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2014年8月10日 (日)

「現場の医師へのインタビュー」との対比

精神病を知る本』には、「精神病ってなんですか?」と題された、浅野誠という精神科医へのインタビューも収録されている。これも、「精神病」についての疑問を忌憚なくぶつけるインタビューに対して、現場の臨床医の率直な考えや本音が聞けるので、貴重なものである。当然、その内容は、前回とりあげた赤坂の論考と「眞逆」なので、両者を対比させて読むのもいいだろう。

このインタビューは、疑問に対して、正面から、率直に誤魔化しなく答えられているという意味では、良心的なものとは思う。しかし、その内容はというと、やはり、終始一貫、「分裂病は治療すべき重大な病気」という眼差しに貫かれた、「恐ろしい」ものとしか言いようがない。

まず、「病気」ということについては、「生活が破たんした状態」、「経済的に生産能力を失う状態」をもたらすものという。が、これは、病気の結果、そうなることがあるということを述べただけであって、病気の「恐ろしさ」を強調しはするが、「病気」そのものについては、何も説明していない。また、「そうならない場合は、病気とは言えない」というのは、当然のことではあるが、やはり、「病気」か否かは、社会的な状況との関わりで生じる、結果論的なものでしかないことを、認めているようなものである。

そして、「精神の病」とは何なのかという問いについては、はっきりと定義できるものではなく、目に見える形として示すことができるものでもないことを認める。それは、医師が患者と接する中で、「経験的」に判断するしかないものである。しかし、「分裂病」については、経験を積んだ医師なら十人中九人までが、同じ診断をすることになる。だから、分裂病という病気が客観的に存在することを、想定できるばずだ、という。

「精神の病」については、客観的な根拠を示すことはできないが、医師の「経験」により、それとして確定できるというのだ。つまり、要は、医師の「主観」的な判断次第で、「病気」かどうかが、決められるということである。「病気」とされた場合、本人の同意がなくとも、医師の判断または家族の同意で、強制的に入院させることも可能である。そして、病院に隔離し、拘束し、電気ショック、精神薬などの強制的「治療」手段を施すことが可能となる。それら強力な、自由の拘束ばかりか、身体的傷害、ときに人格の変換を伴う処置を決めるのは、あくまで、「医師の経験」という「主観」によるのだ。

「経験を積んだ医師なら十人中九人まで同じ診断をする」などというのは、当時としても、現在においても、ウソとしか言いようがない。あえて、言い得るとすれば、十人中九人までが、分裂病という同じ診断をするほど、典型的なパターンにはまっているようにみえる場合はある、ということだ。しかし、たとえ「共通のパターン」が認められるとしても、そのことが「病気」だということの理由になるわけではない。もちろん、「分裂病」と診断された全ての場合が、そのように明確に判断できるものではないし、実際にも、診断名が医師によってコロコロ変えられることは、いくらでもあることだ。

恐らく、インタビューを受ける以上、医師として、明確な態度を示そうという、一種の「使命感」もあるのだろうが、「医師の経験」により「病気」が決まるということを、平気で豪語する神経には、恐れ入るしかない。

ただし、その「本当のこと」が、率直に、誤魔化しなく、聞けているのは、やはり貴重なことなのだ。この点は、当時だからこそ、可能となったものともいえる。恐らく、現在の医師であれば、もっともっともらしい、「脳科学的な根拠」をあげて、「病気」に科学的な根拠があると思わせようとすることだろう。あるいは、「今ははっきりしていなくとも、将来的には明確に示せるようになる」ということを強調することだろう。

「精神病に治療が必要か」という問いには、患者がたとえ病気という自覚はなくとも、苦しんでいるという事実があるので、必要だという。それは、本人に言わせると、「死んだ方がはるかにまし」というほどの、恐るべき苦痛である。それは、幻覚や妄想と戦うために精神的エネルギーの大半を使っていて、消耗してしまうという苦痛である。しかし、入院により、その苦痛を軽減することはできるのだとする。

分裂病とみなされる者が、幻覚や妄想との戦いに、ときに死ぬほどの苦痛を体験しているというのは事実である。しかし、それでは、病院に入院させることの方には、苦痛はないとでも言うのだろうか。分裂病という病気のレッテルを貼られ、強制的に入院させられ、劣悪な環境に閉じ込められ、非人間的な扱いを受けること。精神薬や電気ショックという、強力な処置を強制されることには、苦痛はないというのか。あるいは、それが、死ぬほどのものになることは、ないというのか。あるいは、、それは、「病気」の苦痛に比べれば、大したことはないので、耐えるべきものだということなのだろうか。

そして、さらに重大なことには、これらの「苦痛」の判断というのも、「治療」の強制も、本人ではなく、医師や周りの者という、第三者によってなされることである。

最後に、その点について、「その「治療」を望むのは、本人ではなく第三者なのではないか」という問いがなされる。そして、それに対しては、次のように言われる。これは、ある意味、このインタビューを象徴する、集大成のような回答なので、原文をあげておこう。

それは精神医療を全否定する人たちの論理ですね。しかもそれは、精神病の実態をよく知らないからこそできる発言です。
 精神病も病気ですから、患者を放っておけば死んでしまいます。それも非常によく死にます。それでもいいと言うのなら、確かに治療は必要ないでしょう。
 精神病院をすべて廃止し、精神医療をやめてしまえば、精神病という言葉もなくなります。しかしそれでも、患者が死んでいくことには変わりありません。もちろん、どちらを選ぶかは社会が決めることですけど。
 …だから問題は非常に単純です。廃人になっていく人を見捨てるか見捨てないか、ただそれだけのことです。
 精神医学にどれだけ曖昧な部分が多くとも、それだけははっきりしていると、私は思います。

まず、「精神病も病気ですから、患者を放っておけば死んでしまいます。」などということが、当然のことのように言われる。が、これは、全くのウソであるか、意図的な誇張であるか、「病気」というイメージに引きずられた、思い込みに過ぎない。そんなことは、まったく確かめられてもいない。

実際に、病院で、あるいは入院した者が、後に死ぬことがあるとしても、その理由が、「病気」にあるなどということが、どうして決められるのか。

私は、これまで述べてきたとおり、分裂病とされる者の、幻覚や妄想との戦いとは、実際に「死との戦い」という面があり、その「死」を「くぐり抜ける」ことによってこそ、「再生」ということも起こるのであることを示して来た。が、それに「失敗」するということも当然あり、その場合には、本当に、死んでしまうことがあることは否定しない。しかし、だからと言って、病院で治療しなければ、「廃人」となることが決まっているわけでも、「死んでしまう」ことが決まっているわけでもない。

しかし、もし、現場の精神科医からみて、そうなる場合が多いのは確実だ、と言うなら、そこには、「病院」という環境自体の影響が疑われてしかるべきである。当時においても、そうだろうが、現在においては、先ず何よりも、脳に多大な影響を与える、精神薬の過剰な投与によることが、疑われる。そうでなくとも、病院という劣悪な環境に隔離され、閉じ込められ、非人間的な扱いを受け、強制的な処置を受けることから来る、身体的、精神的「荒廃」というのは、幻覚や妄想との戦いに消耗する以上に、死をもたらす理由となり得るはずである。

そういうわけで、「放っておいたら死ぬ」とか、「廃人になるのを見捨てるのか」というのは、あまりにも一方的な、「脅し」の文句というしかない

しかし、一方で、「それでもいいと言うのなら、確かに治療は必要ないでしょう。」とか、「精神病院をすべて廃止し、精神医療をやめてしまえば、精神病という言葉もなくなります。」「どちらを選ぶかは社会が決めることですけど。」という言い方は、精神科医の「本音」であり、ある意味の「真実」を、浮き彫りにしていると思う。

この精神科医も、「分裂病」というものは、確たるものとして存在する、という立場を一貫して崩してはいない。が、一方で、その存在及びその処置如何ということは、結局は、「社会的事実」に属するものであり、「社会」か決めるもので、医師は、あくまでそれを「委託」された者に過ぎない、という思いが、これらの言葉に、現れ出ている。非常に無責任な、言い放しだとしても、そのこと自体は、「まごうかたなき事実」なのである。

つまり、結局決めるのは、社会であるということを、改めて突きつけられているのであり、本当に、精神医療の問題を突き詰めれば、結局は、常にそこに帰らざるを得ないことになるばすのことなのである

だから、結局、それは、我々自身がどうするかの問題である。

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コメント

はじめまして。スピリチュアルに迎合して統合失調症が治った方とお見受けします。よかったら僕のくそながったらしいコメントを読んでください。僕の経験からいうと統合失調の幻聴をスピリチュアルな捕食者ではなく自分の心で考えていることが(流動性知能があるように感じられますが)幻聴となって聞こえてくる動かぬ証拠を見つけました。(実際に脳を検査すると考えるとき発火する脳部位が活性化するのがわかっている)
簡単な数学を解いている時に答え合わせをするとき幻聴で「あってるわけなーわw」と聞こえてきたが正解していたり、母が手を乾かしているのを「おかんか」と思うと「おかんじゃなーわ」と聞こえてきたが母であったり、本を読んでいて内容分かるかと幻聴に効いたら「わかるわけなーわ」と聞こえてきたり、マイケルジャクソンに何度「マイケルジャクソンの整形♪」や「Michael's anal is bad smell]
といっても日本語でしか返ってこなかったり(しかも広島弁.。関東の人間だったら霊はすべての言語を話せるんだとか考えてしまうに違いない)、ゲーム実況をしている人に「あるキャラ天界に送られた?」と聞いたら「いってなーわ(以上のように死ねバーカ以外全部広島弁といってもいいほど)といわれたが逝ってたりしました。
これらのことをまとめると幻聴は人と本心などとと会話しているのではなく、神やあくまと会話しているのでもないことは明らか。だとしたらバカすぎるので。狂気を抜けきってない僕が幻聴に考えられることを長々と書かせていただきました。

言わんとすることは、一応分かりました。まず、第1のポイントは、 幻聴の言っていることは、「事実」でも「真実」でもないということ。それを、あなたも、はっきり自分で確かめ、認識したということです。だから、それに振り回されるのは、仰る通り、「バカ」げたことなのです。それが、本当に分かれば、「幻聴の声」の正体が何であるかは、とりあえず、どうでもいいことであり、ただ、以後、「幻聴」の声に耳を傾けないようにすればいいだけです。

しかし、しばしばそうはできないことが起こります。それは、あまりに「幻聴」の声が、強力かつ執拗で、振り払おうしても振り払えないものであり、あるいは、心の奥にある「コンブレックス」や「トラウマ」に触れて、感情を刺激するものであり、あるいは、ときには、自分でも分からないような、「本当のこと」を言うことがあるからです。

何かしら、「未知のもの」、「自分を越えたもの」であることを、認めざるを得ないこともあるのです。そのような場合には、やはり、自分なりに、その「性質」や、「正体」を、見極めて行かなければならないことにもなります。その「性質」や「正体」が見抜かれて来るのに応じて、恐怖も半減し、対処の仕方も身について来て、その結果、その声に振り回されないようになることもできます。

ただ、「幻聴」には、さまざまなものがあり、一概にすべての場合がこうだということは言えません。たとえば、「解離性幻聴」というものがあり、その場合は、自分の中の「もう一人の自分」というべきものが、幻聴の「正体」なのであり、その場合、自分の中の思考が、あたかも外から聞こえてくるという言い方もできると思います。あなたの場合、この「解離性幻聴」なのかもしれないと思います。ただし、精神科医の多くが、「統合失調性の幻聴」と「解離性幻聴」の違いを、容易に識別できるわけではありません。だから、「統合失調症」と診断されているのに、幻聴は、「解離性幻聴」であるとか、逆に、「解離性障害」と診断されているのに、幻聴は「統合失調性」のものとなるということは、いくらでも起こり得ます。

また、「統合失調性」の幻聴というのも、さまざまな場合があり得、明らかに人間以外の「存在」が絡んでいることもあれば、誰か、他の人間の「生き霊」である場合もあり、一種の「テレバシー」である場合もあります。さらに、それらに、あなたの言われたような、自分自身の思考が混在していたり、あるいは、「もう一人の自分」の声、つまり、「解離性の幻聴」が混在している場合もあります。

だから、このあたりは、かなり複雑で、厄介です。あまり、何であるのかに、囚われて困惑してしまうのは、逆効果です。

やはり、問題は、自分がそれらの声に振り回されなくなることですので、その声の「バカ」さ加減というものが分かったなら、以後、それに振り回されないようにするのが、一番いいと思います。

私のブログ記事を読むことも、(少なくとも、しばらくの間は)マイナスに作用するかもしれません。

回答ありがとうございました。直接命にかかわらない病気で一番やばい病気ですよね。まだエアコンの真下とかいくと恐ろしい頻度と憎たらしいくらいの大草原をはやしながらバカにされたりして、精神世界あるんだみたいに考えてしまうレベルです。マイケルでかろうじて我に返りますけど。いずれにせよ「声」にとらわれないのが一番のようですね。今、薬をやめるために栄養療法をしている途中でエアコンとか以外ではマシになったかなといえるけど、狂気はそう甘くないように思えます。

解離性の疑いがあるとおっしゃられてますが、抗精神病薬を減らして悪化したので解離性ではないかなと思います。よくわかりませんけど。

入院中、病院のテレビで、罪も無い人を殺害する事件を見たとき、この犯人は健常者で自分は精神障害者だと思うとなんだか悔しかった。でも自分には障害者という視点ではなく、一人の人間として見てくれる人達が周りにいたのが救いだった。

記事やコメントを読ませて頂いていると、本当に、人の心は繊細で奥深いと思います。勉強させていただいています。

こんにちは。
 私は精神疾患を抱える十代の二人の子供をもつ主婦です。今ブログをやっているのですが、ティエムさんのブログには共感できるところが多く、よろしければ自分のブログにリンク登録させていただきたいのですが、許可をいただけないでしょうか?

紘子さんへ。

実は、私も、最近そちらのブログから来る人が増えていることに気づき、前のブログからゆっくりとですが、読ませてもらっているところです。興味深いところが多いです。いずれ、感想その他を記事にさせてもらうかもしれません。

私の方では、リンク構わないですよ。

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