『跳びはねる思考』
東田直樹著『跳びはねる思考』(イースト・プレス)は、人と会話もできないという、重度の自閉症者の書いた本で、既にある程度読まれていて、話題にもなっているようだ。かなりの衝撃的な内容であり、率直で分かりやすい文章で、「自閉症」とされている、自分の内面世界を、余すところなく語っている。それは、どんな研究者や精神科医の書いたものよりも、説得的で、充実している。その文章には、ときに、哲学者か神秘家かと思わせるほどの、鋭く、深い洞察がある。前著が、海外で、ベストセラーになったというのも、頷ける。
私も、幼少期から、自閉的傾向が強かったことを述べたが、そのことを改めて確認させられ、その共通性の多さには、驚かされた。さらに、「自閉」ということと、「統合失調」ということの、関わりについても、いろいろ考えさせられた。が、その点の考察は次回に譲ることにし、今回は、『跳びはねる思考』の感想だけに止めたい。
自閉症は、人とのコミュニケーションがとりにくく、あるいはとれない、人に関心がない、などと言われる。が、著者は、その理由を次のように説明してみせる。(その文章を知ってもらう意味でも、引用してみたい。)
僕には、人が見えていないのです。
人も風景の一部となって、僕の目には飛び込んでくるからです。山も木も建物も鳥も、全てのものが一斉に、僕に話しかけてくる感じなのです。それら全てを相手にすることは、もちろんできませんから、その時、一番関心のあるものに心を動かされます。
引き寄せられるように、僕とそのものとの対話が始まるのです。それは、言葉による会話ではありませんが、存在同士が重なり合うような融合する快感です。
「人に関心がない」のではなく、周りの「世界」から、人だけを特別に、切り離していないのである。むしろ、「世界」への関心は、深いばかりか、その「つながり」を強く感じている。周りの「世界」の方から、「挨拶」してくることからも、それは窺われる。
この「世界とのつながり」は、恐らく、著者が、言葉を身につけることに際して、遅れがあり、一般に比べ、言語を身につける度合いが少ないという事情にもよっているだろう。「通常の知覚」世界というのは、文化、従って言語によっても規定されていることは、前々回にもみた。著者の場合、「言語以前の世界」というと語弊があるが、眼前に現れ出る「世界」が、言語や文化によって、区切り取られ、色付けされる度合いが少なく、より「生」に近い形で、現れ出ているということである。
そして、このように、「世界とのつながり」を意識するということは、統合失調状況に陥って、自我と外界の境界が揺らぎ、または崩れるときに、まさしく起こることでもある。それは、そうでない状態から、そのような状態に陥るので、非常に恐怖をもたらす。ところが、「自閉」の場合は、割合、それに近い状態を、日常的に経験していて、慣れ親しんでいるということになるだろう。このように、「自閉」と「統合失調」は、深い関わりがあると言えるのである。
もう一つ、「自閉」する、「心を閉ざす」ということに関して、著者が言っていることも、あげておこう。
空を見ている時は、心を閉ざしていると思うのです。周りのものは一切遮断し、空にひたっています。見ているだけなのに、全ての感覚が空に吸い込まれていくようです。
この感じは、自閉症者が自分の興味のあるものに、こだわる様子に近いのではないかという気がします。
この「自閉」ということも、先のような、世界との関わり方と関係している。このような「世界」のある事物にひかれて、それに意識を集中して、それに「入って」いくようにすると、周りのものに対しては、「自閉」するということにならざるを得ない、というのである。私は、「自閉」ということには、ある何ものかに対する「恐怖」があって、そうするという面もあると思っているが、このように「積極的」な面もあることを、改めて気づかされた。
このようなあり方は、「世界」との、一つの独特で充実した関わりであることが知られる。自閉症の内面世界として、これまであまり知られて来なかった面である。
しかし、このようなあり方が、人間世界の中で、つまり集団社会の中では、適応的に働くはずがないことも確かである。人の世界や社会の中にあって、このような世界との関わりを続けていれば、人との関わりは、そこから締め出されてしまう。それは、他の多くの者には、「自閉」という、ただの「障害」としかみなされず、改善しなければならないものとされてしまう。このような、自閉症者の充実した内面世界が、一般の者に、見直されることは、是非とも必要である。しかし、自閉症者の方でも、その世界との関わりは、時と場合によって、制御することを学ぶ必要があるということになるだろう。
自閉症に関しては、周りの者には奇異にみえる、「こだわり行動」、「常同的な行動」(同じ行為を執拗に繰り返すこと)への囚われがある、と言われる。それについては、「変化への恐れ」があり、また「初めてのこと」が苦手で、何か自分の知っている行動をしていないと、安心できないことが述べられる。「自分の知っているものを早く探さないと、異次元の世界に迷い込んでしまう」ような錯覚に陥るというのだ。
これには、恐らく2つの面があると思う。一つは、実際、著者にとって、人間世界というものは、良く分からない、「異次元の世界」のようなものだということ。だから、一つには、そのような、人間世界に対する恐れがある。そして、さらに、やはり著者にとっても、普通の人より、身近に感じているばすの「世界」全体は、変化に満ち、未知性に満ちた、恐ろしいものでもあるのだと思う。普通の人は、そのような「世界」に対して、身につけた文化や言語、そして、自我の障壁で護られている。それに対して、そのような「障壁」の少ない、自閉症の人は、「世界」全体が、自らに押し寄せてくることについても、「こだわり行動」や「常同的な行動」で、護らなければならない面があるのだと思う。この辺りも、統合失調状況と関わることで、次回にさらに述べたい。
また、面白いのは、著者は、水に執着し、流れている水をずっと眺めていたり、いつまでも水と遊んでいることがあるという。これは、私もそうだったし、今でも、海や滝の水を、ずっと眺めていても一向に飽きない。さらに、私は、火に対してもそうで、子供の頃、マッチに火をつけた後、その火をずっと燃え尽きるまで眺めて、悦に入っているのを怒られたことがある。火は、既に述べたように、一連の体験時に、ビジョンとしても何度か現れた。水や火は、不思議な動きのあるもので、生きたものとの感覚を呼び起こすのだと思うし、それにひかれて、意識が「入っていく」(融合する)ことになりやすいのだと思う。
こういったことは、自閉症にだけ特殊なことというよりも、ある程度、子供には共通する面があるのかもしれない。しかし、普通、子供は、一定の年令になるのに伴って、こういう面を失い、社会に適応していく。自閉症の場合は、それへの執着が強く、なかなかそこから離れられない、ということなのだと思う。
最後に、著者が「魂」について語っていることを、とりあげよう。著者は、「魂が肉体に閉じ込められている」、と感じることが多いという。それで、じっとしていると落ち着かず、魂がときどき肉体から離れて、自由に駆け巡るのだという。しかし、ときには、魂が肉体から抜け出られずに、肉体の中で、体や想像を使って、「駆け巡る」ことも多いだろう。著者がよくするという、「跳びはねる」という行動も、そのような状態の表れなのだと思う。また、タイトルの「跳びはねる思考」とは、まさに、そのような、魂と思考の、自由な飛翔を意味しているのだといえる。
私も、記事『「地獄」「監獄」としての「幼稚園」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-b91f.html)で述べたように、幼稚園の時期には、よく魂が肉体を抜け出て、そこにいないということがあった。魂が、抜け出ているというときには、体は硬直し、周りの呼びかけにも反応がなく、まさに「自閉」そのものの状態として、周りには映る。それに対して、魂が、肉体の中で駆け巡っているときには、じっとしていられず、落ち着かない、「多動」の状態として、周りには映るのだと思う。
これらは、「発達障害」とされるものについて、「自閉」や、「多動」ということがどうして起こるのかの、大きなヒントになっていると思う。
○私の考えの基本的な部分、総論的な部分については、下記の記事にほぼ述べられていますので、そちらをお読みください。
「総まとめ(旧「闇を超えて」より」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)
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