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2014年11月15日 (土)

「見ること」(通常の知覚)の危うさ

幻覚というものは、通常、嫌悪感をもって迎えられ、恐れられる。統合失調が恐れられるのも、この幻覚に対する恐怖ということが、かなりの部分を占めていると思われる。

そのように、幻覚が嫌悪され、恐れられる理由は何なのか。その大きな理由の一つは、幻覚ということが、「見ること」つまり「通常の知覚」ということの、(根拠の)「危うさ」をあぶり出すことになるからだと思われる。

オリヴァー・サックスの『見てしまう人びと』でもみたように、幻覚というのは、通常の知覚と同様、あるいはそれ以上にリアルなものである。また、決して稀なものではなく、かなりの人に、さまざなな理由で起こり得る、ありふれたものである。幻覚というものが、かくもありふれたもので、しかも、通常の知覚と、本質的には違わないものだとしたら、多くの者が当たり前のように信じている、「通常の知覚」というものが、どれだけの根拠があるものなのか、いやでも、顧みさせてしまうことになる。

サックスは、脳の生理的過程によって生じる幻覚は、多くの場合、本人と無関係な内容のもので、状況に沿わないので、現実の知覚と区別できるとしていた。しかし、サックス自身、アーテンという幻覚剤の体験をしたときは、友人が部屋に入って来て、会話もし、料理をふるまおうとしたが、いなくなっていて、初めてそれが幻覚であることに気づかされた。つまり、現実とほとんど変わることのない幻覚というものもある。

多くの人にとっても、容易に、現実の知覚と区別できるような幻覚なら、まだしも、恐ろしいものではないだろう。しかし、現実とほとんど変わることのない幻覚、しかも、本人が、現実そのものと思って行動してしまうような幻覚というのは、やはり、恐ろしいはずである。現実と幻覚の境界が曖昧になり、現実の安定性が揺らいでしまうからである。

そして、まさに、そのように、現実と幻覚の区別が難しく、現実そのものと思って行動してしまうという、典型的な幻覚がある。それが、統合失調症にいう幻覚である。ただ、統合失調症の場合、周りの多くの者は、それが現実でないことは容易に分かる。その幻覚を元にした妄想が、明らかに事実に反することが分かるからである。だから、その範囲で、周りの者の「現実」そのものの根拠を、直ちに危ぶませるというものではない。

しかし、幻覚を見る(聞く)本人が、それを現実そのものと思って行動してしまうこと、周りも、それを容易に修正できないことは明らかである。幻覚というものが、本人にとっては、何か、強烈な現実感をもたらすものであることは、周りの者にも、十分察しがつくのである。そうすると、周りの者にとっても、その者がもつ、幻覚による現実感というものが、「誤り」であることが、社会的に明確にされなければ、落ち着かない。そうでなければ、いずれ、自分自身の現実の根拠も、問われることになるかもしれないからである。

そして、そのような「誤り」を「誤り」とはっきりと宣告し、「治療」によって、変えなければならないものと、公的に定めてくれるのが、精神医学の「病気」という観念である。「病気」とは、要するに、「異常」ということであり、逆から言えば、「通常の知覚」こそが、「正常」で「正しい」ということの確認である。だから、その幻覚は、どんなに現実感を伴っていようが、「誤り」であり、「異常」なことで、「治療」により、「正常化」して、「正しい」知覚に変えなければならない。そうすることで、多くの者の共有する、「通常の知覚」が、正しいものとして、保証され、顧みる必要もなくなる

統合失調症が「排除」される理由は、他にもあるが、「現実」そのものを脅かす、「幻覚」への恐れということが、かなりの部分を占めると思われるのである。

そうすると、統合失調症が「排除」されないためには、その「幻覚」ということが、「病気」や「誤り」というレッテルを外して、本質から捉え直されなければならない。また、そのためには、「幻覚」とは、「通常の知覚」との関係で、「幻覚」とされる以上、「通常の知覚」というものも、その根拠が本質的に見直されなければならない。

サックスも、「幻覚」を体験しながらも、精神異常と思われるのが恐いため、そのことを語らない者が、大勢いるという。さらに、私は、自分自身もそうだったが、「幻覚」についてかなりの体験をしていても、すぐに抑圧して記憶から消してしまうため、そのことに気づかない(思い出せない)人も相当いると思う。

つまり、普通思われているより、はるかに、「幻覚」は、普遍的でありふれたものということである。言い換えれば、「通常の知覚」が、多くの者にとって共通のもので、不変(固定的)なものであるというのは、非常に怪しいということである。実際には、そのように、不安定で、揺らぎのあるもの、人によって異なる内容の「幻覚」が入り込む余地が、いくらもあるものなので、逆に、それが、誰にとっても共通のもので、不変なものであるということを、イデオロギー的に強調していかなければならないのである。(「唯物論」つまり、すべての者に共通の法則でできているものだけが存在する、という発想も、このような要請から来ている面が強いだろう。)

「幻覚」や「通常の知覚」については、いずれ、脳科学的な知見なども参照しながら、これまで述べてきたより、さらに踏み込んで、考察してみたいと思っている。

だが、「通常の知覚」と「幻覚」とは、サックスも言うように、脳からみた場合、どこにも違いがないことが分かっている。つまり、脳そのものからみるなら、「通常の知覚」と「幻覚」を区別する根拠はない、ということである。結局、「通常の知覚」と「幻覚」は、社会において区別するしかなく、その基準も、他の多くの者と「共通するか否か」という、かなり漠然としたものにならざるを得ない。

そして、その「共通性」とは、生物としての人間に共通の基盤というのは、一応ある(それにしても、他の生命に対して、それが正しいという保証は何もない)にしても、具体的には、結局、人がある「文化」の中に生まれ、その「文化」を身につけていくのに応じて、形成されていくものである。その「文化」が、緩んだり、揺らいでいけば、その「共通性」も緩まり、揺らいでいく。あるいは、ある理由で、その「文化」を身につけるのに、遅れや「障害」か生じた場合には、その「共通性」についても、当然、人との違いが生じることになる。

その「文化的な共通性」とは、脳でいえば、ある特定のニューロンのネットワークとして形成され、学習によって固定されることになる。が、それは、決して不変なものではなく、いくらでも壊れたり、作り直されたりするものである(可塑性)。

そういうわけで、「通常の知覚」と「幻覚」の区別というものは、実は、相当曖昧なもので、根拠の薄いものであることが知られる。しかも、今後、現在の文化が、ますます揺らいでいくのは明らかなので、知覚の共通性も揺らぎ、多様な幻覚が当たり前のように見られるようになっていく可能性がある。「現実」というものが、誰にも「共通」のものであるという常識は、もはや通用しなくなってくると思われるのである。(そうであればあるほど、「病気」というイデオロギーによる締めつけも、より厳しくなってくるとも言えるわけだが。)

しかし、一方、何度も言っているように、だからと言って、統合失調の幻覚のような現象を、単純に「現実」そのものと受け取るのがいい、ということではない。それは、現段階における、他の多くの者が「共通の知覚」としているものとは、はっきり異なるものであることは、自覚する必要がある。ただ、そのうえで、それにどのように対処するかというときに、それが、他の者の「共通の知覚」と決して遜色のない「現実」であることを確認するのは、何ら構わないし、むしろ望ましいことである。 

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コメント

ティエムさん、こんばんは。
幻視の問題ですね。ティエムさんも指摘していたように、脳内の神経の混乱が起こすものです。
しかし脳の可塑性については、少なからずの脳神経研究者が指摘していて、その調子を整えるために様々な試みが治療として行われています。
精神分析医である筑波大学教授になった斎藤環先生も、脳の可塑性については指摘していまして、おたくやマニアや腐女子やひきこもりであっても、脳の可塑性を考えると、立ち直る可能性はあるという考え方にあります。実際には、認知機能のずれですので、意識しておけば、「幻覚」まで神経が過度に働きすぎることはなくなると思います。あまりにも過度の量の抗精神病薬の投与はよくないと考えます。認知行動療法をあなどってはなりません。むしろ、気にしない方が、神経の疲労を加えないので、ほどほどに良くなると思います。占い師や絵を描いたりする人達に重篤な精神疾患を有しているものの、閉鎖的な人間関係をかたくなに築くことで、かえって悪化していることすらわからず、その相手の状況や心情を良くしようと思い、手を差し伸べる側の方が精神的なダメージを受けてしまいます。人間不信に陥りますね。この閉鎖的でかたくなな人間関係は、小説家にも多く、斉藤茂太先生が実際に生前、小説家には精神病の人が非常に多いんだよ、でも、本人はそのことに気がついていない、と話していました。この場合は、現実に「幻視」が見えるのではなく、心の中での「認識」において「幻視」状態が起きているから、小説が描けると考えられます。実際に、『ストーリー・テラー』(訳は小説を売る人です)の著者である有川浩が、脳を痛めるという難病になっている小説家の女性とそれを支える献身的な男性を小説で書いていますが、これは著者の実体験ではないかと、斉藤茂太先生の話を思い出すごとに強烈に思えます。
しかし、配偶者がいると、そうした「幻覚・幻視」状態にある人達でも、精神病者とはされずに人生を守られて生きていけます。他方で、親を亡くして、友人知人親戚がいないひとりぼっちの人は、精神神経科しか頼りになる人がいなくて、結局は精神病者にされて、一生を薬漬けと隔離で終わる。ましてや、法律的にも、被補佐人として、戸籍さえ変えさせられる社会制度の現状。
これらについては、非常に問題が根強いのですが、他の、精神医療の問題を取り上げているブログでは全く言えません。反対に、英語やドイツ語ではスキゾフレニア(直訳すれば精神分裂病であり、日本で後に名称が統合失調症に変更されていても、肝心の英語は表記が変わりません。問題をあやふやにしています)の状態で、以前、取り上げられていた、「電波系」の症状を呈している人が、その状態を異様な状態であり、認知を改めようとすればそれ以上症状が悪化することも防げるのに、社会を騒がしている「社会運動家」と連携することで、ますます、精神神経の状態が良くない人達の社会的立場を悪くさせていることに全くブログ主も気がついていません。ですので、HNを変えて、こちらを別のブログで知りまして、感想を書きましたところ、良い方向性へと受け止めていただきましたので、率直に助かっています。
症状がどうであれども、その状態や、周囲の状況を自ら受け止めた上で、それから認知を変えていけば、幻覚や妄想の状態から脱することは可能でしょうし、また、その状態を客観的に見つめられる自分自身を育てることが出来ます。
斉藤茂太先生の話では、なかなか絵や小説を描く作家には、そのことを自覚する人が多くないとのことです。実際に、わたしはある二次創作の同人活動をしていて人間関係に衝撃な亀裂を受けて精神的に非常にダメージを受けてしまっていた女性の作品を読んでいて知り、これでは危ないと強く感じて、具体的フォローも含めて支えてみたのですが、彼女は「私は腐っているから。その同人誌の作者の人格として生きていくから、交流はいらない」と言いながらも、実際には、激しい精神的衝撃を受けた同人活動をともにしていた、袂を分かれた女性や、彼女の同人活動で金や名声を得られるから捕まえたのが実際に見てありありだった(要は同人界の主みたいな奴)かなり年長の男性に捕まえられて、その男からも結婚という形で、そして彼女と同人活動をともにしてきた、一度は袂を別れさせられた既婚年上女性が手のひらを返すと、わたしが何度も言っても彼女は聞かずに彼女に尽くしてしまうという、男女二人からの操りお人形状態になっていたのを実際にこの目で観まして、深い後悔と悲しみと恨みの思いをわたしが受けてしまいました…。最近になって、そういえば斉藤茂太先生が指摘していたことを思い出しましまして、本当の病理はここにあるのだと傷つきながらも、彼女たちや彼女たちを利用している同人界の男性共達から利用されたことに深い心の傷と、生活面での衝撃が消えません。彼女は精神が病んでいても、同人界では神様扱いされていて、イベントでは特別席を設けられている、いわゆる「同人界の大手」ということを知り、そうした同人作家としての自分自身が特別という病理の状態で、関わろうとする人を傷つけていることすら、「気に入らなければ、切って下さい」とまで言う有様。ある精神科医で作家の旧帝大医学部出身の医師の先生は、そうした状態の人を、「人格の障がいを持っている人なのだ」と深く悩む心情で本で記していました(患者さんの側に立った精神科医で作家である方としては一番有名な方です。どのような職業や立場や心身の体調の不調であっても決して差別屋偏見の目では見ないと臨床でも著書でも貫いている、腹を据えた方です)。
そうした彼女や彼らにとっては、「見ること」自体にすでにゆがみが出ていても、「自分は腐っているから」「自分たちは同人社会で守られているから」と自己保身に走ってしまい、もっと掘り下げて考えることの出来る人でさえ、それすら放棄してしまっています。誰か他の人の助けや支えがあっても、それすら気がつかずに、作家である自分にとっては、同じ同人の人とは違う、ファンとしてしか、相手を見ることができない。きつくても、人間を見ろと思えてなりません。誘惑に負けて、欲得のある男女達や配偶者としてかばってくれることをいいことに、自己を見つめることを放棄する、それで良い作品を生み出すことは出来ません。ましてや、「見ること」そのものを問われ続けられているにもかかわらず、それすら「同人の名のもとで」「腐っているからと逃げて」放棄する。そうして傷ついた人はどうしたらよいのでしょうか。
他のブログでは、医師が悪だからとか、社会が悪いからとそればかり指摘しますが、根本的なところから考えてみるということがなければ、寛容である自分自身になれたり、寛容になれる社会の力を再認識して創り出していくことは難しいです。彼女や彼らは、通院しているか、または利害関係を一緒にする集まりに守られているからそのまま人を傷つけても創作作品を考え無しで購入して応援する多くの「ファン」(本当にファンなのかはわたしには表面的でしか見えません)生きていけると思い込んで、それで生活できているから通院をする必要もないという違いはあっても、同じ方面へ向かっているように思えてなりません。
こちらのブログは、医師が、貴重な考察をしていると紹介していて知りました。原点を考えながら、寛容な人間関係や、社会を見ていけるようになる、社会の方も受容できるようになるといいと、わたしは願ってやみません。

補足させて下さい。
通常の知覚(視覚や認知)ということの「危うさをあぶり出す」ということについてですが、精神的に熱中して絵を描いたりすると、精神的にトランス状態が起こりやすくなります。ですから、同人誌で絵と話を描いている彼女は、一度か二度、狂気の状態の主人公を描いています。もっとも、最後は「受容される」という形で、トラウマと狂気がおさまるという話を絵で描いています。その「狂気」を、一緒に同人活動をしていた相棒役の年上既婚先輩女性が文章を書く人ですので、気がついたのでしょう。そうして、大げんかをして、振られた。振られた、「狂気を描いた彼女」はひどく傷ついた。それを知ったので、わたしがあえて創作活動をしながら専門の勉強を再び行う形で彼女に支えてみたのですが、同人の連中の欲得やそれ故の闇は手段を選ばず深いですね。相手の弱みをつかんでいて、相手を弱らせて自分自身は保身的になっておきながら、いざとなると、金や名声になる彼女を助けようとする「他者(ここではわたしです)」が出てくると、仲直りを出してきたり、これだけ守っていると言い出す。そして、病む彼女は自分自身のことを考えるよりも、売れるために自分自身を甘やかせることに走る。
どんなに臨床心理士や、理解のある精神科医が心を砕いても、良くなりようがありません。
悲しみはあまりにも深すぎます。こころが痛いです。
一見、社会派のブログでは、ブログ主が勝手な判断で非公開にして抹殺してしまいますので、根本的なところから考えてみようという、こちらにて、考えさせていただきました。

長くなり、すみません。
前の記事を読み直していたのですが、そこで強調されている、「幻覚とは、想像とは異なり、現実の知覚と同様、あるいはそれ以上に「リアル」なものであることが強調されている。また、「トップダウン」という言い方がされるが、本人の意思に拘わらず、向こうから一方的に来るものであることが強調される。」という記述で思い出したのですが、その同人誌で欲と性を描いているうちに彼女も知らぬ間に「狂気」な主人公を描いていたのですが、そこで、あとがきとして、彼女は「ファンタジーとは違う、リアルなものを感じて新鮮でした」と、その「想像の域を超えた「リアルさ」が生み出されたことに対して新鮮だった」と述べています。実際にわたしは彼女に会ったのですが、その作品を描いたとは全く正反対の、非常に依存的なか弱い女性でした。すぐそばには、仕切っていた夫(雰囲気ですぐに同人歴の長い同人界の主の一人だとわかりました。異様な雰囲気を持っていましたから。わたしがそういう男性からセクシャル・ハラスメントを何回もターゲットにされて受け続けたので、ますますわかるのです。大学運営者をもお願いして動いていただいたことがあります。それだけ病理的なものは、幻覚以上に大きすぎるものです)がいました。管理しているな、この男、同人界で売れる彼女を、とすぐに気がつきました。
そして、その「狂気」を生み出した作品を描いた直後に、それまで何年間も続いた、同人の相棒である女性先輩同人作家(既婚、子持ち)は「私はその同人サークルの相棒ではない」と言って、サークルを離れました。それまでの作品では全く現れなかった、「狂気」が画像として正面からリアルにあふれ出る内容だったからです。ぞっとして、その「狂気」を描いた彼女から離れたら、もう、それだけの器でしかないのです。それ以上の状況を「観る(内観法の「観る」です)ことができる人」でなければ、そもそも彼女が意識しない「狂気」も含めて受け止めることは不可能です。

いずれ、彼女は、制御できないほど抑圧されて出ざるを得なくなる「狂気」にとりこまれるのでしょうか。
それを同人のアンダーグラウンドな闇へ持って行こうとするのが、夫になるというのも、彼女の認識不足であり、権力で支配しようとする嗜好を「創作系で働く妻を影で支えているけなげな夫」を演じるかなり年上の男によって、喰われてしまったとしか言いようがないのです。わたしが彼女を助けるには、もう、遅すぎたのでしょうか…。

わたしの方が、社会的には、不眠とうつで通院しなければならず、彼女や彼らよりも学歴は考えられないくらい高くても、社会的には収入を取れませんから(しかし、自立支援法は受けません。受けたくないので主治医には言っています)、世間の目から見れば、腹が黒くても結婚さえしてものにすれば、いくらでも「(実は「狂気」を描く創作活動では将来背の高い女性を支えるという名目で社会的にも肉体的にもこころも支配している)善良な夫」を演じきることは出来ますから。
もっとも、商業誌になりますと、編集者は、そうした影で支配する男性の存在を知った場合は、契約するのに警戒するのが社会からの、人間関係をより良くさせようとするための作用が起きます。彼女はそれを知りませんし、彼女を支配する夫はその人間関係における浄化作用をさせようとする人達の言動に闘争する雰囲気をみなぎらせています。
わたしからはとても深く、こころから悲しいことです。

今回は長くなりました。なかなかわたし自身葛藤が大変だったために、お手数をおかけします。

現覚と幻実

はっきり言って、よく分からないですが、「心の闇」としての「狂気」の世界ですね。確かに、そのような面の「狂気」にも、「根深い」ものがあると思います。恐らくただ、その人は、「狂気」を表現することで、ある程度のカタルシスを果たしたので、ある意味「抜けがら」になっている状態なのではないかと察せられます。

初めのコメントで、「原点を考えながら、寛容な人間関係や、社会を見ていけるようになる、社会の方も受容できるようになるといい」というのは、全くそのとおりと思います。精神医療の問題は、結局は「社会が受容できない」ということから、精神医療に全てを押し付けたことに発している問題だし、その受容されない方の人たちにも、社会や人間関係に対して、さまざまな問題を抱えていることが多いので、修正しなければならない点が多くあるのも確かなことでしょう。

ただ、「幻覚」については、もちろん本人の見方の「歪み」の反映という場合もあると思いますが、通常の知覚ではすくい取れないような、未知のものなり存在を、何らかの形で、映し取っている場合も多いことは、認めてほしいと思います。ただ、その解釈が、恐怖に影響されたり、恣意的なものになって、「妄想」と変わらないことになってしまうことも多いのでしょうが。その点も、まだまだこれから、これらの人が、「幻覚」から学んだり、経験を積んで、「成長」しなければならない点です。まあ、私のブログも、そのようなことに寄与できれば幸いだと思っています。

大事なところを文字変換ミスをしてしまいました。

誤部分:実は「狂気」を描く創作活動では将来背の高い女性を支えるという名目で社会的にも肉体的にもこころも支配している)善良な夫」

正しくは:実は「狂気」を描く創作活動では将来性の高い女性を支えるという名目で社会的にも肉体的にもこころも支配している)善良な夫」

「将来性」が正しい表記です。
よほど悩み涙が止まらない自分自身がいます。
結局は、道具にされたのを、わたしは許せないのです。
「こころ」という、非常に敏感でナイーブな領域を使って、しかもタイトルと内容がそのまま「ココロ」でしたので、人生に悩んでいた読者を餌にした、同人の女達やそれを支配する同人界の渦の中にいる男共が、どうしても許せなかったのです。
いずれ、その同人誌は、二次創作ものですから、版権先の編集部に送ります。
そうすれば、悲しみは癒えるでしょう。
そして、本来の自分自身を彼女たちは「内観」せざるを得ないと考えます。
文字変換ミスをして、またコメント欄を使用することになり、お手数をおかけしました。

ティエムさん、こんばんは。
送信しましたら、ティエムさんからのお返事が来ていましたので、読ませていただきました。

わたしが彼女に出会った時、彼女はひどく影が薄かったのです。それで、ますます真っ青になってしまったのです。
「抜け殻になってしまった」というティエムさんのご指摘は、おそらくそうだと思います。
つけこまれやすい、ココロの闇です。

「通常の知覚ではすくい取れないような、未知のものなり存在を、何らかの形で、映し取っている場合も多い」
この点については、考察不足で説明不足になり、申し訳ないです。
実のところ、人間の創造性を考える時に、脳が有する能力はまだ未知な部分が多く、まだ「断定するには早すぎる」面が多すぎます。
なぜ、自然に治癒状態になることが多々あるのか?
診断名自体が絶対的なのか?一度診断した診断名は変わらないのか?
人間の限界のように思えます。
森田療法を紹介した、九大医学部卒の作家をされている精神科医の先生は、著書の中で、白黒と二分法を使うこと自体が難しく間違っています、灰色の部分は広いのです、と記しています。
その「灰色の部分」をどのように考えるか、その方が実際の人生に役に立つからこそ、精神科医療において、森田療法を用いてきたと、先生は書いていらっしゃいます。
ここですね。「白黒断定は出来ない」。

電波系の関連の記事で、電波が怖かったり、警察の公安の方達が怖いという意見がありました。
なぜ怖いのでしょうか?そして、サイトを見ましたが、科学的な見解を出したいという意欲に溢れた内容だと感じました。
今年の日本を象徴する、科学的なリテラシーを国民が持つべき、そして、警察官の方や公安の方達は怖い、という、日本で現れる社会現象のような、世論に似たような状況です。
こうした、受容できない社会、受容できない人間関係、それを考えることが大切だと考えています。
哲学家で文芸家であり、大学教員でもある方が、ブログで「哲学をすることの必要性」を主張されていました。硬派な先生です。
ティエムさんのブログは、ここで、足もとから社会や人間関係の寛容性の可能性について考える機会を与えていらっしゃるブログだと思います。
わたしもかなり理系の強い分野にいましたので、柔軟に寛容になりたく、また考える機会を与えてください。
目から鱗が落ちるお返事をいただきまして、ありがとうございます。

ティエムさん、こんばんは。
あれから考えていたのですが、狂気と依存性とこころの闇についての危うさについてです。
いわゆる統合失調症がよく取り上げられますが、高齢でリタイアした旧帝大医学部出身で臨床一筋の重鎮の先生がおっしゃったのは、統合失調症よりも、人格障害(パーソナル・ディスオーダー)の方が、どれだけ心を砕いてあれこれとしてみても(投薬治療ではありません)、その本人が、閉じたまま(そして依存的支配被支配関係のまま)で何も状況が良くなるようにしないため、人格障害だけは診断が出来ても治療は出来ない、と嘆いていました。
アメリカの精神医学会によるDSMでは、人格障害は近年、障害とは言い難いということで、精神障害者の診断枠から外されています。世界保健機構WHOによるOCDの方も、うろ覚えで申し訳ありませんが、似たような解釈になっていると覚えています。実際には、潜在的に多く存在していて、しかも、前述の先生が仰るには、人格障害の方が、非常に治療に困難を極めているのです。
閉鎖的なままで、しかし、異様である価値観の元で集団を作りやすいので(この点は統合失調症とは異なります)社会的には適合していると「思われやすい」。しかし、その根底は、あまりにも根深い。
昨日悩んだ彼女や、彼女をとりまく女性達や男性の共通点はそこにあるとようやくたどりつけました。精神分析学において、人格障害の概念は存在しません。解決する鍵が存在しないからです。人格障害は横に広がり、漂うものですから、一見はわかりにくいのです。しかし、一見もっともなことを取り繕って言う能力はありますから、集団で群れることはできます。だから、「社会的に害を及ぼす存在とは見なせない」ので、DSMも、精神障害者の定義に入れないということです。
しかし、その群れる心の闇を見た時、このままではいけない、この人はだめになる、と助けを出しても、その本人自体が閉鎖的なままになって共依存存在になっていますから、たとえ「見ること」の危うさを持っていても、似た集団で共有化してしまうと、どうにも助けにも何もならなくなり、心配してなんとかしなければ相手がだめになると感じた側がかえって被害を受けてしまい、深いトラウマを受けてしまうということになります。
ですから、九大医学部卒の作家をしている精神科医の先生は、「自分はこういう「他人から見られる、注目されている人間なのだ」という概念でできあがって生きているその人自体が、人格に障がいを持っているのだと看破しています。それだけ、旧帝大系国立大学医学部では他の国立大学医学部よりも、すぐに診断をつけて、その後、どうしたらよくなったのかをはっきりさせない京大の精神医学の治療の現状を除いては、非常に厳しい目で人格障害の状態の人を考えています。その心の闇を共有することがアイディンティティにつながるという、危うさが社会への主張であるという考え方です。
ただし、そういう人のこころの中は流動的ですので、時々、周囲からの期待はこうであれという「外部から見た自分」とは異なる、本心はこうありたいという自分自身を見せます。これには、わたしも驚きました。そのこうありたい彼女の本心を応援することは、心の闇で共有している他の彼女たちや彼らの欲望や野心を壊すことになります。つまり、彼女自体、孤独を怖がっているのではないか、ということです。わたし自身、人のことは言えませんが、このことについては、統合失調症に限らず、むしろ、人格障害とともに考えていくべきだと思います。臨床一筋の重鎮の旧帝大医学部卒の高齢の精神科医の先生でさえ、解ききれなかった問題です。
これまでの集団の中の知恵だけではなく、個人を尊重した、新しい知恵が生まれてこないものかと、考えています。
こうして、ネットを通じて、遠くの人でも、意外と近くに住んでいても知らなかった人とも、ともに考えることで生まれる知恵があると思います。なんとかならないかと考えます。これは、本当はこうなりたいという本音の彼女(彼女を取り巻くエゴで繋がっている、実利的な集団を壊すことになりますが、それだけの能力を彼女は持っているということでもあるのです。周囲が気がつかないだけです。その本音の彼女(狂気を読み取り、生み出すだけの力を持って表現する)の側面を最初に見ただけに、周囲は動揺するけれども、わたしは動揺しませんでした。それが彼女と考えていましたから、これは、その彼女を認めるというか、そんな彼女が好きであるわたし自身の問題でもあります。そもそも、二次創作先の一次原作自体に出る主人公自体が、心理的に狂気とのつながりが強さであるという、非常に文化人類学的な分析と構築が出来るという、微妙な背景を持つ内容です。ティエムさんが行っている考察は、以前は、医療人類学として、精神科医の中井久夫先生が行っていました。ですから、再受験で医学部へ進学した人のなかには、こうした哲学的な分析や考察を大切にする人が少ないのですがいます。今は、文化人類学者や社会学者が医療人類学や社会学を行うようになっていますが、それでも、本質的なところは、身近にあるところから考えることが一番大切なのではないかと考えています。
少し、視野を広くして、統合失調症といわれるものだけではなく、人格障害といわれるものもおおよそ重なりますので、広く考えてみましょう。

私は、私自身が、いわゆる統合失調症と呼ばれる範疇の体験をしていることもあって、これまでブログでも、統合失調を中心に述べて来たし、これからも統合失調を中心に述べて行つもりです。人格障害と呼ばれるもののことは、少しは知っていますが、むしろ、統合失調のイメージに重ねられて、理解されていることが多いようなので、統合失調とよばれるものの本質を、人格障害的なものとは切り離して、考察したいと考えています。現実問題として、人格障害と重なる部分が、統合失調とされる人に見られることがあるのは事実でしょうし、その面は、必要な範囲で、考えて行くことはあります。

はるかさんは、人格障害に詳しいようなので、自分でブログなどを開設するか、他の人格障害に関するサイトなどを通して、自分の考えや意見を発表していけばよいのではないでしょうか。、

ティエムさん、おはようございます。
お返事拝見しました。確かに、人類が切り離せない病気というのか、状態というべきなのかについて、議論が絶えないのが統合失調症ですね。日本語訳では統合の調子が失っている症状、になりますね。その場合、あえて、ティエムさんが定義してみたように、統合失調症、そしてその症状について絞った方が、かえって、医師の先生達も読んでくださり、役に立つと思います。
そうですね。人格障害といわれるものについては、もっと漠然としていながらも、複雑な層を持っていますので、別に考えてみた方が良いかもしれません。せっかく貴重な、統合失調症やその症状について、中井久夫先生をはじめとする先見の先生方もいらっしゃいますから、人格障害については、ややこしくなりかねないので、ちょっと切り離しておきますね。
一つの人格なのに、なぜ、統合の調子が失うのか、または、失うのではなく、連続的なものではないか、そして、それらを含めて受容して、寛容になれるための知恵こそ、人格障害にも役に立つと思いますので、せっかくのティエムさんのブログですので、それで考えさせていただきます。

ティエム様‥‥‥のこのこでしゃばりコメントすみません。

今日読んで、事情はつかめなくても、思うことあって、

はるか様、状況や年齢は違っても、私にもすこし似たような経験がありました。長くなりますが書かせてくださいませ。

才ゆえに苦悩の生を歩まざるを得ない、或るひとりの若い魂がいました。そのかたの最も信頼すべき立場にいるはずの親族の方が、「本人のため」と言いながら違う思惑で本人を操縦し(色々ありましたが語り尽くせるものではありません)最後は強引に本人の望まない進路に引き入れていくのを、どうしても動かせなく、万策尽きて、

最後にすべてに気づいた本人が私の手をとって泣くのを、どうすることもできませんでした。

悲しくて悔しくて、しかし私が取り乱し続けては、本人の記憶にそれを残してしまう。「大丈夫。どうか、今は辛抱して生きていってください。体を大切に、頑張って生きていってください」と伝えるのが、やっとでした。

生きていると、どうしようもない悲しいことがあります。私のような脳天気でもそう思うのですから、何かを極めようとする方々にとっては、試練もさらにさらに厳しくなるのでしょう。

人格○○との呼び方を、個人的には私はどなたにも使いません。発○○○も使いません。そんなのちっとも医学的でも科学的でもない、というか人が人に言う言葉ではないようで、肌に合わないだけです。

例えば「絶えず依存してしまう人みたい」「問題と向き合えず逃げてしまう人じゃないか」、「ひどい人!」「冷酷な人です」「他者を利用する人」(かわいそうな人、とも呼びます)などと呼んでます。それは、七人の小人の名前「てれすけ」「怒りんぼ」「ハッピー」と同じ感覚です。

おみあしがご不自由になられたご近所の(杖で散歩リハビリに毎日励む)おじさまを「炎のスプリンター」とかげでお呼びしてます。(3年間で通算300Km歩いておられます!)

東大やハーバード大の先生がいくら身体○○、精神○○、○○型○格○害と呼んでも、私は呼びません。

統合○○症とも呼びません。「あっちの世界に行ってる人」、「ドッカンしてる人」、「引き出し色々出してる人」、「帰って来たサムライ」「サーダカー」「スペシャル自立活動」「ついに向き合うべき時が来た」等々、雰囲気と本人の人となり、必然性で名前を作っています。(本人には直接は言いませんよ)

医師が幻覚錯乱せん妄スキゾと診断してたのを、親子でポイ捨てしたある女子は、その後スペシャル自立活動に励み(いわゆる先程の診断のような形で荒れたり飛び出したり)親をヒヤヒヤさせながら、1年半経った今は落ち着いてきて、目標に向かい車でバイト始めています。

その子は幻覚については軽い様子でしたが、医師の診断が恐怖を倍加させておりましたので、「私も○○さんも○○さんも幻覚はしょっちゅう見えてるから、ビョーキじゃないから大丈夫。しばらく様子見ようね」と言っただけで、そんなものかとストンと安心してくれました。

常にティエム様は、「病気」とは記されません。「統合失調『状態』」と表現されているのも、強いご意思あることと拝察致しております。(このブログ内容は非常にご参考になると思います。)

ビョーキか、人のありようか、ことばひとつの表現は、人類の運命がひ○くり○るほど、重大なことかも知れないです。○っ○り返したいですね。

一億人に一億通りの時間の流れがあります。どのような自己中冷酷な人間でも、そこには深い深い理由があるのだろうと思います。そういう自分の内側も‥‥いやいや、ひどいものですよ。彼も人、我も人、今の地球で幸せに浮かれ続けてていられる人など、何処にいるでしょう。人類全てが、なにかを反省しなければならない今現在かもしれません。

話しを戻して‥‥‥何故、このような理不尽が繰り返し起きる?目の前しか見えずもがき続けた私に、主人は「一切は意味があって起きている事だからね。人事を尽くしたあとはクヨクヨ後悔せず、祈ってお任せしなさい。」と言いました。(私→フンあなただって泣いてたくせに)

「何千年、何万年単位のことだからね‥‥、人間の小さな善悪では判断できないのだよ。」(へっ)

「どうか相手を、良し悪しだけで断罪しないで。人間は人間を決めつけられないよ」(うるさい裁いてやる!わるいのは○○○○だ!)

それからも延々々と私は引きずってしまいましたが、長い時間が経つにつれて、次第に違う視点からも一連の出来事を考え始めました。

おもえば失意を抱え遠い地で、本人も本人なりに、痛みと共に沢山の何かを失いながら、実は学んで得ることも沢山あったと思います。というか、人間はなぜか、そのように、良いほうへ良いほうへとだんだん進化していくように、なっている、のかも、知れないです。

私は「本人の希望するように向かわせるのが幸せだ」と一つしか考えていなかった。しかし、もしあのまま本人がどこまでも自分を突き詰めていたら、目標達成やカタルシスより先に、感受性の不安定なバルブが壊れて修復が困難になってしまった、かも知れない。これは今の私の想像です。

分からないですが、即物的に言うなら、マイナスは単なるマイナスではないように思います。

才能が、人の望みが、今のこの世で報われなかったとしても、(実際にそういうケースは、星の数ほどあるに違いありません)

無意味でない涙の経験は、次の世にも役に立つのではないかしら、と思ったりします。1+1=、1−1=ではなく、時間の流れと青空や嵐のなかに身をおいて感受していきたいなあと思います。


‥‥‥‥‥‥‥‥‥(時の流れをあらわすてんてん)‥‥‥‥‥‥‥‥


あれから20年近く経ちました。偶然に仕事のつながりで、去って行った本人と主人が、いきさつを知る親しい方々と共に夕食を共に出来たそうです。それは私にとっても嬉しすぎる出来事でした。

あれから試練を乗り越え、志を同じくする仲間も出来て、安住の地を得てきめ細かい美しい仕事に励んでいるそうです。喜びと懐かしさで主人としたたか酔っ払い、

別れしなに突然「○○(私の名)さんに、宜しく!○○さんに、どうか宜しく、お伝えください!」と、へべれけになりながら、何度も言ってくれたそうです。私はこのことを一生忘れません。

これも人の世のご縁だったと思います。

はるか様、どれだけお話を伺ってもすみません、私は何の力にもなれません。ですが、はるか様が胸を痛めている彼女さんには、はるか様の真心かならず伝わっていると思います。自分の存在を真剣に掬い上げてくれた人がいたんだ、と彼女さんはわかっていると思います。

四面楚歌のつらいときは、感情や感性をバルブ締め締め小さめにして、時には思いのたけを出したりして、人生はロングランですから、どうぞめげずに、しのいで、こらえて、歩いてくださいませ。
長文失礼しました。陰ながら祈っています。

続きます。

それからも延々と私は引きずってしまいましたが、長い時間が経つにつれて、次第に違う視点からも一連の出来事を考え始めました。

おもえば失意を抱え遠い地で、本人も本人なりに、痛みと共に沢山の何かを失いながら、実は学んで得ることも沢山あったと思います。というか、人間はなぜか、そのように、良いほうへ良いほうへとだんだん進化していくように、なっている、のかも、知れないです。

私は「本人の希望するように向かわせるのが幸せだ」と一つしか考えていなかった。しかし、もしあのまま本人がどこまでも自分を突き詰めていたら、目標達成やカタルシスより先に、感受性の不安定なバルブが壊れて修復が困難になってしまった、かも知れない。これは今の私の想像です。

分からないですが、即物的に言うなら、マイナスは単なるマイナスではないように思います。

才能が、人の望みが、今のこの世で報われなかったとしても、(実際にそういうケースは、星の数ほどあるに違いありません)

無意味でない涙の経験は、次の世にも役に立つのではないかしら、と思ったりします。1+1=、1−1=ではなく、時間の流れと青空や嵐のなかに身をおいて感受していきたいなあと思います。


‥‥‥‥‥‥‥‥‥(時の流れをあらわすてんてん)‥‥‥‥‥‥‥‥


あれから20年近く経ちました。偶然に仕事のつながりで、学業を断念したあの本人と主人が、いきさつを知る親しい方々と共に夕食を共に出来たそうです。それは私にとっても嬉しすぎる出来事でした。

あれから落ち込んだり立ち直ったり、いくつも試練を乗り越え、志を同じくする仲間も出来、お店を開いてきめ細かい美しい仕事に励んでいるそうです。喜びと懐かしさで主人としたたか酔っ払い、

別れしなに突然「○○(私の名)さんに、宜しく!○○さんに、宜しく、お伝えください!」と、へべれけになりながら、何度も言ってくれたそうです。私はこのことを一生忘れません。

これも人の世のご縁だったと思います。

はるか様、どれだけお話を伺ってもすみません、私は何の力にもなれません。ですが、はるか様が胸を痛めている彼女さんには、はるか様の真心かならず伝わっていると思います。自分の存在を真剣に掬い上げてくれた人がいたんだ、と彼女さんはわかっていると思います。

疑心暗鬼や四面楚歌のつらいときには、私は感情や感性をバルブ締め締め小さめにして、テキトーに整理整頓で身体を動かしたり、ぶらぶらお散歩して草や虫とお話ししています。

人生はロングランですから、はるか様、どうぞめげずに、しのいで、こらえて、歩いてくださいませ。
長文失礼しました。陰ながら祈っています。

ティエムさん、少しこの場をお借りします。

みるくゆがふさん、ご心配の程、ありがとうございます。
みるくゆがふさんの地域のことを以前に話されていたので、一筋縄では説明できない、ややこしいしがらみが多くあったと思います。説明できなくて当然です。

真心が伝わっているといいですね。
それで、今日の午前中夜明け寸前になってしまいましたが、彼女にメールを書きました。
どう読むのかはわかりません。ただ、ティエムさんが少し絞って考えたいという話を読みまして、うーむと考えさせられました。

「今はあちらの方へ行っているのだろう」これは、北海道浦河町の「べてるの家」ではそのように話していると新聞記事で読みました。普段は意識が帰ってきて、「こんな状態だった」と話をするそうですが、あんまり意識が帰ってこない時は、医師の先生を呼ぶそうです。一つの次元の先を行きすぎた、それが統合失調の症状ではないかと考えています。
病院が少なくて、家で座敷牢にする風習がない地域では、のほほんとそういう方を眺めていたと、『心病める人達』(岩波新書)の石川先生はそのように書いていました。
そういうこともあり、実際には統合失調の症状で苦しんでいるのは、診断された人のうち4割くらい、つまり6割は実際の生活上、存在していた問題だったということです。そこには、診断分類の危うさもあるということです。
社会的な価値観がこれだけ反映される症状というのもめずらしいです。そこから、独自の傾向が見えてくると思います。

みるくゆがふさんの言葉と話で救われました。ていねいにありがとうございます。

ティエム様、繰り返し本文を読み、いくたびも頭に浮かんだのが、「モンシロチョウ」紋白蝶でした。

標本で見る紋白蝶は、わずかな羽の色合いでオスとメスの区別がつきます。しかし、お花畑で幾羽もひらひら飛んでいる姿を見て、雄か雌かを見分けられる人は中々いないと思います。

ところが昆虫学者によると、紋白蝶自身の眼の構造で見ると、雄は白く雌は黒っぽく、はっきり区別がつくのだそうです。

ティエム様が「見ること」(通常の知覚)の危うさ、と表現なさっているのは、何を言わんとされているのかがカナメと感じております。

「一般、通常」この”一般””通常”とは、果して何の根拠をもって言語となり、在りようを固定化しているのか、と問われれば、日常に埋没した私の思考はじわじわとしみこむように柔らかくなり、答えに窮します。

無学を顧みず感じたままで恐れ入ります、どれも「明治維新」に造られた訳語的表現、やまとことばのなよなよと形をさだめない深い言い表しとは異なる感じがします。

カナメはこの辺りかも知れません。私達が日ごろ「通常の知覚」と空気を吸うように信じきっている在りようが、西洋文明発祥の「科学」「医学」「心理学」等などのほぼ無条件に近い国内輸入から始まった(在来文化を押し退けていった)その辺りにあるかも知れません。

幻覚体験自体についても書くことはありますが、次の機会に致します。

実際のところまだまだ精神医療の実態は人々に膾炙しきれていません。「幻覚を事実として難解な行動をとる者」を目の当たりにしたとき、

通常の知覚の(根拠の)危うさをあぶり出される(実はあぶり出されて然るべき何かがある、と感受し)恐怖感を覚えるだけの感性を持つ方は多くはないと思います。

まして、感性の震えに耐えて最善を探す(病院に送るなどの「通常の措置」をためらうなど)ような方は稀であり、もし居られるなら、遅かれ早かれ「幻覚の真実の意味を見得る」であろうと存じます。

もしも紋白蝶が、”オスメスどちらも白い”と人間知覚の常識を刷り込まれたなら、お花畑で相方を探すことも出来なくなるかも知れません。その眼に映る羽の色や姿が、何かしら素敵だなあと感じても、頭に詰め込まれた知識が該当しなければ無意味になってしまうのです。

みるくゆがふさんありがとうございます。

紋白蝶(最近めっきり見かけることが少なくなりましたが)の喩え、面白かったです。

通常の知覚(私たちが普段、当たり前のように、誰にも共通のものとして受け取っている知覚、幻覚を誤った知覚とみなす根拠となる)は、ざまざまな条件(生物的、文化的(言語的)、社会的、個人的など)の積み重ねでできているもので、それらを
すべて明るみに出すことは難しいと思いますが、仰る通り、近代以降のものの見方によって、固定的なもののように規定されている面は、強いと思います。未開社会の人との見え方の違いは、よくとり立たされます。今回の記事は、ざっと結論を述べただけなので、いずれもう少し詳しく述べるつもりです。

「幻覚を事実として難解な行動をとる者」を目の当たりにしたとき、通常の知覚の(根拠の)危うさをあぶり出される(実はあぶり出されて然るべき何かがある、と感受し)恐怖感を覚えるだけの感性を持つ方は多くはないと思います。』

全くそのとおりで、いかに、幻覚=異常=誤りという観念が近代以降広く行き渡り、医学的にも根拠づけられているとみなされているかということです。それが疑いもなく信じられている限り、表面的には、何の「危うさ」も感じることなく、幻覚を「病気」として「葬り去る」ことができるでしょう。

しかし、(その根拠を問うこともせず)そうせずにはいられないこと自体が、その底に、自分らの共通であるはずの知覚が、かなり根拠の薄い、あやふやなものかもしれないという予感のようなものを、見え隠れさせていると私は感じます。そのような、近代以降のものの見方が揺らぐこと自体が、幻覚に対する抑制を緩め、そういう現象(に気づかせること)を増やすことになります。だから、今後は、ますますそのような事態が、いやでも浮き彫りになってくると私は思っています。

ティエム様、きめ細かく掘り下げて頂き有難うございます。

「しかし、[幻覚=異常=誤りという観念‥通常の知覚の根拠を問うこともせずに]そうせざるを得ないこと自体が、その底に、自分らの共通であるはずの知覚が、根拠の薄いかなりあやふやなものかも知れないという予感のようなものを見え隠れさせていると私は感じます。」

非常に鋭いご指摘です。

「まぼろし」は、治療の名においての向精神薬投与、保護室、拘束行為に相応しい語句かも知れません。ほかにもいろいろかもしれません。

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