オショーのカスタネダ評について
オショー(ラジニーシ)は、『TAO 永遠の大河』という、最近再出版された本で、カスタネダのドンフンァンとの交流の物語りについて、語っている。
それによると、オショーは、その99パーセントがフィクションであるが、残りの1パーセントの「真実」は、とても貴重なものだという。また、フィクションの部分も、とても「ビューティフル」だし、オショー自身は、気に入っているという。
私も、最初にカスタネダを読んだときには、ほぼ同じような感想をもった。つまり、全体としてフィクションであるが、重要な「真実」が語られているというものだ。
しかし、今は、このオショーの見方は、違っていると思う。
オショーがこれを述べたのは、始めに出版されたときの、1975年以前だから、カスタネダの本は、初めの3冊程しか出ていなかった時点である。
カスタネダの初めの3冊の本は、カスタネダ自身が、メスカリンのような幻覚剤を用いるなどして、変性意識状態に入り、そこで体験したことを「思い出し」ながら、述べたものと、ドンファンから聞いた教えを述べたもので成り立っている。
この時点での、カスタネダの「理解」は、非常に限られたものであり、自分の変性意識状態での体験も、ドンファンの教えも、その限られた「理解」の視点から、それに沿う範囲で、語られたものだ。だから、変性意識状態での体験、ドンファンの教えそのものは、たとえ「真実」であったとしても、大きく限定され、また変形されて、伝えられている。それは、その時点では、全体として、「フィクション」と評価されても仕方のないものである。
具体的には、カスタネダ自身も述べているとおり、そもそも変性意識状態での体験を、正確に「思い出す」ことは、大変なことであり、その「思い出す」過程にも、想像や誤解が入り込む余地はいくらもある。さらに、それを、言語的に、空間・時間の枠に収めて、表現しようとするとき、そこには、それ自体が、無理を含んでいるので、何かしら、創作的要素を入り込ませてしまう余地は多い。
この時点での、カスタネダは、オショーも言うとおり、メスカリンなどの幻覚剤に頼って、変性意識状態の体験をすることが多く、それはこれまでにもみて来たとおり、自己の「投影」を多く含むものだ。ドンファンも、その見たままの「体験」より、自分がどう感じるかが重要と指摘しているが、カスタネダは、どうみても、その体験に圧倒され、「振り回され」ていた。
だた、ドンファンが、そのような体験をさせた意図は、この時点では、カスタネダが、世界を、自分のそれまでに身につけた、「知覚世界」、「信念体系」によってしか見ていないので、それを打ち壊すことにこそ、重点があった。西洋近代人である、カスタネダにとって、「世界」は、合理的で、決まり切ったものであり、日没時の影や風が、それ自体、「生き物」のように「力」をもつものではなく、カラスや風が、人の言うことに、「同意」したりするものではなかった。ドンファンは、ことさら、そのようなことを強調し、自分でも、そのような奇怪で、謎に満ちた「世界」を演出してみせ、カスタネダを混乱と恐怖に陥らせる。そのうえで、幻覚剤等により変性意識に入らせているのであり、それは、カスタネダにとって、これまでの見方を根底から覆す、強烈かつ破壊的な体験になる条件が、整えられていた。
しかし、カスタネダ自身は、それがもたらす、自分の「世界の崩壊」より、その体験の「意味」自体に多く拘って、自分なりの解釈を施して表現した。そこに、「フィクション」的要素は、膨らむ余地が多くなったし、ドンファンの教えも、正しく伝わるものとなったわけではない。
さらに言えば、カスタネダには、そのように、理解が限られていたことのつじつま合わせ的な意味もあるが、全体をより面白くするため、多少の創作的要素を混入させる「色気」も発揮していたことがうかがわれる。
しかし、それでも、1%というのは、全体を「フィクション」とみるが故の過小評価だが、そこに、オショーも「真実」を見い出すほどのものが、入り込んでいた。
そして、その「真実」については、カスタネダ自身、4冊目以降の本で、より本格的に、迫ることができるようになっている。それは、自分のそれまでの「世界の崩壊」が、より本格化して、異なる見方が可能になったのと、それまでに体験したことの意味が、より身について来たことにもよる。「思い出し」の精度も、それらが身につくにつれて、より高まるのである。ドンファンの教えについても、それまで「思い出し」得なかったものが、思い出せるようになり、また、意味をなさなかったものが、意味をなすようになる。
そのようにして、4冊目以降、初めて、よりドンファンの教えに即す形で、本格的に、「真実」の探求が始まったのである。もちろん、それも、そのときどきの理解の範囲に応じてであり、純粋に「真実」が伝えられているというものではない。また、そのような、突っ込んだ探求により、より、複雑になった面はあり、それゆえ、初めの頃の、見かけの、分かりやすい「ビューティフル」さは、失われた面がある。それでも、最後の遺作では、「無限」や「捕食者」という根源的なことを、正面から問題にするというほどに、全体の理解は進んでいたのである。
私は、この4冊目以降の探求の方に重点をおいて、全体をみるなら、カスタネダとドンファンの交流の物語りについては、半分以上が、「真実」であったとみていいと思っている。もちろん、ドンファンの存在ということも、含めてである。
※ デーヴィッド・アイクは、『無限の本質』の、ドンファンによる「捕食者」の説明を読んで、椅子から転げ落ちたという。自分が体験したり、考えたりしていたことの説明として、これ以上に的を得たものはなかったからだ。私も、これを読んだときは、座って読んでいたので、転げ落ちはしなかったが、何センチか上に飛び上がってしまった♪。もし椅子で読んでいたら、同じように、転げ落ちていたことだろう。
前の記事でも、一連の体験において、フィクションだと思っていた、カスタネダの言ったり、体験していることが、いかに本当であるかを思い知らされたことを述べていた。しかし、その後に出された、『無限の本質』の「捕食者」論は、さらにそれに輪をかけて、そのような体験の本質的な部分についても、的確な説明を与えるものだったので、衝撃も一入だった。
アイクとともに、そのようなものが、ただの「フィクション」ではあり得ないことを、改めて強調しておきたい。
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