「統合失調症」という「アイデンティティ」
NHKのハートネットTV、「統合失調症」(https://www.youtube.com/watch?v=i2u8TJnC86k)
これは、どうみても、完璧主義的、自罰的傾向があだになって、うつ状態に陥ってしまった人が、精神科医により「統合失調症」と診断されてしまった例だ。
ハートネットTV 「統合失調症2」(https://www.youtube.com/watch?v=djEeoP_j-k8)
こちらの加賀谷は、統合失調症というより、「どうこうしようもない症」だが(失礼)、確かに、統合失調的な経験をしたことは確かのようだ。ただ、それも、誰もが近いものを経験し得る、思春期の一時的なもので、統合失調症という「病気」として、診断されるべきものかという怪しい。
いずれにしても、この人たちは、結果として、「統合失調症」という診断を受け、それを自分に受け入れた結果、状態が安定し、楽になったということは、確かなことのようだ。
そして、このようなことは、意外と多く起こり得るし、現代では、特に起こりやすくなっていることも確かなのだろうと思われる。
この人たちは、薬も飲んでいるということで、番組では、その薬の影響で落ち着いているかのような説明もあったが、実際には、そういうこととは思われない。特に、前者の人なんか、明らかに、統合失調ではないのに、抗精神病薬と思われる薬が効いているなどとは、とても思えない。
それでは、どうしてこういうことが起こるかと言うと、それは、「病気」という診断そのものがもたらした、一種「皮肉」な効果と言うしかない。それまで、悩み、苦しんでいた状態に、病名がつけられ、「病気である」という「理由」を与えられることで、苦しい状態から一気に解放され、楽になることができた。そのこと自体が、精神的状態に、治癒的な働きをなしたということである。つまり、病名は、一種の「アイデンティティ」として機能し、自分という存在の不安定さを、解消してくれたのである。
前者の人など、特にそのことが、透けてみえる。それまで、うまくいかないと自分が悪いものと、自分を責め、苦しんでいたのが、「統合失調症」という、「(脳の)病気」という診断を受けることで、うまくいかないのは、病気のせいであり、自分が悪いのでも、誰が悪いのでもないと、「目から鱗が落ちたように」納得することができたのである。そして、それまで受け入れることができず、そのためにこそ苦しんでいた、自分というものを、受け入れるこどができたのである。
それは、本当に、自分の苦しみを解放してくれ、楽になれることだと思う。そのことは、よくも悪くも、薬がもたらす効果などより、大きな影響をもたらしたのである。
また、これは加賀谷も言っていたが、統合失調の場合、幻覚(幻聴)や妄想を「現実」そのものとして受け取ることで、苦しむことが多いから、それが「病気」ということで、「現実ではない」と気づくことで、その苦しみから、一気に解放されるということもある。加賀谷の場合、「自分は臭い」というマイナスイメージの「妄想」に苦しめられていたので、それが否定できることの意味は大きい。゜
いずれにしても、統合失調状況ほど、自己のアイデンティティが、脅かされる状況もないので、たとえ「病気」というマイナスのものでも、自己の「アイデンティティ」を補強することにはなり得るのである。統合失調状況に深く入り、幻覚のリアリティに強く捕らえられれば、もはやこのようなことも起こりにくいが、浅い段階では、十分起こり得るのだ。
それにしても、現代は、一昔前のように、一般的な基準や、こうあるべきという規範のようなものも、大きく揺らいでいるから、多くの人が、自己の「アイデンティティ」を安定したものとして築くことに、苦労している状況である。
誰もが、「アイデンティティ欠乏症」とでもいうべき状態にあるということである。そのような状態を苦しんでいる者にとって、「病名」をもらい、「病気」という「アイデンテイテイ」を与えられることは、むしろ、苦しみから解放され、自己の安定に資することにもなっているのだ。
一方で、一般的な基準が揺らいでいることは、そこからの逸脱である、「精神的な病」も、かつてほど、酷いイメージではなくする。その最たるものである、「統合失調」という「病気」も、かつてほど、排除されず、どうしようもない病気ではないと、解されるようになる。また実際に、その者を取り巻く、そのような、社会的な状況の変化こそが、その者の陥る状態を緩和させ、「統合失調症の軽症化」といわれる事態をもたらしてもいる。(決して、精神薬の効果によるのではない。)
このような状況は、ますます、「統合失調症ですら」、受け入れやすい状況を作り出しているといえる。これには、「精神分裂病」から「統合失調症」と病名が変わったことも、影響している。そのようなことが、精神科に診断を受けに行く人を増やし、また、実際に、病気と診断され、「病名」を受ける事態を増やしている。そして、実際に、それを「受け入れる」人も増えており、そのことが、先に述べたように、「症状」とされるものを落ち着かせている人も、出て来ているのである。(※)
これまで、「病気」という見方こそが、幻覚を幻覚として受け入れることを、難しくしているということを強調して来たし、現在も、多くの場合はそうであるはずである。しかし、そのような事態は、皮肉な形で、徐々に変わり始めているということである。
いずれにしても、それは、「病気」という「アイデンティティ」を与えられること自体がもたらす効果である。ところが、それが、精神薬による治療を原因として起こっているとみなされるとき、精神疾患は、増えているとしても、かつてほど酷い状態にはならず、治療によって「寛解」するというイメージが作られることになる。
現代の精神疾患のイメージは、「統合失調」も含めて、徐々にこのようなものに移行して来ているといえる。それは、製薬会社や病院にとっても、まさに、「願ったり叶ったり」のことである。一方で、精神医学を否定する流れの台頭もあるから、それに対抗するためにも、このような人たちが増えてくること、それをメディアなどて宣伝することは、大きな益をもたらす。
ただし、このことは、世界的な傾向というよりも、恐らく、とても日本的な状況なのであろう。「病気」と認めることが、集団または世間の中での「アイデンティティ」を欲する、日本の状況に沿っているということもあるし、先に述べた、「精神分裂病」から「統合失調症」への病名の変化も大いに影響している。
それでも、とりあえずの「効果」をみる限り、このようなことは、「望ましい」こととの見方もできる。それで、精神の安定を得る、実質的な効果があるなら、厳密に「精神の病気」であるか否かとか、病名の区別などに拘らないでも、「結果オーライ」ではないかという見方である。また、統合失調の場合、それで、幻覚を幻覚と認めることになるなら、確かにその効果は無視できないものがある。
しかし、そのような効果が、一時的なものではなく、長い視野でみた場合、本当に続き得るのかどうかは疑問である。また、精神薬が関わる限り、ことはそう単純にはいかない。一時的には、精神薬による害が現れ出でいないように見えても、長く服薬することにより、結局はその影響が出て来ることが予想される。また、いずれ薬を止めるとして、そのときに、強い離脱症状が出て来ることも予想される。そのような場合、それを、薬のせいではなく、もともとの「症状」が悪化した結果として処理されれば、結局は、これまでと変わらない、「病気作り」の拡大にしかならないのである。
それに、そもそも、「病気」を「アイデンティティ」として受け取ることが、精神的安定をもたらすという状況が、健全なものかということを考える必要がある。何しろ、それは、「病気」という「観念」が、違った意味で、一人歩きすることになっている状況にほかならず、その「実質」は、覆い隠されたままなのである。(参照『「病気」という見方が故の問題』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-78d9.html)
※ いずれにしても、そのようなことが起こるのは、統合失調状況に入っているとしても、一時的か、浅い段階の者。または、統合失調と類似の状態ではあっても、実際には統合失調とはいえないような者である。だから、真に「統合失調」とはいい難いこれらの者こそが、「統合失調症」という診断を受けることによって、状態を安定させるという皮肉な結果になっている。そして、それらの者が、メディアなどに登場することによって、いかにも、「統合失調は精神医療で寛解する」というようなイメージや、「早期発見が大事」というようなイメージを作り上げることに貢献している。
それは、がんの場合の、早期発見と治療の関係にとても似たことになっている。がんで、検診でみつかるのは、近藤誠医師によれば「がんもどき」といわれる、転移性のない、進行しないタイプのものがほとんどである。だが、それらが、がんという診断を受けて、治療を受けると、その後がんが進行しない場合、いかにも、治療により治ったというみかけになる。それで、早期発見と治療の意義が強調されることになる。
統合失調の場合にも、それと似た、一種の「もどき」が「統合失調」と診断され、その結果状態が安定したものが、いかにも、治療により「寛解」したとされ、早期発見と治療の意義が強調されるのである。その治療法なるものが、かなり危険であることも、同じである。違いは、精神的な問題なので、「診断そのもの」がもたらす効果が大きいことである。ところが、これは、「病気」と「治療」の両方の点に、いわば「二重の錯誤」が絡んでいるので、がんの場合よりたちの悪い「イメージ」といえる。
※2 2月21日 ハウス加賀谷の場合
こちらの番組では、もう少し詳しく、加賀谷の「統合失調」との関わりがとりあげられている。(http://blogos.com/article/72271/)
思春期の後に、お笑い芸人として活躍し始めた後も、状態を酷くして、入院治療を受けることになったが、薬を変えることによって、「寛解」でき、10年後には復帰できたという流れである。
しかし、私は、やはり、思春期の幻聴や妄想は、確かに、統合失調的だったとしても、それは、一時的か浅いもので、後に状態を酷くしたという点は、精神薬の影響によるものである可能性が高いと思う。意欲の減退などの「陰性症状」といわれるものは、確かに、幻覚や妄想のような「陽性症状」の反動として起こることもあるが、精神薬による効果が大いに疑われ、特に多剤、多量の場合、そうならない方がおかしいのである。さらに、精神薬は、幻覚のような症状を引き起こしても、何らおかしくないもので、幻覚の点についても、その疑いは十分ある。(前の「幻聴」の場合と比べても、性質が異なるものと見受けられる。)
本人は、「医師の用法に従わなかったから」と言うが、医師の用法に従ったからと言って、これらの症状が出ないものではなく、むしろ、量が増えるのだから、余計に出てもおかしくない。それに、そもそも、もともとの状態が、一時的なものか、統合失調ではないとしたら、余計に、精神薬の影響が強く現れておかしくないのである。
さらに、薬を変えた(具体的には、エビリファイという非定型抗精神病薬)ら、一気に、「覆いがとれたように、クリアになった」ということだが、これも、新たな薬がもたらした効果といえるかは疑問である。それは、前の薬を変えたこと、そして、恐らく全体として薬の量を減らすことができたことによる効果なのであって、酷い状態をもたらす薬の効果を、全体として減らすことができたことによるものと考えられる。つまり、新しい薬の「積極的効果」なのではなく、薬の酷い効果を、減らすことができたことによる「消極的効果」ということである。それですら、「覆いがかかった」ような状態を、「クリア」にさせるだけの、効果があったのだから、前の薬の影響というものが、それだけ酷いものだった、ということである。
「非定型抗精神病薬」が、副作用も少なく、陰性症状的な状態をあまりもたらさないものとして、もてはやされる傾向があるようだが、このような「イメージ」は、恐らく、その薬の移行に伴い、加賀谷の場合と同様に、前の薬ほど酷い状態か出なくなった者が多くいたので、それを新薬そのものの効果ということで、喧伝したために作られたものと思う。
さらに、こちらの方が重要かもしれないが、加賀谷の場合は、明らかに「お笑い」にかける情熱や、相方の支援が、回復に向けて大きく影響している。それらが、「病気」を克服させたというよりも、むしろ、「精神薬の害悪」を克服させた、あるいは、させつつあるということが、本当なのだろうと思う。
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とても参考になりました。世の中では向精神薬を飲ますことが、統合失調症などの精神疾患を治すために最低条件のように言われていますが、また本人や周囲がそうしない・させないのは非常識のように言います(またそうしていないと社会的サポートも受けにくい?)が、そうではなくもっと根本的な所に向き合い、それを周囲のいろんな助けの中で、克服していくことこそが、こういう病気を引き受けてくれた人やその周囲の人々の本当の務めであり、その病気の存在意味なのではないか、そんな風に思うことができました。ありがとうございました。
投稿: NH | 2015年3月18日 (水) 17時51分
ありがとうございます。
そのとおりですし、そのように「引き受ける」構えさえあれば、「狂気」や「精神の不調」は、必ずしも、手のつけられないほど、「恐ろしい」ものでもないのです。それを、「病気」として「恐れ」、「医学」による「治療」の対象とし、強力な「薬」に頼ろうとすることは、すべて、「引き受ける」ことを避けようとすることから発しているものです。そのように「避けている」限り、根本的に、快方がもたらされるわけもありません。
投稿: ティエム | 2015年3月18日 (水) 21時56分