前回述べたように、「自閉」ということと「統合失調」ということには、深い関わりがある。が、今回は、その前に、「自閉」ということについて、できる限り本質的に、明らかにしておきたい。前回も、大よそのところは述べたが、今回はもう少し踏み込んでみる。
一般には、自閉症とは、人に関心がなく、人とのコミュニケーションが不得手、または支障があり、他人には無意味で奇異と映る、拘り行動や常同行動をなす、「奇妙」な病気という風に解される。
このように、一見奇妙で理解できない行動をする者は、「病気」として規定され、扱われることで、容易に「分かった」ことにされてしまうのである。少し本気で踏み込んでみれば、理解することは可能なのに、そうしようとしないで、「病気」として規定してしまえば、分かった気になるのである。また、そうすることで、一応とも、人びとは安心するのである。自閉症や統合失調症の者の行動は、特に奇妙に思われ、不安を喚起するので、そうされる傾向がより強い。
しかし、前回みたように、自閉症者も、決して見た目のように、心が荒廃しているわけではなく、世界全体との独自の関わりをもち、むしろ、充実した内面世界を生きている。ただ、それは、人間世界に対しては、「自閉」として現れて来ざるを得ないということである。また、言葉や人間世界の規則に馴染んでいない自閉症者には、変化や未知性に対する恐れが強くあり、自分がよく知っている、行動に拘り、常同的に繰返すことで、安心を得ようとする。そうしていないと、「異次元の世界に迷い込む」ような感覚に陥るからである。
このように、奇妙とされる行動にも、それなりの理由があるのであり、しかも、それ自体は、強い不安や恐怖を感じるとき、誰もがとり得る行動である。ただ、自閉症者が日常的に感じている不安や恐怖を、多くの者は理解できないというだけである。
このような不安や恐怖を理解するには、やはり、「自閉」ということの本質が、知られなければならない。そもそも、自閉症者は、何に対して心を閉ざし、それはなぜなのか。
前回、それには、二つの可能性があることをみた。一つは、自閉症者が馴染めず、従って、理解できない人間世界そのものに対して。もう一つは、自閉症者が、独特の仕方で、関わりをもつ世界全体に対してである。私は、これらを一つにまとめ、自閉症者が不安や恐怖のため、心を閉ざすものとは、「人と人の間」なのだといえると思う。
「人と人の間」については、これまでも何度か述べ、統合失調者が恐れる対象なのでもあった(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post-a866.html など)。森山公夫も、統合失調は、対人恐怖段階から始まると言っていたが、私は、それは、人そのものが怖いのではなく、人に影響を与える、「人と人の間」に蠢くものを、感知してしまうが故に、その「間」こそが怖いのだと言った。
多くの者は、この「間」などは意識することもなく、いわばそれそのものを、当たり前のように生きている。ところが、統合失調者は、「間」への感受性を鋭く持ってしまうが故に、それを恐れてしまう。但し、統合失調者にとっても、それが「間」として意識されている訳ではない。多くの場合、それを、人そのものとして捉えてしまうが故に、具体的な人を、迫害の主体として捉えてしまう。が、そこには、「間」に蠢くものが投影されて、「組織」とか「集団性」というものが浮かび上がる。
自閉症の者も、統合失調の場合ほどではないにしても、やはりこの「人と人の間」の未知なる部分に対して、不安を抱き、恐れをもっている。この「人と人の間」を、「人」の方に引き寄せて捉えた場合、それは「人間世界」そのものとなる。つまり、自閉症の者の馴染めない、人間世界に対する、不安や恐怖となる。
一方、「人と人の間」の「間」そのものを問題とするとき、それは、自閉症の者が独特の関わりをもつ「世界全体」となる。前回みたように、自閉症の者は、多くの者がするように、身につけた言葉や文化的な区切りで、世界を捉える度合いが少ないために、より「生」に近い知覚世界を生きている。「生」に近いとは、「もの」として区切り取られる以前の、「間」の部分をより浮かび上がらせたものということである。前回も、自閉症者は、それらの世界へと意識が入っていき、「融合」しやすいことをみたが、それは、自己と外部世界との境界も薄く、「間」がそれらを、包み込むように現れているからだといえる。
『跳びはねる思考』の著者は、「自閉」とは、そのように外部世界に意識が入っていくとき、起こらざるを得ない一側面だということを述べていた。確かに、「自閉」には、そのような積極的な面もあるだろうが、やはり、不安や恐怖のためという面も、見逃すことはできない。
「間」としての「世界全体」は、自閉症者にとって、複雑で分かりにくい、人間世界よりも、馴染みのある、親しみやすいものかもしれない。しかし、これまでみてきたように、「間」とは、その根底に、「闇」や「虚無」を抱えているものでもある( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/22-163c.html、http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post-6f09.html など)。それは、人間的な知性では、とても捉えられない、「無限定」のものであり、変化と未知性に満ちている。自閉症の者にとっても、魅惑的であると同時に、不安や恐怖を催すものでもあるのである。
自閉症者は、人間世界に対してだけでなく、このような世界全体に対しても、魅惑と同時に一方で不安や恐怖を感じており、ときに心を閉ざして、拘り行動や常同行動で自己を護る必要があるのである。それは、その「間」によって、自己そのものを浸食されようとしている、統合失調の者のようには、激しいものではないにしても、やはり、それと通じる面はあるというべきなのである。
この「世界」に対する、魅惑と不安・恐怖は、自閉症の者がもつとされる「放浪癖」(私にもあったが)にも表れている。自閉症の者は、「世界」の未知なる部分に魅惑を感じ、ひかれるからこそ、冒険心を発揮し、放浪する。だが、それは全く無計画で衝動的なものではなく、自分なりの周到な「地図」に従って、行くのである。生の「世界」の、変化に飛んだ捉え難さ、未知性をもよく知っており、不安や恐怖も強いからである。
このように、自閉症者は、「人と人の間」に対して、つまり「人間世界」や「世界」そのもの対して、不安や恐怖のために、心を閉ざし、拘り行動や常同行動で、自己を護る必要があることになる。
しかし、そうは言っても、やはり多くの者は、なぜそこまで、「人と人の間」が不安や恐怖でなければならないのか、それは、人間世界そのものに対するものになるのか、理解できないと言うかもしれない。
しかし、多くの者もまた、未知なる「間」に対する不安や恐怖は、当然もっているのである。ただ、それを意識しないですむような、集団的な防衛手段を身につけているということであり、それこそが、人間世界の中で、適応的にやっていくことの意味なのである。つまり、人間世界の中で、共通の言語や文化、しきたりを身につけ、集団としてともに行動し、自我なる防壁を築き、互いにそれを尊重し合うこと、等々である。そうやって、多くの者は、「間」に対する不安や恐怖を、いわば覆い隠すことができる。しかし、自閉症の者は、そのような「人間世界」の規則そのものを、身につける度合いが少ない。つまり、「間」に対する、集団的な防衛手段が身についていないので、独自の拘り行動や常同行動で身を護るしかないのである。
ただ、特に「人間世界」に対して、心を閉ざすのは、自閉症の者が、「間」の「世界全体」としての面に、魅惑されているからこそという面もある。つまり、「間」を感受しないようにする、集団的な防衛方法は、もはやその者には意味をなさず、理解できないものとなっているということがある。だから、この人間世界に対し、心を閉ざすことは、それを採用しないという意味で、積極的な「拒否」という言い方もできる。私の場合は、前回あげた記事(『「地獄」「監獄」としての幼稚園』)でも述べたが、そのような「拒否」という面が明らかに強かった。
しかし、心を閉ざす理由は、自閉症の者においても多様で、「間」への不安や恐怖という面が、前面に出ているという場合もあれば、積極的な「拒否」というよりは、止むを得ざる反応という場合もあるだろう。
思想家、村瀬学の『自閉症』(ちくま新書)も、自閉症に対する一般的な理解に疑問を呈し、日常的な言葉で、身近なところから、謎とされる行動を鋭く読み解いている。そこで、著者は、「自閉症の中核症状は要するに<自閉>である」と説く研究者について述べている。これは、既にみたとおり、全くそのとおりと言うだけでなく、もっと積極的に、「自閉症の本質は要するに<自閉>である」と言ってもいいくらいである。
ところが、著者は、これを基本的に受け入れながらも、「自閉」よりも、むしろ、「ちえのおくれ」こそが、本質的なものではないかという。そこには、「自閉」というと、「自閉症」なる病気の観念と結びつけられて理解されることを、回避したいという思いもあるようである。そして、実際にも、「自閉」するから「おくれる」のではなく、「おくれる」からこそ「自閉」するという面が強いはずだという。
確かに、「おくれる」からこそ「自閉」するという面は、様々にみてとれる。「おくれる」ことは、不適応感やコンプレックスを生み、いやでも「自閉」を仕向ける面があるからである。実際、言葉やコミュニケーション能力に「おくれ」、あるいはそれらに関する脳機能に、何らかの障害があるために、「おくれ」ざるを得ず、結果として「自閉する」という場合も、あることだろう。
しかし、私は、やはり、「おくれ」よりも、「自閉」ということこそが、より根源的なものだと思う。既にみたように、自閉症者に即して言えば、「世界全体」との独自の関わりから、「自閉」という、ある意味積極的な態度がとられているのであり、あるいは、とらざるを得ないことになる。それで、集団世界への適応を回避または拒否するからこそ、「おくれる」のであり、あるいは「おくれる」ことを決定づけるのである。「おくれる」ことが、「自閉」を促し、強化する面は確かにある。しかし、「おくれる」ことが、必ずしも自閉に結びつくとは限らないし、たとえ自閉する場合でも、その「自閉」には、やはりそこに、何らかの(積極的な)態度がとられていることを見逃すべきではない。
「おくれ」を本質的なものとみるときには、この「自閉」ということの積極的な意味が、見逃されてしまう。誰にでも起こり得る、「おくれ」ということを前面に出すことで、自閉症を特殊なものとみないという意図はよく分かる。しかし、「自閉」ということの積極的な意味をみず、「おくれ」だけを強調することは、決して「自閉症」のマイナスイメージを弱めることにはならないだろう。
ただし、「積極的意味」というのは、必ずしも、「肯定的」という意味ではないし、「そうするのがいい」ということなのではない。前回も言ったように、適応の拒否を続けることは、本人にも周りにも、結局荒廃をもたらす可能性がある。従って、状況により、そのような態度は、でき得る限り、抑制されるべきなのではあろう。また、そのような態度は、「積極的に選びとられた」という面があるからこそ、修正する余地もある、ということも言えるのである。
ただ、著者が言っている、この自閉症の者が「おくれる」のは、実は、文明社会の「社会機構」や「知的世界」においてであって、「くらし」という生活の基本の部分では、決して「おくれ」るのではない、という指摘は重要である。実際にそうで、だから、この「くらしの場」こそが、生活の中心であった、近代あるいは近世以前には、「自閉症」の者は、決して「おくれ」などとはみなされなかった。むしろ、その独自の世界との関わりは、「聖なるもの」と結びつけられて理解されたはずである。
ところが、現代では、このようなことを期待することはできない。だから、一種の妥協だが、一般の多くの者には、「自閉」ということのマイナス面だけでなく、積極的な意味にも目を向けること、一方、自閉症の者は、でき得る限り、「自閉」ということの制御を学ぶことを期待するしかないのである。
※ 今回は、「自閉」ということの本質についてみた。しかし、「自閉症」には、「うつ」や「統合失調」に、精神薬によって同様の状態が発生するものがあるように、種々の化学物質やワクチンなどによって発生するものも多いと思われる。この問題も重要なので、いずれ近いうちに「もう一つの自閉症」として述べてみたいと思っている。
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