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2014年8月

2014年8月21日 (木)

「図一覧」について

本ブログの右サイドバーに、「図一覧」という項目があって、その文字または下の図をクリックすると、今まで記事につけた図の一覧が表示されるようになっている。

この図たちは、文字では理解しにくいような事柄も、目で見て感覚的にパッと分かりやすいように書いたものなので、とても参考になると思う。あるいは、むしろ、興味のある事柄について、図から入ってもらって、記事を呼んで、理解を補充してもらうのも、いい手かと思う。重要な事柄にこそ、図を付けているので、それらは、すべて、重要なものである。

以下に、特に重要で、また、図にこそ大きな意味があると思われるものを、いくつかあげておく。

まずは、『霊界の境域1』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/gif2.html

これは、「この世」=感覚的領域=物質的世界、「あの世」=超感覚的領域、霊的世界というものは、それぞれに〇で囲うことのできるような、ある枠組みをもった、秩序的世界であること。「統合失調状況」に関わる「霊界の境域」というのは、その狭間の、中間的領域で、秩序的枠組みには収めがたい、混沌たる領域であること。しかし、それが故に、その根底には、「虚無」という、一切の枠付けを超えた、「根源的」なものが控えた領域であること、が、一目で分かるようになっている。

また、『霊界の境域2』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/gif3.html

では、さらに、「あの世」=霊的世界の内部を、いくつか階層に分けることによって、それらの霊的世界の階層または領域と、「霊界の境域」との関係が、一目で分かるようになっている。「霊界の境域」は、たとえば、「アストラル下層領域」などともいわれる、「低次の領域」と、重なり合うように存在しているのは確かである。そこには、「低級自然霊」ともいわれるような、霊的存在も多くいる。しかし、一方で、そのような一切の階層性や、枠組みを超えた、「虚無」を根底に控える領域なのであり、一種「両義的」な領域なのである。「統合失調状況」の分かりにくさは、「霊界の境域」の、そのような「両義性」にもよっているのである。「スピリチュアル」系で、これを単純に、「アストラル下層領域」や「霊界の低次の領域」と同一視する見方もあるが、それでは、「統合失調状況」の複雑、多様なあり様は、捉えられないということである。

次に、「深浅様々なレベルにおける死と再生」(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/1.html

これは、「イニシエーション」(試練を含む儀礼)というものは、「死と再生」の過程を含むが、それを、「水平的方向」と「垂直的方向」の座標軸に位置付けると、非常に理解しやすいものになること。「死と再生」といっても、「垂直的方向」の深みに応じて、それには、様々な深浅のレベルがあり得ること。さらに、その例として、「成人儀礼」や「シャーマンの巫病」、「悟り」、「解脱または自己喪失」をあげ、それぞれにおいて、「自我」または「自己」の何が「死」に、何が「再生」するのかを、簡単に明らかにしたものである。

加藤清がいうように、「病気」を乗り越えることも、一つの「イニシエーション」の過程である。しかし、それが、具体的にどのようなものになるかは、まさに、深浅どのレベルで「死と再生」が起こるかによる。「統合失調」の場合、少なくとも、「成人儀礼」と同様のレベルで(これは、多くの「病気」で起こることといえるが)、さらに、「シャーマンの巫病」や「悟り」のレベルで、「死と再生」が起こり得る。ただし、これらは、単純に、同一視できるものではないので、その中間的な、さまざまなバリエーションはあり得る。

次に、『精神的な「病」と「医療化」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/photo_9.html

これは、社会との関係で、(精神科の)「病院」がなしていることを、一目で、分かるように示したものである。図で、一目瞭然なので、特に、説明は不要であろう。製薬会社、さらに支配層が、「利益」を吸い上げるシステムであることも、示されている。「統合失調症」を想定したので、社会から逸脱した者を、「統合失調状況に陥った者」に限定したが、多種様々な「病気」が発明されている現在、そのように限定する必要もないだろう。「例外」として、一応とも社会に復帰する者も、見込まれているのが「ミソ」で、これがなければ、いくら何でも、このシステムを、「治療」のシステムと呼ぶことは不可能である。

今回、新たに、「統合失調」ということを、端的に明らかにする、図を追加しておいた。

統合失調状況と反応

Photo

これは、妄想や錯乱など、統合失調症の症状とされるものは、「統合失調状況」にける、壊れかかった「自我」の、(防衛的な)「反応」であることを明確にするものである。

ある「状況」に対する、「反応」なのだから、「結果」として生じているのであり、それだけをとりあげても、らちが空かないものである。ただし、その「反応」は「目に見える」ものでも、「状況」そのものは、「目に見えない」ものであるから、その「状況」を理解し、捉えようとすることは、容易ではない。

この「反応」に伴って、脳に何らかの異常がみられることもあろうが、それは、あくまで、その反応に伴って、脳のレベルで生じている現象というに過ぎない。それ自体も、「反応」なのだから、全体として、「結果」であり、「原因」なのではない。また、そのこと自体が、何ら本質的な意味をもつのでもない。

「自我」の図は、「日常的状況」では、一応安定を保っている「自我」が、「統合失調状況」という未知の状況に陥り、捕食者的な存在から攻撃を受けるなどのことにもより、外殻にひびが入り、外界との境界性を失い、壊れかかっていることを表している。

妄想や錯乱は、そのような壊れかかった「自我」が、何とか自己を保とうとする、防衛的な「反応」であり、ある種絶望的な、「あがき」である。それは、はたからみても、了解不能の、「愚か」で、馬鹿げた行いにしかみえないし、実際、そうであると言うしかない。

鍵は、そのような「反応」をもたらす、「状況」というものに、どれだけ、理解や共感を寄せられるかである。そこを、「病気」ということで、穴埋めしようとしても、無理であり、逆効果である。

2014年8月10日 (日)

「現場の医師へのインタビュー」との対比

精神病を知る本』には、「精神病ってなんですか?」と題された、浅野誠という精神科医へのインタビューも収録されている。これも、「精神病」についての疑問を忌憚なくぶつけるインタビューに対して、現場の臨床医の率直な考えや本音が聞けるので、貴重なものである。当然、その内容は、前回とりあげた赤坂の論考と「眞逆」なので、両者を対比させて読むのもいいだろう。

このインタビューは、疑問に対して、正面から、率直に誤魔化しなく答えられているという意味では、良心的なものとは思う。しかし、その内容はというと、やはり、終始一貫、「分裂病は治療すべき重大な病気」という眼差しに貫かれた、「恐ろしい」ものとしか言いようがない。

まず、「病気」ということについては、「生活が破たんした状態」、「経済的に生産能力を失う状態」をもたらすものという。が、これは、病気の結果、そうなることがあるということを述べただけであって、病気の「恐ろしさ」を強調しはするが、「病気」そのものについては、何も説明していない。また、「そうならない場合は、病気とは言えない」というのは、当然のことではあるが、やはり、「病気」か否かは、社会的な状況との関わりで生じる、結果論的なものでしかないことを、認めているようなものである。

そして、「精神の病」とは何なのかという問いについては、はっきりと定義できるものではなく、目に見える形として示すことができるものでもないことを認める。それは、医師が患者と接する中で、「経験的」に判断するしかないものである。しかし、「分裂病」については、経験を積んだ医師なら十人中九人までが、同じ診断をすることになる。だから、分裂病という病気が客観的に存在することを、想定できるばずだ、という。

「精神の病」については、客観的な根拠を示すことはできないが、医師の「経験」により、それとして確定できるというのだ。つまり、要は、医師の「主観」的な判断次第で、「病気」かどうかが、決められるということである。「病気」とされた場合、本人の同意がなくとも、医師の判断または家族の同意で、強制的に入院させることも可能である。そして、病院に隔離し、拘束し、電気ショック、精神薬などの強制的「治療」手段を施すことが可能となる。それら強力な、自由の拘束ばかりか、身体的傷害、ときに人格の変換を伴う処置を決めるのは、あくまで、「医師の経験」という「主観」によるのだ。

「経験を積んだ医師なら十人中九人まで同じ診断をする」などというのは、当時としても、現在においても、ウソとしか言いようがない。あえて、言い得るとすれば、十人中九人までが、分裂病という同じ診断をするほど、典型的なパターンにはまっているようにみえる場合はある、ということだ。しかし、たとえ「共通のパターン」が認められるとしても、そのことが「病気」だということの理由になるわけではない。もちろん、「分裂病」と診断された全ての場合が、そのように明確に判断できるものではないし、実際にも、診断名が医師によってコロコロ変えられることは、いくらでもあることだ。

恐らく、インタビューを受ける以上、医師として、明確な態度を示そうという、一種の「使命感」もあるのだろうが、「医師の経験」により「病気」が決まるということを、平気で豪語する神経には、恐れ入るしかない。

ただし、その「本当のこと」が、率直に、誤魔化しなく、聞けているのは、やはり貴重なことなのだ。この点は、当時だからこそ、可能となったものともいえる。恐らく、現在の医師であれば、もっともっともらしい、「脳科学的な根拠」をあげて、「病気」に科学的な根拠があると思わせようとすることだろう。あるいは、「今ははっきりしていなくとも、将来的には明確に示せるようになる」ということを強調することだろう。

「精神病に治療が必要か」という問いには、患者がたとえ病気という自覚はなくとも、苦しんでいるという事実があるので、必要だという。それは、本人に言わせると、「死んだ方がはるかにまし」というほどの、恐るべき苦痛である。それは、幻覚や妄想と戦うために精神的エネルギーの大半を使っていて、消耗してしまうという苦痛である。しかし、入院により、その苦痛を軽減することはできるのだとする。

分裂病とみなされる者が、幻覚や妄想との戦いに、ときに死ぬほどの苦痛を体験しているというのは事実である。しかし、それでは、病院に入院させることの方には、苦痛はないとでも言うのだろうか。分裂病という病気のレッテルを貼られ、強制的に入院させられ、劣悪な環境に閉じ込められ、非人間的な扱いを受けること。精神薬や電気ショックという、強力な処置を強制されることには、苦痛はないというのか。あるいは、それが、死ぬほどのものになることは、ないというのか。あるいは、、それは、「病気」の苦痛に比べれば、大したことはないので、耐えるべきものだということなのだろうか。

そして、さらに重大なことには、これらの「苦痛」の判断というのも、「治療」の強制も、本人ではなく、医師や周りの者という、第三者によってなされることである。

最後に、その点について、「その「治療」を望むのは、本人ではなく第三者なのではないか」という問いがなされる。そして、それに対しては、次のように言われる。これは、ある意味、このインタビューを象徴する、集大成のような回答なので、原文をあげておこう。

それは精神医療を全否定する人たちの論理ですね。しかもそれは、精神病の実態をよく知らないからこそできる発言です。
 精神病も病気ですから、患者を放っておけば死んでしまいます。それも非常によく死にます。それでもいいと言うのなら、確かに治療は必要ないでしょう。
 精神病院をすべて廃止し、精神医療をやめてしまえば、精神病という言葉もなくなります。しかしそれでも、患者が死んでいくことには変わりありません。もちろん、どちらを選ぶかは社会が決めることですけど。
 …だから問題は非常に単純です。廃人になっていく人を見捨てるか見捨てないか、ただそれだけのことです。
 精神医学にどれだけ曖昧な部分が多くとも、それだけははっきりしていると、私は思います。

まず、「精神病も病気ですから、患者を放っておけば死んでしまいます。」などということが、当然のことのように言われる。が、これは、全くのウソであるか、意図的な誇張であるか、「病気」というイメージに引きずられた、思い込みに過ぎない。そんなことは、まったく確かめられてもいない。

実際に、病院で、あるいは入院した者が、後に死ぬことがあるとしても、その理由が、「病気」にあるなどということが、どうして決められるのか。

私は、これまで述べてきたとおり、分裂病とされる者の、幻覚や妄想との戦いとは、実際に「死との戦い」という面があり、その「死」を「くぐり抜ける」ことによってこそ、「再生」ということも起こるのであることを示して来た。が、それに「失敗」するということも当然あり、その場合には、本当に、死んでしまうことがあることは否定しない。しかし、だからと言って、病院で治療しなければ、「廃人」となることが決まっているわけでも、「死んでしまう」ことが決まっているわけでもない。

しかし、もし、現場の精神科医からみて、そうなる場合が多いのは確実だ、と言うなら、そこには、「病院」という環境自体の影響が疑われてしかるべきである。当時においても、そうだろうが、現在においては、先ず何よりも、脳に多大な影響を与える、精神薬の過剰な投与によることが、疑われる。そうでなくとも、病院という劣悪な環境に隔離され、閉じ込められ、非人間的な扱いを受け、強制的な処置を受けることから来る、身体的、精神的「荒廃」というのは、幻覚や妄想との戦いに消耗する以上に、死をもたらす理由となり得るはずである。

そういうわけで、「放っておいたら死ぬ」とか、「廃人になるのを見捨てるのか」というのは、あまりにも一方的な、「脅し」の文句というしかない

しかし、一方で、「それでもいいと言うのなら、確かに治療は必要ないでしょう。」とか、「精神病院をすべて廃止し、精神医療をやめてしまえば、精神病という言葉もなくなります。」「どちらを選ぶかは社会が決めることですけど。」という言い方は、精神科医の「本音」であり、ある意味の「真実」を、浮き彫りにしていると思う。

この精神科医も、「分裂病」というものは、確たるものとして存在する、という立場を一貫して崩してはいない。が、一方で、その存在及びその処置如何ということは、結局は、「社会的事実」に属するものであり、「社会」か決めるもので、医師は、あくまでそれを「委託」された者に過ぎない、という思いが、これらの言葉に、現れ出ている。非常に無責任な、言い放しだとしても、そのこと自体は、「まごうかたなき事実」なのである。

つまり、結局決めるのは、社会であるということを、改めて突きつけられているのであり、本当に、精神医療の問題を突き詰めれば、結局は、常にそこに帰らざるを得ないことになるばすのことなのである

だから、結局、それは、我々自身がどうするかの問題である。

2014年8月 7日 (木)

内海医師の「アホ」論 

内海医師の、このブログの記事(http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-324.html)は、傑作でした。これだけ、「アホ」連発してウケるのは、アホの坂田以来のことではないでしょうか♪もちろん、面白いだけでなくて、ちゃんと、一級の「アホ」論になっています。

私も、「フーミン」は嫌いではないですが、「グーミン」は嫌いだし、「ユーミン」もあまり好きではありません。フーミンのバスロマンのCMはよくても、あの色はあまりに毒々しいと思っています。そんなこんな(?)で、「自分はアホではない」と思っている「アホ」は嫌いですが、「同じアホなら踊らにゃそんそん」的なノリで踊っちゃう人は、憎めません。

統合失調状況というのは、「愚かさの集大成」であるということを、かつて私は述べました。それはこれ以上ないというほど、人間が「アホ」になる状況ということです。むしろ、追い詰められて、本性の「アホさ加減」が、いやというほど出てしまう状況ともいえます。それは、単なる「アホ」というより、「ドアホウ」と言ってもよく、普通の「アホ」には、とても理解できない、輪をかけた「アホさ加減」です。

この「ドアホウ」には、内海医師のいう「大アホ」にみるような、反転した意味合いは、ほとんどなく、本当にただの「ドアホウ」なのです。が、もし、その「ドアホウ」が、その「底」から、「くぐり抜け」られた場合には、それは「大アホ」へと、さらには「大大アホ」へと反転し得るような、要素は秘めていますやはり、「アホ」は「死ななきゃ治らない」のです。

しかし、人は、統合失調状況にまでいたらなければ、「アホ」にならないのでは、決してありません。それは、現に多くの人が、証明してくれています。「アホではない」と思っている「アホ」が多い状況では、人びとのあいさつは、こうするのがいいでしょう。「あんたかてアホやろ、うちかてアホや、ほなさいなら !」

※もちろん、分かる人には分かると思うが、自分自身の「アホ」さ加減と、総体としての人間の「アホさ」加減を肌身にしみて理解していないと、「変わる」などということはあり得ないということです。

統合失調状況は、この「アホさ」加減をいやというほど思い知るいい機会ですが、必ずしも、誰もが通らなければならないということではありません。それは、気質にもよりますので。しかし、何かしら、類似の状況を通らずして、本当に「アホさ」加減を知るということもまた、あり得ないことのばすです。ある意味で、統合失調状況こそ、「アホにとっての最後の希望」とも言えるわけです。

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