「自閉」「統合失調」の感覚世界の相違
前回は、「自閉」と「統合失調」の感覚世界の、共通する面にスポットを当てて、説明した。実際、両者は、一般の多くの者が共有している(つもりの)感覚世界と比べた場合、共通する面が際立つのである。それは、一般の多くの者の感覚世界が、外界の世界をそのまま写し取っているのではなく、言語や信念体系により「切り取」り、「制限」して知覚していることことによって、そうなのだった。つまり、「自閉」と「統合失調」の感覚世界は、ともに、一般の感覚世界から逸脱するわけだが、それは、より「制限」されない、「生」に近いものとして、共通の性質を有するのである。
しかし、一般の、「自閉」と「統合失調」のイメージからすると、このことには違和感をもつ人も多いだろう。「自閉」については、このような理解が認められても、「統合失調」については、認め難いものがあるはずだからである。それは、やはり、「統合失調」には、「幻覚(幻聴)」というイメージがつきまとい、一般の感覚世界からすれば、「誤った」ものとしか受け取り難いからである。
最近は、シミュレーション動画や「バーチャル・ハルシネーション」なる技術により、「自閉症」や「統合失調症」の感覚世界が、疑似的に体験できるとされている。たとえば、自閉症の場合(http://wired.jp/2014/05/10/autism-simulation/ )、統合失調症の場合(http://www.mental-navi.net/togoshicchosho/virtual/ )。後者は、製薬会社の製作したもので、「精神薬による治療」を宣伝し、誘導するためのものであることは、言うまでもない。何しろ、両方とも、一般の感覚世界が、「正常」なのであって、これらは、病気のために起こる感覚の異常ということを、当然の前提のようにしている。
しかし、それぞれの感覚世界の描写を見る限り、それなりに「感じ」は捉えていると言うことができる。具体的には、いろいろと、違いも指摘できるが、少なくとも、全体として、それぞれの特徴を、一応なりとも伝えている。
この両者を比べてみれば、「自閉」の方は、一般の感覚世界と大差はないのだが、「統合失調」の方は、一般の感覚世界とは、明らかに異なる世界であると感じられよう。「自閉」の方は、感覚の刺激が過剰だったり、細部が強調され過ぎて、全体がうまく捉えられない。つまり「感覚情報」が「制限」できずに、特定の意味へと収束しないのである。ところが、「統合失調」の方は、「感覚世界」そのものが、「幻覚(幻聴)」の世界に浸食されているようにみえる。つまり、「感覚情報」が「制限」できず、特定の意味に収束しないというよりは、異質な感覚情報が入り込むことで、意味が過剰になっているのである。両者の特徴の相違を際立たせた、この動画の描写による限り、それはそのとおりである。
しかし、前回みたように、「統合失調」のもう一つの特徴として、感覚の刺激が過剰になるとともに、世界がより直接的に体験されるということがあり、これは「自閉」の場合と共通するものである。そして、それは、感覚世界が異様なものに変わったという、変容の感覚を生み、違和感と危機の感覚をもたらす。世界は、「自閉」の場合と同様、特定の安定した意味へと収束しないものとなったのである。つまり、これまであったはずの、それなりに安定した感覚世界が、壊れ始めるのである。
そして、そのような背景のもとに、幻覚(幻聴)のような、新たな感覚情報が入り込むのである。それは、特定の安定した意味を、失い始めた世界に、新たに、意味をもたらすものともなる。つまり、壊れかけた意味の世界を、新たに構築し直すのに、その「幻覚(幻聴)」が選ばれている状況なのである。そのようにして、「幻覚(幻聴)」こそが、新たな意味世界構築の中心に据えられてしまう。
そこには、壊れかけた意味を、何とか修復したいという欲求が、強く反映している。それで、「幻覚(幻聴)」自体、そのような欲求が生み出したものに過ぎないと、単純に思ってしまう人もいるだろう。確かに、「幻覚」(幻聴)の内容、またはその解釈に、そのような欲求が反得されることは、いくらもある。しかし、これまで何度もみて来たように、「幻覚(幻聴)」そのものは、多くの場合、自らが生み出したものとみることはとても無理である。
実際、このような「幻覚(幻聴)」は、 感覚刺激、特に「音」に対する感覚が鋭敏になっていることの延長に起こることであり、より「強度」(または「リアリティ」)の強い「音」(声)に対する知覚なのである。それは、それまで以上に、はっきりとした、感覚的な知覚の対象ということである。それには、壊れかけた意味を修復したいという欲求によって、過度に注意を向けられるのは確かだが、それは、そこに、過剰な意味を読み取るだけの、「強度」を認めるからである。
要するに、「幻覚(幻聴)」とは、感覚世界の「制限」が、急激かつ過度に外れた結果、新たに入り込んで来たものであり、それは、もはや、一般に多くの者が知覚する、「物理的な音」を越えるものになっているのである(※)。実際に、「幻覚(幻聴)」は、いくら感覚が鋭敏になったとはいえ、通常は、「物理的な声」としては、聞こえるはずのない状況から、「聞き取って」いることが多いはずである。また、それは、本人によっても、「テレバシー」のような、非物理的な声として、または神や悪魔のような人間以外の存在の声として、受け取られることも多い。
このように、「幻覚(幻聴)」は、これまでの、感覚の「制限」が大きく外されることによって、「自閉」の場合以上に、「制限されていた」ものが強く解き放たれて、現れ出た結果である。逆に言えば、通常の感覚世界というものは、感覚の対象が、「物理的なもの」として構成されるものに、大きく「制限」されているということである。そして、それこそが、互いの「共通性」の基盤と、固定的、安定的な「意味世界」というものを約束するのである。
そういうわけで、「統合失調」と「自閉」には、みかけ上、「幻覚」という相違があるのは確かである。しかし、その感覚世界は、「幻覚」も含めて、一般の感覚世界と比べれば、より「制限」されない、「生」に近いものという意味では、共通なのである。
さらに言えば、「自閉」の場合も、確かに一般には、「幻覚」というものが、取り沙汰されることはないようにみえるが、その感覚世界に、「統合失調」でいう、「幻覚」のようなものが入り込んでいる可能性は、改めて顧みる必要があると思う。
「幻覚」(幻聴)というのは、一般の多くの者が共有する、「通常の知覚」というものが、それなりに明確に成り立っていることを前提に、それとの対比で、初めて言われるものである。「自閉」の場合、この、「通常の知覚」(意味の世界)というものが、明確に成り立っていないので、たとえ「幻覚」的なものが紛れ込んでいても、それが、「幻覚」として意識(人に対しては表現)されることが、ほとんどない可能性がある。
「統合失調」の場合には、紛いなりにも、一旦は、「通常の知覚」(意味の世界)が成り立っており、「幻覚」的なものは、それとの対比で捉えられるから、それが多くの場合、より際立った形で表現される。あるいは、本人は、壊れかけた、かつての意味の世界を修復しようとするため、それを、「幻覚」的なものとしてではなく、「通常の知覚」の範囲のもの(現実の人の声など)として表現することも多いが、むしろ、他の者には、結果して、「通常の知覚」とは異なることが、明白になってしまうことになる。こうして、「統合失調」の場合は、「幻覚」こそが、殊更に、注目されることになるのである。
ただし、{「統合失調」の者が、「幻覚」(幻聴)を見(聞き)やすいことには、気質または体質の相違によるという面もあることだろう。「統合失調」の場合、「霊能者」などとは違って、もとは、「通常の知覚」世界に生きていたにしても、「霊媒体質」とも言われるような、「霊的なもの」への親和性を、いくらか持っているとも解されるのである。
※ 2月3日 統合失調傾向のある者が、もともと一種の「霊媒体質」を備えていたとしても、「感覚世界の「制限」が、急激かつ過度に外れた結果、新たに入り込んで来」るものとは、もちろん、物理的なものを越えた「霊的」なものだけなのではない。「統合失調」の場合、「霊的」なものが、いわば「純粋」に現れ出るなどということは、ほとんどないことかもしれない。
感覚世界の「制限」とは、「意識」レベルにおいてなされることであり、その場合、制限されないものは、「無意識」レベルに追いやられている。しかし、その「無意識」レベルには、抑圧された、様々な「心理的複合物」も含まれている。だから、その「制限」が、急激かつ過度に外れて、「無意識」レベルにあったものが、解き放たれるとき、それらは、一気に、混在して、現れれ出てくるとうことにもなる。
つまり、それは、新たに開かれた、「霊的なもの」というだけでなく、過去の「トラウマ」や、種々の「コンプレックス」、抑圧された情念(恐怖)など、雑多なものが、混在して出てくるということである。そのようなことが、「幻覚」(幻聴)の内容を、より訳の分からない、混乱させるものとしているということがいえる。
○私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
「総まとめ(旧「闇を超えて」より)」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)
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