「自閉症」は「心の理論」に欠けるという説
「自閉症」は、「心の理論」に欠ける障害だという説が、広く信じられているようである。「心の理論」とは、「他者の心を理解する能力」のことで、要するに、「自閉症は、他者の心が理解できない」、または、「他者の心の理解に劣る」障害だということになる。
この「心の理論」に欠けることを確かめる実験として、「誤信念課題」というものがある。
ここ(http://l319.hocha.org/up1/data/07_%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%A7%91%E5%AD%A6/%E5%BF%83%E7%90%86%E2%85%A1(%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D)/2011%E5%BF%83%E7%90%86%E2%85%A1_08.pdf)にある、講義の要点をまとめたらしきノート、9ページ目に、絵があるので参照してほしい。
サリーとアンは部屋で遊んでいるが、サリーはボールをバスケットに入れて、部屋を出て行く。その間にアンは、ボールをバスケットから出し、箱の方に移し替えてしまう。その後、部屋に戻って来たサリーは、ボールを取り出すため、バスケットと箱のどちらを探すでしょうか?という問題を、この設定を見ている子どもに問いかけるものである。
サリーは、アンがボールを移し替えるのを見ていないので、バスケットにボールがあると「思い込んでいる」(誤った信念をもっている)はずである。自分は「箱」の中にボールがあるのを知っていても、サリーの心を読んで、「バスケット」の方を探すと、理解できるかという課題である。
結果は、「健常児」は、4才以上でほとんどが正解する。しかし、「自閉症児」(だだし言葉を理解できる)では、4才以上でも正解しない傾向が強い、とされる。ただ、「自閉症児」も、11才頃にはほとんど正解にいたる。
このことから、「自閉症児」は。「他者の心を理解する能力が欠ける」、ということが言われる。そして、そのことが、他者とのコミュニケーションに障害をもたらす理由とされるのである。
一方で、「誤写真課題」というものがある。同じく、先のノートの14ページ目に絵がある。椅子とベッドがあるレプリカの部屋を写真で撮らせるのだが、椅子の上には、ぬいぐるみが置いてある。写真を撮った後、実験者が、椅子の上のぬいぐるみをベッドの方に移動する。そして、写真を見せずに、その写真の中でぬいぐるみはどこに映っているかを問うのである。もちろん正解は、「椅子」である。
こちらは、他人の心の理解(表象)ではなく、今現在の状態とは異なる、物そのものの表象をもてるかの課題である。
ところが、この課題では、「自閉症児」は、「健常者」と同等、あるいはそれ以上に正解できるとされる。
これは、どういうことなのかだが、まず、先の、「誤信念課題」の実験について述べる。そこでは、「バスケット」と答えるのが、単純に「正解」とされているが、それには、疑問がある。ボールが移し替えられるのを見ていなかったからと言って、それたけで、「バスケット」を探すのが「正解」というのは、大人の常識に基づく、「大人の論理」であって、子どもに、そのまま当てはまるとは限らないはずである。子どもには、「子どもの論理」があって、大人には理解しがたい理由で、「箱」の方を探すかもしれない。
また、これは、ノートにも指摘されているようだが、4才前後の子どもには、実験者の問いの意味や意図が、必ずしも、伝わらない可能性も高い。だから、意味を理解して、問題に答えるとは、限らない。さらに、「正解」できなかったとしても、それが、どのような理由に基づくかは、必ずしも、明らかではない。
要するに、単純に、「正解」できないからと言って、「他者の心の理解に欠ける」ということが、言えるとは限らないということである。
リンクしたノートは、要点のまとめなので、分かりにくいが、やはり、この「誤信念課題の実験に基づいて」、自閉症は心の理論に欠けるというのは無理としているようである。しかし、「自閉症が心の理論に欠ける」こと自体には、疑いがないらしく、それ以外のもっと確かな方法で、それを確かめようとしているらしい。「自閉症は心の理論に欠ける」という命題は、それ自体、疑い難い魅力があるようだが、それって、「誤信念」ではないのか?
また、誤写真課題では、「自閉症児」に正解が多いことは、一般的な表象の能力ではなく、要するに、心的な表象の能力が欠けるのだとして、そのことを脳の機能の問題とも結び付けて探ろうとしているようである。
しかし、私は、端的に言って、「自閉症児」は、誤信念課題においても、誤写真課題においても、要するに、「人」よりも「物」にこそ、興味を集中していたのだということに尽きると思う。それで、誤信念課題においては、物のある「箱」の方を答えることになったし、誤写真課題においては、物が写真を撮った時点に存していた「椅子」の方を、正確に答えることができたのである。
自閉症の者が、「人」よりも「物の世界」の方に興味をもちやすいことは、東田の例でも、ドナの例でも見てきたとおりである。それは、物の織りなす流動的な感覚世界を、鋭敏に捉える能力に長けているので、その世界の方に、自然と魅力を感じるのである。ドナが、人は、その世界を邪魔する「ゴミ」だと言っているようにである。
そのように、自閉症者が「物の世界」にばかり興味を惹かれ、人に興味を抱かない結果として、人の心を理解する能力が身につきにくく、事実上、それに劣るようになるということは、言える。しかし、それは、まさに「結果」なのであって、まず、「心の理論に欠ける」という障害があるわけではないのである。
それは、決して、そのままでいいということではなく、人への興味や理解もまた、人の世界に生きて行くには、身につけなくてはならないことではある。が、周りの者に、この点についての理解がない限り、これを修正させようとすることは、一方的な押し付けになり、まさに、その感覚世界を邪魔する「ごみ」になるだけだろう。
(これは、また次にでも述べるが、「自閉症」にもいろいろなタイプがあり、確かに、ある「障害」というか、機能がうまく働きにくいために、「心の理解」に欠けるというみかけを生じている場合も、あるのかもしれない。しかし、それは、当然に、「自閉症」一般に言えることではないはずである。)
ところで、私も幼少の頃、自閉的傾向があったわけだが、もし私が、4才の頃にこのような実験をされたらどう答えていたであろうか。誤写真課題の場合はともかく、誤信念課題の場合、おそらく、説明されても、課題の意味が分からないと思うし、そんな課題に興味もなく、ドナも言っていたように、興味のないことを押しつけられるのもご免なので、何の反応もしなかった可能性が高い。あるいは、適当に、意味もよく分からず、現にボールが入っている「箱」と答えたであろうと思う。
「自閉症児」の中には、このような感じで、適当に「箱」と答えた人も多いと思うし、「健常児」とされる4才未満の子どもも、おそらくそうではないかと思う。
要するに、「大人」の安直な論理で、子どもの世界や自閉症の世界、さらには、動物の行動などを推し量ろうとする実験などは、ほとんど、あてにならないということである。
« 「自閉」の感覚世界/他の表現例 | トップページ | 「多動」の3つの型 »
「精神医学」カテゴリの記事
- 「共通感覚的に<あり得ない>」(2022.04.13)
- 統合失調に関する質問の募集(2022.02.23)
- 『ブログの趣旨』の更新と「未知の状況と認める」ということ(2021.11.13)
- 『精霊に捕まって倒れる』-精神の病と異文化の問題(2021.10.05)
- 「オープンダイアローグ」に関する2冊の本と展望(2021.08.01)
コメント