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2014年9月13日 (土)

「病気」という見方が故の問題

精神の領域において、「病気」という捉え方は、「イデオロギー」的なものであることを述べた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-5403.html)。

また、具体的にも、「病気」という捉え方は、その見方が故の困難な問題を、多く引き起こす。まずは、そのいくつかを、まとめて示してみる

1  「病気」という見方により、「病気」が疑われると、それは、精神科医による「治療」の問題として、精神科医に委ねることが、当然視される。その状態や原因について、考察がされずに、あるいは、ある程度考察がされても、それ以上は、精神科医に委ねることで、本人も周りの者も、その状態と関わったり、学ぶことが阻害される。

2  特に統合失調において、「病識がない」という厄介な問題を生じる。「病気」とは、「イデオロギー」的なものであり、 強制的な「治療」を正当化するものだとしたら、本人が、進んで「病識」などもつはずがない。しかし、その「病識がない」ことが、「病気」の理由として取り込まれるという、本人の意思を無視した、酷い事態も生じる。

3  外部的現実に投影された「妄想」がある場合、本人自身も、その「妄想」を、内面に引き戻さなくては、危険であるし、その状態と向き合い、対処する道も開けない。しかし、「病気」という見方がある故、この「妄想」に固執することから、離れることは難しくなる。

初めに、1について

近代以降、「病気」は、その専門家である「医師」に任せるということが、当然のような風潮になった。精神の領域においても、「病気」という「イデオロギー」は、その流れに乗って、精神科医が、その「治療」に独占的に携わるためになされたようなものである。裏から言えば、多くの者が、そのような厄介な「問題」を、精神科医に丸投げしたのである。

この「病気」→「精神科医」という、既製の図式ができ上がってしまったため、その「病気」の実質的な面については、ほとんど誰も、顧みることががなくなってしまった。むしろ、そのようなことは顧みるべきものではなく、できるだけ早く、医師に任せることこそが、正しい態度として、勧められる。本人も周りの者も、ただ「病気」を患う者として、あるいはその身内の者として、精神科医の治療が、よい方向に働くのを期待できるだけである。精神科医の治療により、事態が悪化しても、それは「病気」のせいであって、精神科医の治療のせいとはみなされない。その「病気」とは、実際上、「訳の分からない」ものに覆い被せたベールである以上、もともと「訳の分からなさ」を合わせ持っているのであり、どのように発展するか、未知数なのであるから。

そして、この「病気」には、様々な社会的観念が纏わりついている。精神病院に、入院するということは、ほとんど社会からの隔絶を意味し、社会の中で、「病気」ということは、社会的失格者とほぼ同一の意味をもつ。

本人も、周りの者も、その元にある状況という、実質的な面よりも、このような「病気」という「覆い」にこそ振り回され、支配されることになる。その元にある、状況と、主体的に関わる機会は奪われ、それが何であるのかについても、ほとんど学ぶ機会はない

それは、「丸投げ」と言ったように、ある意味、多くの者が、そう望んだからこそのことであり、初めから、そのような厄介な状況の、実質的な面には、触れたくなかったのではある。しかし、それを避け続けることで、「病気」という「覆い」に振り回されることが、より困難な問題を醸し出していることは明らかである。それに気づけば、いずれ、その「病気」の元にある状況について、正面から問わなくてはならないことになっていくだろう。

盗聴発見業者の人の書いた『集団ストーカー』という本は、精神科医に委ねられる前の、「生」の統合失調状況にある者との関わりを通して、さまざまに的確な考察をしている貴重なものである。ところが、それも、最終的には、「病気」ということで、精神科医に委ねるしかないということに落ち着いており、その時点で、それ以上の考察は、なされていない。(もちろん、それを一民間業者に期待できるわけでもないが)。精神科医などより、よほど興味と観察力をもって、鋭い考察をしているだけに、精神科医に任せて済ませる態度は、残念なことである

結局、全体として、「病気」という見方が、その実質を覆い隠す、強力な「覆い」として作用し、それ以上の考察を妨げ、思考を停止させる働きをなしているのである

次に2について

前にも述べたが、統合失調者には「病識がない」と言われるが、これほど、酷い言葉もない。「病気ではない」と思うことが、「病気」ということの理由に取り込まれてしまっているのだ。ある意味、これ以上、本人の意思を無化する、凄い戦略もない。「お前が犯人だな!」と詰め寄られた容疑者が、「違います」と言うと、「やっぱり犯人だ。なぜなら、本当の犯人が、自分で犯人などと言うわけがないからね」と言っているようなものだ。

「病気」ということの「イデオロギー」的意味を考えるなら、結局「病識がない」とは、「病気」という「イデオロギー」をもたないことを意味する。つまりは、「病識」とは、「イデオロギー」の押し付けであり、「洗脳」に過ぎないということである。

しかし、それでは、統合失調の者が、特定の誰かなどによる、「迫害妄想」をもつなどして、危険な状態にあるとき、その「誤り」を正せないではないか。あるいは、統合失調の者が、その誤りを正さない以上、やはり、それは、「病的」であるという自分の状態に対する、「認識」を欠いていることになるのではないか、と言うかもしれない。

問題は、「病気」ということを当然の前提のように持って来て、そこに介在させ、「病識」ということを、認めさせようとすることにある。そのこと自体が、「病気」→「精神科医」(精神病院)という図式に持ち込む戦略であり、明らかに、強制的、押し付け的な意味合いを帯びる。本人が、反発し、余計頑なになるのは当然である。もっとも、「病識がない」ということを、当然のこととして、本人の意思などおかまいなく、強制的に治療ができるということを、当然の流れとするのは、さらに酷いことだが。

実際には、本人も、そのような「妄想」をもつのは、その根拠を、しかも強い「リアリティ」に基づく根拠を、内部にもっているからで、「病気」だからもつのではない。もし、本人に認めさせることがある、というのなら、ここは、周りによる、「判断」や「評価」ではなく、明らかな「事実」に即して、その「事実」のみを認めさせるべきなのである

その場合、明らかな「事実」とは、その本人の感じている「リアリティ」は、周りの者の「リアリティ」とは、異なるということである。つまり、本人が、いかに、強い「リアリティ」をもって、「声」を聞いたり、何かを見たりしていても、周りの者は、それを聞いたり、見たりしていないということ。その「リアリティ」を、周りの者とは、「共有していない」ということである。だから、それに基づく「迫害妄想」なども、本人にとっては、「リアリティ」ある「事実」と感じられても、周りの者にとっては、明らかな「誤り」であるということである。

もちろん、このような「誤り」や、本人の感じている「リアリティ」が、周りの者と異なっていることについて、認めさせることも、容易ではない。本人も、どこかではそうは感じつつも、周りの者と異なる「知覚」、「リアリティ」をもつなどということは、認め難いが故に、周りの者を巻き込んで、騒ぎを起こしているという面がある。しかし、それは、「病気」などという「判断」、「評価」以前の、明らかな「事実」なのであり、押しつけ的要素はなく、本人も、認めるざるを得ない場合は、多いはずである。さらに、次の3でみるように、是非とも、そのことには気づく必要があるのである。

次に、3について

これまで何度も述べて来たように、統合失調状況にある者の「妄想」は、内面または霊的領域に生じている知覚等を、外的現実に「投影」した「解釈」である。この「妄想」は、未知の状況にあって、揺らいで壊れかかっている自我を、防衛するためにこそ、生じているので、容易には覆せない。しかし、この「妄想」は、「外的現実」そのものとして捉えられているので、何らかの対抗手段に出るなどの、危険な行為をもたらしやすく、それに固執している限り、社会との接点を失い、やがて、「荒廃」をもたらすものでもある。

だから、やはり、その「投影」は、「引き戻す」必要があり、起こっていることが、「外界」そのものではなく、内面または霊的領域に起こっているのであることに、気づく必要がある。また、そうしてこそ、それと向き合い、その対処の仕方を学ぶということも、始まり得るのである。その「内面または霊的領域」で起こっていることか、何であるのかについては、本人自身が、本気で取り組めばよい問題で、周りがとやかく言うことではない。それを、「病気」などと、周りの者が、余計な干渉をし、押し付けをすることから、問題が膨らんでいるのである。また、起こっていることを、内面に引き戻すことができれば、少なくとも、みかけの危険性は、大きく減退するはずで、「病気」として介入することを正当化するような緊急性も、少なくなる。

このように、起こっていることを、「内面または霊的領域」に引き戻すことこそが、必要であり、それこそが、本人にとって、それと「格闘」することの、本当の「始まり」なのである。しかし、それを、難しくするのが、「病気」という見方である。

それは、一つには、2で見たように、周りが、「病気」を押し付けようとするので、それに対する反発として、余計に「妄想」に固執するということがある。「妄想」に固執すれば、それを内面に引き戻すということも、ますます難しくなる。しかし、そうでなくとも、本人にとっても、「精神の病気」という観念は、やはり「恐ろしい」のである。特に、統合失調症ということが、社会的にどのような意味合いを帯びているか、感知しないという者はいない。だから、人からそう思われることを、漠然とでも意識すればするほど、「病気ではない」ということを、周りに認めさせようとし、あるいは、自分自身に言い聞かせようとする。

外部的に投影された「妄想」が、それ自体としては、「誤り」であることを認めずして、それを「内面」または「霊的領域」に引き戻すことはできない。しかし、それを「誤り」と認めることは、それが、「病気」の故に生じるという可能性を、いやでも顧みさせる。本人には、それを支える、幻聴や幻覚などの、内面的「リアリティ」があるのだが、それにしても、それらが、他の者と共有できないものとなると、「病気」の故に生じているという可能性を、どうしても、浮かび上がらせる。人にもよろうが、「精神の病気」という観念は、それが、他の者と共有する、外的現実ではなく、「内面的現実」であることを認めること以上に、恐ろしく、認め難いこともあるはずである

それで、外部的に投影された「妄想」は、是非とも「真実」でなければならず、その誤りを認めることは難しくなる。その実質を見極めるためには、「病気」という観念に惑わされず、「内面的リアリティ」がどのようなものであるかを、つぶさに観察する必要があるのだが、「病気」という観念への恐れが、それを阻むということである。

「病気」というのは、それ自体は、特に内容をもたない「観念」に過ぎない。しかし、それは、その元にある「訳の分からない」状況に、覆いをする強力な働きをする。そこで、「病気」という「覆い」が、それ自体、一つの、強力な「事実」のように機能し始める。その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。

そうして、「病気」ということが、社会をあげて「治療」すべき、巨大な「害悪」と化す。この「恐るべき病気」という、それ自体において肥大した観念が、本人にも、周りの者にも、その実質と向き合う可能性を、阻害する。
                                              
「病気」という見方こそが、それ自体として、問題を膨らまし、不幸を拡大していることは、明らかと思う。だから、ここいおいて、求められているのは、これまで、執拗に纏わりついていた、「病気」という「覆い」を、剥がしてみること。そして、その元にある実質的なものを、少しずつでも、露わにしていくことである

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コメント

失礼します

脳の正常な機能とは、脳が百%の全ての機能を発動してるわけでなく
未だに脳の能力で未知な部分があるなら、どうして全体の知識が欠如しているのに
病気であるとわかるのでしょうかという妄想です(私は医者でないから脳についての素人意見
もしかしたら、特有の領域を知覚するための器官が脳にあって、それをなすために
脳の様子が変わるのかもしれない。
病的なのは何かのきっかけで無理やり脳の様子が変わってしまい、
自分で制御できないことにあるのかもしれない

のめーるさんありがとうございます。

そのとおりだと思います。脳だけでなく遺伝子のレベルでも、全体としての知識は得られてないので、よほど明らかな損傷や異変でもない限り、「異常」や「病気」を確定することはできないはずです。言えるとすれば、ある特定の時代、文化の中にあって、「多数の者とは違うあり方をしている」、ということだけだと思います。

「病的なのは何かのきっかけで無理やり脳の様子が変わってしまい、
自分で制御できないことにあるのかもしれない」

これも、恐らくそのとおりで、「何かのきっかけ」というのが、普通はあまり起こらないような、「異常」といえばいえる出来事、それも、「見えない流域」からなされる出来事なので、普通は、制御できないような状況になってしまうのだと思います。

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