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2015年1月

2015年1月30日 (金)

「自閉」「統合失調」の感覚世界の相違

前回は、「自閉」と「統合失調」の感覚世界の、共通する面にスポットを当てて、説明した。実際、両者は、一般の多くの者が共有している(つもりの)感覚世界と比べた場合、共通する面が際立つのである。それは、一般の多くの者の感覚世界が、外界の世界をそのまま写し取っているのではなく、言語や信念体系により「切り取」り、「制限」して知覚していることことによって、そうなのだった。つまり、「自閉」と「統合失調」の感覚世界は、ともに、一般の感覚世界から逸脱するわけだが、それは、より「制限」されない、「生」に近いものとして、共通の性質を有するのである。

しかし、一般の、「自閉」と「統合失調」のイメージからすると、このことには違和感をもつ人も多いだろう。「自閉」については、このような理解が認められても、「統合失調」については、認め難いものがあるはずだからである。それは、やはり、「統合失調」には、「幻覚(幻聴)」というイメージがつきまとい、一般の感覚世界からすれば、「誤った」ものとしか受け取り難いからである。

最近は、シミュレーション動画や「バーチャル・ハルシネーション」なる技術により、「自閉症」や「統合失調症」の感覚世界が、疑似的に体験できるとされている。たとえば、自閉症の場合(http://wired.jp/2014/05/10/autism-simulation/ )、統合失調症の場合(http://www.mental-navi.net/togoshicchosho/virtual/ )。後者は、製薬会社の製作したもので、「精神薬による治療」を宣伝し、誘導するためのものであることは、言うまでもない。何しろ、両方とも、一般の感覚世界が、「正常」なのであって、これらは、病気のために起こる感覚の異常ということを、当然の前提のようにしている。

しかし、それぞれの感覚世界の描写を見る限り、それなりに「感じ」は捉えていると言うことができる。具体的には、いろいろと、違いも指摘できるが、少なくとも、全体として、それぞれの特徴を、一応なりとも伝えている。

この両者を比べてみれば、「自閉」の方は、一般の感覚世界と大差はないのだが、「統合失調」の方は、一般の感覚世界とは、明らかに異なる世界であると感じられよう。「自閉」の方は、感覚の刺激が過剰だったり、細部が強調され過ぎて、全体がうまく捉えられない。つまり「感覚情報」が「制限」できずに、特定の意味へと収束しないのである。ところが、「統合失調」の方は、「感覚世界」そのものが、「幻覚(幻聴)」の世界に浸食されているようにみえる。つまり、「感覚情報」が「制限」できず、特定の意味に収束しないというよりは、異質な感覚情報が入り込むことで、意味が過剰になっているのである。両者の特徴の相違を際立たせた、この動画の描写による限り、それはそのとおりである。

しかし、前回みたように、「統合失調」のもう一つの特徴として、感覚の刺激が過剰になるとともに、世界がより直接的に体験されるということがあり、これは「自閉」の場合と共通するものである。そして、それは、感覚世界が異様なものに変わったという、変容の感覚を生み、違和感と危機の感覚をもたらす。世界は、「自閉」の場合と同様、特定の安定した意味へと収束しないものとなったのである。つまり、これまであったはずの、それなりに安定した感覚世界が、壊れ始めるのである。

そして、そのような背景のもとに、幻覚(幻聴)のような、新たな感覚情報が入り込むのである。それは、特定の安定した意味を、失い始めた世界に、新たに、意味をもたらすものともなる。つまり、壊れかけた意味の世界を、新たに構築し直すのに、その「幻覚(幻聴)」が選ばれている状況なのである。そのようにして、「幻覚(幻聴)」こそが、新たな意味世界構築の中心に据えられてしまう。

そこには、壊れかけた意味を、何とか修復したいという欲求が、強く反映している。それで、「幻覚(幻聴)」自体、そのような欲求が生み出したものに過ぎないと、単純に思ってしまう人もいるだろう。確かに、「幻覚」(幻聴)の内容、またはその解釈に、そのような欲求が反得されることは、いくらもある。しかし、これまで何度もみて来たように、「幻覚(幻聴)」そのものは、多くの場合、自らが生み出したものとみることはとても無理である。

実際、このような「幻覚(幻聴)」は、 感覚刺激、特に「音」に対する感覚が鋭敏になっていることの延長に起こることであり、より「強度」(または「リアリティ」)の強い「音」(声)に対する知覚なのである。それは、それまで以上に、はっきりとした、感覚的な知覚の対象ということである。それには、壊れかけた意味を修復したいという欲求によって、過度に注意を向けられるのは確かだが、それは、そこに、過剰な意味を読み取るだけの、「強度」を認めるからである。

要するに、「幻覚(幻聴)」とは、感覚世界の「制限」が、急激かつ過度に外れた結果、新たに入り込んで来たものであり、それは、もはや、一般に多くの者が知覚する、「物理的な音」を越えるものになっているのである)。実際に、「幻覚(幻聴)」は、いくら感覚が鋭敏になったとはいえ、通常は、「物理的な声」としては、聞こえるはずのない状況から、「聞き取って」いることが多いはずである。また、それは、本人によっても、「テレバシー」のような、非物理的な声として、または神や悪魔のような人間以外の存在の声として、受け取られることも多い。

このように、「幻覚(幻聴)」は、これまでの、感覚の「制限」が大きく外されることによって、「自閉」の場合以上に、「制限されていた」ものが強く解き放たれて、現れ出た結果である。逆に言えば、通常の感覚世界というものは、感覚の対象が、「物理的なもの」として構成されるものに、大きく「制限」されているということである。そして、それこそが、互いの「共通性」の基盤と、固定的、安定的な「意味世界」というものを約束するのである。

そういうわけで、「統合失調」と「自閉」には、みかけ上、「幻覚」という相違があるのは確かである。しかし、その感覚世界は、「幻覚」も含めて、一般の感覚世界と比べれば、より「制限」されない、「生」に近いものという意味では、共通なのである

さらに言えば、「自閉」の場合も、確かに一般には、「幻覚」というものが、取り沙汰されることはないようにみえるが、その感覚世界に、「統合失調」でいう、「幻覚」のようなものが入り込んでいる可能性は、改めて顧みる必要があると思う。

「幻覚」(幻聴)というのは、一般の多くの者が共有する、「通常の知覚」というものが、それなりに明確に成り立っていることを前提に、それとの対比で、初めて言われるものである。「自閉」の場合、この、「通常の知覚」(意味の世界)というものが、明確に成り立っていないので、たとえ「幻覚」的なものが紛れ込んでいても、それが、「幻覚」として意識(人に対しては表現)されることが、ほとんどない可能性がある。

「統合失調」の場合には、紛いなりにも、一旦は、「通常の知覚」(意味の世界)が成り立っており、「幻覚」的なものは、それとの対比で捉えられるから、それが多くの場合、より際立った形で表現される。あるいは、本人は、壊れかけた、かつての意味の世界を修復しようとするため、それを、「幻覚」的なものとしてではなく、「通常の知覚」の範囲のもの(現実の人の声など)として表現することも多いが、むしろ、他の者には、結果して、「通常の知覚」とは異なることが、明白になってしまうことになる。こうして、「統合失調」の場合は、「幻覚」こそが、殊更に、注目されることになるのである。

ただし、{「統合失調」の者が、「幻覚」(幻聴)を見(聞き)やすいことには、気質または体質の相違によるという面もあることだろう。「統合失調」の場合、「霊能者」などとは違って、もとは、「通常の知覚」世界に生きていたにしても、「霊媒体質」とも言われるような、「霊的なもの」への親和性を、いくらか持っているとも解されるのである。

 2月3日 統合失調傾向のある者が、もともと一種の「霊媒体質」を備えていたとしても、「感覚世界の「制限」が、急激かつ過度に外れた結果、新たに入り込んで来」るものとは、もちろん、物理的なものを越えた「霊的」なものだけなのではない。「統合失調」の場合、「霊的」なものが、いわば「純粋」に現れ出るなどということは、ほとんどないことかもしれない。

感覚世界の「制限」とは、「意識」レベルにおいてなされることであり、その場合、制限されないものは、「無意識」レベルに追いやられている。しかし、その「無意識」レベルには、抑圧された、様々な「心理的複合物」も含まれている。だから、その「制限」が、急激かつ過度に外れて、「無意識」レベルにあったものが、解き放たれるとき、それらは、一気に、混在して、現れれ出てくるとうことにもなる。

つまり、それは、新たに開かれた、「霊的なもの」というだけでなく、過去の「トラウマ」や、種々の「コンプレックス」、抑圧された情念(恐怖)など、雑多なものが、混在して出てくるということである。そのようなことが、「幻覚」(幻聴)の内容を、より訳の分からない、混乱させるものとしているということがいえる。

私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
「総まとめ(旧「闇を超えて」より)」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)

2015年1月20日 (火)

「自閉」「統合失調」の感覚世界と「音」

                                                       
「自閉」及び「統合失調」の感覚世界について、記事『「自閉」と「統合失調」/ノート』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-6a53.html#comments)で、コメントした内容は、分かりやすくまとまっていると思うので、再掲しておく。

『個性としての「自閉的な精神世界の人」は、現実界のほころびや隙間、霊界の領域などに「自ら歩み寄り、かつ離れることを可能にする」感覚や能力が「有る」のかも知れないと感じます』

そうですね。「霊界の領域」とまで言えるかどうかは、人にもよると思いますが、「自閉」の人が、一般の多くの人とは異なる「感覚世界」に生きていることは確かと思います。

これはむしろ、逆に、一般の多くの人の方が、言語や信念体系に基づく、「自我」という閉じられた構造によって、外界の認識を「制限」していると解した方が分かりやすいかもしれません。「自閉」の人は、より、制限の少ない、「生」に近い形で、感覚世界を感じ取っているということですね。そこに、「霊界」のようなものも、含まれる可能性があるし、そうでなくても、陳腐な言語表現にくみ取れないような、「変化」に富んだ、「流動的」な感覚世界を、割と日常的に肌で感じ取っているということです。それは、うまく制御されて、外部に表現されるときには、芸術的な才能としても発揮されるわけですね。

ただし、その「変化」に富んだ「流動的」な感覚世界は、(一旦「自我」が形成されると、もはやその感覚は忘れられてしまうのが普通ですが)、「過剰」なもので、自己の安定性を脅かす恐ろしい世界でもあるわけです。「自閉」の人も、その恐怖から、傍目には奇妙な、拘り行動や常同的な行動で、防衛する必要があるのだと思います。

ただ、「自閉」の人は、「統合失調」の場合に比べると、その「世界」に、割と日常的に親しんでいて、自分なりの防衛手段も身につけているからこそ、「現実社会での自己構築」ということも、成し遂げやすいのだと思います。

「統合失調」の場合は、(私もそうでしたが)もともとその傾向がある場合もあるでしょうが、一旦は、そのような「感覚世界」からは遮断されて、紛いなりにも、多くの人と同様の「自我」を身につけるのだと思います。ただし、それは不安定で、罅が入りやすく、後に、何らかの機会に、その遮断された「感覚世界」が、本人にとっては、全くの未知のものとして、(せき止められていた水のように)急激に、しかもより強力な形で、侵入してくることになりやすいのです。

それは「自閉」の場合と違って、「慣れ親しんだ」ものではなく、防衛手段も身につけていない状態で起こるものです。それで、『自己の意思で身の振りようが出来ず、しかも、常に霊界周辺の領域から一方的に「侵襲」を受け、自分の意思で動けない、かなり受動的な事態』ということにもなってしまうのですね。また、一旦身につけた「自我」の崩壊という、破壊的要素が顕著に現れるので、「現実社会での自己構築」ということは、難しいのが普通ということにもなります。

「自閉」や「統合失調」の者の感覚世界は、一般の多くの者のものより、「制限」が少く、より「生」に近いものということだった。

これについては、一般の多くの者の感覚世界というものが、「世界」を正確に写し取っているのでも、正しいのてもなく、「制限」されたものだということを、理解できるかどうかが鍵になるだろう。「制限」されたものだからこそ、「世界」を、多くの者の間で「共通」のもののように、「安定的」また「固定的」なものとして、受け取ることができるのである。それは、多くの者と信念体系を共有された、「自我」によって、「閉じる」というあり方を、身につけているからこそ、できることである。

言い換えれば、「自我」によって「閉じる」というあり方が、身についていないか、壊れてしまうと、「世界」は、もともとの、制限されない、「過剰」な面を露わにする。それは、「流動的」で「変化」に満ちたもので、「安定的」または「固定的」なものとして、受け取ることができないのである。

また、「自閉」「統合失調」の者の感覚世界は、制限が少ないというだけでなく、より「直接性」が強いものである。つまり、「自我」によって、切り離されたものとして、仕切られる度合いが少ない分、「世界」はより「直接的」に体験されるのである。(※)

これは、視覚的な世界についても、言えるのだが、特に、「音」の聴覚的世界では、その度合いが強い。「自閉」「統合失調」の者の感覚世界では、音が、直接内部で反響するように、強烈に体験され、まるで自己に襲いかかるかのように、侵入して来るのである。

前に、統合失調状況での幻覚は、なぜ「幻聴」つまり「声」が多いのかを述べた。(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post-57ab.html)。そして、その大きな理由として、「声」は、視覚的なものよりも、外から、自分の内部に、直接侵入するかのように、体感されるので、より攻撃的なものとして、意識されやすいことを述べた。声の内容によって、それはますます助長されるのだが、内容によらずとも、「声」自体、さらに「音」(特に人の立てる人工的な音)というものはすべて、そのように、感じ取られてしまうのである。だから、それは、自分に向けられた攻撃のように受け取られ、迫害的な「妄想」にも力を与えてしまう。

これは、特に、「統合失調」に言えることだろうが、恐らく、「自閉」の感覚世界でも、それに近いことが起こっていると思われるのだ。

私の場合も、一連の体験時には、それは本当に酷くて、他人の声や音が、自分の中(頭だけでなく全身)を貫いて、おおげさに言えば、存在を打ち砕くかのような感覚になることがあった。ムンクの『叫び』の絵も、まさに、それを表しているかのようだ。それは、私の場合、(自閉的傾向があったので)もともとあった傾向といえるが、その強烈さは、この一連の体験時には、尋常でないものになっていた。そして、当時の比ではないが、その傾向は今も続いている。

だから、たとえば、「集団ストーカーの被害者」が、「ノイズ・キャンペーン」などと言って、ノイズを自分に向けられて、攻撃されていると思ってしまうことも、理解できる。実際に、そのように、音が自分目がけて襲って来るように感じられるのだ。音に敏感だったり、自閉的傾向や、統合失調傾向がある場合には、そのように思ってしまう危険はさらに高まる。

そのほかの、人が身近で、無自覚的になす「咳払い」や、何らかの出す音も、そのように、自分に向けられた攻撃のように感じられることがある。また、「タイミングのいい人や車の横切り」なども、実際には、そのこと自体よりも、そのときに出る音によって、そのように受け止められている可能性がある。さらに、「テクノロジー犯罪」などといって、電波による攻撃とされるものも、実際には、何らかの音が感知されていて、それが攻撃的に侵入して来るために、電波による攻撃と解されてしまっている可能性がある。

そのように、音自体が、攻撃的なものとして、敏感に受け取られる性質なり、状況というものがある。だから、そういう者は、自分のそのような性質を、自覚している必要がある。音が、自分に対する攻撃のように感じられるとしても、それは自分の感覚の鋭敏さのためで、実際には、そうでないものと修正して受け止める必要があるのだ

それにしても、大体が、現代は、都市であろうが、地方であろうが、人をイライラさせ、滅入らせるような音に満ちているといえる。それは、恐らく、特に音に敏感でない者にとっても、多かれ少なかれ感じることだろう。

今は、大分改良されたものもあるが、救急車やパトカーなどのサイレンの音、車やバイクの騒音、必ずどこかしらで行われる工事の音、建物の中でも、電話の呼び出し音、洗濯機その他の機械の作動音、それからパソコンのマウスのクリック音など。これらは、あえて、人の神経を逆なでするように、設計されているかのようだ。あるいは、一定の、音に敏感な者がいることを予め想定して、それらの者が「攻撃されている」と誤って受け取ることを予期しつつ、あえてそのような効果を狙っているとすら思えるものだ。

実際、そうすることで、多くの人々を精神的に弱らせることができるし、社会に、様々な軋轢のもとを作ることができる。決して、無視できないほどの効果を、実際に、もたらしているのだ。さらに言えば、「捕食者」などの存在は、そのことを分かっていて、「人と人の間」で、あえて「音」を利用して、そのようなことを助長する働きかけをしている。

そういうわけで、「音」に対する敏感な反応は、第一に、「自閉」「統合失調」の者の感覚世界の問題であり、周りの者も、そのことを理解するだけで、大分違ってくると思う。また、本人自身も、そのことを自覚して、なるべく影響を受けないような、対処法を身につける必要がある。しかし、一方で、社会の側の問題といえる面も持ち合わせているはずなのである。

※  前に、統合失調状況を疑似的に体験できるものとして、幻覚剤の体験をあげたが、それは、このような「自閉」「統合失調」の感覚世界に近いものでもある。特に、オルダス・ハクスリーが『知覚の扉』で述べているものは、そうなので、参考になるはずである。(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/1-55fa.html

2015年1月10日 (土)

今後の研究テーマ

新年だからというわけではないが、自身のためのメモとしても、今後の研究テーマを掲げておく。

1  「自閉」と「統合失調」の関係

これは、私自身の問題でもあり、一般にも、「発達障害」と「統合失調」は類似するものがあり、診断上も混同されるなど、多くの問題を引き起こす。その意味でも重要なテーマである。最近の記事で、これについては大分明らかにできたが、特に「自閉」に関しては、さらに考察の余地があり、「統合失調」との関係も、さらに深く探求したい。、

2   人工的な技術と狂気/「BMI」と「テクノロジー犯罪」など

人工的に統合失調を作り出すことは可能かを論じた記事(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post-bd17.html )で、現状では不可能だが、将来的に技術的には可能かもしれないことを述べた。技術は日々飛躍的に進歩し、最近も話題となったように、「BMI」(ブレイン・マシン・インターフェース)ようなものも実用化されている。妄想も、時代を反映するから、かつての単純な「CIAに狙われる」から、「テクノロジー犯罪」のように、高度に技術的なものに進歩するのも理由がある。多少勉強も必要だが、これらのことを、改めて論じておきたい。

3  脳と意識の問題/「通常の知覚」と「幻覚」

かつても、最近の記事でも、「通常の知覚の危うさ」については述べたが、「通常の知覚」と「幻覚」の違い、またはそれらの本質について、脳科学の知見も参照しながら、さらに深く考察しておきたい。また、脳と意識の問題は、精神医学(精神疾患)の問題とも、大きく関わるので、現在の段階で考えられることをまとめておきたい。

4  「物質の本質」と「霊的なもの」

記事( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-e343.html )で触れたように、物質の本質とは何かという問題も、さらに深く論じてみたい。「霊的なもの」とは、「物質的なもの」との対比で言われるものだし、物質とは何かという問題とも、大いに関係している見方である。できれば、手垢にまみれた「霊的」という言葉を使いたくないが、現状では、いたしかたない。しかし、物質とは何かの問題が深められることによって、霊的なものという見方も、違った形に捉え直せる可能性がある。これらのことも考察してみたい。

多少欲張り過ぎかもしれないが、私もあと数年で、念願の「リタイア」を果たせる予定なので、その暁には、静かに、自然と戯れることを楽しみとしながら、余生を送りたいと思っている。それで、これらの考察は、この機会にやっておきたいのである。

ただ、いろいろ勉強もしながらの考察になるので、ペースとしてはゆっくりとしたものになるだろう。もちろん、記事の内容がこれらに限定される趣旨ではない。

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