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2014年11月

2014年11月26日 (水)

『跳びはねる思考』

東田直樹著『跳びはねる思考』(イースト・プレス)は、人と会話もできないという、重度の自閉症者の書いた本で、既にある程度読まれていて、話題にもなっているようだ。かなりの衝撃的な内容であり、率直で分かりやすい文章で、「自閉症」とされている、自分の内面世界を、余すところなく語っている。それは、どんな研究者や精神科医の書いたものよりも、説得的で、充実している。その文章には、ときに、哲学者か神秘家かと思わせるほどの、鋭く、深い洞察がある。前著が、海外で、ベストセラーになったというのも、頷ける。

私も、幼少期から、自閉的傾向が強かったことを述べたが、そのことを改めて確認させられ、その共通性の多さには、驚かされた。さらに、「自閉」ということと、「統合失調」ということの、関わりについても、いろいろ考えさせられた。が、その点の考察は次回に譲ることにし、今回は、『跳びはねる思考』の感想だけに止めたい。

自閉症は、人とのコミュニケーションがとりにくく、あるいはとれない、人に関心がない、などと言われる。が、著者は、その理由を次のように説明してみせる。(その文章を知ってもらう意味でも、引用してみたい。)

僕には、人が見えていないのです。
人も風景の一部となって、僕の目には飛び込んでくるからです。山も木も建物も鳥も、全てのものが一斉に、僕に話しかけてくる感じなのです。それら全てを相手にすることは、もちろんできませんから、その時、一番関心のあるものに心を動かされます。
引き寄せられるように、僕とそのものとの対話が始まるのです。それは、言葉による会話ではありませんが、存在同士が重なり合うような融合する快感です。

「人に関心がない」のではなく、周りの「世界」から、人だけを特別に、切り離していないのである。むしろ、「世界」への関心は、深いばかりか、その「つながり」を強く感じている。周りの「世界」の方から、「挨拶」してくることからも、それは窺われる。

この「世界とのつながり」は、恐らく、著者が、言葉を身につけることに際して、遅れがあり、一般に比べ、言語を身につける度合いが少ないという事情にもよっているだろう。「通常の知覚」世界というのは、文化、従って言語によっても規定されていることは、前々回にもみた。著者の場合、「言語以前の世界」というと語弊があるが、眼前に現れ出る「世界」が、言語や文化によって、区切り取られ、色付けされる度合いが少なく、より「生」に近い形で、現れ出ているということである。

そして、このように、「世界とのつながり」を意識するということは、統合失調状況に陥って、自我と外界の境界が揺らぎ、または崩れるときに、まさしく起こることでもある。それは、そうでない状態から、そのような状態に陥るので、非常に恐怖をもたらす。ところが、「自閉」の場合は、割合、それに近い状態を、日常的に経験していて、慣れ親しんでいるということになるだろう。このように、「自閉」と「統合失調」は、深い関わりがあると言えるのである。

もう一つ、「自閉」する、「心を閉ざす」ということに関して、著者が言っていることも、あげておこう。

空を見ている時は、心を閉ざしていると思うのです。周りのものは一切遮断し、空にひたっています。見ているだけなのに、全ての感覚が空に吸い込まれていくようです。
この感じは、自閉症者が自分の興味のあるものに、こだわる様子に近いのではないかという気がします。

この「自閉」ということも、先のような、世界との関わり方と関係している。このような「世界」のある事物にひかれて、それに意識を集中して、それに「入って」いくようにすると、周りのものに対しては、「自閉」するということにならざるを得ない、というのである。私は、「自閉」ということには、ある何ものかに対する「恐怖」があって、そうするという面もあると思っているが、このように「積極的」な面もあることを、改めて気づかされた。

このようなあり方は、「世界」との、一つの独特で充実した関わりであることが知られる。自閉症の内面世界として、これまであまり知られて来なかった面である。

しかし、このようなあり方が、人間世界の中で、つまり集団社会の中では、適応的に働くはずがないことも確かである。人の世界や社会の中にあって、このような世界との関わりを続けていれば、人との関わりは、そこから締め出されてしまう。それは、他の多くの者には、「自閉」という、ただの「障害」としかみなされず、改善しなければならないものとされてしまう。このような、自閉症者の充実した内面世界が、一般の者に、見直されることは、是非とも必要である。しかし、自閉症者の方でも、その世界との関わりは、時と場合によって、制御することを学ぶ必要があるということになるだろう。

自閉症に関しては、周りの者には奇異にみえる、「こだわり行動」、「常同的な行動」(同じ行為を執拗に繰り返すこと)への囚われがある、と言われる。それについては、「変化への恐れ」があり、また「初めてのこと」が苦手で、何か自分の知っている行動をしていないと、安心できないことが述べられる。「自分の知っているものを早く探さないと、異次元の世界に迷い込んでしまう」ような錯覚に陥るというのだ。

これには、恐らく2つの面があると思う。一つは、実際、著者にとって、人間世界というものは、良く分からない、「異次元の世界」のようなものだということ。だから、一つには、そのような、人間世界に対する恐れがある。そして、さらに、やはり著者にとっても、普通の人より、身近に感じているばすの「世界」全体は、変化に満ち、未知性に満ちた、恐ろしいものでもあるのだと思う。普通の人は、そのような「世界」に対して、身につけた文化や言語、そして、自我の障壁で護られている。それに対して、そのような「障壁」の少ない自閉症の人は、「世界」全体が、自らに押し寄せてくることについても、「こだわり行動」や「常同的な行動」で、護らなければならない面があるのだと思う。この辺りも、統合失調状況と関わることで、次回にさらに述べたい。

また、面白いのは、著者は、水に執着し、流れている水をずっと眺めていたり、いつまでも水と遊んでいることがあるという。これは、私もそうだったし、今でも、海や滝の水を、ずっと眺めていても一向に飽きない。さらに、私は、火に対してもそうで、子供の頃、マッチに火をつけた後、その火をずっと燃え尽きるまで眺めて、悦に入っているのを怒られたことがある。火は、既に述べたように、一連の体験時に、ビジョンとしても何度か現れた。水や火は、不思議な動きのあるもので、生きたものとの感覚を呼び起こすのだと思うし、それにひかれて、意識が「入っていく」(融合する)ことになりやすいのだと思う。

こういったことは、自閉症にだけ特殊なことというよりも、ある程度、子供には共通する面があるのかもしれない。しかし、普通、子供は、一定の年令になるのに伴って、こういう面を失い、社会に適応していく。自閉症の場合は、それへの執着が強く、なかなかそこから離れられない、ということなのだと思う

最後に、著者が「魂」について語っていることを、とりあげよう。著者は、「魂が肉体に閉じ込められている」、と感じることが多いという。それで、じっとしていると落ち着かず、魂がときどき肉体から離れて、自由に駆け巡るのだという。しかし、ときには、魂が肉体から抜け出られずに、肉体の中で、体や想像を使って、「駆け巡る」ことも多いだろう。著者がよくするという、「跳びはねる」という行動も、そのような状態の表れなのだと思う。また、タイトルの「跳びはねる思考」とは、まさに、そのような、魂と思考の、自由な飛翔を意味しているのだといえる。

私も、記事『「地獄」「監獄」としての「幼稚園」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-b91f.html)で述べたように、幼稚園の時期には、よく魂が肉体を抜け出て、そこにいないということがあった。魂が、抜け出ているというときには、体は硬直し、周りの呼びかけにも反応がなく、まさに「自閉」そのものの状態として、周りには映る。それに対して、魂が、肉体の中で駆け巡っているときには、じっとしていられず、落ち着かない、「多動」の状態として、周りには映るのだと思う。

これらは、「発達障害」とされるものについて、「自閉」や、「多動」ということがどうして起こるのかの、大きなヒントになっていると思う。

私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
総まとめ(旧「闇を超えて」より」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)

2014年11月17日 (月)

前の記事のコメントに関して/簡単な総括

コメントありがとうございます。前の記事では、コメントが多く、長くなりましたので、記事を新たにして、簡単な総括に変えさせてもらうことにします。

みるくゆがふさんの言うとおり、私は「人格障害」(〇で字を伏せませんが、伏せたくなる気持ち分かります。名前=言葉が、実体を作り上げているようなものですから)にしても、「統合失調症」にしても、「病気」とは捉えていません。というよりも、「病気」かどうかなどということは、「無意味」ということです。「病気」であるか、ないかという発想をする時点で、既に、精神の領域に、「病気」というものが実体としてあるかのような発想を、持ち込んでいることになります。「病気」というものの見方が、実態を掛け離れて、むしろ問題を膨らませていることについては、記事「「病気」という見方が故の問題  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-78d9.html」を参照下さい。

「人格障害」とよばれるものについて、簡単に述べますが、私の考えを一言で言うと、人格=障害というものです。「人格」といものがある限り、人は、「障害」であらざるを得ないものです。ただ、人によって、あいるは他人や社会との関係によって、それが強く出やすい場合と、そうでない場合があり、それが強く出て、社会との間に問題を起こしている状態が、事実上、「人格障害」とよばれているというだけです。「人格」が「障害」なのですから、それを、根本的に治すことなど、「人格」がなくならない限り、あるいは、もはや人格を必要としなくなるのでもない限り、あり得ません。ただ、事実上、それが強く出ないような状態に、改善するということが、あり得るというだけです。それにしても、人格そのものの問題である以上、容易にそんなことができるはずもなく、他人が安易に「助ける」などということも、できるはずのないことです。

「統合失調症」と「人格障害」の関係について、簡単に述べると、統合失調では、未知の状況に陥り、人格が崩壊しかかるような、「危機の状態」に陥ります。その局面では、まさに、人格の「障害」としての面が、いやというほど露わになります。人格が、崩壊を前にして、足掻き、そのどうしようもない面(私は、「愚かさ」とも表現しましたが)が、いやでも表に出て来るからです。だから、「統合失調症」と「人格障害」に、このような意味で、重なる面があるというのは本当です。(もちろん、他のどんな「病い」も、人格と関わる以上、「人格障害」と重なる面はあります。)しかし、それは、人格の「愚かさ」を、脱するためには、必要なプロセスと考えます。内に潜伏したまま、表に出ないことには、それが、抜けて行くこともあり得ないわけですから。ただし、その場合、それらの「愚かさ」をしっかりと自覚していることが必要で、ただ無自覚に反応しているだけでは、一旦は抜けたようにみえても、また同じように戻って来て、住み着いてしまうでしょう。

私は、「くぐり抜ける」という言い方で、これらのプロセスのことを述べていますが、それは、確かに、容易にできることではなく、またさまさまな条件が作用することでもあり、成功するという保証があるものではありません。ただし、私としては、自分の体験に即しても、このような方向での、「治癒」ということを、第一に考えないわけにはいきません。それには、そのような「障害」の状態を、無理やり押さえ込もうとしたり、改善させようとするのではなく、ただ根気強く、抜け出ていくのを、「見守る」ような態度も必要になって来ます。人が、まともに、直視するこもできないような、どうしようもない醜態を、その人が露わにしているとしてもです。これは、はっきり言って、常人には、無理なことであり、私にも、恐らく無理でしょう。(加藤清医師のすごさは、こういったことに関わります。)だから、私は、できる限り、人の手をかけないでも、そのようなプロセスに向けて、自分でできる最低限のことを、アドバイスするしかないし、それはそれで、本当に実行されるなら、相当に有用なものであることを、訴えかけていくしかないことになります。

そういうわけで、私のこのブログで述べていることは、一般の精神医学でいわれていることとは、掛け離れているし、精神医学の方からみれば、「トンデモ」か「オカルト」として、唾棄すべきものでしょう。そのことは、自覚していますので、私は、そうであっても少しも構わないし、むしろ、そうあってくれた方が、やりやすいです。たから、私のブログが、精神科医に読まれる必要というのもありませんが、ただ、精神薬に関わる精神科医は、『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』ぐらいは、読んでほしいと思います。

なお、私の、このような基本的な考え方、このブログの趣旨については、前にやっていた「日記」で、総まとめをした記事(総まとめ(旧「闇を超えて」より)http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.htmlに、ほぼ述べられていますので、是非とも、そちらを読むようにして下さい。今後、コメントをされる方は、こちらを読んでからにしてもらうと幸いです。

※ なお、コメントでは、「人格障害」のことが話題になって、記事そのものの内容に関することには一切触れられていませんが、前回の記事も、通常の知覚と幻覚が、本質的には区別できないことを述べた重要なものですので、コメントや今回の記事とは切り離して、独立に読まれるよう望みます。

2014年11月15日 (土)

「見ること」(通常の知覚)の危うさ

幻覚というものは、通常、嫌悪感をもって迎えられ、恐れられる。統合失調が恐れられるのも、この幻覚に対する恐怖ということが、かなりの部分を占めていると思われる。

そのように、幻覚が嫌悪され、恐れられる理由は何なのか。その大きな理由の一つは、幻覚ということが、「見ること」つまり「通常の知覚」ということの、(根拠の)「危うさ」をあぶり出すことになるからだと思われる。

オリヴァー・サックスの『見てしまう人びと』でもみたように、幻覚というのは、通常の知覚と同様、あるいはそれ以上にリアルなものである。また、決して稀なものではなく、かなりの人に、さまざなな理由で起こり得る、ありふれたものである。幻覚というものが、かくもありふれたもので、しかも、通常の知覚と、本質的には違わないものだとしたら、多くの者が当たり前のように信じている、「通常の知覚」というものが、どれだけの根拠があるものなのか、いやでも、顧みさせてしまうことになる。

サックスは、脳の生理的過程によって生じる幻覚は、多くの場合、本人と無関係な内容のもので、状況に沿わないので、現実の知覚と区別できるとしていた。しかし、サックス自身、アーテンという幻覚剤の体験をしたときは、友人が部屋に入って来て、会話もし、料理をふるまおうとしたが、いなくなっていて、初めてそれが幻覚であることに気づかされた。つまり、現実とほとんど変わることのない幻覚というものもある。

多くの人にとっても、容易に、現実の知覚と区別できるような幻覚なら、まだしも、恐ろしいものではないだろう。しかし、現実とほとんど変わることのない幻覚、しかも、本人が、現実そのものと思って行動してしまうような幻覚というのは、やはり、恐ろしいはずである。現実と幻覚の境界が曖昧になり、現実の安定性が揺らいでしまうからである。

そして、まさに、そのように、現実と幻覚の区別が難しく、現実そのものと思って行動してしまうという、典型的な幻覚がある。それが、統合失調症にいう幻覚である。ただ、統合失調症の場合、周りの多くの者は、それが現実でないことは容易に分かる。その幻覚を元にした妄想が、明らかに事実に反することが分かるからである。だから、その範囲で、周りの者の「現実」そのものの根拠を、直ちに危ぶませるというものではない。

しかし、幻覚を見る(聞く)本人が、それを現実そのものと思って行動してしまうこと、周りも、それを容易に修正できないことは明らかである。幻覚というものが、本人にとっては、何か、強烈な現実感をもたらすものであることは、周りの者にも、十分察しがつくのである。そうすると、周りの者にとっても、その者がもつ、幻覚による現実感というものが、「誤り」であることが、社会的に明確にされなければ、落ち着かない。そうでなければ、いずれ、自分自身の現実の根拠も、問われることになるかもしれないからである。

そして、そのような「誤り」を「誤り」とはっきりと宣告し、「治療」によって、変えなければならないものと、公的に定めてくれるのが、精神医学の「病気」という観念である。「病気」とは、要するに、「異常」ということであり、逆から言えば、「通常の知覚」こそが、「正常」で「正しい」ということの確認である。だから、その幻覚は、どんなに現実感を伴っていようが、「誤り」であり、「異常」なことで、「治療」により、「正常化」して、「正しい」知覚に変えなければならない。そうすることで、多くの者の共有する、「通常の知覚」が、正しいものとして、保証され、顧みる必要もなくなる

統合失調症が「排除」される理由は、他にもあるが、「現実」そのものを脅かす、「幻覚」への恐れということが、かなりの部分を占めると思われるのである。

そうすると、統合失調症が「排除」されないためには、その「幻覚」ということが、「病気」や「誤り」というレッテルを外して、本質から捉え直されなければならない。また、そのためには、「幻覚」とは、「通常の知覚」との関係で、「幻覚」とされる以上、「通常の知覚」というものも、その根拠が本質的に見直されなければならない。

サックスも、「幻覚」を体験しながらも、精神異常と思われるのが恐いため、そのことを語らない者が、大勢いるという。さらに、私は、自分自身もそうだったが、「幻覚」についてかなりの体験をしていても、すぐに抑圧して記憶から消してしまうため、そのことに気づかない(思い出せない)人も相当いると思う。

つまり、普通思われているより、はるかに、「幻覚」は、普遍的でありふれたものということである。言い換えれば、「通常の知覚」が、多くの者にとって共通のもので、不変(固定的)なものであるというのは、非常に怪しいということである。実際には、そのように、不安定で、揺らぎのあるもの、人によって異なる内容の「幻覚」が入り込む余地が、いくらもあるものなので、逆に、それが、誰にとっても共通のもので、不変なものであるということを、イデオロギー的に強調していかなければならないのである。(「唯物論」つまり、すべての者に共通の法則でできているものだけが存在する、という発想も、このような要請から来ている面が強いだろう。)

「幻覚」や「通常の知覚」については、いずれ、脳科学的な知見なども参照しながら、これまで述べてきたより、さらに踏み込んで、考察してみたいと思っている。

だが、「通常の知覚」と「幻覚」とは、サックスも言うように、脳からみた場合、どこにも違いがないことが分かっている。つまり、脳そのものからみるなら、「通常の知覚」と「幻覚」を区別する根拠はない、ということである。結局、「通常の知覚」と「幻覚」は、社会において区別するしかなく、その基準も、他の多くの者と「共通するか否か」という、かなり漠然としたものにならざるを得ない。

そして、その「共通性」とは、生物としての人間に共通の基盤というのは、一応ある(それにしても、他の生命に対して、それが正しいという保証は何もない)にしても、具体的には、結局、人がある「文化」の中に生まれ、その「文化」を身につけていくのに応じて、形成されていくものである。その「文化」が、緩んだり、揺らいでいけば、その「共通性」も緩まり、揺らいでいく。あるいは、ある理由で、その「文化」を身につけるのに、遅れや「障害」か生じた場合には、その「共通性」についても、当然、人との違いが生じることになる。

その「文化的な共通性」とは、脳でいえば、ある特定のニューロンのネットワークとして形成され、学習によって固定されることになる。が、それは、決して不変なものではなく、いくらでも壊れたり、作り直されたりするものである(可塑性)。

そういうわけで、「通常の知覚」と「幻覚」の区別というものは、実は、相当曖昧なもので、根拠の薄いものであることが知られる。しかも、今後、現在の文化が、ますます揺らいでいくのは明らかなので、知覚の共通性も揺らぎ、多様な幻覚が当たり前のように見られるようになっていく可能性がある。「現実」というものが、誰にも「共通」のものであるという常識は、もはや通用しなくなってくると思われるのである。(そうであればあるほど、「病気」というイデオロギーによる締めつけも、より厳しくなってくるとも言えるわけだが。)

しかし、一方、何度も言っているように、だからと言って、統合失調の幻覚のような現象を、単純に「現実」そのものと受け取るのがいい、ということではない。それは、現段階における、他の多くの者が「共通の知覚」としているものとは、はっきり異なるものであることは、自覚する必要がある。ただ、そのうえで、それにどのように対処するかというときに、それが、他の者の「共通の知覚」と決して遜色のない「現実」であることを確認するのは、何ら構わないし、むしろ望ましいことである。 

2014年11月 6日 (木)

「見てしまう人びと」との対比

脳神経科医オリヴァー・サックスの『見てしまう人びと―幻覚の脳科学』(早川書房)を読んだ。さまざまな幻覚をとりあげ、脳科学的な解説をつけたものだが、残念ながら統合失調症の幻覚は、独自の考察が必要として、とりあげられていない。

しかし、幻覚の例が豊富で、非常に具体的なので、幻覚というものがどのようなものなのか、それなりによく分かるようになっている。また、著者も言っているように、これら幻覚の体験は、決して病的なものではないのに、統合失調症のような精神病と誤解され、あるいは実際に精神科医によって統合失調症と診断されてしまうことが多い。だから、こういうものが多くあることを知っておくことは重要である。また、幻覚というものを恐れず、ある程度慣れ親しんでおくという意味でも、役に立つことだろう。

視覚を失うことで、脳の反応により幻覚を生じる「シャルル・ボネ症候群」、パーキンソン病やてんかんに伴う幻覚、入眠時・出眠時の幻覚、感覚遮断、幻覚剤によるものなど、様々な幻覚で、幻覚とは、想像とは異なり、現実の知覚と同様、あるいはそれ以上に「リアル」なものであることが強調されている。また、「トップダウン」という言い方がされるが、本人の意思に拘わらず、向こうから一方的に来るものであることが強調される。この点は、統合失調の場合とも共通するもので、しっかり押さえておくことが必要だ。

実際、そのように、「リアル」なものなので、一時的に現実と混同されることもある。しかし、これらの、脳の生理的な過程によって生じる幻覚では、内容は、本人と関係しない無意味なもので、状況に沿わないものが多いので、概ね、幻覚を現実と区別することはできる。この点は、統合失調の場合と異なるもので、やはり重要なことである。

それそれの幻覚について、簡単に脳科学的な説明もされているが、それは申し訳程度であり、内容も、ほとんど通り一辺のものなので、その点については、ほとんど得るものはない。基本的には、幻覚の事例の豊富さと、具体性によって、幻覚というものがどのようなものかを、広く一般に知られるには適した本、というぐらいの感じである。

ただ、第13章「取りつかれた心」では、過去のトラウマや強烈な感情など、心理的な要因で生じる幻覚についてとりあげられている。それを、先の脳の生理的な過程によって生じる幻覚の場合と比べると、統合失調の場合の幻覚がどうなのかということも、かなりの程度、浮かび上がってくるのである。

これら、心理的な要因で生じる幻覚は、脳の生理的な過程で生じる幻覚とは異なり、本人にとって意味のある内容であり、囚われを生じやすいのである。もちろん、脳の生理的な過程で生じる幻覚も、それなりに心理的な影響を与え、心理的な反応を巻き起こすこともある。また、逆に、これら心理的な要因で生じる幻覚も、幻覚を生じている以上、脳の生理的な過程を巻き込んでいるのであり、その意味では、脳の生理的な過程によって生じるものと、厳密に区別することは難しいかもしれない。しかし、それぞれの幻覚を、主に、脳の生理的な過程によるものか、心理的な要因によるものかということで、区別することは、十分可能なことのはずである。

そうすると、意味に満ち、強度の囚われを生じる、統合失調の場合の幻覚というのは、明らかに、心理的な要因によって生じるものの方に属するはずなのである。著者は、幻覚を生じる、強烈な感情の一例として、「自我や生命を脅かすほどのひどく衝撃的な出来事による恐怖」をあげている。これは、主に、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の場合が想定されているのだろう。この「衝撃的な出来事」というのを、物理的、客観的な出来事と解するなら、確かに、その場合が多く想定できる。

しかし、この「衝撃的な出来事」を、内面的、霊的な領域で起こっている、主観的な出来事と解するとき、それは統合失調の幻覚の場合に相当するのである。さらに、統合失調の場合、そこで生じる幻覚そのものが、恐怖をもたらす「衝撃的な出来事」として、組み込まれるものともなる。その恐怖も、物理的、客観的な出来事による場合とはまた違った、独特の、強烈で、継続するものとなる。そこには、「捕食者」的な精霊などの、霊的な存在の影響も強く作用する。

そのようにして、脳の生理的な過程によって生じるものとは異なった、「意味」に満ち、恐怖に彩られる、継続的な、幻覚世界を築き上げることになる。そして、それはあくまでも、心理的な要因によって生じるものというべきなのである。

ところが、このような「出来事」を「了解」できない精神医学は、それを、心理的なものとしてではなく、脳の生理的な過程を原因とするものに引き寄せて、理解しようとするのだ。それは、原因不明の脳の病気などと捉えられ、精神薬等の様々な物質的な施術が、正当化されることにもなる。

そのように、本来心理的な要因によるものを、認めることをせず、脳の生理的な過程によるものと捉えることに、根本的な齟齬がある。統合失調症という「病気」は、そのようにして「作り出さ」れ、あるいは、初めから「ずら」されているのだ。

幻覚の例について豊富なこの著書は、そういったことを、改めて考えさせることにはなってくれ.る。

※ 前に、オルダス・ハクスレーやJ.C.リリーなどの幻覚剤の体験について述べた。実は、オリヴァー・サックスもLSDその他の幻覚剤の体験を多くしている。幻覚というものがいかにリアルなものか、また様々な幻覚体験について共感的に語ることができるのも、そのような体験が基礎にあるからである。

その中でも、アーテンという強力な幻覚剤の体験をしたときの話が面白い。サックスは、かなり強烈な変容体験が起こることを予期し、期待してもいた。しかし、予期に反して、何も起こらなかった。だた、友人がノックして部屋に入ってきたので、料理を作り、ご馳走しようとした。すると、そこには、誰もいなかった!つまり、何も起こらないどころか、現実そのままと見紛うほどのリアルな幻覚体験をしていたのである。

なお、幻覚についての簡単な講演の動画がある。http://www.youtube.com/watch?v=Urt5O_PQf6A

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