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2015年3月

2015年3月28日 (土)

「多動」の3つの型

記事『跳びはねる思考』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-f1d4.html)のコメント欄で、ギャグを交えながらだが、「多動」について、まとまった形で、3つの型を示していたので、まずはそれを掲げる。

ふなっしー;ちょっと横やりするなし。
ふなっしーも、「多動」とか「跳びはねる」とか言われるけど…、妖精仲間には、多いなしよ。病気と言われるのは、<芯外>なし。

江頭 2:50 「おーい。「多動」といえば、俺を忘れるんじゃないよー」

ふなっしー 「彼は、どっちかといえば「妖怪ウォッチ」の方だしな。
        一緒にしてほしくないなし。」

江頭 2:50 「むむ。そんなこと言うから、出しちゃうんだろー」
    
       多動ショー 披露

つまらないギャグを披露してしまいましたが…。
まあ、「多動」にも、「ふなっしー型」と「江頭型」があるという風に受け止めることもできるのではないかと思います。

「ふなっしー型(妖精型)」=自然な躍動、興奮の発露
「江頭型(妖怪型)」=反発、不満、うっ屈の表現

えがっしー汁 ブシャー!

「多動」については、上の二つのほかに、もう一つの型をとりあげなければなりません。
それは、特定の誰かで言い表すことはできませんが、

「神経毒反応型(人為型)」=自然にでも、反発やうっ屈によってでもなく、人為的な神経毒の(蓄積)作用により、興奮状態、混乱状態にさらされるもの。

大量生産を可能にした高度経済成長期以後、「多動」が飛躍的に増えているのだとすれば、この型のものが増えているという可能性が高いですね。

つまり、3つの型とは、

「ふなっしー型(妖精型)」=自然な躍動、興奮の発露
「江頭型(妖怪型)」=反発、不満、うっ屈の表現
「神経毒反応型(人為型)」=自然にでも、反発やうっ屈によってでもなく、人為的な神経毒の(蓄積)作用により、興奮状態、混乱状態にさらされるもの。

ということになる。

「ふなっしー型(妖精型)」=「先天(陽性)型」
「江頭型(妖怪型)」=「後天(陰性)型」
「神経毒反応型(人為型)」=「環境撹乱型」

ともいえる。

まず言えるのは、子どもは、「多動」であるのが当たり前であり、本来、「ふなっしー型(妖精型)」=「先天陽性型」である、ということである。むしろ、子どもが、初めから、静かで大人しいとしたら、その方が問題だということである。一昔前、泣きもせず、じっと物をみつめている、「サイレント・ベイビー」ということが言われたが、こちらの方が、あとあと問題のはずなのである。

あるいは、大人や大人文化に対して、反発心に芽生えたような子どもなら、「江頭型(妖怪型)」=「後天(陰性)型」であっても、おかしくない。そのような反発心は、子どもとしては、まったく自然なことである。

そもそも、「多動」を病的なものとして問題とするのは、「大人」の都合でしかないことを顧みる必要がある

しかし、にも拘わらず、そのようなことを差し引いても、現代では、あまりに、状況に関わりなく、みるからに「異常」と言わざるを得ない「多動」というものが、増えていることは、確かなことなのかもしれない。

あるいは、現代の管理社会においても、生まれた頃の「ふなっしー型(妖精型)」=「先天陽性型」を、長く維持しづつける「つわもの」の子ども、さらには、「本物」の、いわば、生粋の「妖精」(または「宇宙人」)が、人間として生まれることも、増えているのかもしれない。

しかし、現代という状況において、「多動」が増えているとすれば、それは、「江頭型(妖怪型)」=「後天(陰性)型」か、「神経毒反応型(人為型)」=「環境撹乱型」が増えているということなのだと思う。

「江頭型(妖怪型)」=反発、不満、うっ屈の表現としたが、これには、「虐待」による影響も含まれる。積極的虐待もそうだが、ネグレクトなどを含めた、「消極的」な虐待は、相当増えていると思われるから、その「反動」として、「多動」のようなことが、子どもの間で広く起こっても、何ら不思議ではない。(ある意味、子どもの「集合的」な「反発」表現。)

さらに、「神経毒反応型(人為型)」=自然にでも、反発やうっ屈によってでもなく、人為的な神経毒の(蓄積)作用により、興奮状態、混乱状態にさらされるもの。は、ちょうど、私の生まれた当時の高度成長期から、「神経毒」たる物質が、大量に出回り始めたことを考えると、現代では、その蓄積効果は、相当高まっており、「多動」のような撹乱状態が、その「反応」として生じる子どもが増えたとしても、何ら不思議ではない。

「神経毒」と言ったが、これには、明らかに、神経ネットワークの形成を阻害する化学物質だけでなく、広く、向精神作用をもたらす物質を含めてよい。各種添加物から、ワクチン、農薬その他の薬品、石油精製製品、砂糖などである。さらには、「物質」だけでなく、電磁波や音などの、神経的なストレスをもたらす環境効果も、無視できない。

もっとも、これらの3つの型は、モデル的なもので、さらに他の型もあり得るし、それぞれの型は、互いに重なり合って作用し得る。特に、「虐待」や「神経毒」は、加算的、相乗効果的に、「多動」を増やす理由となっていると思われるのである。

ところで、私は記事で、「魂」のあり方と絡めて、「自閉」と「多動」について、次のように述べていた。

「魂が、抜け出ているというときには、体は硬直し、周りの呼びかけにも反応がなく、まさに「自閉」そのものの状態として、周りには映る。それに対して、魂が、肉体の中で駆け巡っているときには、じっとしていられず、落ち着かない、「多動」の状態として、周りには映るのだと思う。」

つまり、「自閉」と「多動」とは、互いに大いに関連し、共存し得るものである。だから、「自閉」ということについても、ここで述べた3つの型のモデルは、基本的に当てはまるものと思う。

次回は、「自閉」について、この3つの型と関連させつつ、「原因」と言うべきものを、いくつかあぶり出してみたい。

2015年3月18日 (水)

「自閉症」は「心の理論」に欠けるという説

「自閉症」は、「心の理論」に欠ける障害だという説が、広く信じられているようである。「心の理論」とは、「他者の心を理解する能力」のことで、要するに、「自閉症は、他者の心が理解できない」、または、「他者の心の理解に劣る」障害だということになる。

この「心の理論」に欠けることを確かめる実験として、「誤信念課題」というものがある。

ここ(http://l319.hocha.org/up1/data/07_%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%A7%91%E5%AD%A6/%E5%BF%83%E7%90%86%E2%85%A1(%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D)/2011%E5%BF%83%E7%90%86%E2%85%A1_08.pdf)にある、講義の要点をまとめたらしきノート、9ページ目に、絵があるので参照してほしい。

サリーとアンは部屋で遊んでいるが、サリーはボールをバスケットに入れて、部屋を出て行く。その間にアンは、ボールをバスケットから出し、箱の方に移し替えてしまう。その後、部屋に戻って来たサリーは、ボールを取り出すため、バスケットと箱のどちらを探すでしょうか?という問題を、この設定を見ている子どもに問いかけるものである。

サリーは、アンがボールを移し替えるのを見ていないので、バスケットにボールがあると「思い込んでいる」(誤った信念をもっている)はずである。自分は「箱」の中にボールがあるのを知っていても、サリーの心を読んで、「バスケット」の方を探すと、理解できるかという課題である。

結果は、「健常児」は、4才以上でほとんどが正解する。しかし、「自閉症児」(だだし言葉を理解できる)では、4才以上でも正解しない傾向が強い、とされる。ただ、「自閉症児」も、11才頃にはほとんど正解にいたる。

このことから、「自閉症児」は。「他者の心を理解する能力が欠ける」、ということが言われる。そして、そのことが、他者とのコミュニケーションに障害をもたらす理由とされるのである。

一方で、「誤写真課題」というものがある。同じく、先のノートの14ページ目に絵がある。椅子とベッドがあるレプリカの部屋を写真で撮らせるのだが、椅子の上には、ぬいぐるみが置いてある。写真を撮った後、実験者が、椅子の上のぬいぐるみをベッドの方に移動する。そして、写真を見せずに、その写真の中でぬいぐるみはどこに映っているかを問うのである。もちろん正解は、「椅子」である。

こちらは、他人の心の理解(表象)ではなく、今現在の状態とは異なる、物そのものの表象をもてるかの課題である。

ところが、この課題では、「自閉症児」は、「健常者」と同等、あるいはそれ以上に正解できるとされる。

これは、どういうことなのかだが、まず、先の、「誤信念課題」の実験について述べる。そこでは、「バスケット」と答えるのが、単純に「正解」とされているが、それには、疑問がある。ボールが移し替えられるのを見ていなかったからと言って、それたけで、「バスケット」を探すのが「正解」というのは、大人の常識に基づく、「大人の論理」であって、子どもに、そのまま当てはまるとは限らないはずである。子どもには、「子どもの論理」があって、大人には理解しがたい理由で、「箱」の方を探すかもしれない。

また、これは、ノートにも指摘されているようだが、4才前後の子どもには、実験者の問いの意味や意図が、必ずしも、伝わらない可能性も高い。だから、意味を理解して、問題に答えるとは、限らない。さらに、「正解」できなかったとしても、それが、どのような理由に基づくかは、必ずしも、明らかではない。

要するに、単純に、「正解」できないからと言って、「他者の心の理解に欠ける」ということが、言えるとは限らないということである

リンクしたノートは、要点のまとめなので、分かりにくいが、やはり、この「誤信念課題の実験に基づいて」、自閉症は心の理論に欠けるというのは無理としているようである。しかし、「自閉症が心の理論に欠ける」こと自体には、疑いがないらしく、それ以外のもっと確かな方法で、それを確かめようとしているらしい。「自閉症は心の理論に欠ける」という命題は、それ自体、疑い難い魅力があるようだが、それって、「誤信念」ではないのか?

また、誤写真課題では、「自閉症児」に正解が多いことは、一般的な表象の能力ではなく、要するに、心的な表象の能力が欠けるのだとして、そのことを脳の機能の問題とも結び付けて探ろうとしているようである。

しかし、私は、端的に言って、「自閉症児」は、誤信念課題においても、誤写真課題においても、要するに、「人」よりも「物」にこそ、興味を集中していたのだということに尽きると思う。それで、誤信念課題においては、物のある「箱」の方を答えることになったし、誤写真課題においては、物が写真を撮った時点に存していた「椅子」の方を、正確に答えることができたのである。

自閉症の者が、「人」よりも「物の世界」の方に興味をもちやすいことは、東田の例でも、ドナの例でも見てきたとおりである。それは、物の織りなす流動的な感覚世界を、鋭敏に捉える能力に長けているので、その世界の方に、自然と魅力を感じるのである。ドナが、人は、その世界を邪魔する「ゴミ」だと言っているようにである。

そのように、自閉症者が「物の世界」にばかり興味を惹かれ、人に興味を抱かない結果として、人の心を理解する能力が身につきにくく、事実上、それに劣るようになるということは、言える。しかし、それは、まさに「結果」なのであって、まず、「心の理論に欠ける」という障害があるわけではないのである。

それは、決して、そのままでいいということではなく、人への興味や理解もまた、人の世界に生きて行くには、身につけなくてはならないことではある。が、周りの者に、この点についての理解がない限り、これを修正させようとすることは、一方的な押し付けになり、まさに、その感覚世界を邪魔する「ごみ」になるだけだろう。

(これは、また次にでも述べるが、「自閉症」にもいろいろなタイプがあり、確かに、ある「障害」というか、機能がうまく働きにくいために、「心の理解」に欠けるというみかけを生じている場合も、あるのかもしれない。しかし、それは、当然に、「自閉症」一般に言えることではないはずである。)

ところで、私も幼少の頃、自閉的傾向があったわけだが、もし私が、4才の頃にこのような実験をされたらどう答えていたであろうか。誤写真課題の場合はともかく、誤信念課題の場合、おそらく、説明されても、課題の意味が分からないと思うし、そんな課題に興味もなく、ドナも言っていたように、興味のないことを押しつけられるのもご免なので、何の反応もしなかった可能性が高い。あるいは、適当に、意味もよく分からず、現にボールが入っている「箱」と答えたであろうと思う。

「自閉症児」の中には、このような感じで、適当に「箱」と答えた人も多いと思うし、「健常児」とされる4才未満の子どもも、おそらくそうではないかと思う。

要するに、「大人」の安直な論理で、子どもの世界や自閉症の世界、さらには、動物の行動などを推し量ろうとする実験などは、ほとんど、あてにならないということである

2015年3月 8日 (日)

「自閉」の感覚世界/他の表現例

記事『跳びはねる思考』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-f1d4.html)で、「自閉」の感覚世界の表現を紹介したが、他の例も少し紹介しておこう。

まずは、綾屋紗月、熊谷晋一郎著『つながりの作法』(NHK生活人新書)から。

この本は、「世界とつながりにくい」「アスペルガー症候群」の綾屋と、「世界とつながり過ぎる」「脳性まひ」の熊谷のコンビで、世界とうまく「つながる」とはどういうことかを考察した、興味深いもの。が、ここでは、アスペルガーの綾屋が、「自閉」の感覚世界をとても分かりやすく説明しているので、それを紹介しよう。

私の内側からの感覚で言えば、「どうも多くの人に比べて世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。世界のなかでモノや人がてんでんバラバラに統一感なく発している情報を、いやそもそも自分の身体の内部において、体の各部分が一致することなく勝手気ままに発している情報も、自分にとって大事かどうか、必要かどうかという優先順位をつけにくく、等しく感じとってしまうのである。

これまてにみて来た、「自閉」の者の、あらゆる感覚を、「制限」することなく、拾ってしまうという特徴をよく言い表している。そのような、あふれる情報によって混乱し、苦しむことを、「感覚飽和」とも言っている。

こういう身体だと、「私の存在はここまでである」と、自分とそれ以外を分ける境界線をぐるりと引こうとしても、自分の身体のあちこちに、まるで赤の他人であるかのような、よそよそしさ、思いどおりにならなさ、一体感のなさを感じているため、線を引きにくい。その結果、「私」という統一感をもった「存在の輪郭」と呼べるようなものまでも、すぐに見失ってしまいがちになる。

そのような、「感覚飽和」は、身体の内側からの情報にも、身体の外側からの情報にも区別なく生じる。そこで、「私という存在」の境界がうまく引けず、「私という統一感をもった存在の輪郭」を見失ってしまうという。まさに、記事『「自我」と「自閉」の逆説』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-1a69.html)の図で示したように、「世界」に対して、明確に閉じられた「自我」というものが、成り立っていかないのである

そのために、「世界とつながる」感覚をもてないというが、それは、「自己」というものを安定したものとして保持したうえでの「つながり」ということである。ある意味では、「自己と世界」は「つながる」以前に、区別がつけ難く「融合」している状態にあるとも言えるわけだが、それは、「私」が「私」として立ち上がっていくことを可能にしてくれるものではない。

それで、「「はたして自分の感じていることは本当にあるのだろうか」と自分の感覚に自信が持てなくなり、「そもそも自分は確かに存在しているのか」「自分は何者なのか」という実存感覚まで危うくなっていく」という。

名前がついたモノ、説明をもらえた場所に関しては世界が鮮明になっていくので、家の中、住んでいるアパートの敷地内、商店街などの「いつもの場所」は、モノの輪郭がはっきりとシャープになり、クリアな景色となった。自分と世界との間に「関係」が感じられ、距離感も分かるところは、安心できる場所だった。しかし新しい場所、説明してくれる人がいない世界は、聴覚的にも視覚的にも時間的にも重力的にも、水の中にいるかのようにもやもやとしており、自分と世界との関係も距離も分からず、私自身が果たしてそこにいるのかどうかもはっきりしないため、とても不安だった。

とはいえ、そのような「感覚飽和」は、あらゆる対象、あらゆる状況で生じるというわけではない。名前のついたモノ、説明をもらえた場所では、モノの輪郭もはっきりし、自己との関係も感じられる。慣れ親しんだモノや場所については、このように、「通常の知覚」と近いものが感じられるのである。それは、まさに、全体としての「世界」に、区切りや意味という「制限」を加えて、安定した固定的なものとして、受け取ることを可能にしている。

このような状況の説明は、「自閉」の感覚と「通常」の感覚の違いを浮き彫りにするとともに、両者にかけ橋をかけるものでもあり、貴重なものだろう。

次に、ドナ・ウィリアムズ著『自閉症だったわたしへ』(新潮文庫)から。

これは、自閉の世界を内側から綴ったものとして、古典的で有名な書。このドナも、言語能力などの点からみれば、「自閉症」というよりは、現在では、「アスペルガー」に近いことになるのだろう。しかし、その表現力と、鋭い考察には驚くべきものがある。「自閉」ということを考えるについて、参考になるものが多く、自分との近さという点でも、注目すべきものがある。()

いずれ、それらのこともとりあげてみたいが、ここでは、自閉の感覚世界について、「一体化」ということの表現が、特に際立っているので、それを紹介しよう。

わたしは、空中にはさまざまな丸が満ちているのを発見した。じっと宙を見つめると、その丸がたくさん現れる。その魔法の世界を邪魔するのが、部屋の中を歩き回る人々だ。わたしは人を見ないようにする。あれは、単なる<ごみ>。わたしは一心に、きらめく丸の中に同化したいと願い、<ごみ>は無視してその向こうを透視しようとする。……
しばらくするとわたしは、自分が望むあらゆるものに一体化できるようになった―たとえば壁紙やじゅうたんの模様、何度も繰り返し響いてくる物音、自分のあごをたたいて出すうつろな音などに。人の存在さえ邪魔ではなくなった。……じっと人々の向こう側を見つめていると、わたしの心はその場から飛び立つのだ。そしていつの間にか、わたしは人々の中に、一体化しているのだった。

わたしは何かを好きになると、心が吸い寄せられるように魅了されて、そのままその物と一体になってしまいたくなる。人間にはなじめないというのに、物ならば、自分の一部のようにまでしてしまうのが、うれしくてしかたない。

空中に現れる「丸」とは、光の反射や視覚上の錯覚的現象に過ぎないのだろうか、あるいは、「オーブ」のように何らかの実体を備えるのだろうか。いずれにしても、人は、その「世界」を邪魔する「ごみ」でしかないという。『跳びはねる思考』でもみたように、「世界」の中で、人は特別の存在ではない、どころか、むしろ邪魔ものでしかないのだ。

そして、ドナは、自分が望むもの、自分が惹かれるものと、「一体化」できるようになったという。そうすると、もはや、人の存在も「邪魔」ではなくなる。この、外界の「モノ」に入っていって、「一体化」するということは、『跳びはねる思考』でもみられた。まさに、「自我」と「世界」との境界が薄いからこそ、できる芸当といえる。

しかし、この「一体化」というのは、単なる主観的な出来事や想像上の出来事ではないことを、物語る記述もある。ドナは、「白昼夢」でクラスの人たちが何をしているかを見るようになったが、そのとき見たことは、後で確かめると、ことごとく的中していたという。

これなどは、まさに、「一体化」ということが、客観的な事実と符合する要素を持ち合わせていることを示している。ちょうど、「リモートビューアー」(遠隔透視能力者)が、透視の対象に意識を「一体化」するように入りこませることによって、透視を行うのと同じようなことである。

また、ある「おじいさん」の幻影を見ると、何日か後、そのおじいさんが死んでしまうということもあったという。これなどは、霊能的な力を思わせる。その他、「幻覚」と言うべきものを見ることも述べられている。

記事『「自閉」「統合失調」の感覚世界の相違』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-b341.html)で、私は、統合失調の場合に限らず、自閉の者も、幻覚を見たり、霊媒的な体質をもつことがあるはずと述べたが、まさに、ドナは、このような例を示してくれている。

さらに、もう少し、興味深い記述を紹介しよう。

何かを囲むような丸や境界線をさかんに書くのは、自分の外に存在するもの、つまり「世の中」からの侵入を防ぐための装備を、自分で施そうとしているのだ。

これも、まさに、先に触れた図のとおり、「自我」の境界線が薄く、「自我」が「世界」に対して「開かれ」ているために、「世界」が内部に侵入してくる。その、欠けた「自我」の境界線を補ない(閉じ)、内部への侵入を防ごうとする、象徴的な行為といえるだろう

統合失調においても、中井久夫の「絵画療法」において、それまで何も描けなかった者が、「箱庭療法」の「箱庭」ように、まず境界となる「外枠」を描くことによって、絵が描けるようになるという話を聞いたことがある。

まず、「内部」を脅かす、「外部」との遮断を象徴的にであれ施すことによって、初めて「内部」の表現が可能になるのである。

自分自身と「世の中」の間には、いつも不吉な予感がするほどの暗闇が口を開いていた。両足を前後に開いて、準備運動のように体を揺らすのは、この暗闇を飛び越えて向こう側に行きたいという気持ちのあらわれだったのだろう。

この「「自分自身」と「世の中」の間に口を開いている<暗闇>」とは、「人と人の間」あるいは、「霊界の境域」の根底に潜む、「闇」または「虚無」を意味するのではないか。つまり、「自閉」の者の恐怖の根源もまた、「統合失調」の場合と同じように、この「闇」または「虚無」であることを示唆してはいないだろうか

※ 3月15日  この本だけでも、十分凄く、様々な点からとりあげる価値があるのだが、今読み始めた、『自閉症という体験』は、「自閉」ということの根源的な考察に、正面から取り組んでいるもので、もっと凄いです。「ドナさん、やってくれちやっていたのね」という感じです。いずれ、両者を含めて、集中的にとりあげることになると思います。

  5月16日   ドナの著書にみる言語能力や、理知性、社会的関心などから、「アスペルガー」に近いと思ってしまいがちだが、やはり、本来は典型的な「自閉」そのものであったとみられる。それもすごいことなのだが、上のような点は、後に意志的に克服して、身につけたものと解される。まさに、「自閉症だった」ということである。

私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
「総まとめ(旧「闇を超えて」より)」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)

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