« 前の記事のコメントに関して/簡単な総括 | トップページ | 「自閉」ということ »

2014年11月26日 (水)

『跳びはねる思考』

東田直樹著『跳びはねる思考』(イースト・プレス)は、人と会話もできないという、重度の自閉症者の書いた本で、既にある程度読まれていて、話題にもなっているようだ。かなりの衝撃的な内容であり、率直で分かりやすい文章で、「自閉症」とされている、自分の内面世界を、余すところなく語っている。それは、どんな研究者や精神科医の書いたものよりも、説得的で、充実している。その文章には、ときに、哲学者か神秘家かと思わせるほどの、鋭く、深い洞察がある。前著が、海外で、ベストセラーになったというのも、頷ける。

私も、幼少期から、自閉的傾向が強かったことを述べたが、そのことを改めて確認させられ、その共通性の多さには、驚かされた。さらに、「自閉」ということと、「統合失調」ということの、関わりについても、いろいろ考えさせられた。が、その点の考察は次回に譲ることにし、今回は、『跳びはねる思考』の感想だけに止めたい。

自閉症は、人とのコミュニケーションがとりにくく、あるいはとれない、人に関心がない、などと言われる。が、著者は、その理由を次のように説明してみせる。(その文章を知ってもらう意味でも、引用してみたい。)

僕には、人が見えていないのです。
人も風景の一部となって、僕の目には飛び込んでくるからです。山も木も建物も鳥も、全てのものが一斉に、僕に話しかけてくる感じなのです。それら全てを相手にすることは、もちろんできませんから、その時、一番関心のあるものに心を動かされます。
引き寄せられるように、僕とそのものとの対話が始まるのです。それは、言葉による会話ではありませんが、存在同士が重なり合うような融合する快感です。

「人に関心がない」のではなく、周りの「世界」から、人だけを特別に、切り離していないのである。むしろ、「世界」への関心は、深いばかりか、その「つながり」を強く感じている。周りの「世界」の方から、「挨拶」してくることからも、それは窺われる。

この「世界とのつながり」は、恐らく、著者が、言葉を身につけることに際して、遅れがあり、一般に比べ、言語を身につける度合いが少ないという事情にもよっているだろう。「通常の知覚」世界というのは、文化、従って言語によっても規定されていることは、前々回にもみた。著者の場合、「言語以前の世界」というと語弊があるが、眼前に現れ出る「世界」が、言語や文化によって、区切り取られ、色付けされる度合いが少なく、より「生」に近い形で、現れ出ているということである。

そして、このように、「世界とのつながり」を意識するということは、統合失調状況に陥って、自我と外界の境界が揺らぎ、または崩れるときに、まさしく起こることでもある。それは、そうでない状態から、そのような状態に陥るので、非常に恐怖をもたらす。ところが、「自閉」の場合は、割合、それに近い状態を、日常的に経験していて、慣れ親しんでいるということになるだろう。このように、「自閉」と「統合失調」は、深い関わりがあると言えるのである。

もう一つ、「自閉」する、「心を閉ざす」ということに関して、著者が言っていることも、あげておこう。

空を見ている時は、心を閉ざしていると思うのです。周りのものは一切遮断し、空にひたっています。見ているだけなのに、全ての感覚が空に吸い込まれていくようです。
この感じは、自閉症者が自分の興味のあるものに、こだわる様子に近いのではないかという気がします。

この「自閉」ということも、先のような、世界との関わり方と関係している。このような「世界」のある事物にひかれて、それに意識を集中して、それに「入って」いくようにすると、周りのものに対しては、「自閉」するということにならざるを得ない、というのである。私は、「自閉」ということには、ある何ものかに対する「恐怖」があって、そうするという面もあると思っているが、このように「積極的」な面もあることを、改めて気づかされた。

このようなあり方は、「世界」との、一つの独特で充実した関わりであることが知られる。自閉症の内面世界として、これまであまり知られて来なかった面である。

しかし、このようなあり方が、人間世界の中で、つまり集団社会の中では、適応的に働くはずがないことも確かである。人の世界や社会の中にあって、このような世界との関わりを続けていれば、人との関わりは、そこから締め出されてしまう。それは、他の多くの者には、「自閉」という、ただの「障害」としかみなされず、改善しなければならないものとされてしまう。このような、自閉症者の充実した内面世界が、一般の者に、見直されることは、是非とも必要である。しかし、自閉症者の方でも、その世界との関わりは、時と場合によって、制御することを学ぶ必要があるということになるだろう。

自閉症に関しては、周りの者には奇異にみえる、「こだわり行動」、「常同的な行動」(同じ行為を執拗に繰り返すこと)への囚われがある、と言われる。それについては、「変化への恐れ」があり、また「初めてのこと」が苦手で、何か自分の知っている行動をしていないと、安心できないことが述べられる。「自分の知っているものを早く探さないと、異次元の世界に迷い込んでしまう」ような錯覚に陥るというのだ。

これには、恐らく2つの面があると思う。一つは、実際、著者にとって、人間世界というものは、良く分からない、「異次元の世界」のようなものだということ。だから、一つには、そのような、人間世界に対する恐れがある。そして、さらに、やはり著者にとっても、普通の人より、身近に感じているばすの「世界」全体は、変化に満ち、未知性に満ちた、恐ろしいものでもあるのだと思う。普通の人は、そのような「世界」に対して、身につけた文化や言語、そして、自我の障壁で護られている。それに対して、そのような「障壁」の少ない自閉症の人は、「世界」全体が、自らに押し寄せてくることについても、「こだわり行動」や「常同的な行動」で、護らなければならない面があるのだと思う。この辺りも、統合失調状況と関わることで、次回にさらに述べたい。

また、面白いのは、著者は、水に執着し、流れている水をずっと眺めていたり、いつまでも水と遊んでいることがあるという。これは、私もそうだったし、今でも、海や滝の水を、ずっと眺めていても一向に飽きない。さらに、私は、火に対してもそうで、子供の頃、マッチに火をつけた後、その火をずっと燃え尽きるまで眺めて、悦に入っているのを怒られたことがある。火は、既に述べたように、一連の体験時に、ビジョンとしても何度か現れた。水や火は、不思議な動きのあるもので、生きたものとの感覚を呼び起こすのだと思うし、それにひかれて、意識が「入っていく」(融合する)ことになりやすいのだと思う。

こういったことは、自閉症にだけ特殊なことというよりも、ある程度、子供には共通する面があるのかもしれない。しかし、普通、子供は、一定の年令になるのに伴って、こういう面を失い、社会に適応していく。自閉症の場合は、それへの執着が強く、なかなかそこから離れられない、ということなのだと思う

最後に、著者が「魂」について語っていることを、とりあげよう。著者は、「魂が肉体に閉じ込められている」、と感じることが多いという。それで、じっとしていると落ち着かず、魂がときどき肉体から離れて、自由に駆け巡るのだという。しかし、ときには、魂が肉体から抜け出られずに、肉体の中で、体や想像を使って、「駆け巡る」ことも多いだろう。著者がよくするという、「跳びはねる」という行動も、そのような状態の表れなのだと思う。また、タイトルの「跳びはねる思考」とは、まさに、そのような、魂と思考の、自由な飛翔を意味しているのだといえる。

私も、記事『「地獄」「監獄」としての「幼稚園」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-b91f.html)で述べたように、幼稚園の時期には、よく魂が肉体を抜け出て、そこにいないということがあった。魂が、抜け出ているというときには、体は硬直し、周りの呼びかけにも反応がなく、まさに「自閉」そのものの状態として、周りには映る。それに対して、魂が、肉体の中で駆け巡っているときには、じっとしていられず、落ち着かない、「多動」の状態として、周りには映るのだと思う。

これらは、「発達障害」とされるものについて、「自閉」や、「多動」ということがどうして起こるのかの、大きなヒントになっていると思う。

私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
総まとめ(旧「闇を超えて」より」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)

« 前の記事のコメントに関して/簡単な総括 | トップページ | 「自閉」ということ »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

先日に続きコメント失礼します。
まず自閉という概念ですが、ある時にある人に自閉症なんてことを言われたことがありますが、
要するに医学でもない場合は、何かを自閉という人もいるようです。

一方で、先日のコメントにも書いたある人は、集団~という内容を相談した時にその対策として「閉じる」ということを言っていました。
某掲示板でも、何らかの書き込みや何かを見た時にスレをそっと閉じる(そっとじ)というようなことが言われることがありますが、
対象への開閉という側面もこういった話題の一つなのかなと思いました。

ちなみに、水をずっと眺めていたという記述でうちの猫を思い出しました。
うちの猫は、特に子猫の時代に蛇口から流れる水をずっと見ていたりしていたのが印象的だったので。
実は言語以前の世界というようなものは、そういったものかもしれないですね。

昔(私が10代の頃)は、自閉症っぽい人に対して、割と無邪気に自閉症とからかうように言うことは多かったようです。これは必ずしも、悪意ではなくて、自閉症というものが あまり深刻にではなく、誰にでもあり得る状態として受け止められていたこともあると思います。変に、「病気」として固定されて言われるようになったために、タブー化したようなところもありますね。

水をみつめている猫の話は、面白かったです。通じるところ、十分あると思います。

ふなっしー;ちょっと横やりするなし。
ふなっしーも、「多動」とか「跳びはねる」とか言われるけど…、妖精仲間には、多いなしよ。病気と言われるのは、芯外なし。

ヒャッハー!!!!!

ティエム様

「芯外なし」を読み、ひととき跳びはねていました。跳びはねながら、さきの叫び声をコメントとして。

正直なところ、今回の記事にやり切れない思いで沈んでおりました。
ティエム様は勿論全てをご承知で筆を執られたとお察しします。(「闇を越えて」のお書き添えにも、お気遣いが伺われます)

しかし、この出版と放映の「仕組まれている(かも知れない)負の影響と、隠されている(かも知れない)意図の強力さ」は、私をあんたんとした気持ちにさせました。

ゆっくりしたくて、この一週間「ふなっしー」関連の記事(うちにはテレビありません、画像で)に浸ったり、初冬の風に気持ちを遊ばせたりしておりました。

紹介本は「『重度の自閉症者』が表現する内的世界」として読者に読まれていく‥‥‥「○ったつ障○」と名付けられた方の著書と同様に、この本の出版やテレビ放映自体が、人類に貢献する現代医療、現代物質文明を肯定し、認知度を浸透させるための「お仕立て芝居」で、

厳重に張り巡らされた「常識」というハコモノ芝居小屋に「ご案内(じつは殆ど強制)されて観客になっている」私達ではないのか?

しょせん著者も家族も、
「イッパンシャカイの皆さん見てください!障害者や病気もちの、カワイソウな人々にもこーんなに豊かな世界があるんです。

そう、重度の自閉症「だって」、生きてるんです!障害者「だって」、生きてるんです!スバラシイ!

我々の偏見をナクシテ、理解と受容と、にんしきと福祉支援を深めマショー!

オッホン!ワタクシタチ現代医療はそのためにガンバッテる、最高に素晴らしい存在なのデス!」
との宣伝に、利用されているだけではないか。

「あっ、そこの君タチ、だめだめ!一ミリ足りとも、ギモンを持ってはなりません!君タチのような者は、シャカイでは『非常識』というおバカなのです。資本主義は正しい!我々医療産業は『正義』だ!我々に盾突く者はみな病気です!病名つけるぞ!」

‥‥今現在、志ある方々が世界中日本中、1ミリずつ行動し言葉を発している、祈り念じておられる。そう思い気を取り直しております。

「自閉○」という病名も、医療産業支配に取り込まれたツクリゴトかも知れず、原因を疑われている「ワクチン接種後の自閉状態発生」に関連する統計研究、訴訟は調べると多数あります。(日本では中々発表されない)

一例では、ワクチン接種をしない「アーミッシュ」の人々には自閉症が著しく少ない、との報告があり、又それを否定する報告もあります。

現代医学の自閉症定義への疑問を書き出すと膨大な文になりますのでこれ以上は差し控えますが、

この「跳びはねる思考」の著者は、まさに本人として、これら全てを「肌でわかっている」と私は感じます。資料や情報を集めてではなく、生まれてから今まで、嘘にまみれた人間シャカイの端的な吹出し口にさらされながら、何がまことで何がにせものかを、不自由な身体の内から「じっと」見続けてきたことでしょうから。

個人の生まれ持った感性、子供の純真さもありましょう。

加えて、不自由な身体を器に持たされた厳しい人生ゆえ、並の15年の人生で経験する試練の何倍、何十倍もの精神的鍛練を受けた(例えば無数の他人の視線など)であろう彼の洞察力が、「人を見た瞬間」に「人が見えていない、見えない」=「見えなくてよい、関心をひかない」と認識している可能性も、‥‥‥あるかも知れません。

膨大な常識に侵され、彼を見た瞬間に「人として見ていない、人を見ようとしない、目を背けている」のは、私達。見えていないのは彼(彼ら)ではなく、目の曇った私らだと思います。

もしかすると医療宣伝の意図その他全てを感覚的に承知のうえで、著者は「文章で伝えたい、伝えよう」と感じたのかも知れません。

つたえたいこころに、ふれたひとは、すべてをゆさぶられる。そんな感想を主人(ブログ読んだことはなくとも話は感覚的に聞いてくれます)に話したら、

「あたりまえだよ。福祉が入ってきて、かえって人間をおかしくしてない?僕にはひとりひとりが見えるし、だいいち何が違うの?歩けないだけ。動けないだけ。しゃべらないだけ。人間。実際会うと、スゴイ人も、いやな人もいる。みんなありのままに見えているよ。」とのたまいます。あなた樹にも石にもなれるのね。常識の埒外に自在に行き来できる浮世離れした人だと、主人を再認識しました。


主人の感性を勝手に借りて書くと、こうなるかも知れません。
「木や建物や鳥が彼に見えているのは、木や建物や鳥が、彼をすなおに見ているから。じっと見ているから。

もし人が、こころにまとうものを静かにおろし、木や鳥のようになって(小さな子供になって)彼の前にすがたを現したならば、彼にはたぶんその人が遅かれ早かれ、みえる」。

ああすみません、また長くなりました。窓の外夕焼けです、急いで干し物取り込みましょう。

‥‥‥人だと、主人を再認識しました。

見えていない、見えない、見ようとしないのは、私らと思います。

ああすみませんまた長くなりました。書きたいこと沢山ありますがご迷惑も考えず‥‥いつの間にか夕焼けです、急いで干し物取り込みましょう。

私の考えでは、この本は、言われるような数多の「病者」に、「病者」という枠の中で、「慰め」や「宣伝」を語らせる類のものとは、はっきり一線を画していると思います。

もちろん、出版社や企画した側の意図というものは、そのような枠の中でのものである可能性も高いでしょう。また、受け取る側の多くも、そうである可能性は高いでしょう。しかし、そのような意図は、あらゆるメディアにあるもので、ネット上のブログその他の表現手段にも当てはまることです。

そのような中で、表現されたものの価値は、やはり内容そのもので判断するしかないと思います。この本の場合、内容そのものが、周りの意図はどうあれ、そのような「見方」を越えているものを、明らかに語っていて、もはや「病気」という見方自体を寄せ付けず、覆すものを露わにしています。著者自身も、ある程度それを意識していることが伺えます。もちろん、社会の中で、「自閉症」と評価されている以上、その「弱者」としての立場は十分意識し、それに乗っかったうえで、自分なりの表現をまっとうするしかないという状況は、十分把握しているものと思います。決して、周りに 「踊らされ」ているだけとは感じられません(ただし、今後もそうであり続けることができるかどうかは、何とも言えませんが)。

今後も、この本のように、一見利用されているだけのように感じられるものでも、内容次第では、その価値を認めて、とりあげていくつもりです。あるいは、むしろ、ある場合には、私自身の「意図」により、本人自身の意図をも越えたものを、そこに、露わにしていくとがあるかもしれません。


ティエム様、明解なご返事を有難うございます。

「‥はっきり一線を画していると思います‥‥そのような見方を越えているものを明らかに語っていて、もはや『病気』という見方自体を寄せ付けず、隠すものを露わにしています。」

「明らかに語っていて」、「見方自体を寄せ付けず」とは、爽快ささえ覚えました。

みるくゆがふさん、ティエムさん、お久しぶりです。


寒くなっていますが、御体大丈夫でしょうか。


私は何とかやっています。ですが…、最近、偶然、ネットで、「須原一秀」という、元龍谷大学の先生だった方の事をリサーチしていて、中々コッチの世界に戻れないでいました(苦笑)。


私もですが、ティエムさんの記事は勿論の事、みるくゆがふさんのコメントを読むために狂気をくぐり抜けるを検索していると言えるくらい、貴重なご意見を参考にさせていただいています。


変性意識……、取り扱い注意です(笑)。


それではまた。

ありがとうございます。

「変性意識が取り扱い注意」というよりも…、「通常意識は、変性意識と言われる本来の意識状態を扱い損ねたためにできた」という言い方もできますげとね(笑)。

こんばんは。

確かに、そういう言い方もありますね(笑)。

東田さんは、ビッグイシューの記事と、14歳(Lv14)頃の本を読んだくらいの知識ですが、私の思考の盲点を突かれた記憶があります。彼には異論反論はありません。


そういえば私も、311以降、テレビを押入れに仕舞おうと、何度思ったことか…(苦笑)。

追記…、何故かこのコメント、スパムコメント防止が効きました(苦笑)。

自閉という概念は他閉と表現したほうがより正確なのではないかと思いました。

江頭 2:50 「おーい。「多動」といえば、俺を忘れるんじゃないよー」

ふなっしー 「彼は、どっちかといえば「妖怪ウォッチ」の方だしな。
        一緒にしてほしくないなし。」

江頭 2:50 「むむ。そんなこと言うから、出しちゃうんだろー」
    
       多動ショー 披露

つまらないギャグを披露してしまいましたが…。

まあ、「多動」にも、「ふなっしー型」と「江頭型」があるという風に受け止めることもできるのではないかと思います。

「ふなっしー型(妖精型)」=自然な躍動、興奮の発露

「江頭型(妖怪型)」=反発、不満、うっ屈の表現

えがっしー汁 ブシャー!

うたうひと、おどるひと、歓喜にせよ反発にせよ、跳びはねようと考えて跳んではいない、

自在の心は矢もたてもたまらず、気がついたら跳んでいっちゃってるわけです。

歌い跳ね踊るとは、そういうものだから。

片方は「大人の目」で、
もう片方は「わらべ心の目」で‥‥‥

「こっちの世界」と「あっちの世界」を見はるかしていくのだなっしーよ!!!!!

ティエムさん、みるくゆがふさん、明けましておめでとうございます。まだまだ、レベル31の私ですが、宜しくお願い致します。


追記…、このコメント、メールアドレスを入力してもスパムコメント防止が効きました(意味がわからん…)。

あけましておめでとうございます。

みるくゆがふさん、長津タカさんありがとうございます。

スパム防止機能は、私がコメントするときにも働きますので、内容に関わらず、ときどき働くようです。

「多動」については、上の二つのほかに、もう一つの型をとりあげなければなりません。

それは、特定の誰かで言い表すことはできませんが、

「神経毒反応型(人為型)」=自然にでも、反発やうっ屈によってでもなく、人為的な神経毒の(蓄積)作用により、興奮状態、混乱状態にさらされるもの。

大量生産を可能にした高度経済成長期以後、「多動」が飛躍的に増えているのだとすれば、この型のものが増えているという可能性が高いですね。

ティエムさん、了解しました。こちらこそ宜しくお願い致します。

ここはティエム様のブログなのに、母さん、またやってしまったわ(星一徹ちゃぶ台風に)

この場をお借りして、コメントさせて頂いていることに感謝します。

もう少々お借りします、長津タカ様!落ち着いておられるようですね、良かったです。お互いにこのブログのよき読者になれるよう、今年も「地に足を着けて、過不足なく」、ティエム様から学ばせて頂き、みずからも、自らを深く探求させて頂きましょうー。

(あまり騒いでると、ティエム様に「廊下にお立ちなさい」と叱られますのでほどほどに致します)

今年がどうぞ良い御年になりますように。

みるくゆがふさん、心配させてしまったようですね。無問題です。今の世の中、PC遠隔操作もありますし、クラッキングなる技術もあるようですので、いろいろと未知数だと思います。「サイバー犯罪」も対処しなければならない事です。(話は少しそれますが)……集団ストーカー現象にしても、無いというのは簡単である一方、証明する側は多大な心的労力が必要となるかと推測しています。加害者側にとって、「有難いお言葉」を使わないように、自分は意識しています。「シロウト判断」が最もマズイ事ではありますが。加害者に口なし、という状態では。


出先でのコメントなので、申し訳ありません。


コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『跳びはねる思考』:

« 前の記事のコメントに関して/簡単な総括 | トップページ | 「自閉」ということ »

新設ページ

ブログパーツ

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

コメントの投稿について

質問の募集について

無料ブログはココログ