前回、シミュレーション動画や「バーチャルハルシネーション」なる技術により、「自閉症」や「統合失調症」の感覚世界が、疑似体験できるというものをとりあげた。
そして、「具体的には、いろいろと、違いも指摘できるが、少なくとも、全体として、それぞれの特徴を、一応なりとも伝えている」とだけ述べておいた。今回は、これについて、もう少し躯体的に述べてみよう。
まず、自閉症の場合(http://wired.jp/2014/05/10/autism-simulation/ )。
5本の動画があるが、一番上の動画は、公園で遊んでいる子供の、つんざくような声が強調され、視野のぼやけが、子供の顔が見えないことで強調されている。音(声)が強い刺激をもって感覚されることと、視界の輪郭が定まりにくいことが、工夫して表現され、それなりに「感じ」を伝えてはいる。しかし、全体として、いかにも人工的で、戯画的な感じを受ける。
さらに、私の場合、子供の声とか犬の吠え声などは、確かに強く内部に侵入してくる感じはあり、「うるさい」と感じることはあっても、それが「攻撃的に」迫ってくるという感じは受けない。それらは、内部の情念を刺激するのだか、むしろそれが、カタルシスを感じさせることがある。その点が、他の機械的、人工的な音とか、大人の発する「声」と違っている。
3番目の動画は、スーパーでのノイズを強調して表現し、視野が不鮮明であることを表現している。確かに、こういったノイズは、「攻撃的に」内部に侵入してくる感じが強い。しかし、視野が不鮮明であることを、カメラに何かを貼りつけることで表わしているが、それはあまりにも、便宜的、機械的な方法で、実際からはかけ離れている。
4番目の動画も、普通に外を歩いているときに入り込んでくる「音」が、いかに「攻撃的」に侵入してくるようであるかを、それなりによく伝えている。この動画を見て、「集団ストーカー」の被害者と称する人の動画と近いものを感じた人も多いことだろう。実際、「集団ストーカー」の被害者と称する人の中には、かなりの割合で、自閉的傾向の人が紛れ込んでいる可能性はあるのである。
これらは、全体として、確かに、自閉の感覚世界の一つの大きな特徴なのだが、「音」の強調と、「視野」の不鮮明さ(定まらなさ)を、あまりに、機械的、画一的な方法で表現したものということができる。もちろん、動画という手法で、自閉の感覚世界を正確に表すこと自体が、多くの無理を含んでいるので、仕方のない面はあるし、それなりの工夫は認められるべきではある。
しかし、このような機械的、画一的な表現が生じるのは、やはり、一般の感覚世界こそが「正常」なもので、自閉の感覚世界とは、そこからの、(ある機械的、画一的とみなされる)「逸脱」であり、「異常」である、という認識があるからなのだと思われる。
実際には、「音」にしろ「視覚世界」にしろ、単純に、機械的、画一的に、強烈に侵入してくるとか、不鮮明になるとかいうのではない。先ほど、子供の声や犬の吠え声の例で言ったように、それは、対象によっても異なるし、状況にも左右される。そして、それは、むしろ、感覚の鋭敏さのために、そのものの、差異や細部の特徴をより捉えているからこそ、それが強調されて、そのように現れ出ているという面がある。つまり、一般の感覚からの、単なる「逸脱」というよりも、それ以上に、そのものの「生」の性質を捉えているところから来るものといえるのである。
たとえば、4番目の動画で、外を歩いたときの「音」の世界が強調されて表現されているが、そうしてみると、改めて、我々の身近に醸し出される音世界が、いかに「神経を逆なで」する「不快」なもので満たされているかを、感じ取れないだろうか。つまり、それは、本来そうである性質を忠実に捉えていて、ただそれが強調されて表現されているに過ぎないということを、感じ取れるのではないか。
だから、それは、単純な、機械的、画一的な「逸脱」などではなく、むしろ、一般に共通と思われている感覚世界こそが、機械的、画一的な形へとはめ込まれた、一種の「制限」なのである。その、機械的、画一的な感覚の「制限」を、「正常」なものとみなすから、そこからの逸脱も、機械的、画一的なもののように捉えられてしまうことになるのだろう。
さらに、これらの動画では、これまで何度か述べた、自閉の感覚世界の、自己と切り離される感覚の薄い、「直接性」というものが、全く表現されていない。あるいは、「音」や「視界の輪郭の定まらなさ」ということも、このような感覚世界の「直接性」ということの、一つの表現にはなり得るかもしれない。しかし、それも、単に、機械的、画一的に表現したのでは、そのような「直接性」とはかけ離れたものになる。
もちろん、これも、そもそも動画として表現すること自体が、多分に無理なことではある。しかし、この点も、やはり、一般の感覚世界こそが「正常」という前提から来ている面が大きく、自己から切り離された「外部世界」を当然の前提とするからこそ、単に「音」の過敏さとか、「視界」の輪郭の定まりのなさということが、そこから「逸脱」した部分として、強調されるしかないのだといえる。
それでは、次に、統合失調症の場合(http://www.mental-navi.net/togoshicchosho/virtual/ )
これも、人が話をしているのが、自分のことのように感じられる。さらに、それが実際に、自分のことを言っている「声」として聞こえてしまう、という「統合失調」においてよく起こる状況を、それなりに的確に伝えていると思う。本来、声がはっきりと聞こえてくるはずのないような、微妙な距離のあるところから、明確に聞こえているのも、よく状況を捉えている。まさに、「人と人の間」から、聞こえているのである。これは、喫茶店のような場所でなくとも、道を歩いていて、通り過ぎざまに聞こえる、人の話などにもよくあることで、私の場合も、これに近い状況は、よくあった。
しかし、いくつか、問題をあげると、まず、これらの「幻聴」の声が、あまりに「人間的」に過ぎる。実際、この動画は、人間によって演出されたのだろうし、これも、「非人間的なもの」を技術的に表現するのが無理であるので、仕方がない面はある。しかし、これでは、「ぞっとする」ような、真の恐怖は伝わらず、むしろ、ユーモラスで戯画的な感じさえ受けてしまうだろう。
また、「声」の量が、無闇に多過ぎる。「声」は、「量」で攻めてくるというよりは、「質」で攻めてくるのであり、有効な「一撃」の方が、無闇な量の攻撃より、よほど効くのである。あるいは、量的なものは、単に「ノイズ」として不明瞭なものとして聞こえ、それを背景にして、的確な「有効打」が、明確に聞きとれるものとして、ときどき聞こえるというのが、実際に近い。
恐らく、この動画を見た人は、「統合失調」というのは、「声」が実際に聞こえてくるように「感じる」のだとしても、本当は、単に、自分で「こう言っているのではないか」と疑ったことを、いかにも、真実の声のように聞いてしまっているのだな、と感じることだろう。要するに、被害妄想が激しくて、その思いが強烈なために、それを実際に、「声」であるかのように聞いてしまうということである。
そうすると、「了解」できたような気にはなるが、「統合失調」の実際の感覚世界からは、かけ離れることになる。そして、単に被害妄想が強くて、「自分のことを言っているように感じられる」場合を拡大して、「統合失調」と解することにもなる。つまり、この動画では、かなり、「統合失調」が拡大解釈される可能性があり、これに近いような多くの場合に、「統合失調」の疑いをもたせることになる。実際、それこそ、この技術を制作した、製薬会社の狙いということも言えるだろう。
実は、この「バーチャルハルシネーション」は、日本版として独自に制作されたもので、アメリカ版はこちらである。(https://www.youtube.com/watch?v=nvHP3oxB-aQ)
こちらでは、「幻視」もかなり強調されて表現されており、被害妄想的なものはあまり前面に出ていない。日本版では、この点が、日本における、多くの事例に即さないとして、それに即したものを、改めて開発したようだ。
確かに、日本では、何人かの者が話している状況で、「幻聴」が主として起こり、迫害妄想的な内容となる、というのが典型的なものといえる。それに対して、アメリカでは、「幻視」も含む、こういうタイプのものも多くあるということが言えるのだろう。(※)
医師の顔が「三つ目」になる「幻視」は、あまりに、ホラー的、戯画的に過ぎるが、こちらも、「統合失調」で、面と向かう者といる状況についての、感覚世界の変容を、それなりによく伝えていると思う。そのため、相手の話に集中できないところなどもそうである。私の場合、「幻視」もあったので、こちらに近い状況も、よくあった。
「あまりに、ホラー的、戯画的」と言ったが、しかし、ある意味では、こちらの方が、「統合失調」の「統合失調らしさ」を、よく表わしているとも言えるのである。それは、「日常性」をかけ離れた「非日常性」という意味でもそうだし、「非人間的」な面も表わしている。この動画を見る者は、「統合失調」というものを、一般の感覚世界から、かなりかけ離れた、「非日常的」なものと受け取り、単純な妄想の延長のようにはみなさないことだろう。
しかし、いずれにしても、これらが、一般の感覚世界に侵入して来た、「幻覚」の世界であり、「異常」なものであるという前提に立っているのは、言うまでもない。そして、実際、そのことばかりが、強調されて表現されている。
しかし、前回も述べたように、「統合失調」にも、「自閉」の場合と共通の「感覚世界」の鋭敏さや、自己と切り離された感覚の薄い、「直接性」という特徴がある。ところが、それらは、これらでは全く表現されることはない。そういった面は、切り捨てられているから、いかにも「幻覚」らしい、「異常」である面のみが、強調されて浮かび上がっている。
しかし、自閉の場合と同様、それらは、機械的、画一的に「制限」された、一般の感覚世界以上に、より「生の現実」をすくい取っている面があるのである。そして、そのことは、「幻覚」についても言える。つまり、「幻覚」ですら、決して 単なる「逸脱」なのではなく、そのように、「生の現実」の一面を捉えているからこそ、より「リアル」なものとして生じているということが、言えるのである。
最後に、もう一度、日本版の「バーチャルハルシネーション」(http://www.mental-navi.net/togoshicchosho/virtual/)について触れておく。
もし、この動画が示す状況と近いことが起こった場合、それを「統合失調症」という「病気」と受け取ることは、まさに、制作者側の、「精神薬による治療」への誘導という戦略にハマるだけである。
しかし、この動画は、実際に、多くの場合に当てはまる、典型的な状況を示しているので、その「事実」の部分をしっかりと受け止める限り、十分の意義はもたらし得る。
それは、このような状況において、いかにも、その場にいる人が話している、自分のことを言っている「声」のように聞えるとしても、実際には、誰にもに聞こえる、「物理的な声」なのではなく、いわゆる「幻覚」である可能性が高い、ということである。
このような状況では、たとえ実際に周りの人物が話している「リアルな声」のように聞こえても、そのとおりに受け取ってはならないということである。そして、それが「幻覚」である可能性を、当然のように、疑わなくてはならないのである。ただし、それを「病気」などというのは、社会的な「判断」に過ぎないので、そのような判断に惑わされてはならない。「幻覚」といわれるものの正体についても、様々な場合があるので、即座に決めつけることはできない。ただ、自ら本気で取り組めば、それは見極められないものなのではない。
いずれにしても、それが、「幻覚」といわれるものであること自体は、認めなくては、何も始まらないのである。
「統合失調」と言われる状況についての、これくらいの「知識」は、もはや、最低限の知識として、行き渡っている必要がある。この動画を、そのようなものとして利用するなら、それは、十分役立つものともなるだろう。
それにしても、それを阻むのは、「幻覚」というものを、「正常」から逸脱した、「異常」なものとみなすことであり、「病気」とみることなのである。それこそが、「幻覚」として受け取ることを、難しくしていることは、何度強調してもし過ぎることはないだろう。
※ 2月15日 日本版とアメリカ版にみる、このような典型例の違いは、それぞれの文化の違いを反映しているとみることができる。
つまり、日本では、集団または世間との関係で、自己のアイデンティテイが築かれることが多いのに対し、欧米では、一対一の、特定の個人との関係で、自己のアイデンティテイが築かれることが多い。この一対一の関係の背後には、一神教的な神があるものと思われる。
そして、そのような自己のアイデンティテイが壊れる状況というのも、また、そのアイデンテイティが築かれる状況の裏返しとして、それぞれの文化的状況を反映するものとなる。日本では、集団や世間との関係で、自己のアイデンティテイが壊れるような、幻聴を聞いたり、そこから迫害される妄想を成形することになる。欧米では、一対一の関係において、自己のアイデンティティが壊れるような、幻覚を見たり、妄想を形成する。それは、神の裏返しとしての、「悪魔」的なものともなる。
あるいは、日本は、受動的に「聞く」文化なのに対して、欧米は、積極的に「見る」文化ともいえる。危機的状況でも、それを反映し、その「聞く」と「見る」に関わる幻覚をもちやすいのだといえる。
これらは、統合失調というものが、本質的に、文化的または社会的に築かれた自己の崩壊に関わるものなのであって、脳の機能がどうのこうのという問題ではない(もちろん併行的にそれを伴わないわけではないが)ことをも、物語っているといえる。
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