「図一覧」について
本ブログの右サイドバーに、「図一覧」という項目があって、その文字または下の図をクリックすると、今まで記事につけた図の一覧が表示されるようになっている。
この図たちは、文字では理解しにくいような事柄も、目で見て感覚的にパッと分かりやすいように書いたものなので、とても参考になると思う。あるいは、むしろ、興味のある事柄について、図から入ってもらって、記事を呼んで、理解を補充してもらうのも、いい手かと思う。重要な事柄にこそ、図を付けているので、それらは、すべて、重要なものである。
以下に、特に重要で、また、図にこそ大きな意味があると思われるものを、いくつかあげておく。
まずは、『霊界の境域1』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/gif2.html)
これは、「この世」=感覚的領域=物質的世界、「あの世」=超感覚的領域、霊的世界というものは、それぞれに〇で囲うことのできるような、ある枠組みをもった、秩序的世界であること。「統合失調状況」に関わる「霊界の境域」というのは、その狭間の、中間的領域で、秩序的枠組みには収めがたい、混沌たる領域であること。しかし、それが故に、その根底には、「虚無」という、一切の枠付けを超えた、「根源的」なものが控えた領域であること、が、一目で分かるようになっている。
また、『霊界の境域2』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/gif3.html)
では、さらに、「あの世」=霊的世界の内部を、いくつか階層に分けることによって、それらの霊的世界の階層または領域と、「霊界の境域」との関係が、一目で分かるようになっている。「霊界の境域」は、たとえば、「アストラル下層領域」などともいわれる、「低次の領域」と、重なり合うように存在しているのは確かである。そこには、「低級自然霊」ともいわれるような、霊的存在も多くいる。しかし、一方で、そのような一切の階層性や、枠組みを超えた、「虚無」を根底に控える領域なのであり、一種「両義的」な領域なのである。「統合失調状況」の分かりにくさは、「霊界の境域」の、そのような「両義性」にもよっているのである。「スピリチュアル」系で、これを単純に、「アストラル下層領域」や「霊界の低次の領域」と同一視する見方もあるが、それでは、「統合失調状況」の複雑、多様なあり様は、捉えられないということである。
次に、「深浅様々なレベルにおける死と再生」(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/1.html )
これは、「イニシエーション」(試練を含む儀礼)というものは、「死と再生」の過程を含むが、それを、「水平的方向」と「垂直的方向」の座標軸に位置付けると、非常に理解しやすいものになること。「死と再生」といっても、「垂直的方向」の深みに応じて、それには、様々な深浅のレベルがあり得ること。さらに、その例として、「成人儀礼」や「シャーマンの巫病」、「悟り」、「解脱または自己喪失」をあげ、それぞれにおいて、「自我」または「自己」の何が「死」に、何が「再生」するのかを、簡単に明らかにしたものである。
加藤清がいうように、「病気」を乗り越えることも、一つの「イニシエーション」の過程である。しかし、それが、具体的にどのようなものになるかは、まさに、深浅どのレベルで「死と再生」が起こるかによる。「統合失調」の場合、少なくとも、「成人儀礼」と同様のレベルで(これは、多くの「病気」で起こることといえるが)、さらに、「シャーマンの巫病」や「悟り」のレベルで、「死と再生」が起こり得る。ただし、これらは、単純に、同一視できるものではないので、その中間的な、さまざまなバリエーションはあり得る。
次に、『精神的な「病」と「医療化」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/zu/photo_9.html )
これは、社会との関係で、(精神科の)「病院」がなしていることを、一目で、分かるように示したものである。図で、一目瞭然なので、特に、説明は不要であろう。製薬会社、さらに支配層が、「利益」を吸い上げるシステムであることも、示されている。「統合失調症」を想定したので、社会から逸脱した者を、「統合失調状況に陥った者」に限定したが、多種様々な「病気」が発明されている現在、そのように限定する必要もないだろう。「例外」として、一応とも社会に復帰する者も、見込まれているのが「ミソ」で、これがなければ、いくら何でも、このシステムを、「治療」のシステムと呼ぶことは不可能である。
今回、新たに、「統合失調」ということを、端的に明らかにする、図を追加しておいた。
統合失調状況と反応
これは、妄想や錯乱など、統合失調症の症状とされるものは、「統合失調状況」にける、壊れかかった「自我」の、(防衛的な)「反応」であることを明確にするものである。
ある「状況」に対する、「反応」なのだから、「結果」として生じているのであり、それだけをとりあげても、らちが空かないものである。ただし、その「反応」は「目に見える」ものでも、「状況」そのものは、「目に見えない」ものであるから、その「状況」を理解し、捉えようとすることは、容易ではない。
この「反応」に伴って、脳に何らかの異常がみられることもあろうが、それは、あくまで、その反応に伴って、脳のレベルで生じている現象というに過ぎない。それ自体も、「反応」なのだから、全体として、「結果」であり、「原因」なのではない。また、そのこと自体が、何ら本質的な意味をもつのでもない。
「自我」の図は、「日常的状況」では、一応安定を保っている「自我」が、「統合失調状況」という未知の状況に陥り、捕食者的な存在から攻撃を受けるなどのことにもより、外殻にひびが入り、外界との境界性を失い、壊れかかっていることを表している。
妄想や錯乱は、そのような壊れかかった「自我」が、何とか自己を保とうとする、防衛的な「反応」であり、ある種絶望的な、「あがき」である。それは、はたからみても、了解不能の、「愚か」で、馬鹿げた行いにしかみえないし、実際、そうであると言うしかない。
鍵は、そのような「反応」をもたらす、「状況」というものに、どれだけ、理解や共感を寄せられるかである。そこを、「病気」ということで、穴埋めしようとしても、無理であり、逆効果である。
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