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2015年3月 8日 (日)

「自閉」の感覚世界/他の表現例

記事『跳びはねる思考』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-f1d4.html)で、「自閉」の感覚世界の表現を紹介したが、他の例も少し紹介しておこう。

まずは、綾屋紗月、熊谷晋一郎著『つながりの作法』(NHK生活人新書)から。

この本は、「世界とつながりにくい」「アスペルガー症候群」の綾屋と、「世界とつながり過ぎる」「脳性まひ」の熊谷のコンビで、世界とうまく「つながる」とはどういうことかを考察した、興味深いもの。が、ここでは、アスペルガーの綾屋が、「自閉」の感覚世界をとても分かりやすく説明しているので、それを紹介しよう。

私の内側からの感覚で言えば、「どうも多くの人に比べて世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。世界のなかでモノや人がてんでんバラバラに統一感なく発している情報を、いやそもそも自分の身体の内部において、体の各部分が一致することなく勝手気ままに発している情報も、自分にとって大事かどうか、必要かどうかという優先順位をつけにくく、等しく感じとってしまうのである。

これまてにみて来た、「自閉」の者の、あらゆる感覚を、「制限」することなく、拾ってしまうという特徴をよく言い表している。そのような、あふれる情報によって混乱し、苦しむことを、「感覚飽和」とも言っている。

こういう身体だと、「私の存在はここまでである」と、自分とそれ以外を分ける境界線をぐるりと引こうとしても、自分の身体のあちこちに、まるで赤の他人であるかのような、よそよそしさ、思いどおりにならなさ、一体感のなさを感じているため、線を引きにくい。その結果、「私」という統一感をもった「存在の輪郭」と呼べるようなものまでも、すぐに見失ってしまいがちになる。

そのような、「感覚飽和」は、身体の内側からの情報にも、身体の外側からの情報にも区別なく生じる。そこで、「私という存在」の境界がうまく引けず、「私という統一感をもった存在の輪郭」を見失ってしまうという。まさに、記事『「自我」と「自閉」の逆説』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-1a69.html)の図で示したように、「世界」に対して、明確に閉じられた「自我」というものが、成り立っていかないのである

そのために、「世界とつながる」感覚をもてないというが、それは、「自己」というものを安定したものとして保持したうえでの「つながり」ということである。ある意味では、「自己と世界」は「つながる」以前に、区別がつけ難く「融合」している状態にあるとも言えるわけだが、それは、「私」が「私」として立ち上がっていくことを可能にしてくれるものではない。

それで、「「はたして自分の感じていることは本当にあるのだろうか」と自分の感覚に自信が持てなくなり、「そもそも自分は確かに存在しているのか」「自分は何者なのか」という実存感覚まで危うくなっていく」という。

名前がついたモノ、説明をもらえた場所に関しては世界が鮮明になっていくので、家の中、住んでいるアパートの敷地内、商店街などの「いつもの場所」は、モノの輪郭がはっきりとシャープになり、クリアな景色となった。自分と世界との間に「関係」が感じられ、距離感も分かるところは、安心できる場所だった。しかし新しい場所、説明してくれる人がいない世界は、聴覚的にも視覚的にも時間的にも重力的にも、水の中にいるかのようにもやもやとしており、自分と世界との関係も距離も分からず、私自身が果たしてそこにいるのかどうかもはっきりしないため、とても不安だった。

とはいえ、そのような「感覚飽和」は、あらゆる対象、あらゆる状況で生じるというわけではない。名前のついたモノ、説明をもらえた場所では、モノの輪郭もはっきりし、自己との関係も感じられる。慣れ親しんだモノや場所については、このように、「通常の知覚」と近いものが感じられるのである。それは、まさに、全体としての「世界」に、区切りや意味という「制限」を加えて、安定した固定的なものとして、受け取ることを可能にしている。

このような状況の説明は、「自閉」の感覚と「通常」の感覚の違いを浮き彫りにするとともに、両者にかけ橋をかけるものでもあり、貴重なものだろう。

次に、ドナ・ウィリアムズ著『自閉症だったわたしへ』(新潮文庫)から。

これは、自閉の世界を内側から綴ったものとして、古典的で有名な書。このドナも、言語能力などの点からみれば、「自閉症」というよりは、現在では、「アスペルガー」に近いことになるのだろう。しかし、その表現力と、鋭い考察には驚くべきものがある。「自閉」ということを考えるについて、参考になるものが多く、自分との近さという点でも、注目すべきものがある。()

いずれ、それらのこともとりあげてみたいが、ここでは、自閉の感覚世界について、「一体化」ということの表現が、特に際立っているので、それを紹介しよう。

わたしは、空中にはさまざまな丸が満ちているのを発見した。じっと宙を見つめると、その丸がたくさん現れる。その魔法の世界を邪魔するのが、部屋の中を歩き回る人々だ。わたしは人を見ないようにする。あれは、単なる<ごみ>。わたしは一心に、きらめく丸の中に同化したいと願い、<ごみ>は無視してその向こうを透視しようとする。……
しばらくするとわたしは、自分が望むあらゆるものに一体化できるようになった―たとえば壁紙やじゅうたんの模様、何度も繰り返し響いてくる物音、自分のあごをたたいて出すうつろな音などに。人の存在さえ邪魔ではなくなった。……じっと人々の向こう側を見つめていると、わたしの心はその場から飛び立つのだ。そしていつの間にか、わたしは人々の中に、一体化しているのだった。

わたしは何かを好きになると、心が吸い寄せられるように魅了されて、そのままその物と一体になってしまいたくなる。人間にはなじめないというのに、物ならば、自分の一部のようにまでしてしまうのが、うれしくてしかたない。

空中に現れる「丸」とは、光の反射や視覚上の錯覚的現象に過ぎないのだろうか、あるいは、「オーブ」のように何らかの実体を備えるのだろうか。いずれにしても、人は、その「世界」を邪魔する「ごみ」でしかないという。『跳びはねる思考』でもみたように、「世界」の中で、人は特別の存在ではない、どころか、むしろ邪魔ものでしかないのだ。

そして、ドナは、自分が望むもの、自分が惹かれるものと、「一体化」できるようになったという。そうすると、もはや、人の存在も「邪魔」ではなくなる。この、外界の「モノ」に入っていって、「一体化」するということは、『跳びはねる思考』でもみられた。まさに、「自我」と「世界」との境界が薄いからこそ、できる芸当といえる。

しかし、この「一体化」というのは、単なる主観的な出来事や想像上の出来事ではないことを、物語る記述もある。ドナは、「白昼夢」でクラスの人たちが何をしているかを見るようになったが、そのとき見たことは、後で確かめると、ことごとく的中していたという。

これなどは、まさに、「一体化」ということが、客観的な事実と符合する要素を持ち合わせていることを示している。ちょうど、「リモートビューアー」(遠隔透視能力者)が、透視の対象に意識を「一体化」するように入りこませることによって、透視を行うのと同じようなことである。

また、ある「おじいさん」の幻影を見ると、何日か後、そのおじいさんが死んでしまうということもあったという。これなどは、霊能的な力を思わせる。その他、「幻覚」と言うべきものを見ることも述べられている。

記事『「自閉」「統合失調」の感覚世界の相違』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-b341.html)で、私は、統合失調の場合に限らず、自閉の者も、幻覚を見たり、霊媒的な体質をもつことがあるはずと述べたが、まさに、ドナは、このような例を示してくれている。

さらに、もう少し、興味深い記述を紹介しよう。

何かを囲むような丸や境界線をさかんに書くのは、自分の外に存在するもの、つまり「世の中」からの侵入を防ぐための装備を、自分で施そうとしているのだ。

これも、まさに、先に触れた図のとおり、「自我」の境界線が薄く、「自我」が「世界」に対して「開かれ」ているために、「世界」が内部に侵入してくる。その、欠けた「自我」の境界線を補ない(閉じ)、内部への侵入を防ごうとする、象徴的な行為といえるだろう

統合失調においても、中井久夫の「絵画療法」において、それまで何も描けなかった者が、「箱庭療法」の「箱庭」ように、まず境界となる「外枠」を描くことによって、絵が描けるようになるという話を聞いたことがある。

まず、「内部」を脅かす、「外部」との遮断を象徴的にであれ施すことによって、初めて「内部」の表現が可能になるのである。

自分自身と「世の中」の間には、いつも不吉な予感がするほどの暗闇が口を開いていた。両足を前後に開いて、準備運動のように体を揺らすのは、この暗闇を飛び越えて向こう側に行きたいという気持ちのあらわれだったのだろう。

この「「自分自身」と「世の中」の間に口を開いている<暗闇>」とは、「人と人の間」あるいは、「霊界の境域」の根底に潜む、「闇」または「虚無」を意味するのではないか。つまり、「自閉」の者の恐怖の根源もまた、「統合失調」の場合と同じように、この「闇」または「虚無」であることを示唆してはいないだろうか

※ 3月15日  この本だけでも、十分凄く、様々な点からとりあげる価値があるのだが、今読み始めた、『自閉症という体験』は、「自閉」ということの根源的な考察に、正面から取り組んでいるもので、もっと凄いです。「ドナさん、やってくれちやっていたのね」という感じです。いずれ、両者を含めて、集中的にとりあげることになると思います。

  5月16日   ドナの著書にみる言語能力や、理知性、社会的関心などから、「アスペルガー」に近いと思ってしまいがちだが、やはり、本来は典型的な「自閉」そのものであったとみられる。それもすごいことなのだが、上のような点は、後に意志的に克服して、身につけたものと解される。まさに、「自閉症だった」ということである。

私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
「総まとめ(旧「闇を超えて」より)」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)

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