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2014年7月12日 (土)

「病気」ということの「イデオロギー」的意味2

前回、「病気」ということの「イデオロギー」的意味の重要な一つとして、「オカルト的なものを排除したい」という意思があることを述べた。このような、「イデオロギー」的意味は、歴史的に、二段階に分けてなされたうちの第一段階に関わっていた。まずは、医学に引き寄せて、「病気」という規定をなすことによって、「オカルト的なものの影響」という見方を、排除したのである。

多くの者は、精神の「病気」に関わるについて、そこに、「オカルト的なものを排除したい」という意思が働いている、などとは思ってもみないだろう。しかし、このような意思は、深層領域においては、常に、働いているものと思う。それは、通常は、自覚されることがないし、意識することも、難しくなっているというだけである。それは、「病気」に塗り込められた、第二段階的な「イデオロギー」が、それに上塗りするように、糊塗されているので、第一段階的なものが、意識に上りにくくなっていることにもよっている。

そこで、これまで、記事で何度か述べて来たことだが、前回、これについては述べてなかったので、この第二段階で、糊塗された「イデオロギー」について、今回は述べたい

第二段階では、身体医学に引き寄せて、それまで「精神の病気」とされたものは、実際には、「脳の病気」であり、精神薬という物質的手段により、治療されるものである、という「イデオロギー」が浸透されたのだった。この「イデオロギー」を象徴するのが、前回もみた、「ただの病気に過ぎない」という言い方である。言い換えれば、それまでは、(精神の)「病気」としても、その原因や治療法など、謎めいたものを多く孕んだままであった。が、ここにおいて、「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされたのである。つまり、身体医学の領域に引き寄せることで、「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化されたのである。

ここにおいて、何が「排除」されているかと言えば、それは、もはや、「オカルト的なものの影響」というだけでなく、他のあらゆる「原因」や「治療法」の可能性である。もっと言えば、この「病気」について、何らかの「原因」や「治療法」を「考えること」自体が、「排除」されたのである。つまり、(脳の)「病気」ということで、それには、一つの「ケリ」がつけられ、あとは、薬物を中心とする、ほとんど自動的な治療システムに、乗せればよいだけのものとなったのである。

もちろん、この第二段階の「イデオロギー」においても、「原因」や「治療法」が、「解明」されたとまでは言っていない。しかし、「脳の病気」ということで、一つの明確な「枠組み」または「路線」は示されたのであり、「原因」や「治療法」というのも、いずれ、その枠内で、具体的に詰められればよいだけとなったのである。

このような「イデオロギー」が浸透する以前は、第一段階で、「オカルト」的なものの影響は、「排除」されたものの、それなりに「原因」が追及されたし、また、それをもたらした者への「責任」ということも、問題にされた。この「原因」ないし「責任」は、多くの場合、「親」であり、「親の育て方」の問題だった。学校、会社等の組織その他、関わった者の、直接の「影響」は、さまざまあるだろうが、実際、幼児期からの影響力という意味で、「親」に勝るものはないはずである。核家族化されたことや、社会的背景の問題もあるが、私も、親の影響が全くない、などということは考えられないと思う。

ただし、一方で、「原因」探しは、「悪者」探しということにも、つながった。精神の「病気」というのは、社会に不安と恐れをもたらすから、何らかの「悪者」を探し出して、それに責任を押し付けずにおかない。だから、「親」は、病気をもたらした「悪者」として、責任を一身に押し付けられたという面も、あるにはある。

しかし、いずれにしても、この「脳の病気」という「イデオロギー」は、このような、「病気」について、「原因」や「責任」の探求をなすことを、不必要ならしめたのである。「ただの病気に過ぎない」という言い方も、このような意味合いでこそ、最も意義をもつ。それは、社会や身の周りのものに、「原因」があるのではなく、「ただの病気」として、医学上の処置の問題に過ぎないものとなったのである

この「イデオロギー」の浸透により、「精神の病気」を、全面的に精神医療に委ねることが、ほぼ達成された。病気に関わる者、周りの者も、「責任」の問題を意識することなく、精神科医に預ければ、それで済むものとなった。

ある、社会的に不都合な者、厄介な者を、「病気」という枠に、放り込むことさえできれば、あとは、精神医療の合理的治療システムが、その者を処置してくれる。そこにあるばすの、問題を取り沙汰すこともなく、誰が責任をとる必要もない。それは、一言で言えば、自動化された、「無責任の体系」といえる

多くの者にとって、ある意味で、これ以上ないほどの、便利で、効率的な、「問題解決」のシステムを作り上げたのである。そして、そうであれば、もはや、その処置において、実際に「治療」がもたらされるかどうかは、あまり問題ではなくなる。(もちろん、「見かけ」上、「治療」がもたらされるように見えるに越したことはないが)実質上、このシステムの利益は、「治療」がもたらされるかどうかではなく、誰が責任をとるのでもなく、「病気」ということで、その問題を、そのシステムに、「厄介払い」できることにこそあるからである。

そこには、「疾病利益」とも言われるような、「病者」本人の利益も、周到に用意されてはいる。が、それより、それに関わる多くの者、または社会の利益が、優先されるのは、当然のことである。記事『「うつ」と「自殺」の問題』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-562a.html)でも、自殺の問題を「うつ」の問題とすることは、自殺にまつわる厄介な問題を、「治療」の問題にすり替えることで、多くの者が、責任や悩みの意識から解放されるものだと述べた。

しかし、この「無責任の体系」は、自殺の問題に限らず、あらゆる社会的不都合の問題にまで、拡大して適用され得るのである。そして、実際にそうなりつつある。子供の子育て上生じた不都合、学校における管理の不都合、会社等の組織の合理化における不都合などである。このシステムに依存する度合いが増えれば増えるほど、「病気」という枠は、「蟻地獄」のように範囲を広げながら、拡大し、多くの者を、そこに引きずり込んでいく。システム自体が、自己増殖し、自己拡大する要因を、孕んでいるのである。(但し、そこには、実際に、引きずり込んだ者を食らう「蟻」が存在していて、それが肥えることによって、巣をますます拡大していくことにもよっている。)

しかし、その枠が、このまま拡大していけば、いずれは、誰もが、自分の周りに、「蟻地獄」の穴へと通じる盛り上がった淵が、迫って来ていることに、気づかざるを得ないだろう。自分もまた、何らかの不都合を背負う立場になれば、その穴へと放り込まれる可能性が、みえて来るのである。

だから、この「イデオロギー」は、容易に崩せないシステムとして、築き上げられてはいるが、第一段階のイデオロギーに比べれば、そのことに気づかれやすいものといえる。実際、このシステムがどのように機能しているのか、まともに目を向けさえするだけで、そのことは、かなりみえてくるはずのものである。たとえば、病気ということに、どれだけの客観的根拠があるのか、精神疾患とされた者の「治療」ということが、本当になされているのか、、精神薬に、どれだけ治療効果があり、害悪はないのか、病院や製薬会社の利益がどれほどのもので、そのためにこのシステムが動いているのではないか、などのことが、本当に多くの者に着目されれば、その「イデオロギー」性は、意外と脆くも、暴露されざるを得ないものとなる。もともと、多くの者の「要請」と、多くの者がそのことを問題にしない、「アンタッチャブル」性によって、成り立っていたようなものだからである。

そのようにして、この第二段階的な「イデオロギー」が、取り沙汰されるようになって来ることは、結構なことであるし、実際、順序として、まず剥がされることになる「イデオロギー」は、この「イデオロギー」であることは、必然のことでもあろう。

しかし、本当は、この「イデオロギー」も、第一段階の「イデオロギー」に糊塗されているものであり、第一段階の「イデオロギー」を見えにくくしているものに過ぎない。そして、本当に、これらのことを「アンタッチャブル」にしているのも、第一段階の「イデオロギー」の方である

だから、もし、その「反省」が、このような、自動化された、暴走する「システム」に向けられるだけで、「病気」ということ、そのものに向けられないとしたら、結局は、このシステムについても、本質的に変えることには、つながらないだろう。「病気」そのものは、相変わらず、何らかの処置が必要であり続けるし、その「アンタッチャブル」性も、取り払われることはなく、本質的な追求の目が向けられることはないからである。

それで、それは、治療法や、薬物についての、多少の「改変」という程度のことに終わり、今のシステム自体、大枠として、存在し続けることになる。そして、相変わらず、「蟻地獄」として拡大し続け、第一のイデオロギーを糊塗し続けるものとなる。

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コメント

安易に誰かのまたは何かのせいにするのではなく、きちんと考え、責任を持って全てのことを行う。
少しでもそんな人が増えるように、模索しております。
孕んだものが大きくなったときに、気がつく人も多くなってくるのでしょう。その中からか、はたまた違うものからか産まれてくるものは激しい痛みを伴うのでしょう。自分の果たせる分まで耐えられるように生きてゆきたいです。

イデオロギーに踊らされ、無責任に「空虚な言葉」「人心操作のために作られた言葉」を口に出してしまう自分を省みます。日常使われている言葉のなかに、百年二百年前、千年前には存在しない言葉が沢山あり、知らず知らずに私達の霊性を変質させていく。恐ろしいことです。

百年二百年、何千年かけて、向上し幸せを求めた人類は行き詰まりに来ています。

ティエム様のブログでも、超古代神道にある新しい天地の時代が紹介されていました。

時代の産みの苦しみ、その時代の流れに何兆何億万分の一の、分子の、芥(あくた)の自分がいる不思議を思います。

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