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2015年2月

2015年2月28日 (土)

3度のメシ

どうでもよいことですが、また、サンドウィッチマンにやってほしい「ネタ」が浮かんだので、披露しておきます。

タイトルは、 「3度のメシ」

伊達  「それにしても良く食うなあ。お前」
冨澤  「そうですか? 実は私、3度のエッチよりメシが好きなもので…」

伊達  「なんだよ、それ! 普通逆だろ。それに、なに、3度のエッチが標準みたいになってんだよ。」
冨澤  「いや。私、メシは3度とは限らないんですよ」

伊達  「それじゃ、エッチは3度と限るみたいだろ」
冨澤  「最近は、メシが3度じゃない人も増えてますよ」

伊達  「それは、健康のこと考えて減らしてんだよ。お前は、どうみても3度より増えてるだろう」
冨澤  「いやあ。分かりますか? でも、エッチは本当に3度ですよ。」

伊達  「知らねえよ! ていうか、どんだけ標準なんだよ、それ」
冨澤  「誰が決めたかは、私も知りませんけどね」

伊達  「お前以外いねえだろ! 誰も、決めてねえんだよ。そんなの」

おあとは…、よろしいですか?
「3度のメシ」というのも、こんな感じで決まったのかもしれないですね。

2015年2月19日 (木)

「統合失調症」という「アイデンティティ」

NHKのハートネットTV、「統合失調症」(https://www.youtube.com/watch?v=i2u8TJnC86k) 

これは、どうみても、完璧主義的、自罰的傾向があだになって、うつ状態に陥ってしまった人が、精神科医により「統合失調症」と診断されてしまった例だ。

ハートネットTV 「統合失調症2」(https://www.youtube.com/watch?v=djEeoP_j-k8

こちらの加賀谷は、統合失調症というより、「どうこうしようもない症」だが(失礼)、確かに、統合失調的な経験をしたことは確かのようだ。ただ、それも、誰もが近いものを経験し得る、思春期の一時的なもので、統合失調症という「病気」として、診断されるべきものかという怪しい。

いずれにしても、この人たちは、結果として、「統合失調症」という診断を受け、それを自分に受け入れた結果、状態が安定し、楽になったということは、確かなことのようだ。

そして、このようなことは、意外と多く起こり得るし、現代では、特に起こりやすくなっていることも確かなのだろうと思われる。

この人たちは、薬も飲んでいるということで、番組では、その薬の影響で落ち着いているかのような説明もあったが、実際には、そういうこととは思われない。特に、前者の人なんか、明らかに、統合失調ではないのに、抗精神病薬と思われる薬が効いているなどとは、とても思えない。

それでは、どうしてこういうことが起こるかと言うと、それは、「病気」という診断そのものがもたらした、一種「皮肉」な効果と言うしかない。それまで、悩み、苦しんでいた状態に、病名がつけられ、「病気である」という「理由」を与えられることで、苦しい状態から一気に解放され、楽になることができた。そのこと自体が、精神的状態に、治癒的な働きをなしたということである。つまり、病名は、一種の「アイデンティティ」として機能し、自分という存在の不安定さを、解消してくれたのである

前者の人など、特にそのことが、透けてみえる。それまで、うまくいかないと自分が悪いものと、自分を責め、苦しんでいたのが、「統合失調症」という、「(脳の)病気」という診断を受けることで、うまくいかないのは、病気のせいであり、自分が悪いのでも、誰が悪いのでもないと、「目から鱗が落ちたように」納得することができたのである。そして、それまで受け入れることができず、そのためにこそ苦しんでいた、自分というものを、受け入れるこどができたのである。

それは、本当に、自分の苦しみを解放してくれ、楽になれることだと思う。そのことは、よくも悪くも、薬がもたらす効果などより、大きな影響をもたらしたのである。

また、これは加賀谷も言っていたが、統合失調の場合、幻覚(幻聴)や妄想を「現実」そのものとして受け取ることで、苦しむことが多いから、それが「病気」ということで、「現実ではない」と気づくことで、その苦しみから、一気に解放されるということもある。加賀谷の場合、「自分は臭い」というマイナスイメージの「妄想」に苦しめられていたので、それが否定できることの意味は大きい。゜

いずれにしても、統合失調状況ほど、自己のアイデンティティが、脅かされる状況もないので、たとえ「病気」というマイナスのものでも、自己の「アイデンティティ」を補強することにはなり得るのである。統合失調状況に深く入り、幻覚のリアリティに強く捕らえられれば、もはやこのようなことも起こりにくいが、浅い段階では、十分起こり得るのだ。

それにしても、現代は、一昔前のように、一般的な基準や、こうあるべきという規範のようなものも、大きく揺らいでいるから、多くの人が、自己の「アイデンティティ」を安定したものとして築くことに、苦労している状況である。

誰もが、「アイデンティティ欠乏症」とでもいうべき状態にあるということである。そのような状態を苦しんでいる者にとって、「病名」をもらい、「病気」という「アイデンテイテイ」を与えられることは、むしろ、苦しみから解放され、自己の安定に資することにもなっているのだ。

一方で、一般的な基準が揺らいでいることは、そこからの逸脱である、「精神的な病」も、かつてほど、酷いイメージではなくする。その最たるものである、「統合失調」という「病気」も、かつてほど、排除されず、どうしようもない病気ではないと、解されるようになる。また実際に、その者を取り巻く、そのような、社会的な状況の変化こそが、その者の陥る状態を緩和させ、「統合失調症の軽症化」といわれる事態をもたらしてもいる。(決して、精神薬の効果によるのではない。)

このような状況は、ますます、「統合失調症ですら」、受け入れやすい状況を作り出しているといえる。これには、「精神分裂病」から「統合失調症」と病名が変わったことも、影響している。そのようなことが、精神科に診断を受けに行く人を増やし、また、実際に、病気と診断され、「病名」を受ける事態を増やしている。そして、実際に、それを「受け入れる」人も増えており、そのことが、先に述べたように、「症状」とされるものを落ち着かせている人も、出て来ているのである。(

これまで、「病気」という見方こそが、幻覚を幻覚として受け入れることを、難しくしているということを強調して来たし、現在も、多くの場合はそうであるはずである。しかし、そのような事態は、皮肉な形で、徐々に変わり始めているということである。

いずれにしても、それは、「病気」という「アイデンティティ」を与えられること自体がもたらす効果である。ところが、それが、精神薬による治療を原因として起こっているとみなされるとき、精神疾患は、増えているとしても、かつてほど酷い状態にはならず、治療によって「寛解」するというイメージが作られることになる

現代の精神疾患のイメージは、「統合失調」も含めて、徐々にこのようなものに移行して来ているといえる。それは、製薬会社や病院にとっても、まさに、「願ったり叶ったり」のことである。一方で、精神医学を否定する流れの台頭もあるから、それに対抗するためにも、このような人たちが増えてくること、それをメディアなどて宣伝することは、大きな益をもたらす。

ただし、このことは、世界的な傾向というよりも、恐らく、とても日本的な状況なのであろう。「病気」と認めることが、集団または世間の中での「アイデンティティ」を欲する、日本の状況に沿っているということもあるし、先に述べた、「精神分裂病」から「統合失調症」への病名の変化も大いに影響している。

それでも、とりあえずの「効果」をみる限り、このようなことは、「望ましい」こととの見方もできる。それで、精神の安定を得る、実質的な効果があるなら、厳密に「精神の病気」であるか否かとか、病名の区別などに拘らないでも、「結果オーライ」ではないかという見方である。また、統合失調の場合、それで、幻覚を幻覚と認めることになるなら、確かにその効果は無視できないものがある。

しかし、そのような効果が、一時的なものではなく、長い視野でみた場合、本当に続き得るのかどうかは疑問である。また、精神薬が関わる限り、ことはそう単純にはいかない。一時的には、精神薬による害が現れ出でいないように見えても、長く服薬することにより、結局はその影響が出て来ることが予想される。また、いずれ薬を止めるとして、そのときに、強い離脱症状が出て来ることも予想される。そのような場合、それを、薬のせいではなく、もともとの「症状」が悪化した結果として処理されれば、結局は、これまでと変わらない、「病気作り」の拡大にしかならないのである。

それに、そもそも、「病気」を「アイデンティティ」として受け取ることが、精神的安定をもたらすという状況が、健全なものかということを考える必要がある。何しろ、それは、「病気」という「観念」が、違った意味で、一人歩きすることになっている状況にほかならず、その「実質」は、覆い隠されたままなのである。(参照『「病気」という見方が故の問題』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-78d9.html

 いずれにしても、そのようなことが起こるのは、統合失調状況に入っているとしても、一時的か、浅い段階の者。または、統合失調と類似の状態ではあっても、実際には統合失調とはいえないような者である。だから、真に「統合失調」とはいい難いこれらの者こそが、「統合失調症」という診断を受けることによって、状態を安定させるという皮肉な結果になっている。そして、それらの者が、メディアなどに登場することによって、いかにも、「統合失調は精神医療で寛解する」というようなイメージや、「早期発見が大事」というようなイメージを作り上げることに貢献している。

それは、がんの場合の、早期発見と治療の関係にとても似たことになっている。がんで、検診でみつかるのは、近藤誠医師によれば「がんもどき」といわれる、転移性のない、進行しないタイプのものがほとんどである。だが、それらが、がんという診断を受けて、治療を受けると、その後がんが進行しない場合、いかにも、治療により治ったというみかけになる。それで、早期発見と治療の意義が強調されることになる。

統合失調の場合にも、それと似た、一種の「もどき」が「統合失調」と診断され、その結果状態が安定したものが、いかにも、治療により「寛解」したとされ、早期発見と治療の意義が強調されるのである。その治療法なるものが、かなり危険であることも、同じである。違いは、精神的な問題なので、「診断そのもの」がもたらす効果が大きいことである。ところが、これは、「病気」と「治療」の両方の点に、いわば「二重の錯誤」が絡んでいるので、がんの場合よりたちの悪い「イメージ」といえる。

※2 2月21日 ハウス加賀谷の場合

こちらの番組では、もう少し詳しく、加賀谷の「統合失調」との関わりがとりあげられている。(http://blogos.com/article/72271/

思春期の後に、お笑い芸人として活躍し始めた後も、状態を酷くして、入院治療を受けることになったが、薬を変えることによって、「寛解」でき、10年後には復帰できたという流れである。

しかし、私は、やはり、思春期の幻聴や妄想は、確かに、統合失調的だったとしても、それは、一時的か浅いもので、後に状態を酷くしたという点は、精神薬の影響によるものである可能性が高いと思う。意欲の減退などの「陰性症状」といわれるものは、確かに、幻覚や妄想のような「陽性症状」の反動として起こることもあるが、精神薬による効果が大いに疑われ、特に多剤、多量の場合、そうならない方がおかしいのである。さらに、精神薬は、幻覚のような症状を引き起こしても、何らおかしくないもので、幻覚の点についても、その疑いは十分ある。(前の「幻聴」の場合と比べても、性質が異なるものと見受けられる。)

本人は、「医師の用法に従わなかったから」と言うが、医師の用法に従ったからと言って、これらの症状が出ないものではなく、むしろ、量が増えるのだから、余計に出てもおかしくない。それに、そもそも、もともとの状態が、一時的なものか、統合失調ではないとしたら、余計に、精神薬の影響が強く現れておかしくないのである。

さらに、薬を変えた(具体的には、エビリファイという非定型抗精神病薬)ら、一気に、「覆いがとれたように、クリアになった」ということだが、これも、新たな薬がもたらした効果といえるかは疑問である。それは、前の薬を変えたこと、そして、恐らく全体として薬の量を減らすことができたことによる効果なのであって、酷い状態をもたらす薬の効果を、全体として減らすことができたことによるものと考えられる。つまり、新しい薬の「積極的効果」なのではなく、薬の酷い効果を、減らすことができたことによる「消極的効果」ということである。それですら、「覆いがかかった」ような状態を、「クリア」にさせるだけの、効果があったのだから、前の薬の影響というものが、それだけ酷いものだった、ということである。

「非定型抗精神病薬」が、副作用も少なく、陰性症状的な状態をあまりもたらさないものとして、もてはやされる傾向があるようだが、このような「イメージ」は、恐らく、その薬の移行に伴い、加賀谷の場合と同様に、前の薬ほど酷い状態か出なくなった者が多くいたので、それを新薬そのものの効果ということで、喧伝したために作られたものと思う。

さらに、こちらの方が重要かもしれないが、加賀谷の場合は、明らかに「お笑い」にかける情熱や、相方の支援が、回復に向けて大きく影響している。それらが、「病気」を克服させたというよりも、むしろ、「精神薬の害悪」を克服させた、あるいは、させつつあるということが、本当なのだろうと思う。

2015年2月10日 (火)

「自閉」「統合失調」の疑似体験動画について

前回、シミュレーション動画や「バーチャルハルシネーション」なる技術により、「自閉症」や「統合失調症」の感覚世界が、疑似体験できるというものをとりあげた。

そして、「具体的には、いろいろと、違いも指摘できるが、少なくとも、全体として、それぞれの特徴を、一応なりとも伝えている」とだけ述べておいた。今回は、これについて、もう少し躯体的に述べてみよう。

まず、自閉症の場合http://wired.jp/2014/05/10/autism-simulation/ )。

5本の動画があるが、一番上の動画は、公園で遊んでいる子供の、つんざくような声が強調され、視野のぼやけが、子供の顔が見えないことで強調されている。音(声)が強い刺激をもって感覚されることと、視界の輪郭が定まりにくいことが、工夫して表現され、それなりに「感じ」を伝えてはいる。しかし、全体として、いかにも人工的で、戯画的な感じを受ける。

さらに、私の場合、子供の声とか犬の吠え声などは、確かに強く内部に侵入してくる感じはあり、「うるさい」と感じることはあっても、それが「攻撃的に」迫ってくるという感じは受けない。それらは、内部の情念を刺激するのだか、むしろそれが、カタルシスを感じさせることがある。その点が、他の機械的、人工的な音とか、大人の発する「声」と違っている。

3番目の動画は、スーパーでのノイズを強調して表現し、視野が不鮮明であることを表現している。確かに、こういったノイズは、「攻撃的に」内部に侵入してくる感じが強い。しかし、視野が不鮮明であることを、カメラに何かを貼りつけることで表わしているが、それはあまりにも、便宜的、機械的な方法で、実際からはかけ離れている。

4番目の動画も、普通に外を歩いているときに入り込んでくる「音」が、いかに「攻撃的」に侵入してくるようであるかを、それなりによく伝えている。この動画を見て、「集団ストーカー」の被害者と称する人の動画と近いものを感じた人も多いことだろう。実際、「集団ストーカー」の被害者と称する人の中には、かなりの割合で、自閉的傾向の人が紛れ込んでいる可能性はあるのである。

これらは、全体として、確かに、自閉の感覚世界の一つの大きな特徴なのだが、「音」の強調と、「視野」の不鮮明さ(定まらなさ)を、あまりに、機械的、画一的な方法で表現したものということができる。もちろん、動画という手法で、自閉の感覚世界を正確に表すこと自体が、多くの無理を含んでいるので、仕方のない面はあるし、それなりの工夫は認められるべきではある。

しかし、このような機械的、画一的な表現が生じるのは、やはり、一般の感覚世界こそが「正常」なもので、自閉の感覚世界とは、そこからの、(ある機械的、画一的とみなされる)「逸脱」であり、「異常」である、という認識があるからなのだと思われる。

実際には、「音」にしろ「視覚世界」にしろ、単純に、機械的、画一的に、強烈に侵入してくるとか、不鮮明になるとかいうのではない。先ほど、子供の声や犬の吠え声の例で言ったように、それは、対象によっても異なるし、状況にも左右される。そして、それは、むしろ、感覚の鋭敏さのために、そのものの、差異や細部の特徴をより捉えているからこそ、それが強調されて、そのように現れ出ているという面がある。つまり、一般の感覚からの、単なる「逸脱」というよりも、それ以上に、そのものの「生」の性質を捉えているところから来るものといえるのである。

たとえば、4番目の動画で、外を歩いたときの「音」の世界が強調されて表現されているが、そうしてみると、改めて、我々の身近に醸し出される音世界が、いかに「神経を逆なで」する「不快」なもので満たされているかを、感じ取れないだろうか。つまり、それは、本来そうである性質を忠実に捉えていて、ただそれが強調されて表現されているに過ぎないということを、感じ取れるのではないか。

だから、それは、単純な、機械的、画一的な「逸脱」などではなく、むしろ、一般に共通と思われている感覚世界こそが、機械的、画一的な形へとはめ込まれた、一種の「制限」なのである。その、機械的、画一的な感覚の「制限」を、「正常」なものとみなすから、そこからの逸脱も、機械的、画一的なもののように捉えられてしまうことになるのだろう。

さらに、これらの動画では、これまで何度か述べた、自閉の感覚世界の、自己と切り離される感覚の薄い、「直接性」というものが、全く表現されていない。あるいは、「音」や「視界の輪郭の定まらなさ」ということも、このような感覚世界の「直接性」ということの、一つの表現にはなり得るかもしれない。しかし、それも、単に、機械的、画一的に表現したのでは、そのような「直接性」とはかけ離れたものになる。

もちろん、これも、そもそも動画として表現すること自体が、多分に無理なことではある。しかし、この点も、やはり、一般の感覚世界こそが「正常」という前提から来ている面が大きく、自己から切り離された「外部世界」を当然の前提とするからこそ、単に「音」の過敏さとか、「視界」の輪郭の定まりのなさということが、そこから「逸脱」した部分として、強調されるしかないのだといえる。

それでは、次に、統合失調症の場合http://www.mental-navi.net/togoshicchosho/virtual/

これも、人が話をしているのが、自分のことのように感じられる。さらに、それが実際に、自分のことを言っている「声」として聞こえてしまう、という「統合失調」においてよく起こる状況を、それなりに的確に伝えていると思う。本来、声がはっきりと聞こえてくるはずのないような、微妙な距離のあるところから、明確に聞こえているのも、よく状況を捉えている。まさに、「人と人の間」から、聞こえているのである。これは、喫茶店のような場所でなくとも、道を歩いていて、通り過ぎざまに聞こえる、人の話などにもよくあることで、私の場合も、これに近い状況は、よくあった。

しかし、いくつか、問題をあげると、まず、これらの「幻聴」の声が、あまりに「人間的」に過ぎる。実際、この動画は、人間によって演出されたのだろうし、これも、「非人間的なもの」を技術的に表現するのが無理であるので、仕方がない面はある。しかし、これでは、「ぞっとする」ような、真の恐怖は伝わらず、むしろ、ユーモラスで戯画的な感じさえ受けてしまうだろう。

また、「声」の量が、無闇に多過ぎる。「声」は、「量」で攻めてくるというよりは、「質」で攻めてくるのであり、有効な「一撃」の方が、無闇な量の攻撃より、よほど効くのである。あるいは、量的なものは、単に「ノイズ」として不明瞭なものとして聞こえ、それを背景にして、的確な「有効打」が、明確に聞きとれるものとして、ときどき聞こえるというのが、実際に近い。

恐らく、この動画を見た人は、「統合失調」というのは、「声」が実際に聞こえてくるように「感じる」のだとしても、本当は、単に、自分で「こう言っているのではないか」と疑ったことを、いかにも、真実の声のように聞いてしまっているのだな、と感じることだろう。要するに、被害妄想が激しくて、その思いが強烈なために、それを実際に、「声」であるかのように聞いてしまうということである。

そうすると、「了解」できたような気にはなるが、「統合失調」の実際の感覚世界からは、かけ離れることになる。そして、単に被害妄想が強くて、「自分のことを言っているように感じられる」場合を拡大して、「統合失調」と解することにもなる。つまり、この動画では、かなり、「統合失調」が拡大解釈される可能性があり、これに近いような多くの場合に、「統合失調」の疑いをもたせることになる。実際、それこそ、この技術を制作した、製薬会社の狙いということも言えるだろう。

実は、この「バーチャルハルシネーション」は、日本版として独自に制作されたもので、アメリカ版はこちらである。(https://www.youtube.com/watch?v=nvHP3oxB-aQ

こちらでは、「幻視」もかなり強調されて表現されており、被害妄想的なものはあまり前面に出ていない。日本版では、この点が、日本における、多くの事例に即さないとして、それに即したものを、改めて開発したようだ。

確かに、日本では、何人かの者が話している状況で、「幻聴」が主として起こり、迫害妄想的な内容となる、というのが典型的なものといえる。それに対して、アメリカでは、「幻視」も含む、こういうタイプのものも多くあるということが言えるのだろう。()

医師の顔が「三つ目」になる「幻視」は、あまりに、ホラー的、戯画的に過ぎるが、こちらも、「統合失調」で、面と向かう者といる状況についての、感覚世界の変容を、それなりによく伝えていると思う。そのため、相手の話に集中できないところなどもそうである。私の場合、「幻視」もあったので、こちらに近い状況も、よくあった。

「あまりに、ホラー的、戯画的」と言ったが、しかし、ある意味では、こちらの方が、「統合失調」の「統合失調らしさ」を、よく表わしているとも言えるのである。それは、「日常性」をかけ離れた「非日常性」という意味でもそうだし、「非人間的」な面も表わしている。この動画を見る者は、「統合失調」というものを、一般の感覚世界から、かなりかけ離れた、「非日常的」なものと受け取り、単純な妄想の延長のようにはみなさないことだろう。

しかし、いずれにしても、これらが、一般の感覚世界に侵入して来た、「幻覚」の世界であり、「異常」なものであるという前提に立っているのは、言うまでもない。そして、実際、そのことばかりが、強調されて表現されている。

しかし、前回も述べたように、「統合失調」にも、「自閉」の場合と共通の「感覚世界」の鋭敏さや、自己と切り離された感覚の薄い、「直接性」という特徴がある。ところが、それらは、これらでは全く表現されることはない。そういった面は、切り捨てられているから、いかにも「幻覚」らしい、「異常」である面のみが、強調されて浮かび上がっている。

しかし、自閉の場合と同様、それらは、機械的、画一的に「制限」された、一般の感覚世界以上に、より「生の現実」をすくい取っている面があるのである。そして、そのことは、「幻覚」についても言える。つまり、「幻覚」ですら、決して 単なる「逸脱」なのではなく、そのように、「生の現実」の一面を捉えているからこそ、より「リアル」なものとして生じているということが、言えるのである。

最後に、もう一度、日本版の「バーチャルハルシネーション」(http://www.mental-navi.net/togoshicchosho/virtual/)について触れておく。

もし、この動画が示す状況と近いことが起こった場合、それを「統合失調症」という「病気」と受け取ることは、まさに、制作者側の、「精神薬による治療」への誘導という戦略にハマるだけである。

しかし、この動画は、実際に、多くの場合に当てはまる、典型的な状況を示しているので、その「事実」の部分をしっかりと受け止める限り、十分の意義はもたらし得る。

それは、このような状況において、いかにも、その場にいる人が話している、自分のことを言っている「声」のように聞えるとしても、実際には、誰にもに聞こえる、「物理的な声」なのではなく、いわゆる「幻覚」である可能性が高い、ということである

このような状況では、たとえ実際に周りの人物が話している「リアルな声」のように聞こえても、そのとおりに受け取ってはならないということである。そして、それが「幻覚」である可能性を、当然のように、疑わなくてはならないのである。ただし、それを「病気」などというのは、社会的な「判断」に過ぎないので、そのような判断に惑わされてはならない。「幻覚」といわれるものの正体についても、様々な場合があるので、即座に決めつけることはできない。ただ、自ら本気で取り組めば、それは見極められないものなのではない。

いずれにしても、それが、「幻覚」といわれるものであること自体は、認めなくては、何も始まらないのである

「統合失調」と言われる状況についての、これくらいの「知識」は、もはや、最低限の知識として、行き渡っている必要がある。この動画を、そのようなものとして利用するなら、それは、十分役立つものともなるだろう。

それにしても、それを阻むのは、「幻覚」というものを、「正常」から逸脱した、「異常」なものとみなすことであり、「病気」とみることなのである。それこそが、「幻覚」として受け取ることを、難しくしていることは、何度強調してもし過ぎることはないだろう。

 2月15日  日本版とアメリカ版にみる、このような典型例の違いは、それぞれの文化の違いを反映しているとみることができる。

つまり、日本では、集団または世間との関係で、自己のアイデンティテイが築かれることが多いのに対し、欧米では、一対一の、特定の個人との関係で、自己のアイデンティテイが築かれることが多い。この一対一の関係の背後には、一神教的な神があるものと思われる。

そして、そのような自己のアイデンティテイが壊れる状況というのも、また、そのアイデンテイティが築かれる状況の裏返しとして、それぞれの文化的状況を反映するものとなる。日本では、集団や世間との関係で、自己のアイデンティテイが壊れるような、幻聴を聞いたり、そこから迫害される妄想を成形することになる。欧米では、一対一の関係において、自己のアイデンティティが壊れるような、幻覚を見たり、妄想を形成する。それは、神の裏返しとしての、「悪魔」的なものともなる。

あるいは、日本は、受動的に「聞く」文化なのに対して、欧米は、積極的に「見る」文化ともいえる。危機的状況でも、それを反映し、その「聞く」と「見る」に関わる幻覚をもちやすいのだといえる。

これらは、統合失調というものが、本質的に、文化的または社会的に築かれた自己の崩壊に関わるものなのであって、脳の機能がどうのこうのという問題ではない(もちろん併行的にそれを伴わないわけではないが)ことをも、物語っているといえる。

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