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2014年12月

2014年12月28日 (日)

「自我」と「自閉」の逆説

まずは、図を掲げる。

Photo「自我」と「自閉」の逆説というのも、この図を見てもらえれば一目了然と思うが、一応説明してみよう。

「自我」というものは、通常の場合で、○で囲んで示したように、「閉じた」構造をしている。何に対して、閉じているかというと、まずは「世界」に対してである。そのように閉じられていることによって、世界と切り離された存在として、自分というものを規定できる。同時に、それは、「他者」に対しても、閉じている。「他者」とは、自分と同じように「自我」をもち、従って、閉じた存在である。自己と他者は、あくまでも、「世界」の中に存在する、それぞれに「閉じた」、別個の存在として意識される。

このような「自我」は、明確に意識された形では、普通も、せいぜい7,8才くらいにならないと、身につかないのかもしれない。しかし、その原型というか基礎は、普通、3,4才の頃には、既に十分できていると言うべきである。明確に意識することはなくても、少なくとも、漠然とした形で、このような「自我」は感じ取られているのである。

だから、そこで行われる、他者との「コミュニケーション」というのも、互いに、このような閉じた「自我」をもった存在同士であることが前提となっている。お互いに「自我」という「閉じた」構造をもった存在同士としての、尊重と確認のうえに、コミュニケーションは成り立っているのだ。確かにそれは、一応とも、「開かれた」構えをもっているようにみえる。しかし、それは、もともと「自我」という「閉じた」構造の「牙城」をもっていて、いわばいつでもその拠点に立ち帰れるからこそ、成り立ち得ることなのだ。

もちろん、「自閉」の者も、個別化された身体をもった存在である以上、何らの「自我」ももたない、ということはい。しかし、「自閉」の者においては、はっきりと「閉じた」形の「自我」は、身についていない。それは、図に示したように、ところどころ「開いて」いるのであり、「閉じた」形として、完結していない。

だから、「自閉」の者は、「世界」に対しても、明確に「閉じ」られていなく、自己と世界が明確に切り離されていない。自己と世界の境界も薄く、『跳びはねる思考』でもみたように、世界へと意識が拡がって、「融合する」ということも起こりやすい。また、他の人間というのも、世界から切り離された特別の存在というよりは、その「世界」の中の一風景に過ぎない、ということにもなる。

「自閉」の者も、もちろん他の人間を意識するが、それは、自分と同じ、「自我」という「閉じた」構造をもった「他者」としてではない。そのような「自我」とは、「自閉」の者にとっては、何とも不可解なものであり、違和感の強いものだ。だから、普通いう意味での「コミュニケーション」は、苦手であるか、成り立ちにくい。それで、「自閉」の者は、「他者」に対しては、「閉じる」ということを、基本的な態度とせざるを得ない。しかし、それは、本来、「開いた」構造をもっていて、あえて「閉じ」なければ、安定できる基盤がなく、自分が護れないからである

このようなことは、「世界」に対しても言える。「自閉」の者は、基本的には、「世界」に対しても「開いて」いる。とはいえ、そのよう態度を常に維持するわけにはいかない。「世界」もまた、未知性と変化に満ちた、「危険」なものである。そこで、ときに「常同行動」などにより、「閉じる」必要が出てくるのだ。

そういうわけで、「自我と自閉の逆説」とは、要するに、「自我」の者は、基本が「閉じて」いるが故に、「開く」ことができる。それに対して、「自閉」の者は、基本が「開いて」いるが故に、「閉じ」ざるを得ないということだ

普通人(健常)とは、「自閉症」という基礎をもっていて、それが完全なものにならない程度に、コミュニケーションに対して「開かれ」ている者をいう。それに対して、「自閉」の者とは、本来、「自閉症」を内にもっていないために、外部的には、「自閉」という態度を露わにせざるを得ない者をいう、ということにもなる。

それでは、「統合失調」の場合はどうだろうか。記事『図一覧について』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-f18a.html)の図で示したように、「統合失調」の者も、もともとの「日常性」においては、不安定ながらも、一応とも、「閉じた」構造としての「自我」を保っている。ところが、それが、「統合失調状況」に陥ると、その「殻」に「ひび」が入り、いやでも、「開いた」状態となる。(「妄想」とは、そのような状態を無理やり「閉じ」ようとする、防御反応といえる。)それで、「他者」なり「世界」なりが、内部に侵入してきて、内部は「壊れて」しまうことになる

「自閉」の場合と違うのは、「開いて」いるのは、もともとではなく、望まずして、予期せず、起こってしまうのであること。そして、もともと「閉じた」構造として、内部にもっていた内容があるだけに、それが壊されてしまうことだ。

私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
総まとめ(旧「闇を超えて」より」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)

2014年12月18日 (木)

「自閉」と「統合失調」/ノート

前回、「自閉症」の本質を、ざっとみた。実は、私は、「統合失調」については、かなり前から、重点的に、勉強したり、考えて来たが、自閉症については、自分の問題としても、その重要性に気づいたのは、割と最近である。

だから、これについては、まだまだこれから、考察を深めていく余地がある。統合失調との関係ということも、(自分の場合だけでなく、より普遍的な問題として)、今後、さらに、本格的に考察したいと思っている。

そこで、今回は、「自閉」と「統合失調」の関係について、自分の場合を中心に、考察のポイントを、ざっと書き留めておくだけにしたい。

記事、『「地獄」「監獄」としての幼稚園』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-b91f.html )で大体のことは述べたが、私は、もともと自閉的傾向があり、それが、幼稚園という集団生活の場で、特に顕在化したようだ。それは、後にも、小学3年頃までは続いた。しかし、小学4年頃から、かなりはっきりした変化があり、小学6年の頃には、もはやはた目には、そういう傾向はみえないものになっていた。つまり、一見、普通の生徒と変わりないくらい、現代の社会や集団生活に、適応しているかのような状態になっていた。

それは、自分では、それまでほとんどなかったかにみえる、「自我」を身につけたという感じである。それまでは、いわば本能的に、「人間世界」に対して、「閉ざす」指向をもっていた。しかし、そこで芽生えた自我は、「人間世界」に適応しようとするようになっていったようである。というより、それは、むしろ、不可解だったばすの、「人間世界」が、いつの間にか、「自ら」に写しとられるようになって、それこそが、「自我」として形成されるようになったものだ、というべきだろう。

しかし、それは、もともと矛盾を孕んだもので、無理のあるものでもあった。本来の、自閉的傾向がなくなったわけではなく、人間世界、特に集団というものが、本当に理解できたわけでもないからである。私が身につけた、「自我」なるものは、やはり、とってつけたようなところがあり、その後も、それを拒否していた、もともとの自閉的傾向とのせめぎ合いに、常にさらされていた。

要するに、私の「自我」なるものは、非常に不安定なもので、適応がうまくいっていると感じるときには、何とか安定していられるが、何らかの変化や未知の状況が生じたときには、容易に、揺らぎ、覆ってしまうようなものだった。

それでも、中学ぐらいまでは、あまり問題を生じることもなく、過ごせていた。が、その後は、適応すべき、社会に対しても、矛盾を多く感じるようになって、その矛盾や、不安定さが、いろいろと問題を醸し出すようになっていった。いずれ、その矛盾や葛藤が深刻化し、いわば「爆発」するのは、目にみえていたとも言える。

結局、この「自我」なるものは、自分自身に、本当にフィットしているものではなく、まさに、R.D.レインのいう「にせ自己体系」そのものだったのである。そのような、不安定で、脆い自我が、「統合失調状況」を招き、それを通して、崩壊の体験をすることになる大きな理由となったことは、確かである

そして、このような、自我を身につけることになったのは、もともとの「自閉」傾向と明らかに関係している。だから、私の場合、「自閉」と「統合失調」の関係とは、一つには、「自閉」傾向のために、不安定で、脆い「自我」を身につけることになった、ということである

しかし、注意すべきは、このような、不安定な「自我」も、決して、ちょっとしたことで、壊れてしまうようなものなのではないということである。一旦身につけられた「自我」は、容易なことでは、壊れたり、抜けられたりする代物ではないのである。

「統合失調」についての誤解の一つに、もともと「自我」が脆弱なので、ストレスに対する耐性が弱く、容易に崩壊してしまうというものがある。具体的に、「統合失調」の者が陥る状態を顧みることもなく、だから、そういう者は、統合失調に陥るのだとして、分かった気になるのである。

しかし、普通にいう意味での、「ストレス」などでは、やはり、このような「自我」も、容易には壊れてしまうことはない。少なくとも、「統合失調」にみるような、壊れ方はしない。

「統合失調状況」については、これまでも何度も述べて来たが、そこには、それまでに体験のない、「未知の状況」が、自我を飲み込んでしまうということが伴う。それは、単純な「ストレス」などではなく、圧倒的な「他者」による「侵襲」ともいうべきものであり、いわば、自我の存立基盤そのものを、根底から侵すような性質のものである(※1)。

自我の不安定さや脆さは、日常性を強固にすることを妨げるから、そのような未知の状況を招くという契機には、なりやすいかもしれない。あるいは、実際にその状況に陥ったときに、崩壊する方向に作用しやすいのは確かかもしれない。しかし、自我の不安定さや脆さそのものが、それらを引き起こすわげでは、決してないのである。

通常の日常性の中では、露わになることのないような、「自我の存立基盤そのものを、根底から侵すような性質」の「未知の状況」が露わになるということこそ、統合失調状況のポイントである。そして、そのような「未知の状況」とは、自閉の者が、言葉や関係に遅れ、通常の知覚世界(日常性)を十分身につけられないために、不安と恐怖を感じつつも、身近に親しんでいる、「世界」に近いものなのである。

つまり、自閉の場合は、いわば、多くの者と共通の「日常性」を構成する「以前」の世界に住んでいる。多くの者にとっては、「未知の状況」であるものを、普段から、割と身近に感じつつ生きているわけである。それに対して、統合失調では、一旦は身につけた「日常性」が、何らかの契機により、揺らぎ、覆ることによって、そのような「未知の状況」を招き寄せる。それは、一旦身につけたものを、覆えすべく、より強烈に、「未知」としての、破壊的性質を強く帯びて現れる。それで、その状況は、「自我の存立基盤そのものを、根底から侵すような性質」のものになるわけである。

だから、自閉と統合失調の関係についての二つ目は、いわば、通常の「日常性」「以前」と「以後」の違いはあるが、ともに、同じ「未知の状況」を露わにしている、ということがあげられる。ただ、自閉の場合は、その「未知の状況」に、普段から割と親しまれているとともに、未だ破壊されるべきものをそれほど身につけていないために、統合失調ほどの破壊性が露わになることはない、ということである(※2)。

私の場合は、もともと自閉的傾向があったので、統合失調状況とは、ある意味、もともとは身近に感じていたが、「日常性」と「自我」を身につけたために、忘れ去られていたものの、「回帰」とも言えるものである。(ラカンの精神分析について述べたところでも、これに似た「回帰」の発想があったことを思い出してほしい。http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-0b67.html )

一つ目の関係でみたように、自閉ということが、不安定て脆い自我を身につけることになりやすいとすれば、私のように、統合失調状況に陥る者に、もともと自閉の傾向があったということは、かなりの程度あり得ることと思う。ただし、もちろん、そのことから、直ちに、統合失調の者はもともと自閉であるとか、自閉の者が統合失調に陥りやすいとか、言えるわけではない。

自閉と統合失調には、性質の違いも多くあることにも注意しなければならない。統合失調になりやすい性質として、「分裂気質」とか、「S親和者」とかが言われるが、これらは必ずしも、自閉ということと重ならない。

こういった、より普遍的な問題は、今後さらに考察していきたい。

※1  このような「未知の状況」とは、具体的には、これまでみてきたとおり、「人と人の間」であり、「霊界の境域」なのであるが、より根底的には、「闇」や「虚無」を意味した。

※2 通常の「日常性」というのも、自閉や統合失調で露わになる「未知の状況」を、集団的に防衛すべく構成されるものであることは、前回みたとおり。だから、自閉であれ、統合失調であれ、そうでない「健常」であれ、そのような「状況」に対する、独特の防衛と反応の仕方に過ぎないという意味では、何ら変わりはないのである。

2014年12月 6日 (土)

「自閉」ということ

前回述べたように、「自閉」ということと「統合失調」ということには、深い関わりがある。が、今回は、その前に、「自閉」ということについて、できる限り本質的に、明らかにしておきたい。前回も、大よそのところは述べたが、今回はもう少し踏み込んでみる。

一般には、自閉症とは、人に関心がなく、人とのコミュニケーションが不得手、または支障があり、他人には無意味で奇異と映る、拘り行動や常同行動をなす、「奇妙」な病気という風に解される。

このように、一見奇妙で理解できない行動をする者は、「病気」として規定され、扱われることで、容易に「分かった」ことにされてしまうのである。少し本気で踏み込んでみれば、理解することは可能なのに、そうしようとしないで、「病気」として規定してしまえば、分かった気になるのである。また、そうすることで、一応とも、人びとは安心するのである。自閉症や統合失調症の者の行動は、特に奇妙に思われ、不安を喚起するので、そうされる傾向がより強い。

しかし、前回みたように、自閉症者も、決して見た目のように、心が荒廃しているわけではなく、世界全体との独自の関わりをもち、むしろ、充実した内面世界を生きている。ただ、それは、人間世界に対しては、「自閉」として現れて来ざるを得ないということである。また、言葉や人間世界の規則に馴染んでいない自閉症者には、変化や未知性に対する恐れが強くあり、自分がよく知っている、行動に拘り、常同的に繰返すことで、安心を得ようとする。そうしていないと、「異次元の世界に迷い込む」ような感覚に陥るからである。

このように、奇妙とされる行動にも、それなりの理由があるのであり、しかも、それ自体は、強い不安や恐怖を感じるとき、誰もがとり得る行動である。ただ、自閉症者が日常的に感じている不安や恐怖を、多くの者は理解できないというだけである

このような不安や恐怖を理解するには、やはり、「自閉」ということの本質が、知られなければならない。そもそも、自閉症者は、何に対して心を閉ざし、それはなぜなのか

前回、それには、二つの可能性があることをみた。一つは、自閉症者が馴染めず、従って、理解できない人間世界そのものに対して。もう一つは、自閉症者が、独特の仕方で、関わりをもつ世界全体に対してである。私は、これらを一つにまとめ、自閉症者が不安や恐怖のため、心を閉ざすものとは、「人と人の間」なのだといえると思う。

「人と人の間」については、これまでも何度か述べ、統合失調者が恐れる対象なのでもあった(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post-a866.html など)。森山公夫も、統合失調は、対人恐怖段階から始まると言っていたが、私は、それは、人そのものが怖いのではなく、人に影響を与える、「人と人の間」に蠢くものを、感知してしまうが故に、その「間」こそが怖いのだと言った。

多くの者は、この「間」などは意識することもなく、いわばそれそのものを、当たり前のように生きている。ところが、統合失調者は、「間」への感受性を鋭く持ってしまうが故に、それを恐れてしまう。但し、統合失調者にとっても、それが「間」として意識されている訳ではない。多くの場合、それを、人そのものとして捉えてしまうが故に、具体的な人を、迫害の主体として捉えてしまう。が、そこには、「間」に蠢くものが投影されて、「組織」とか「集団性」というものが浮かび上がる。

自閉症の者も、統合失調の場合ほどではないにしても、やはりこの「人と人の間」の未知なる部分に対して、不安を抱き、恐れをもっている。この「人と人の間」を、「人」の方に引き寄せて捉えた場合、それは「人間世界」そのものとなる。つまり、自閉症の者の馴染めない、人間世界に対する、不安や恐怖となる。

一方、「人と人の間」の「間」そのものを問題とするとき、それは、自閉症の者が独特の関わりをもつ「世界全体」となる。前回みたように、自閉症の者は、多くの者がするように、身につけた言葉や文化的な区切りで、世界を捉える度合いが少ないために、より「生」に近い知覚世界を生きている。「生」に近いとは、「もの」として区切り取られる以前の、「間」の部分をより浮かび上がらせたものということである。前回も、自閉症者は、それらの世界へと意識が入っていき、「融合」しやすいことをみたが、それは、自己と外部世界との境界も薄く、「間」がそれらを、包み込むように現れているからだといえる。

『跳びはねる思考』の著者は、「自閉」とは、そのように外部世界に意識が入っていくとき、起こらざるを得ない一側面だということを述べていた。確かに、「自閉」には、そのような積極的な面もあるだろうが、やはり、不安や恐怖のためという面も、見逃すことはできない。

「間」としての「世界全体」は、自閉症者にとって、複雑で分かりにくい、人間世界よりも、馴染みのある、親しみやすいものかもしれない。しかし、これまでみてきたように、「間」とは、その根底に、「闇」や「虚無」を抱えているものでもある( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/22-163c.htmlhttp://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post-6f09.html  など)。それは、人間的な知性では、とても捉えられない、「無限定」のものであり、変化と未知性に満ちている。自閉症の者にとっても、魅惑的であると同時に、不安や恐怖を催すものでもあるのである。

自閉症者は、人間世界に対してだけでなく、このような世界全体に対しても、魅惑と同時に一方で不安や恐怖を感じており、ときに心を閉ざして、拘り行動や常同行動で自己を護る必要があるのである。それは、その「間」によって、自己そのものを浸食されようとしている、統合失調の者のようには、激しいものではないにしても、やはり、それと通じる面はあるというべきなのである。

この「世界」に対する、魅惑と不安・恐怖は、自閉症の者がもつとされる「放浪癖」(私にもあったが)にも表れている。自閉症の者は、「世界」の未知なる部分に魅惑を感じ、ひかれるからこそ、冒険心を発揮し、放浪する。だが、それは全く無計画で衝動的なものではなく、自分なりの周到な「地図」に従って、行くのである。生の「世界」の、変化に飛んだ捉え難さ、未知性をもよく知っており、不安や恐怖も強いからである。

このように、自閉症者は、「人と人の間」に対して、つまり「人間世界」や「世界」そのもの対して、不安や恐怖のために、心を閉ざし、拘り行動や常同行動で、自己を護る必要があることになる。

しかし、そうは言っても、やはり多くの者は、なぜそこまで、「人と人の間」が不安や恐怖でなければならないのか、それは、人間世界そのものに対するものになるのか、理解できないと言うかもしれない。

しかし、多くの者もまた、未知なる「間」に対する不安や恐怖は、当然もっているのである。ただ、それを意識しないですむような、集団的な防衛手段を身につけているということであり、それこそが、人間世界の中で、適応的にやっていくことの意味なのである。つまり、人間世界の中で、共通の言語や文化、しきたりを身につけ、集団としてともに行動し、自我なる防壁を築き、互いにそれを尊重し合うこと、等々である。そうやって、多くの者は、「間」に対する不安や恐怖を、いわば覆い隠すことができる。しかし、自閉症の者は、そのような「人間世界」の規則そのものを、身につける度合いが少ない。つまり、「間」に対する、集団的な防衛手段が身についていないので、独自の拘り行動や常同行動で身を護るしかないのである。

ただ、特に「人間世界」に対して、心を閉ざすのは、自閉症の者が、「間」の「世界全体」としての面に、魅惑されているからこそという面もある。つまり、「間」を感受しないようにする、集団的な防衛方法は、もはやその者には意味をなさず、理解できないものとなっているということがある。だから、この人間世界に対し、心を閉ざすことは、それを採用しないという意味で、積極的な「拒否」という言い方もできる。私の場合は、前回あげた記事(『「地獄」「監獄」としての幼稚園』)でも述べたが、そのような「拒否」という面が明らかに強かった。

しかし、心を閉ざす理由は、自閉症の者においても多様で、「間」への不安や恐怖という面が、前面に出ているという場合もあれば、積極的な「拒否」というよりは、止むを得ざる反応という場合もあるだろう。

思想家、村瀬学の『自閉症』(ちくま新書)も、自閉症に対する一般的な理解に疑問を呈し、日常的な言葉で、身近なところから、謎とされる行動を鋭く読み解いている。そこで、著者は、「自閉症の中核症状は要するに<自閉>である」と説く研究者について述べている。これは、既にみたとおり、全くそのとおりと言うだけでなく、もっと積極的に、「自閉症の本質は要するに<自閉>である」と言ってもいいくらいである。

ところが、著者は、これを基本的に受け入れながらも、「自閉」よりも、むしろ、「ちえのおくれ」こそが、本質的なものではないかという。そこには、「自閉」というと、「自閉症」なる病気の観念と結びつけられて理解されることを、回避したいという思いもあるようである。そして、実際にも、「自閉」するから「おくれる」のではなく、「おくれる」からこそ「自閉」するという面が強いはずだという。

確かに、「おくれる」からこそ「自閉」するという面は、様々にみてとれる。「おくれる」ことは、不適応感やコンプレックスを生み、いやでも「自閉」を仕向ける面があるからである。実際、言葉やコミュニケーション能力に「おくれ」、あるいはそれらに関する脳機能に、何らかの障害があるために、「おくれ」ざるを得ず、結果として「自閉する」という場合も、あることだろう。

しかし、私は、やはり、「おくれ」よりも、「自閉」ということこそが、より根源的なものだと思う。既にみたように、自閉症者に即して言えば、「世界全体」との独自の関わりから、「自閉」という、ある意味積極的な態度がとられているのであり、あるいは、とらざるを得ないことになる。それで、集団世界への適応を回避または拒否するからこそ、「おくれる」のであり、あるいは「おくれる」ことを決定づけるのである。「おくれる」ことが、「自閉」を促し、強化する面は確かにある。しかし、「おくれる」ことが、必ずしも自閉に結びつくとは限らないし、たとえ自閉する場合でも、その「自閉」には、やはりそこに、何らかの(積極的な)態度がとられていることを見逃すべきではない。

「おくれ」を本質的なものとみるときには、この「自閉」ということの積極的な意味が、見逃されてしまう。誰にでも起こり得る、「おくれ」ということを前面に出すことで、自閉症を特殊なものとみないという意図はよく分かる。しかし、「自閉」ということの積極的な意味をみず、「おくれ」だけを強調することは、決して「自閉症」のマイナスイメージを弱めることにはならないだろう。

ただし、「積極的意味」というのは、必ずしも、「肯定的」という意味ではないし、「そうするのがいい」ということなのではない。前回も言ったように、適応の拒否を続けることは、本人にも周りにも、結局荒廃をもたらす可能性がある。従って、状況により、そのような態度は、でき得る限り、抑制されるべきなのではあろう。また、そのような態度は、「積極的に選びとられた」という面があるからこそ、修正する余地もある、ということも言えるのである。

ただ、著者が言っている、この自閉症の者が「おくれる」のは、実は、文明社会の「社会機構」や「知的世界」においてであって、「くらし」という生活の基本の部分では、決して「おくれ」るのではない、という指摘は重要である。実際にそうで、だから、この「くらしの場」こそが、生活の中心であった、近代あるいは近世以前には、「自閉症」の者は、決して「おくれ」などとはみなされなかった。むしろ、その独自の世界との関わりは、「聖なるもの」と結びつけられて理解されたはずである。

ところが、現代では、このようなことを期待することはできない。だから、一種の妥協だが、一般の多くの者には、「自閉」ということのマイナス面だけでなく、積極的な意味にも目を向けること、一方、自閉症の者は、でき得る限り、「自閉」ということの制御を学ぶことを期待するしかないのである。

※ 今回は、「自閉」ということの本質についてみた。しかし、「自閉症」には、「うつ」や「統合失調」に、精神薬によって同様の状態が発生するものがあるように、種々の化学物質やワクチンなどによって発生するものも多いと思われる。この問題も重要なので、いずれ近いうちに「もう一つの自閉症」として述べてみたいと思っている。

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