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2014年12月18日 (木)

「自閉」と「統合失調」/ノート

前回、「自閉症」の本質を、ざっとみた。実は、私は、「統合失調」については、かなり前から、重点的に、勉強したり、考えて来たが、自閉症については、自分の問題としても、その重要性に気づいたのは、割と最近である。

だから、これについては、まだまだこれから、考察を深めていく余地がある。統合失調との関係ということも、(自分の場合だけでなく、より普遍的な問題として)、今後、さらに、本格的に考察したいと思っている。

そこで、今回は、「自閉」と「統合失調」の関係について、自分の場合を中心に、考察のポイントを、ざっと書き留めておくだけにしたい。

記事、『「地獄」「監獄」としての幼稚園』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-b91f.html )で大体のことは述べたが、私は、もともと自閉的傾向があり、それが、幼稚園という集団生活の場で、特に顕在化したようだ。それは、後にも、小学3年頃までは続いた。しかし、小学4年頃から、かなりはっきりした変化があり、小学6年の頃には、もはやはた目には、そういう傾向はみえないものになっていた。つまり、一見、普通の生徒と変わりないくらい、現代の社会や集団生活に、適応しているかのような状態になっていた。

それは、自分では、それまでほとんどなかったかにみえる、「自我」を身につけたという感じである。それまでは、いわば本能的に、「人間世界」に対して、「閉ざす」指向をもっていた。しかし、そこで芽生えた自我は、「人間世界」に適応しようとするようになっていったようである。というより、それは、むしろ、不可解だったばすの、「人間世界」が、いつの間にか、「自ら」に写しとられるようになって、それこそが、「自我」として形成されるようになったものだ、というべきだろう。

しかし、それは、もともと矛盾を孕んだもので、無理のあるものでもあった。本来の、自閉的傾向がなくなったわけではなく、人間世界、特に集団というものが、本当に理解できたわけでもないからである。私が身につけた、「自我」なるものは、やはり、とってつけたようなところがあり、その後も、それを拒否していた、もともとの自閉的傾向とのせめぎ合いに、常にさらされていた。

要するに、私の「自我」なるものは、非常に不安定なもので、適応がうまくいっていると感じるときには、何とか安定していられるが、何らかの変化や未知の状況が生じたときには、容易に、揺らぎ、覆ってしまうようなものだった。

それでも、中学ぐらいまでは、あまり問題を生じることもなく、過ごせていた。が、その後は、適応すべき、社会に対しても、矛盾を多く感じるようになって、その矛盾や、不安定さが、いろいろと問題を醸し出すようになっていった。いずれ、その矛盾や葛藤が深刻化し、いわば「爆発」するのは、目にみえていたとも言える。

結局、この「自我」なるものは、自分自身に、本当にフィットしているものではなく、まさに、R.D.レインのいう「にせ自己体系」そのものだったのである。そのような、不安定で、脆い自我が、「統合失調状況」を招き、それを通して、崩壊の体験をすることになる大きな理由となったことは、確かである

そして、このような、自我を身につけることになったのは、もともとの「自閉」傾向と明らかに関係している。だから、私の場合、「自閉」と「統合失調」の関係とは、一つには、「自閉」傾向のために、不安定で、脆い「自我」を身につけることになった、ということである

しかし、注意すべきは、このような、不安定な「自我」も、決して、ちょっとしたことで、壊れてしまうようなものなのではないということである。一旦身につけられた「自我」は、容易なことでは、壊れたり、抜けられたりする代物ではないのである。

「統合失調」についての誤解の一つに、もともと「自我」が脆弱なので、ストレスに対する耐性が弱く、容易に崩壊してしまうというものがある。具体的に、「統合失調」の者が陥る状態を顧みることもなく、だから、そういう者は、統合失調に陥るのだとして、分かった気になるのである。

しかし、普通にいう意味での、「ストレス」などでは、やはり、このような「自我」も、容易には壊れてしまうことはない。少なくとも、「統合失調」にみるような、壊れ方はしない。

「統合失調状況」については、これまでも何度も述べて来たが、そこには、それまでに体験のない、「未知の状況」が、自我を飲み込んでしまうということが伴う。それは、単純な「ストレス」などではなく、圧倒的な「他者」による「侵襲」ともいうべきものであり、いわば、自我の存立基盤そのものを、根底から侵すような性質のものである(※1)。

自我の不安定さや脆さは、日常性を強固にすることを妨げるから、そのような未知の状況を招くという契機には、なりやすいかもしれない。あるいは、実際にその状況に陥ったときに、崩壊する方向に作用しやすいのは確かかもしれない。しかし、自我の不安定さや脆さそのものが、それらを引き起こすわげでは、決してないのである。

通常の日常性の中では、露わになることのないような、「自我の存立基盤そのものを、根底から侵すような性質」の「未知の状況」が露わになるということこそ、統合失調状況のポイントである。そして、そのような「未知の状況」とは、自閉の者が、言葉や関係に遅れ、通常の知覚世界(日常性)を十分身につけられないために、不安と恐怖を感じつつも、身近に親しんでいる、「世界」に近いものなのである。

つまり、自閉の場合は、いわば、多くの者と共通の「日常性」を構成する「以前」の世界に住んでいる。多くの者にとっては、「未知の状況」であるものを、普段から、割と身近に感じつつ生きているわけである。それに対して、統合失調では、一旦は身につけた「日常性」が、何らかの契機により、揺らぎ、覆ることによって、そのような「未知の状況」を招き寄せる。それは、一旦身につけたものを、覆えすべく、より強烈に、「未知」としての、破壊的性質を強く帯びて現れる。それで、その状況は、「自我の存立基盤そのものを、根底から侵すような性質」のものになるわけである。

だから、自閉と統合失調の関係についての二つ目は、いわば、通常の「日常性」「以前」と「以後」の違いはあるが、ともに、同じ「未知の状況」を露わにしている、ということがあげられる。ただ、自閉の場合は、その「未知の状況」に、普段から割と親しまれているとともに、未だ破壊されるべきものをそれほど身につけていないために、統合失調ほどの破壊性が露わになることはない、ということである(※2)。

私の場合は、もともと自閉的傾向があったので、統合失調状況とは、ある意味、もともとは身近に感じていたが、「日常性」と「自我」を身につけたために、忘れ去られていたものの、「回帰」とも言えるものである。(ラカンの精神分析について述べたところでも、これに似た「回帰」の発想があったことを思い出してほしい。http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-0b67.html )

一つ目の関係でみたように、自閉ということが、不安定て脆い自我を身につけることになりやすいとすれば、私のように、統合失調状況に陥る者に、もともと自閉の傾向があったということは、かなりの程度あり得ることと思う。ただし、もちろん、そのことから、直ちに、統合失調の者はもともと自閉であるとか、自閉の者が統合失調に陥りやすいとか、言えるわけではない。

自閉と統合失調には、性質の違いも多くあることにも注意しなければならない。統合失調になりやすい性質として、「分裂気質」とか、「S親和者」とかが言われるが、これらは必ずしも、自閉ということと重ならない。

こういった、より普遍的な問題は、今後さらに考察していきたい。

※1  このような「未知の状況」とは、具体的には、これまでみてきたとおり、「人と人の間」であり、「霊界の境域」なのであるが、より根底的には、「闇」や「虚無」を意味した。

※2 通常の「日常性」というのも、自閉や統合失調で露わになる「未知の状況」を、集団的に防衛すべく構成されるものであることは、前回みたとおり。だから、自閉であれ、統合失調であれ、そうでない「健常」であれ、そのような「状況」に対する、独特の防衛と反応の仕方に過ぎないという意味では、何ら変わりはないのである。

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コメント

迎春 ティエム様、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

深く濃い記事で読みきれない位です、分からないながら読ませて頂いております。

「にせ自己体系」(類似した経験があり、多少理解できます)、霊界との関連についてなど、深く考えたい内容が多くありました。

浅学かつ言葉足らずで恐縮ですが、

(外傷や化学物質や薬物等で、脳の機能にダメージを与えられた為の自閉症状を除き)

個性としての「自閉的な精神世界の人」は、現実界のほころびや隙間、霊界の領域などに「自ら歩み寄り、かつ離れることを可能にする」感覚や能力が「有る」のかも知れないと感じます。

現実社会での自己構築の内実、対外面での耐久性、性格の強弱など諸々個人差により、感覚や能力も様々と感じますが、「大なり小なりそれを有し、想像以上に自在に霊界周辺を活動している」ような感じがします。

自己構築という観点から見て、例えば「作曲家」、「画家」、「棋士」などの創作活動は、自閉の人の「自ら歩み寄れる」自在さがより目的意識を持って駆使され、「極めようと冴え渡る形」で表現されていると感じます。

もちろん自在さを、周囲に特には理解されない形で表す方もおられると思います。それを価値無価値と判断するのは、傍観者の「にせ自己体系の物差し」に過ぎないとも言えます。表す自在さは、どこまでも本人のものですから。

対して、真の統合失調状態においては、自己の意思で身の振りようが出来ず、しかも、常に霊界周辺の領域から一方的に「侵襲」を受け、自分の意思で動けない、かなり受動的な事態と感じます。

自閉の人はそのような恐怖に満ちた体験を、やみくもに受けることのないよう、何かに護られている(或は本質的に安定を得られている)ようにも感じます。

双方の共通は、ラジオでいうなら受信機器を持っているところ、
かたや自閉の人はチューナーを好きに合わせて楽しみ、

かたや統合失調状態に陥る人にはチューナー自体がなく、絶えずノイズも妨害電波も芸術的電波も感受しっぱなしになる、

圧倒され翻弄される絶望感等と、疲弊した心身、現実社会での「自己構築」が中々簡単な道筋ではない、

そのような相違があるように思いました。

みるくゆがふさんありがとうございます。
「自閉」と「統合失調」の違いを、とても分かりやくまとめて述べられていると思います。

ただ、以下に少し補足させてもらいます。

『個性としての「自閉的な精神世界の人」は、現実界のほころびや隙間、霊界の領域などに「自ら歩み寄り、かつ離れることを可能にする」感覚や能力が「有る」のかも知れないと感じます』

そうですね。「霊界の領域」とまで言えるかどうかは、人にもよると思いますが、「自閉」の人が、一般の多くの人とは異なる「感覚世界」に生きていることは確かと思います。

これはむしろ、逆に、一般の多くの人の方が、言語や信念体系に基づく、「自我」という閉じられた構造によって、外界の認識を「制限」していると解した方が分かりやすいかもしれません。「自閉」の人は、より、制限の少ない、「生」に近い形で、感覚世界を感じ取っているということですね。そこに、「霊界」のようなものも、含まれる可能性があるし、そうでなくても、陳腐な言語表現にくみ取れないような、「変化」に富んだ、「流動的」な感覚世界を、割と日常的に肌で感じ取っているということです。それは、うまく制御されて、外部に表現されるときには、芸術的な才能としても発揮されるわけですね。

ただし、その「変化」に富んだ「流動的」な感覚世界は、(一旦「自我」が形成されると、もはやその感覚は忘れられてしまうのが普通ですが)、「過剰」なもので、自己の安定性を脅かす恐ろしい世界でもあるわけです。「自閉」の人も、その恐怖から、傍目には奇妙な、拘り行動や常同的な行動で、防衛する必要があるのだと思います。


ただ、「自閉」の人は、「統合失調」の場合に比べると、その「世界」に、割と日常的に親しんでいて、自分なりの防衛手段も身につけているからこそ、「現実社会での自己構築」ということも、成し遂げやすいのだと思います。

「統合失調」の場合は、(私もそうでしたが)もともとその傾向がある場合もあるでしょうが、一旦は、そのような「感覚世界」からは遮断されて、紛いなりにも、多くの人と同様の「自我」を身につけるのだと思います。ただし、それは不安定で、罅が入りやすく、後に、何らかの機会に、その遮断された「感覚世界」が、本人にとっては、全くの未知のものとして、(せき止められていた水のように)急激に、しかもより強力な形で、侵入してくることになりやすいのです。

それは「自閉」の場合と違って、「慣れ親しんだ」ものではなく、防衛手段も身につけていない状態で起こるものです。それで、『自己の意思で身の振りようが出来ず、しかも、常に霊界周辺の領域から一方的に「侵襲」を受け、自分の意思で動けない、かなり受動的な事態』ということにもなってしまうのですね。また、一旦身につけた「自我」の崩壊という、破壊的要素が顕著に現れるので、「現実社会での自己構築」ということは、難しいのが普通ということにもなります。

もちろん、これは、あくまで「一般論」で、「自閉」にしても、「統合失調」にしても、そのように単純に枠付けできるものではないですけれどもね。

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