こうみてくると、「自閉」の「原因」ということで言うならば、「自閉」についても、結局は、「自閉」になりやすい、先天的な性質というものか基礎にあり、それに、物質的、社会心理的な、さまざまな後天的影響が加わり、生じているというほかないことになる。多様な「原因」が重なり合って生じているので、一つの「原因」などは、取り出すことができないのである。統合失調についても、記事「狂気(統合失調症)の「原因」」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html)で、「原因」というべきものを、まとめてみたが、基本的に、その場合と同じである。

しかし、そればかりか、そもそも、ある人物がある性格や個性を備える「原因」は、何かと問うた場合、それを説明するのも、結局は、そのような性格になりやすい、先天的な性質というものが基礎にあり、それに、物質的、社会心理的な、さまざまな後天的影響が加わり、そうなったというほかないのである。

つまり、このことは、精神的な「障害」と言われるものに、「原因」を問題とすることは、本来「無意味」であることを示している。それは、誰にもある、「個性」や「性格」について問題とするのと、何ら違わないものである。ただ、それについて、あえて、「原因」を問題にしようとするのは、まさに、それを「問題視」して、それを、変えなければならない、「マイナス」のものという見方をするからである。

「自閉」をもたらしやすい、先天的性質とは、決して「マイナス」のものと言えないことは、これまでにも何度もみて来たし、それどころか、我々が「失った」ものとして、取り戻すべきものを指し示してもいる(ドナの例などを参照しながら、今後もこれについては、述べていく)。

「自閉」について、このような視点がない限り、「原因」を問題とすることは、単に、「自閉」を全体として、「マイナス」のものとみ、「厄介払い」しようとすることの現れでしかない

しかし、「自閉」について、何らかの「対処」や「防衛」ということの必要も認める限り、その範囲で、「原因」と目されるものをあぶり出すことも、必要ではあるだろう。その場合、「原因」とは、それを認めることで、対処の可能性のあること、あるいは、その影響を減らすことのできることでなければ意味がない(「統合失調」の場合に、「外的要因」を強調するのも、この意味からである)。「先天的な性質」などというのは、初めから、この意味の「原因」とはなり得ないのである。

そこで、「自閉」について、あえて「原因」ということを言うならば、「江頭型」の、特に「虐待」、それに「神経毒反応型」の「原因物質」や「環境」ということが、特にあげられることになる。それらは、確かに、「自閉」というマイナスの影響をもたらす、対処可能な、あるいは、社会的に問題とし、減らすことの可能な「要因」だからである。さらには、特に、最近において、明らかに増えているという「異常現象」の「要因」として、見逃せないものでもあるからである。

私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
「総まとめ(旧「闇を超えて」より)」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)

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