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2015年1月20日 (火)

「自閉」「統合失調」の感覚世界と「音」

                                                       
「自閉」及び「統合失調」の感覚世界について、記事『「自閉」と「統合失調」/ノート』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-6a53.html#comments)で、コメントした内容は、分かりやすくまとまっていると思うので、再掲しておく。

『個性としての「自閉的な精神世界の人」は、現実界のほころびや隙間、霊界の領域などに「自ら歩み寄り、かつ離れることを可能にする」感覚や能力が「有る」のかも知れないと感じます』

そうですね。「霊界の領域」とまで言えるかどうかは、人にもよると思いますが、「自閉」の人が、一般の多くの人とは異なる「感覚世界」に生きていることは確かと思います。

これはむしろ、逆に、一般の多くの人の方が、言語や信念体系に基づく、「自我」という閉じられた構造によって、外界の認識を「制限」していると解した方が分かりやすいかもしれません。「自閉」の人は、より、制限の少ない、「生」に近い形で、感覚世界を感じ取っているということですね。そこに、「霊界」のようなものも、含まれる可能性があるし、そうでなくても、陳腐な言語表現にくみ取れないような、「変化」に富んだ、「流動的」な感覚世界を、割と日常的に肌で感じ取っているということです。それは、うまく制御されて、外部に表現されるときには、芸術的な才能としても発揮されるわけですね。

ただし、その「変化」に富んだ「流動的」な感覚世界は、(一旦「自我」が形成されると、もはやその感覚は忘れられてしまうのが普通ですが)、「過剰」なもので、自己の安定性を脅かす恐ろしい世界でもあるわけです。「自閉」の人も、その恐怖から、傍目には奇妙な、拘り行動や常同的な行動で、防衛する必要があるのだと思います。

ただ、「自閉」の人は、「統合失調」の場合に比べると、その「世界」に、割と日常的に親しんでいて、自分なりの防衛手段も身につけているからこそ、「現実社会での自己構築」ということも、成し遂げやすいのだと思います。

「統合失調」の場合は、(私もそうでしたが)もともとその傾向がある場合もあるでしょうが、一旦は、そのような「感覚世界」からは遮断されて、紛いなりにも、多くの人と同様の「自我」を身につけるのだと思います。ただし、それは不安定で、罅が入りやすく、後に、何らかの機会に、その遮断された「感覚世界」が、本人にとっては、全くの未知のものとして、(せき止められていた水のように)急激に、しかもより強力な形で、侵入してくることになりやすいのです。

それは「自閉」の場合と違って、「慣れ親しんだ」ものではなく、防衛手段も身につけていない状態で起こるものです。それで、『自己の意思で身の振りようが出来ず、しかも、常に霊界周辺の領域から一方的に「侵襲」を受け、自分の意思で動けない、かなり受動的な事態』ということにもなってしまうのですね。また、一旦身につけた「自我」の崩壊という、破壊的要素が顕著に現れるので、「現実社会での自己構築」ということは、難しいのが普通ということにもなります。

「自閉」や「統合失調」の者の感覚世界は、一般の多くの者のものより、「制限」が少く、より「生」に近いものということだった。

これについては、一般の多くの者の感覚世界というものが、「世界」を正確に写し取っているのでも、正しいのてもなく、「制限」されたものだということを、理解できるかどうかが鍵になるだろう。「制限」されたものだからこそ、「世界」を、多くの者の間で「共通」のもののように、「安定的」また「固定的」なものとして、受け取ることができるのである。それは、多くの者と信念体系を共有された、「自我」によって、「閉じる」というあり方を、身につけているからこそ、できることである。

言い換えれば、「自我」によって「閉じる」というあり方が、身についていないか、壊れてしまうと、「世界」は、もともとの、制限されない、「過剰」な面を露わにする。それは、「流動的」で「変化」に満ちたもので、「安定的」または「固定的」なものとして、受け取ることができないのである。

また、「自閉」「統合失調」の者の感覚世界は、制限が少ないというだけでなく、より「直接性」が強いものである。つまり、「自我」によって、切り離されたものとして、仕切られる度合いが少ない分、「世界」はより「直接的」に体験されるのである。(※)

これは、視覚的な世界についても、言えるのだが、特に、「音」の聴覚的世界では、その度合いが強い。「自閉」「統合失調」の者の感覚世界では、音が、直接内部で反響するように、強烈に体験され、まるで自己に襲いかかるかのように、侵入して来るのである。

前に、統合失調状況での幻覚は、なぜ「幻聴」つまり「声」が多いのかを述べた。(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post-57ab.html)。そして、その大きな理由として、「声」は、視覚的なものよりも、外から、自分の内部に、直接侵入するかのように、体感されるので、より攻撃的なものとして、意識されやすいことを述べた。声の内容によって、それはますます助長されるのだが、内容によらずとも、「声」自体、さらに「音」(特に人の立てる人工的な音)というものはすべて、そのように、感じ取られてしまうのである。だから、それは、自分に向けられた攻撃のように受け取られ、迫害的な「妄想」にも力を与えてしまう。

これは、特に、「統合失調」に言えることだろうが、恐らく、「自閉」の感覚世界でも、それに近いことが起こっていると思われるのだ。

私の場合も、一連の体験時には、それは本当に酷くて、他人の声や音が、自分の中(頭だけでなく全身)を貫いて、おおげさに言えば、存在を打ち砕くかのような感覚になることがあった。ムンクの『叫び』の絵も、まさに、それを表しているかのようだ。それは、私の場合、(自閉的傾向があったので)もともとあった傾向といえるが、その強烈さは、この一連の体験時には、尋常でないものになっていた。そして、当時の比ではないが、その傾向は今も続いている。

だから、たとえば、「集団ストーカーの被害者」が、「ノイズ・キャンペーン」などと言って、ノイズを自分に向けられて、攻撃されていると思ってしまうことも、理解できる。実際に、そのように、音が自分目がけて襲って来るように感じられるのだ。音に敏感だったり、自閉的傾向や、統合失調傾向がある場合には、そのように思ってしまう危険はさらに高まる。

そのほかの、人が身近で、無自覚的になす「咳払い」や、何らかの出す音も、そのように、自分に向けられた攻撃のように感じられることがある。また、「タイミングのいい人や車の横切り」なども、実際には、そのこと自体よりも、そのときに出る音によって、そのように受け止められている可能性がある。さらに、「テクノロジー犯罪」などといって、電波による攻撃とされるものも、実際には、何らかの音が感知されていて、それが攻撃的に侵入して来るために、電波による攻撃と解されてしまっている可能性がある。

そのように、音自体が、攻撃的なものとして、敏感に受け取られる性質なり、状況というものがある。だから、そういう者は、自分のそのような性質を、自覚している必要がある。音が、自分に対する攻撃のように感じられるとしても、それは自分の感覚の鋭敏さのためで、実際には、そうでないものと修正して受け止める必要があるのだ

それにしても、大体が、現代は、都市であろうが、地方であろうが、人をイライラさせ、滅入らせるような音に満ちているといえる。それは、恐らく、特に音に敏感でない者にとっても、多かれ少なかれ感じることだろう。

今は、大分改良されたものもあるが、救急車やパトカーなどのサイレンの音、車やバイクの騒音、必ずどこかしらで行われる工事の音、建物の中でも、電話の呼び出し音、洗濯機その他の機械の作動音、それからパソコンのマウスのクリック音など。これらは、あえて、人の神経を逆なでするように、設計されているかのようだ。あるいは、一定の、音に敏感な者がいることを予め想定して、それらの者が「攻撃されている」と誤って受け取ることを予期しつつ、あえてそのような効果を狙っているとすら思えるものだ。

実際、そうすることで、多くの人々を精神的に弱らせることができるし、社会に、様々な軋轢のもとを作ることができる。決して、無視できないほどの効果を、実際に、もたらしているのだ。さらに言えば、「捕食者」などの存在は、そのことを分かっていて、「人と人の間」で、あえて「音」を利用して、そのようなことを助長する働きかけをしている。

そういうわけで、「音」に対する敏感な反応は、第一に、「自閉」「統合失調」の者の感覚世界の問題であり、周りの者も、そのことを理解するだけで、大分違ってくると思う。また、本人自身も、そのことを自覚して、なるべく影響を受けないような、対処法を身につける必要がある。しかし、一方で、社会の側の問題といえる面も持ち合わせているはずなのである。

※  前に、統合失調状況を疑似的に体験できるものとして、幻覚剤の体験をあげたが、それは、このような「自閉」「統合失調」の感覚世界に近いものでもある。特に、オルダス・ハクスリーが『知覚の扉』で述べているものは、そうなので、参考になるはずである。(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/1-55fa.html

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コメント

ティエム様、有難うございます。

−−私の場合も、一連の体験時には、それは本当に酷くて、他人の声や音が、自分の中(頭だけでなく全身を貫いて)おおげさに言えば、存在を打ち砕くかのような感覚になることがあった。

酷似した経験があります。説明困難ですが、Volume1〜2のはずがこちらへ向かって、鋭敏なスピーカーで増幅されて10〜MAXを上下するような感覚に打ちのめされました。しかも何一つ自分には危機的な感覚状況をコントロールする術がなく、抵抗しようと力を入れたなら、「入れた倍以上の力に引き戻される」そのような圧倒的なものでした。一秒ごとに翻弄され、ひと気のないどこかで放心状態になりながら、「圧倒的な力に打ちのめされる状態」と「サンドバッグされている状態」の、我れがありました。

あと、私も1歳〜5歳位までを振り返れば、確かに自閉しながら大人を観察していた記憶があります。

時に子供は、感受した諸々のものや、無神経な大人の言動に、深い意味をもって硬直したり泣きわめいたりする時があります。私の周囲にはその意味を読み取ろうとする視点を持つ方は近くには殆どいなかった(少し遠方の親戚や知人にはいた)と記憶しています。大人は「変な扱いにくい子供、という『常識』」で不快そうに無視か罵倒か、大勢で笑うかでした。それだけに、ある日の遠方の親戚の「この子は賢いよ。考えている」との一言は忘れ難いです。心に驚きと歓喜を浴びせました。

そのような心を、自分だけの「ゆらぎの世界」最も自分が自分でいられる場所(空き地や押し入れ等)で保っていたように覚えております。

幼児期の体験があるお陰で、私は子供を小馬鹿にしたことはあまりありません。

地獄と天国が同居した幼稚園生活を経て、小学入学後辺りからぼやぼやと組み立ててきたのが「仮のもの」(日頃対人面で出来るだけ悩まずに済むような便利な現代文明の外装)でした。

高三に上がる頃、身内の死に直面した衝撃が引き金になり、自己世界がまるでタマゴの殻がピキピキッとひび割れはじめるような感じになっていきました。ですが、自分は心のどこかでずっと、「いつか(仮の何かが)壊れていく」ことを予感していたように思います。それでも、望みまではしていませんでしたが。

あの十八歳の日を思いだすには自律と体力がかなり必要なので、今日はこの位にします。

みるくゆがふさんありがとうございます。

みるくゆがふさんも、「自閉」に類した幼児期の体験があるのですね。

思えば、そもそも、幼児期あるいは子どもというものは、自我も未発達で、感覚も鋭く、周囲の音のような感覚から、大人の(無神経な)態度、言葉などに対しては、「自閉」という防御手段をとるしかないところがあります。ある意味、誰もが、「自閉」の芽を持っているのだと思います。ただ、その傾向が強くて、あるいは、そうせざるを得ない環境にあったため、その芽を大きく育てることになってしまう人もかなりいるということですね。

また、「自閉」の人がそのように「音」に対して鋭敏に(弱く)なるのは、幼児期、子どもの頃から、神経を逆なでするような「音」にさらされ続けたからという可能性もあると思います。ワクチンや種々の化学物質のほかに、そのような可能性も顧みる必要があるのてはないかと思います。

音に関しては体験的に2~3の特徴があると思います。
それはタイミングとその人が何故か反応してしまうようなものということです。
タイミング故にシンクロニシティというような解釈も出てくると思います。
一方でそれを超えたような音声も無きにしもあらず。
例えば自分でできる霊性開花というような本にはなぜか目につく携帯電話の話者などは、
霊界に何かが聞こえているというようなメッセージだとかそういう解釈もあったりと、
音では無いですが、音なども含めてこういったことを訴えている人々は何か特殊なことを訴えていると思います。

今後の研究ますますの発展お祈り申し上げます、

音に鋭い人が聞く「音」の中に、単純に「物理的な音」に還元できない音があることは、そのとおりと思います。「電波系」が、単に「物理的な電波」を受信するのではないように、そのようなものを感知してしまう人も、かなりいると思います。

こんにちは。
そしてお久しぶりです。


実際にある事ですが、壊れた雨どいの真下周辺に、「逆さまにしたバケツ」を置き、ドラム音を出すという行為です。


実は、例の風鈴被害から、バケツドラム音被害に移行してしまいまして、困っていたところです。


検索しても、ノイズキャンペーンの例としては見かけないものですので参考までに。


私の場合は、大屋にクレームをいれても無視に近い対応でした…。

お久しぶりです。

私の理解では、これは、多くの人が、音に敏感(あるいは、多くの人にとっては「過敏」と感じられるのかもしれませんが)である人のことを、理解しようとしないこと(その余裕もないこと)の問題です。

それを理解してもらうとすれば、自分は音に敏感であって、普通の人は気にしないような音でも、酷く神経を傷つけられるのだということを訴えかけなくてはならないと思います。「わざとやっといる」のではないかということを臭わせたり、態度で表わしていたりする限り、理解されることはないと思った方がいいです。

風鈴にしても今回のバケツドラム音にしても、気になるかならないかは、日常にある音であるかどうかですが、「壊れた雨どい下の逆さまにされたバケツ」が奏でる音は、たぶん多くの人にとっては、「ノイズ」になるように思います。


また、視力と同様に聴力も様々ありますので、コミュニケーションのない他人に理解を求めるのは「岩盤を穿つ」ようです。私の場合、耳に持病はなく、聴覚過敏症でもないように思います(食器がぶつかり合う音等はゼンゼン気にならない)。

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