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2014年9月

2014年9月23日 (火)

「集団ストーカー」という厄介な問題

ネット上でだが、地域の中で、集団的に嫌がらせやつきまといを受けるという、「集団ストーカー」または「ガスライティング」ということが話題になっている。

一種のいじめや、腹いせとして、実際に、地域その他の「集団」が、それと分かる仕方で、ある者に嫌がらせをするということは、いくらもあることだろう。しかし、この「集団ストーカー」というのは、少し性質を異にしている。その嫌がらせやつきまといの仕方というのが、傍からみたら、単なる偶然の通りがかりや、たまたま行った咳払いや何かの音を出す行動で、とても「嫌がらせ」や「つきまとい」などとは解す余地のないものである。Youtubeなどにも、「被害者」が、自分が被害を受けている「証拠」とする動画をあげているが、一般の者には、一見して信じ難いものだ。(たとえば、一つの例 https://www.youtube.com/watch?v=5OkJHYrhrUc)(※1)

逆に、それらを、もし「嫌がらせ」の意図で行うとしても、何ら気づかれないことの方が多いはずで、全く無意味、無駄な行いとなる。「集団」を利用して、ある特定の個人にいやがらせをし、精神的に追い込むという「技術」自体は、支配層や秘密組織などは、もっている可能性がある。しかし、それにしても、一般の人間を対象とすることはあり得ないし、また、そのやり方は、洗練された効果的なもので、この「集団ストーカー」のような、無意味な仕掛けを行うものではない。

要するに、これは、「被害者」と称する者が、それらの「偶然のできごと」を、自分に関係づけて、「被害」を受けていると思い込んでしまっているものなのである。そして、その主張を聞けば、ほとんどの者が、そのことが明らかと感じるような性質のものである。

これらは、これまでみてきたとおり、典型的な「関係妄想」と言っていい。ただ、一つ、違いがあるとすれば、普通、「関係妄想」は、かなり漠然としたものだが、これは、「集団ストーカー」または「ガスライティング」というそれなりに詳細に類型化された、一つの「パターン」に集約される形で、出て来ていることである。そして、それらの「被害」を「共有」する者が、かなりの数に上っていることである。

「集団ストーカー」の実際や、それについての考察は、前回も触れた、盗聴発見業者、古牧和都著『集団ストーカー』にも詳しいし、ネット上でも、かなり詳しい分析をしている(http://stalker.johoguard.com/)ので、それを参照してもらえばよい。

ただ、ここでは、私が特に問題にしたいことを述べたい。

「類型化」されているというのは、先の著者も言うように、ネットの影響が強く、ネット上のさまざままな「被害報告」を通して、自分の「関係妄想」的な感覚も、それに当てはめて解釈するようになった、ということがあるだろう。そこで、まだ、「統合失調」状況に陥ったとまでは言えないような、初期の、漠然とした「関係妄想」的な感覚も、このような「集団ストーカー」類型が、掬い取ってしまうということがある。あるいは、統合失調というよりも、妄想傾向の強い(「妄想性パーソナリティ障害」などと名づけられる)者をも、絡め取ってしまう可能性も高い。

このように、「集団ストーカー」が、ネット上で、かなり詳細に類型化されたのには、単に、被害者と称する者の純粋な被害報告だけでなく、それを煽っている者、さらには、そのような類型に材料を提供して仕掛けている者の関与も疑われるのだ

「実体」はなくとも、「集団ストーカー」という「観念」が、肥大化して膨らみ、多くの者を捉えるようになることは、人びとの間に、疑心暗鬼を生み、人と人との結びつきを、大きく破壊する面がある。あるいは、何らの「実体的」な手段も必要とせずに、その「観念」に捕えられる者が、自ら精神を不調にし、弱体化してくれる。「支配層」にとって、これほど「安上がり」で、有効な、人と人を切り離し、弱体化させる、打ってつけの方法もないのである。(※2)

「集団ストーカー」にいう「被害」というのは、今のところ、大したものではなく、まともに取り上げるようなものではないが、今後、それが拡大して、その「妄想」自体が、危険なものになる可能性はある。また、「集団ストーカー」という類型が、さらに強い「リアリティ」を帯びて、今後多くの者を巻き込んで、地域で大きなトラブルを発生させるという可能性もないわけではない。

しかし、それは、あくまで、「集団ストーカー」という「観念」の拡大の問題である。先に見たように、この「集団ストーカー」なる、いやがらせやつきまといを、実際に、現実の組織や集団が、行っているなどとは解せない。

ところが、実は、この「集団ストーカー」そのままのような、陰湿ないやがらせやつきまといを、本当にしでかしている、「存在」というのはいるのだ。それは、「人と人の間」に住まう、捕食者的な「精霊」(低級自然霊)で、「人と人の間」において、そのようないやがらせやつきまといを、「演出」している(※3)。つまり、人に、あたかも、人にいやがらせやつきまといを受けているかのように、思わせるような、内面的な働きかけを、常になしている。現実の人間にとって、そんなことは、よほどの暇人でもない限り、なし得ないだろうが、「彼ら」は、いわばそれを「本職」としているようなものである。

要するに、「人と人の間」に入り込んで、人と人の関係に、疑心暗鬼や、葛藤、争いを生み出し、そこから、「捕食者」や自らが、感情的エネルギーを酌み取ることに貢献している。

「集団ストーカー」は、現実の人の「集団」の行いとしては、滑稽で、無意味なものかもしれないが、「人と人の間」の、精霊の行いとしてみるとき、これ以上に、的確に捉えられたものもないのである

精霊の仕掛けといっても、一般の多くの人間は、日常性に埋没していて、とりつく島もなく、このようなものに、容易に引っかかってしまうほど、効果的なものとは言えない。しかし、「妄想」傾向をもつ者や、統合失調的な「関係妄想」を漠然とでも持ち始めた者、「集団ストーカー」の類型を信じて、強い不安や恐れを抱いている者などには、十分の効果をもたらし、ますます、「集団ストーカー」ということに、「リアリティ」をもたらす。

「共時性」ということの、「演出」なども得意とするから、単なる「偶然」とは感じられない、という程度の現象は、いくらでも演出できる。実際に、強い情動を伴って、ある観念を信じ込むと、それに関連した現象を、呼び寄せることがあるのも事実である。(本来の「共時性」 参照 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2002/12/post-3e8b.html

このようにして、「集団ストーカー」という「観念」の拡大と、「人と人の間」の精霊の行いは、互いに絡み合いながら、「集団ストーカー」ということに、一定の「リアリティ」を与えている。「支配層」が、そのような、精霊の行いを、感知したうえで、「集団ストーカー」の観念を、人びとの支配のために、利用しているのかどうか知らないが、それが、不思議な仕方で、現実に力をもつことは、十分感知しているはずである。

だから、一見すると、大して問題とするような代物でもない、「集団ストーカー」というのも、実は、かなり、危険な問題を秘めているのである。

※1 ゾロ目や対称(1001など)その他の特徴的なナンバーを「カルトナンバー」などと呼んで、いやがらせ集団の車と断定する、馬鹿げた発想jまである。現在、ナンバーは誰でも自分で選べるのだから、覚えやすい特徴的なナンバーが増えたのは、当然のことである。私も、普段気にしてないが、今日帰りにちょっと見てみただけでも、「カルトナンバー」のオンパレードだった。結構、番号を自分で選ぶ人が増えているというだけのこと。被害者と称する人は、この、ナンバーを自分で選べるということ自体、知らない可能性もある。(参照 http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Pit/2282/numuber.htm)このようなナンバーと出会うごとに、組織の車と思って気にしたり、恐れるなど、本当に馬鹿げたことである。

※2 日本では、まだまだ、精神医療の、病院による抱え込みという方策が十分機能しているので、実感はもちにくいだろうが、欧米では、そのような方策が疑われ、今後も機能していく可能性は薄れている。そこで、「集団ストーカー」(ガスライティング)というのは、病院による抱え込みができないなら、それらの候補者を、社会の中で社会に害を与えるものとして、「支配層」にとって都合いいように、取り込んでいこうという方策の現れなのだと思う。

※3 「集団ストーカー」そのままのような働きをし、子供のさまざまな精神状態にも影響している、「低級自然霊」については、江原啓之の『子供が危ない!』(集英社文庫)を一度読んでおくことを勧める。スピリチュアリズム特有の価値観が、抵抗を感じさせるかもしれないが、「低級自然霊」や「人霊の低級自然霊化」ということの説明は、自分自身の体験に基づいたもので、精神医療の問題にも大きく関わる、重要な「事実」である。

2014年9月13日 (土)

「病気」という見方が故の問題

精神の領域において、「病気」という捉え方は、「イデオロギー」的なものであることを述べた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-5403.html)。

また、具体的にも、「病気」という捉え方は、その見方が故の困難な問題を、多く引き起こす。まずは、そのいくつかを、まとめて示してみる

1  「病気」という見方により、「病気」が疑われると、それは、精神科医による「治療」の問題として、精神科医に委ねることが、当然視される。その状態や原因について、考察がされずに、あるいは、ある程度考察がされても、それ以上は、精神科医に委ねることで、本人も周りの者も、その状態と関わったり、学ぶことが阻害される。

2  特に統合失調において、「病識がない」という厄介な問題を生じる。「病気」とは、「イデオロギー」的なものであり、 強制的な「治療」を正当化するものだとしたら、本人が、進んで「病識」などもつはずがない。しかし、その「病識がない」ことが、「病気」の理由として取り込まれるという、本人の意思を無視した、酷い事態も生じる。

3  外部的現実に投影された「妄想」がある場合、本人自身も、その「妄想」を、内面に引き戻さなくては、危険であるし、その状態と向き合い、対処する道も開けない。しかし、「病気」という見方がある故、この「妄想」に固執することから、離れることは難しくなる。

初めに、1について

近代以降、「病気」は、その専門家である「医師」に任せるということが、当然のような風潮になった。精神の領域においても、「病気」という「イデオロギー」は、その流れに乗って、精神科医が、その「治療」に独占的に携わるためになされたようなものである。裏から言えば、多くの者が、そのような厄介な「問題」を、精神科医に丸投げしたのである。

この「病気」→「精神科医」という、既製の図式ができ上がってしまったため、その「病気」の実質的な面については、ほとんど誰も、顧みることががなくなってしまった。むしろ、そのようなことは顧みるべきものではなく、できるだけ早く、医師に任せることこそが、正しい態度として、勧められる。本人も周りの者も、ただ「病気」を患う者として、あるいはその身内の者として、精神科医の治療が、よい方向に働くのを期待できるだけである。精神科医の治療により、事態が悪化しても、それは「病気」のせいであって、精神科医の治療のせいとはみなされない。その「病気」とは、実際上、「訳の分からない」ものに覆い被せたベールである以上、もともと「訳の分からなさ」を合わせ持っているのであり、どのように発展するか、未知数なのであるから。

そして、この「病気」には、様々な社会的観念が纏わりついている。精神病院に、入院するということは、ほとんど社会からの隔絶を意味し、社会の中で、「病気」ということは、社会的失格者とほぼ同一の意味をもつ。

本人も、周りの者も、その元にある状況という、実質的な面よりも、このような「病気」という「覆い」にこそ振り回され、支配されることになる。その元にある、状況と、主体的に関わる機会は奪われ、それが何であるのかについても、ほとんど学ぶ機会はない

それは、「丸投げ」と言ったように、ある意味、多くの者が、そう望んだからこそのことであり、初めから、そのような厄介な状況の、実質的な面には、触れたくなかったのではある。しかし、それを避け続けることで、「病気」という「覆い」に振り回されることが、より困難な問題を醸し出していることは明らかである。それに気づけば、いずれ、その「病気」の元にある状況について、正面から問わなくてはならないことになっていくだろう。

盗聴発見業者の人の書いた『集団ストーカー』という本は、精神科医に委ねられる前の、「生」の統合失調状況にある者との関わりを通して、さまざまに的確な考察をしている貴重なものである。ところが、それも、最終的には、「病気」ということで、精神科医に委ねるしかないということに落ち着いており、その時点で、それ以上の考察は、なされていない。(もちろん、それを一民間業者に期待できるわけでもないが)。精神科医などより、よほど興味と観察力をもって、鋭い考察をしているだけに、精神科医に任せて済ませる態度は、残念なことである

結局、全体として、「病気」という見方が、その実質を覆い隠す、強力な「覆い」として作用し、それ以上の考察を妨げ、思考を停止させる働きをなしているのである

次に2について

前にも述べたが、統合失調者には「病識がない」と言われるが、これほど、酷い言葉もない。「病気ではない」と思うことが、「病気」ということの理由に取り込まれてしまっているのだ。ある意味、これ以上、本人の意思を無化する、凄い戦略もない。「お前が犯人だな!」と詰め寄られた容疑者が、「違います」と言うと、「やっぱり犯人だ。なぜなら、本当の犯人が、自分で犯人などと言うわけがないからね」と言っているようなものだ。

「病気」ということの「イデオロギー」的意味を考えるなら、結局「病識がない」とは、「病気」という「イデオロギー」をもたないことを意味する。つまりは、「病識」とは、「イデオロギー」の押し付けであり、「洗脳」に過ぎないということである。

しかし、それでは、統合失調の者が、特定の誰かなどによる、「迫害妄想」をもつなどして、危険な状態にあるとき、その「誤り」を正せないではないか。あるいは、統合失調の者が、その誤りを正さない以上、やはり、それは、「病的」であるという自分の状態に対する、「認識」を欠いていることになるのではないか、と言うかもしれない。

問題は、「病気」ということを当然の前提のように持って来て、そこに介在させ、「病識」ということを、認めさせようとすることにある。そのこと自体が、「病気」→「精神科医」(精神病院)という図式に持ち込む戦略であり、明らかに、強制的、押し付け的な意味合いを帯びる。本人が、反発し、余計頑なになるのは当然である。もっとも、「病識がない」ということを、当然のこととして、本人の意思などおかまいなく、強制的に治療ができるということを、当然の流れとするのは、さらに酷いことだが。

実際には、本人も、そのような「妄想」をもつのは、その根拠を、しかも強い「リアリティ」に基づく根拠を、内部にもっているからで、「病気」だからもつのではない。もし、本人に認めさせることがある、というのなら、ここは、周りによる、「判断」や「評価」ではなく、明らかな「事実」に即して、その「事実」のみを認めさせるべきなのである

その場合、明らかな「事実」とは、その本人の感じている「リアリティ」は、周りの者の「リアリティ」とは、異なるということである。つまり、本人が、いかに、強い「リアリティ」をもって、「声」を聞いたり、何かを見たりしていても、周りの者は、それを聞いたり、見たりしていないということ。その「リアリティ」を、周りの者とは、「共有していない」ということである。だから、それに基づく「迫害妄想」なども、本人にとっては、「リアリティ」ある「事実」と感じられても、周りの者にとっては、明らかな「誤り」であるということである。

もちろん、このような「誤り」や、本人の感じている「リアリティ」が、周りの者と異なっていることについて、認めさせることも、容易ではない。本人も、どこかではそうは感じつつも、周りの者と異なる「知覚」、「リアリティ」をもつなどということは、認め難いが故に、周りの者を巻き込んで、騒ぎを起こしているという面がある。しかし、それは、「病気」などという「判断」、「評価」以前の、明らかな「事実」なのであり、押しつけ的要素はなく、本人も、認めるざるを得ない場合は、多いはずである。さらに、次の3でみるように、是非とも、そのことには気づく必要があるのである。

次に、3について

これまで何度も述べて来たように、統合失調状況にある者の「妄想」は、内面または霊的領域に生じている知覚等を、外的現実に「投影」した「解釈」である。この「妄想」は、未知の状況にあって、揺らいで壊れかかっている自我を、防衛するためにこそ、生じているので、容易には覆せない。しかし、この「妄想」は、「外的現実」そのものとして捉えられているので、何らかの対抗手段に出るなどの、危険な行為をもたらしやすく、それに固執している限り、社会との接点を失い、やがて、「荒廃」をもたらすものでもある。

だから、やはり、その「投影」は、「引き戻す」必要があり、起こっていることが、「外界」そのものではなく、内面または霊的領域に起こっているのであることに、気づく必要がある。また、そうしてこそ、それと向き合い、その対処の仕方を学ぶということも、始まり得るのである。その「内面または霊的領域」で起こっていることか、何であるのかについては、本人自身が、本気で取り組めばよい問題で、周りがとやかく言うことではない。それを、「病気」などと、周りの者が、余計な干渉をし、押し付けをすることから、問題が膨らんでいるのである。また、起こっていることを、内面に引き戻すことができれば、少なくとも、みかけの危険性は、大きく減退するはずで、「病気」として介入することを正当化するような緊急性も、少なくなる。

このように、起こっていることを、「内面または霊的領域」に引き戻すことこそが、必要であり、それこそが、本人にとって、それと「格闘」することの、本当の「始まり」なのである。しかし、それを、難しくするのが、「病気」という見方である。

それは、一つには、2で見たように、周りが、「病気」を押し付けようとするので、それに対する反発として、余計に「妄想」に固執するということがある。「妄想」に固執すれば、それを内面に引き戻すということも、ますます難しくなる。しかし、そうでなくとも、本人にとっても、「精神の病気」という観念は、やはり「恐ろしい」のである。特に、統合失調症ということが、社会的にどのような意味合いを帯びているか、感知しないという者はいない。だから、人からそう思われることを、漠然とでも意識すればするほど、「病気ではない」ということを、周りに認めさせようとし、あるいは、自分自身に言い聞かせようとする。

外部的に投影された「妄想」が、それ自体としては、「誤り」であることを認めずして、それを「内面」または「霊的領域」に引き戻すことはできない。しかし、それを「誤り」と認めることは、それが、「病気」の故に生じるという可能性を、いやでも顧みさせる。本人には、それを支える、幻聴や幻覚などの、内面的「リアリティ」があるのだが、それにしても、それらが、他の者と共有できないものとなると、「病気」の故に生じているという可能性を、どうしても、浮かび上がらせる。人にもよろうが、「精神の病気」という観念は、それが、他の者と共有する、外的現実ではなく、「内面的現実」であることを認めること以上に、恐ろしく、認め難いこともあるはずである

それで、外部的に投影された「妄想」は、是非とも「真実」でなければならず、その誤りを認めることは難しくなる。その実質を見極めるためには、「病気」という観念に惑わされず、「内面的リアリティ」がどのようなものであるかを、つぶさに観察する必要があるのだが、「病気」という観念への恐れが、それを阻むということである。

「病気」というのは、それ自体は、特に内容をもたない「観念」に過ぎない。しかし、それは、その元にある「訳の分からない」状況に、覆いをする強力な働きをする。そこで、「病気」という「覆い」が、それ自体、一つの、強力な「事実」のように機能し始める。その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。

そうして、「病気」ということが、社会をあげて「治療」すべき、巨大な「害悪」と化す。この「恐るべき病気」という、それ自体において肥大した観念が、本人にも、周りの者にも、その実質と向き合う可能性を、阻害する。
                                              
「病気」という見方こそが、それ自体として、問題を膨らまし、不幸を拡大していることは、明らかと思う。だから、ここいおいて、求められているのは、これまで、執拗に纏わりついていた、「病気」という「覆い」を、剥がしてみること。そして、その元にある実質的なものを、少しずつでも、露わにしていくことである

2014年9月 5日 (金)

「最近のコメント」の追加

右サイドバーに、「最近のコメント」を追加しました。

初めは、全然なかったのですが、いつの間にか、結構コメントを頂くようになり、かなり前の記事につくことも多くなったので、追加しました。

コメントは、読者の方の感想や疑問、類似の体験なとが聞ける貴重なものがありますし、私のコメントも、それに応じて、記事では表れていない重要なことが述べられたり、違う視点から分かりやすく説明されたものも多いです。

もう少し前から、追加しておけばよかったですね。

2014年9月 1日 (月)

オショーのカスタネダ評について

オショー(ラジニーシ)は、『TAO 永遠の大河』という、最近再出版された本で、カスタネダのドンフンァンとの交流の物語りについて、語っている。

それによると、オショーは、その99パーセントがフィクションであるが、残りの1パーセントの「真実」は、とても貴重なものだという。また、フィクションの部分も、とても「ビューティフル」だし、オショー自身は、気に入っているという。

私も、最初にカスタネダを読んだときには、ほぼ同じような感想をもった。つまり、全体としてフィクションであるが、重要な「真実」が語られているというものだ。

しかし、今は、このオショーの見方は、違っていると思う

オショーがこれを述べたのは、始めに出版されたときの、1975年以前だから、カスタネダの本は、初めの3冊程しか出ていなかった時点である。

カスタネダの初めの3冊の本は、カスタネダ自身が、メスカリンのような幻覚剤を用いるなどして、変性意識状態に入り、そこで体験したことを「思い出し」ながら、述べたものと、ドンファンから聞いた教えを述べたもので成り立っている。

この時点での、カスタネダの「理解」は、非常に限られたものであり、自分の変性意識状態での体験も、ドンファンの教えも、その限られた「理解」の視点から、それに沿う範囲で、語られたものだ。だから、変性意識状態での体験、ドンファンの教えそのものは、たとえ「真実」であったとしても、大きく限定され、また変形されて、伝えられている。それは、その時点では、全体として、「フィクション」と評価されても仕方のないものである。

具体的には、カスタネダ自身も述べているとおり、そもそも変性意識状態での体験を、正確に「思い出す」ことは、大変なことであり、その「思い出す」過程にも、想像や誤解が入り込む余地はいくらもある。さらに、それを、言語的に、空間・時間の枠に収めて、表現しようとするとき、そこには、それ自体が、無理を含んでいるので、何かしら、創作的要素を入り込ませてしまう余地は多い。

この時点での、カスタネダは、オショーも言うとおり、メスカリンなどの幻覚剤に頼って、変性意識状態の体験をすることが多く、それはこれまでにもみて来たとおり、自己の「投影」を多く含むものだ。ドンファンも、その見たままの「体験」より、自分がどう感じるかが重要と指摘しているが、カスタネダは、どうみても、その体験に圧倒され、「振り回され」ていた。

だた、ドンファンが、そのような体験をさせた意図は、この時点では、カスタネダが、世界を、自分のそれまでに身につけた、「知覚世界」、「信念体系」によってしか見ていないので、それを打ち壊すことにこそ、重点があった。西洋近代人である、カスタネダにとって、「世界」は、合理的で、決まり切ったものであり、日没時の影や風が、それ自体、「生き物」のように「力」をもつものではなく、カラスや風が、人の言うことに、「同意」したりするものではなかった。ドンファンは、ことさら、そのようなことを強調し、自分でも、そのような奇怪で、謎に満ちた「世界」を演出してみせ、カスタネダを混乱と恐怖に陥らせる。そのうえで、幻覚剤等により変性意識に入らせているのであり、それは、カスタネダにとって、これまでの見方を根底から覆す、強烈かつ破壊的な体験になる条件が、整えられていた。

しかし、カスタネダ自身は、それがもたらす、自分の「世界の崩壊」より、その体験の「意味」自体に多く拘って、自分なりの解釈を施して表現した。そこに、「フィクション」的要素は、膨らむ余地が多くなったし、ドンファンの教えも、正しく伝わるものとなったわけではない。

さらに言えば、カスタネダには、そのように、理解が限られていたことのつじつま合わせ的な意味もあるが、全体をより面白くするため、多少の創作的要素を混入させる「色気」も発揮していたことがうかがわれる。

しかし、それでも、1%というのは、全体を「フィクション」とみるが故の過小評価だが、そこに、オショーも「真実」を見い出すほどのものが、入り込んでいた。

そして、その「真実」については、カスタネダ自身、4冊目以降の本で、より本格的に、迫ることができるようになっている。それは、自分のそれまでの「世界の崩壊」が、より本格化して、異なる見方が可能になったのと、それまでに体験したことの意味が、より身について来たことにもよる。「思い出し」の精度も、それらが身につくにつれて、より高まるのである。ドンファンの教えについても、それまで「思い出し」得なかったものが、思い出せるようになり、また、意味をなさなかったものが、意味をなすようになる。

そのようにして、4冊目以降、初めて、よりドンファンの教えに即す形で、本格的に、「真実」の探求が始まったのである。もちろん、それも、そのときどきの理解の範囲に応じてであり、純粋に「真実」が伝えられているというものではない。また、そのような、突っ込んだ探求により、より、複雑になった面はあり、それゆえ、初めの頃の、見かけの、分かりやすい「ビューティフル」さは、失われた面がある。それでも、最後の遺作では、「無限」や「捕食者」という根源的なことを、正面から問題にするというほどに、全体の理解は進んでいたのである。

私は、この4冊目以降の探求の方に重点をおいて、全体をみるなら、カスタネダとドンファンの交流の物語りについては、半分以上が、「真実」であったとみていいと思っている。もちろん、ドンファンの存在ということも、含めてである

※ デーヴィッド・アイクは、『無限の本質』の、ドンファンによる「捕食者」の説明を読んで、椅子から転げ落ちたという。自分が体験したり、考えたりしていたことの説明として、これ以上に的を得たものはなかったからだ。私も、これを読んだときは、座って読んでいたので、転げ落ちはしなかったが、何センチか上に飛び上がってしまった♪。もし椅子で読んでいたら、同じように、転げ落ちていたことだろう。

前の記事でも、一連の体験において、フィクションだと思っていた、カスタネダの言ったり、体験していることが、いかに本当であるかを思い知らされたことを述べていた。しかし、その後に出された、『無限の本質』の「捕食者」論は、さらにそれに輪をかけて、そのような体験の本質的な部分についても、的確な説明を与えるものだったので、衝撃も一入だった。

アイクとともに、そのようなものが、ただの「フィクション」ではあり得ないことを、改めて強調しておきたい。

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