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2014年10月

2014年10月28日 (火)

その後のケム事情/『無我の体験』

1 私の家の上空近くに、×印なんか描いてるんじゃない!

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正確には、私の家の真上からはかなり離れた位置にあるのだが、この位置には本当によくケムが出る。前に、記事で書いたときに、ケムができて、しばらく後に、ヘリがかなりの数その下で旋回するように調査をしていたのも、この位置だった。おそらく、米軍機の飛行航路になっているということもあるのだろう。

そして、その数時間後にもまた、こんなケムが出ていた。

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ケムトレイルに関する記事を書かなくなってからも、一応ずっと観察はしていたのだが、私の地方に関する限り、その頻度自体はかなり減って来ているようだ。しかし、それでもときどきは、かなり酷いものを見かける。まるで、私の趣味であるギターが最近そうなっているように、間が空いても、撒き(弾き)続けること自体に意義があると言わんばかりだ。

化学物質攻めは、自然環境たる空から、地から、身の回りの製品から、人体に取り入れる薬品から、食品から、あるゆる方面から、人間に対して、じわじわと蓄積の効果を期して、なされているということなのだろう。これなら、具体的に、どれが、病気など、起こった事態の直接の原因なのか、特定もできないことだし。

2  絶版になっていた、バーナデット・ロバーツの『自己喪失の体験』が、『無我の体験』(ナチュラルスピリット)として、新訳で、復刊されている。(記事『「自己喪失」と「狂気」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post-f5cb.html 参照)

本来、ロバーツは、前段階としての「神との合一」体験と、その後の「自己喪失」(No-Self)の体験を区別して述べているので、前段階の体験と混同されがちな「無我の体験」という言い方は、避けた方がよかったと思う(カッコ書きで示されている、「無自己の体験」はいいが)。しかし、復刊されたこと自体は喜ばしいことである。

2014年10月19日 (日)

「電波系」について

今はあまり使われなくなったが、かつて、「電波系」ということが言われた。統合失調状況に典型的にみられるが、それだけでなく、他の人には、見えない、聞こえない情報を受け取って、異様な「妄想」(と他の人には感じられるもの)を語る人たちについて、言われたものだ。

ウィキペディアでは、「電波系」とは、「荒唐無稽な妄想や主張を周囲に向かって公言する者のことを指す言葉」とされ、「元々は「頭の中に何者かからの声、思考、指示、妨害が電波で届く」と訴える人のことを指していた」とされている。

元々は、そこから始まっているのだろうが、一般に、広く「電波系」というときの「電波」とは、物理的な電磁波としての「電波」そのものなのではない。「電波」という言い方は、あくまで、たとえまたは象徴で、それが、こういう人たちが、受け取っていると称する、見えない波動ないし情報を、うまく言い表しているから、採用されているのである。

そして、「電波系」という言い方は、必ずしも、病気としての「統合失調症」を意味するのではなく、その周辺領域にあって、多くの人の理解しづらい、情報を受けとって、発信する人にも言われたのである。そこには、たとえば、怪しげな、霊媒やチャネラーなども、含まれている。それは、もちろん、そういう意味合いもあるが、必ずしも、蔑んだり、奇異がったりするものではなく、ある種の「親しみ」を込めて、そういった類型の人がいるということで、「――系」として、身近な呼び方がされたという面もある。

私は、この呼び方は、「統合失調症」などという精神医学の呼び方などより、よほど親しみやすく、的確な呼び方で、しかも実質的にも、有用なものがあると思う。もちろん、こういった呼び方をするときは、「病的」な意味合いは薄く、病的であろうが、なかろうが、一定の、こういった類型または体質の者を含めて呼んでいるのである。その中で、社会的には、「病的」と判断されてしまうようなものが、事実上、「統合失調症」と呼ばれていたということに過ぎない。

こういった人は、象徴的な意味で、人には受け取れない、「電波」を受け取る人で、それに、その人独自の「解釈」を施して、人に向かって、発信するものだという認識が、多くの人に行き渡っていれば、こういった人たちを、さほど奇異がる必要もなくなる。と同時に、逆に、変に崇拝したり、即座に真に受けてしまうことも、避けられるだろう。

また、自分自身が、「電波系」の気がある人も、自分の受け取っているものを、文字通りの「電波」などと受け取らないで、「電波系」にいうところの「電波」、つまり、電波のように波動として伝わって来るが、何らかの、他人には受け取れない(あるいは、受け取っても、はっきりとは感じ取れない)「情報」なのだと受け取って、それに、適切に関わっていく可能性も増えて来る。

最近の、「テクノロジー犯罪」などの迫害妄想も、結局は、受け取っているものを、文字通りの「電波」(電磁波)と解するところから来ているので、これを「電波系」にいう「電波」と受け取れれば、そんな大層な迫害妄想は、もつ必要がなくなる。

だから、私は、再び、「電波系」という言い方が、流行ってくれた方がいいと思う。

この「電波系」については、もう大分前になるが、かつて、その名のとおりの『電波系』(太田出版)という本を書いている人がいて、前の『日記』でも、とりあげたことがある。それは、自分自身が、典型的な「電波系」の人で、子供の頃から、いろいろ「電波」を受けて、それに振り回されて、苦労したが、いろいろな対処法を覚えて、今は、それらとうまく折り合っている、という内容である。また、「電波系」にいう「電波」とは何かということにも、それなりに踏み込んで、考察をしている。

「鬼畜」と自ら言うだけの、率直な語り口なので、よほど「電波系」に共感的であるか、自ら、その気のある人でなければ、受け入れ難いかもしれない。が、逆に、そういう人たちにあっては、私のこのブログ以上に、参考になるものがあるかもしれない。

残念ながら、今は絶版なので、古本屋などで、手に入れるしかないが、興味のある人は、探してみるとよい。

その人物が、「電波系」にいう「電波」について、言っているのは、もちろん、文字通りの物理的な電波などではなく、ユングのいう集合的無意識から発されるもの、または、シュタイナーのいう「アカシックレコード」から発されるものということだ。

「集合的無意識から発されるもの」とは、私も、人の無意識の発する想念形態(「エレメンタル」)が、直接の「声」の正体である可能性について述べたが、単に個人のということではなく、その集合である、「集合的無意識」から発される、「想念形態」(「エレメンタル」)と解してよい。その「集合的な要素」が、聞く者をして、「グルになっている」とか「組織」として襲って来るというような感覚を生むし、最近の「集団ストーカー」にいう、「集団」というのも、迫害するものとしての、このような、漠然たる「集合性」を物語っている。

シュタイナーの「アカシックレコード」というのは、ユングの言うのは、あくまで、「無意識」という規定だったが、それにはっきりと、「霊的な実在」としての、情報ないしエネルギーの意味合いをもたせたものと言うことかできる。「想念形態」(エレメンタル)という、実体的なエネルギーとしての意味合いを考慮すれば、やはり、この「アカシックレコード」という言い方の方が適当と言えるだろう。

いずれにしても、物理的な「電波」とは別に、「電波系」にいう「電波」というものが、そのようなものとしてあるとしつつ、その「電波」なるものは、決して、「真実」を語るのでも、「優れて」いるのでもなく、多くの場合、人を惑わし、陥れ入れるものだとして、距離をおいた関わりを勧めているのである。自分自身が、どういう具合に振り回されたかを、率直かつ具体的に述べているだけに、説得力がある。

※ 最近では、無農薬・無肥料でリンゴ栽培を成功させた「奇跡のリンゴ」でおなじみの木村氏なども、「電波系」に入れられてしかるべきだろう。無農薬・無肥料でのリンゴ栽培を実現した人に対して、不謹慎と言わるかもしれないが、自ら、UFOに乗り、宇宙人と会った(あるUFO研究家には、UFOに乗っただけでなくて、他の惑星に行って来たと言ったという)と公言し、自分が話しかけた木だけが枯れず、話しかけない木は枯れたと信じているなど、十分「電波系」の資質を満たしている。

本来、「電波系」は、いい意味でも、悪い意味でも、明確な規定のある言い方には入りにくい、「境界的」な人たちについて、言われた言葉なのかもしれない。しかし、私は、もっと広い意味で、「電波系」を使っていいと思う。それくらい、「電波」という言い方は、明確には把握しにくい、ある普遍的なものを、象徴的にだが、指し示している。そうすることで、このような領域に関わる人たちを、無闇に蔑んだり、崇拝することを避け、相対化できる。

たとえば、そこには、社会的に認知されず、「統合失調症」と呼ばれてしまうような人たちも入れば、社会的に認知され、「霊能者」や「チャネラー」などと呼ばれる人たちも入る。もちろん、どちらつかずの、中間的で、怪しげな人たちこそ、その言葉に最もふさわしいことには変わりない。それは、図にすれば、次のような感じになる。

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2014年10月11日 (土)

『精神医療に葬られた人びと』の追加等

1関連基本書籍の抜粋』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-d140.html)に、織田淳太郎著 『精神医療に葬られた人びと』(光文社新書)を追加しました。

精神医学や精神医療というよりも、隔離・拘禁の施設としての「精神病院」をテーマにしたもので、自ら入院した体験などを通して、その実情や歴史が、分かりやすく概観できるので、貴重なものと思う。私的には、日本の近代的病院移入前の、共同体的な民間療法が紹介され、それが否定されて、隔離・拘禁の精神病院へと移行していく過程が、かなり詳しく述べられているのもよかった。

2 『「集団ストーカー」という厄介な問題』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html)には、多くのコメントがついたこともあり、簡単に概観的なまとめをしておきます。

「集団ストーカ」にしても、「テクノロジー犯罪」にしても、自分の内面に起こっている、ある「異様な感覚」の原因を、物理的な外界に、無理やり探し求める「解釈」をしている点では同じです。その点では、「CIAに狙われる」などの、典型的な「妄想」と何ら変わらないものです。ただ、その「妄想」の内容が、ネットのような情報技術の進歩と情報を煽る勢力の影響により、ある程度洗練され、具体的に定型化される形で、かなりの者に共有されるものになってきたというだけのことです。

しかし、その外界に原因を求めることの「無理」は、どうしても、その内容に、矛盾や飛躍、異様な印象として、出て来ざるを得ないものです。

もちろん、だからと言って、その原因は、「病気」にあるというのも、ただのイデオロギーに過ぎず、いわば、外界に原因を求めることから来る社会的害悪を、葬り去ろうとするものに過ぎません。両者の見方は、互いに反目し合う、対抗関係にあるといえます。

それでは、その原因を、直ちに、霊的なものに求めるのがいいのかというと、必ずしもそういうことではありません。私が常に言っているのは、内面に、何か攻撃を仕掛けられているかのような、異様な感覚を生じた場合、いきなり外界に原因を探るのではなく、その感覚そのものにもっと注意を集中して、じっくり見極めるようにするということです。そのような「見極め」によって、曖昧だったり、漠然としていた印象も、それなりに明確になってくるので、その時点で、始めて、原因を探ることもできるようになるということです。

そのような方向で、内面への注視が習慣づけられれば、自ずと、外界への一方的な志向は抑えられ、すぐに外界に原因を探ろうとする傾向は、抑えられます。そして、内面に起こっていることが、ある程度明確になってくるのに従って、その原因を外界に求めることの無理も明白になってきます。

そのような結果として、私としては、自ずと、霊的なものに原因を探るしかないと思わずにはいられなくなると思うのですが、もちろん、それは人それぞれでしょうし、もし違う理解に至る方途があるというなら、それを示してもらえばいいことです。

いずれにしても、外界に原因を求めることの「無理」と、それこそが、問題を拡大していることには、いい加減気づくべきだし、反対に、「病気」ということで、分かったことにして、葬り去るのも、いい加減止めてほしいと思います。もう一度言うと、両者は、互いに反目し合う、対抗関係であると同時に、互いに助長し合う、依存関係にもあるのです。

2014年10月 3日 (金)

「恐怖心」が引き寄せる現象

前回の記事のコメントで、「集団ストーカー」などの観念を信じ込んで、「恐怖心」を膨らませることは、その恐怖心自体が、信じたことに沿うような現象を引き寄せてしまうので、怖いことだと述べた。これまでも、「恐怖心」がさまざまな現象を呼び寄せることについては、何度か述べて来た。それは、「統合失調状況」においては、特に顕著で、知覚世界そのものの変容をもたらし、未知の現象を様々に顕現させる。さらに「捕食者」のような存在との絡みにより、止めなく「地獄」のような世界を展開させることになる。

ここで、改めて、この「恐怖心が引き寄せる現象」というのは、具体的にどういうものなのか、いくつかのパターンに分けて、まとめてみたい。

1  「幽霊の正体見たり枯尾花」という句があるとおり、恐怖心をもって、何かを恐れていると、そうでないものも、その恐れているものに見えてしまうということが起こる。これは、次の2のように、知覚そのものが、変容して、そういうものを見てしまうということではなく、本来、違うものなのだが、それを、そうであるように、錯覚してしまうということである。実際には、灰色の普通のセダンの車を、いかにも、秘密の組織の匂いのする、黒塗りの、リムジンのような車と見間違えたり、誰かと出会うことを恐れていると、ちょっと似たような人は、その人に見えてしまうなどのことである。(この場合、本当にその本人と出会ってしまうのは、5の共時性の問題となる。)

また、恐怖心をもっていると、視野狭窄になり、多くのものの中から、その恐怖心に沿うようなものばかりを、知覚として、拾い上げてしまうということも、これに含ませていいだろう。たとえば、前回の「集団ストーカー」なども、実際には、全然「タイミング」がよくない人の横切りや、「カルト」的でないナンバーの車が、多くあるのに、それらには目が行かず、自分が恐怖心をもってこだわっているようなものばかり、知覚として拾ってしまい、それが偶然ではないと感じてしまうということがある。

統合失調状況でも、まだ深く、状況に入り込んでいないような初期の段階で、このようなことが起こりやすい。そして、それが、ますます恐怖を助長し、深く状況に入って行くことを、促してしまうのである。

2  強烈な恐怖心が継続するようになると、意識状態に変容を来たし、見るものや、聞くものの、つまり知覚そのものに、変容を来たすようになる。幻覚剤などでも、意識の変容により、さまざまな幻覚世界を見るようになるが、同じことが、統合失調状況に深く入っていくと起こるのである。これらの幻覚世界は、自分自身の、内心にある感情や信念が投影されて出て来ることも多い。つまり、恐怖心をもって恐れていることが、実際に、知覚として、リアルな形で、出て来てしまうということが起こる。単なる、錯覚ではなく、実際に、一つの知覚として出てくるということである。

意識の変容した状態が続くと、日常性から離れて、霊的世界との境界である、「霊界の境域」へと入り込ませることにもなる。「霊界の境域」では、このような、内心の投影物そのものが、ひとつの実体として、存在するようになる。(「想念形態」や「エレメンタル」と呼ばれる)だから、それは、物質そのものではないものの、リアルな存在物と言っていいものである。決して、「誤った知覚」としての、単純な幻覚などではない。

統合失調状況では、このようなリアルな幻覚を元にして、妄想が生じる。ところが、この妄想を、強い恐怖心とともに確信していると、さらに、その妄想に沿うような、知覚つまり、幻覚を生じるのである。たとえば、特定の誰かに迫害されているという迫害妄想では、その誰かが、実際に自分を攻撃して来るような声を聞いたりする。

この、幻覚から妄想、妄想から幻覚という相乗効果により、それらは止めなく発展して、容易には、抜け出せない「幻覚-妄想世界」を作り出す

3  「恐怖心」は、さらに、捕食者的精霊や捕食者などの存在を自分の周りに呼び寄せる。恐怖心は、彼らの「餌」のようなものだからである。人が二酸化酸素を発していると、それに引き寄せられて、蚊が寄って来るようなものである。蚊に囲まれれば、ブンブンとうるさく、不快だが、同じように、このような存在に取り囲まれるだけでも、違和感や圧迫感を感じ、何か、未知のものにつきまとわれ、監視されているような感覚を生じる。そして、恐怖は助長され、ますます迫害妄想的な発想をするようになる。

4  捕食者的精霊や捕食者などの存在は、実際に、人の内心を読み、それにつけ込むような、効果的な形で、様々に攻撃をしかけてくる。また、内心の恐怖に沿うような、様々な幻覚的な知覚を生み出すことができる。つまり、2のような知覚の変容を、さらに効果的に演出できるし、5の共時性のような現象も、演出できる。

それにより、恐怖心はさらに止めなく拡大していき、相乗効果で、それらの存在は、ますます活気づく。もはや、その恐怖心は、未知のものに対するというより、ほとんどホラー的なものにまで拡大される。ここに至って、一種の「地獄世界」が、現出される。

5  強い恐怖心とともに、ある信念を持っていると、外界の物理的な現象そのものにも、「共時性」を引き起こし、関連するような出来事を、引き寄せることが起こる。1でみたように、それは、単なる偶然に過ぎないものを、意味ある関連として、錯覚している可能性もある。が、実際に、内面世界と物理世界は、共時的に結びついているので、単なる偶然を超えて、そのような現象を引き寄せる可能性はあるのである。これは、物理的外界に生じている現象だけに、内心の問題では済まされないし、外界そのものに関わる、「妄想」のもとになりやすい、厄介なものである。

これは、恐怖心という感情の力は、いかに強いもので、「現象」を引き起こす原動力になるかということであるし、心の深い部分での、信念や思考は、いかに「現実」を作り出す力を秘めたものであるかということでもある。もちろん、逆に、ポジティブな思考が、ポジティブな現実を引き寄せるというのも、一つの真実ではある。しかし、そのような思考は、往々にして、ネガティブな発想と裏腹に結びついていることが多く、逆に、そのネガティブな側面を引き寄せることにもなる。

このように、「恐怖心」は、さまざまな現象を呼び寄せるものである。本来、恐怖の感情は、生物が、危険を察知し、自己を守るために、必要なものである。また、恐怖は、意識を覚醒させる力にもなり、もし恐怖という感情がなければ、恐らく人は、決して覚醒することはないだろうと思わせる。

しかし、恐怖が、過剰な形で発展していくとき、上にみたような現象を呼び寄て、真に「恐るべき」世界を現出させ、そこから抜け出せなくさせる。実は、恐怖という感情こそ、真に「恐怖すべき」ものであるかのようである。

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