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2014年7月 3日 (木)

「病気」ということの「イデオロギー」的意味

精神の領域において、「病気」という捉え方をすること自体が、すでに精神医学の「イデオロギー」に捕らえられていることを明らかにする重要な記事です。加えて、精神医学に関して、「オカルト」的なものを抜かすことができない理由も明らかにします。

精神医学または精神医療に関しては、安易な診断とか、多量、多剤の薬物の投与など、かつてないほどに、批判や疑いの目が、向けられるようになって来ている。しかし、批判や疑いが、そのように、診断とか、治療のあり方というレベルに止まって、精神の「病気」ということそのものに向けられない限り、本当には、精神医学または精神医療が変わることには、つながらないと思う。

つまり、多くの者は、「病気」ということの、範囲の確定とか、診断の仕方には疑問を持っても、「病気」ということそのものには、疑いの目を向けないようである。しかし、既に、そのこと自体で、精神医学や精神医療の「見方」に、半分以上は捕らえられていることになるのである。

言い換えると、精神の領域において、「病気」なるものがある、と思わせた時点で、精神医学や精神医療は、半分以上は「勝利」を手中にしたようなものである。「病気」という捉え方をすること自体、「治療」を必要とする、生体的または社会的な「害悪」として、「イデオロギー」的意味をもつ。そして、それを浸透させた時点で、精神医学または精神医療は、実質的に、「世間」に対し、自らの支配領域と強制力を、確定したのである。

「世間」の側からすれば、それを「受け入れ」たのであり、最近の横暴は、その「受け入れ」につけ込む形で、好き勝手な暴走をしたものに過ぎない。その「受け入れ」を前提にして、暴走だけを問題としても、本質的に、「受け入れ」を覆すものとはなり得ない。精神医学や精神医療は、表向き、多少の改変を施すとしても、あい変わらず、世間の「受け入れ」の上に、君臨し続けることになる。

記事、『「ただの病気に過ぎない」という言説』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-e53b.html)にも書いたが、精神科医で、「精神病は、ただの病気である」、「それ以上に、何らかの意味を付与するのがいけない」という者がいる。それは、その医師自体が、「病気」なるものを、単なる、医学的な「事実」と思っているのである。だから、「病気」を「病気」とそのまま受け取って、何らの「意味」を付与しなければ、差別とか、逆に、持ち上げが生じないで、純粋に、「治療」の問題に収めることができる、と思っているのである。

しかし、それは、精神の領域において、「病気」ということ自体が、既に強い「意味」であることを、何も分かっていない。そもそも、「病気」なる「もの」は、身体医学の領域にも、それとして存在するわけではない。ただ、身体的に、その害ある状態が「見える」ものとして確認できるので、その状態を、「病気」として、医学的に、「規定」しているだけである。身体医学の領域でも、それは、やはり、医学上の「解釈」であり、一つの「意味」である。ましてや、人それぞれ、多様なあり様があり、さまざまな「評価」のあり得る、精神の領域において、人が陥る状態や人格のあり様を、「病気」として、「治療」の必要な「害悪」と規定することは、強度の「意味」となる。

むしろ、「<ただの>病気に<過ぎない>」と言うことで、その「意味」は、他の可能性を顧みられることなく、はっきりと、固定されることになるのである。

このような、「病気」ということの「イデオロギー」的意味の獲得は、歴史的に、二段階に分けてなされた、とみることができる。(記事『精神科に「やりたい放題」にさせた「システム」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html)や『「精神医学」と「オカルト」的なもの』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html)とも重なるが、新たな視点から簡単に述べる。)

まず、第一段階は、社会的に放置できない、一定のパターンの精神的状態を、医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである

この場合の「病気」は、必ずしも、身体医学的な意味の「病気」ではない。精神の「病気」であれ、何であれ、とりあえず、それを「病気」として、医学の対象に取り込み、「治療」の必要な「害悪」と、規定することが重要なのである。そして、実質的にも、その「治療」のために、「病院」に隔離したり、強制的な手段を施したりすることを、正当化し、可能にしたのである。

「病気」という規定をなすことは、歴史的に言っても、それまで「病気」とはみなされなかったものを、新たに、「病気」として捉え直すことである。そのようなものは、西洋でも、日本でも、近代以前には、多かれ少なかれ、「霊的なもの」の影響によるとみなされた。あるいは、「魔的」なものの影響といった方がよく、むしろ、全体として、「オカルト」的なものの影響という言い方が、ピッタリくる。

だから、医学に引き寄せた、「病気」という規定は、それ自体で、「病気ではない」という見方を、封じ込める意味がある。特に、それまでの、「オカルト的なものの影響」という見方を、封じるものである。それを「自明なこと」とする者には、分かりにくいことだろうが、一つの「ものの見方」の、強力な実施であり、それ自体が、「イデオロギー」的意味を強くもつものである。

ただし、このような見方は、決して、精神医学が一方的に押し付けたものではなく、当時の民衆の利害とも一致したのである。民衆もまた、「オカルト」的なものに対する、近代以前から継承する恐れや、民衆を巻き込んで沸騰する「魔女狩り」に疲弊していたことなどのため、「オカルト的なもの」を、社会から追放し、「排除」したかったからである。「精神病者」とは、「病気」という名の下に、そのような、排除すべき「オカルト」的なものを、一身に背負わされた、スケープゴート的存在ともいえる。

また、実質的に言っても、社会はもはや、全体として、「精神病者」を抱え込むだけの力量をなくしていた。何者かが、「正当な理由」と「権力」に基づき、それらの者の管理や処分を請け負うことが、社会の要請となったのである。そして、「精神医学」または「精神医療」こそが、そのある意味、「力仕事」であり、「汚れ仕事」を、委ねられたのである。

次に、第二段階は、身体医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。ここでは、もはや「病気」とは、単なる「病気」でも、「精神の病気」という曖昧なものでもなくなった。身体医学の対象と同じく、身体の病気なのであり、特に「脳の病気」とみなされたのである。そこで、精神薬のような薬物療法が、治療手段として主流となり、人手のかからない、合理的、マニュアル的な対処が可能となった。

「病気」という規定を浸透させたことで、既に半分以上勝利を収めた精神医学は、さらに「身体医学」に引き寄せた、「病気」の概念を普及させたことで、ほぼ完全なる勝利を収めた。それは、もはや、「見えない」ものではなく、「見える」病気であり、身体医学の対象と同様に、薬という物質的手段で、治療の可能なものとみなされた。また、巨大化した製薬会社と手を組むことにより、合理化された、マニュアル的対処と、それに基づく、強固で、容易には覆せないシステムを作り上げた。

ここにおいて、「病気」ということの「イデオロギー」的意味は、二重に積み重ねられ、容易に剥がされないものとなった

そこで、もし、このイデオロギー的意味を、剥がそうとするなら、単に、第二段階のものだけではなく、第一段階のものから俎上にのせる必要があるのである。そして、実際、この第一段階のものの方が、より手ごわい相手である。「オカルト」的なものという、はっきりとは捉え難い、「目に見えない」もの、また、少なからず、恐れや嫌悪感をもたらし、だからこそ、封じ込めたものを、心理的に掘り返して、相手にしなければならないからである。

私は、「精神医学」や「精神病」を主たるテーマとする、このブログでも、「オカルト」的な話題を多くとり上げている。一般には、「オカルト」的な話題は、「精神医学」や「精神病」の問題をまじめに扱うについては、ナイナスに作用する、と思われているかもしれない。

しかし、「精神医学」や「精神の病」について、本当に踏み込んで考察するなら、「オカルト」的ものを切り離すことはできないのである。むしろ、多くのものが、それから解放されたかにみえる、現代においても、「精神医学」や「精神の病」こそ、他の何にも増して、「オカルト」の陰影を強く纏っているものである。それは、現代においても、どことなく、「タブー」の感覚、「アンタッチャブル」な印象を漂わせている。我々自身が、そこに、「オカルト」的なものを、封印して閉じ込めたからである。その問題を、本当に明るみに出そうとすれば、「オカルト」的なものの考察を欠かすことはできないのである。

精神医学または精神医療については、特に「オカルト」的なものを前面に出さなくとも、それが、もともと「優生思想」の産物であり、「イデオロギー」的なものであることを、鋭く説き明かしている者はいる。それは、それなりに、かなりの者に受け入れられつつあると思う。しかし、精神医学または精神医療が、その「優生思想」を実践できているのは、単に「洗脳」の結果だけではなく、民衆の側の「要請」なのでもある。だから、民衆自身がその「要請」に深く囚われていることに、自覚的に気づかない限り、本当には、民衆レベルにおいても、納得されることはないと思う。

言い換えれば、「精神の病気」ということについて、それを「病気」ということで、医師に委ねようとする意思があるとすれば、それはどこから生じているのか、本人またはその周りの者が、本当に納得しない限り、それを改変するということも望めないのである。

「病気」という捉え方をすることには、既にどこかに、「オカルト」的なものに対する排除の意思が働いているということである。そこに、「オカルト的」なものの何らかの現れを、漠然とでも予感するがゆえに、それから目をそらすべく、「病気」という規定に乗っかり、それで済まそうとするのである。

「統合失調」の場合は、恐らく、「病気」という規定に乗っかろうとする者は、本人ではなく、周りの者であることが大多数であろう。しかし、それは、決して本人にもないわけではなく、やはり、それが「オカルト的」なものである可能性には、強い恐れを抱いている。それで、「妄想」においては、迫害するものとして、CIAその他の、より「オカルト」的でないものが、選ばれるのである。

私自身は、ブログの記事でも述べて来ているように、「精神の病」といわれるもの、特に、「統合失調」には、実際に、「オカルト」的なものの影響が少なからず働いている、とみている。だから、本質的に、「精神の病」といわれるものを掘り下げようとするなら、当然に、「オカルト」的なものを抜かせないことになる。

しかし、そうでなくとも、歴史的に言って、「精神の病」といわれるものは、「オカルト」的なものと結び付けられて理解されて来たのであり、未開社会その他において、現在でも、多くの文化では、そのように解されているのである。また、現代の日本においても、そのように解する者、あるいは、その可能性を否定しない者は、決してそれほど少なくないはずである。

「精神の病」というものには、そのような「見方」が、長い間纏わり付いていた、または、今も纏わり付いていることは、「事実」なのであり、そのことは、現在においても、そのようなものに触れるときに、それなりに、陰影を残さないではいないのである

だから、「精神の病」というものに、本当に「オカルト」的なものが関わるかどうかという問題はおくとしても、「精神の病」を「病気」として捉えるときには、そこに、陰影としてある、「オカルト的」なものの影響という見方を、「排除」したいという意思が働いていないかどうか。もし、(治療効果のはっきりしない)精神医療というものへの、何らかの「期待」があるとしたら、それは、陰影としての、「オカルト」的なものの影響を否定してくれることに、かかっているのではないか、ということについて、改めて考えを巡らせてみてほしい。

そうすれば、「病気」ということで済ますことの、「イデオロギー」的意味について、改めて気づくとともに、それこそが、精神医学と精神医療を支えていることに気づくはずである。そして、「精神の病」を「病気」として、「精神科医」に委ねることについて、根本的な反省も生まれ得ると思う。

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コメント

はじめまして、こんにちは。本文とそれてしまい申し訳ありません。


知人から悩み事を聞きまして、その悩み事とは風鈴の音です。隣家が台風の時や(5月から夏が終わる迄付けているようです)風の強い日に風鈴を鳴らしていて(夜中迄の日もある)、統合失調症の人に「敵」認定されてしまったかもしれないと、ぼやいています。特にトラブルとかはないと言っているのですが(知人は静かに生活しているようです)……。また、不特定多数の人が通る市道に面した窓を夜中迄全開にしている事も多く、プライバシー感覚を疑ってもいました。統合失調症を患うと、全ての出来事が自らに対する攻撃、として認識してしまうと聞く事があるので、知人としては、まいったなぁという感じのようです。そして知人は、問題の隣家の家族は(子供を含めて)、統合失調症らしきお母さんに無理に合わせているようだと、分析していました。


私は知人に、へたに苦情を入れない方がいいとは伝えているのですが、こういう場合、どうすべきなんでしょうね。

「風鈴」の件は、明らかに、迷惑がかかることなら、隣家の「家族」の人にでも、一応苦情を入れておくのがいいでしょう。風鈴は、「聞える音」をごまかすためとも考えられますが、むしろ、単なる無頓着で出しっぱなしにしているのかもしれません。「窓あけっぱなし」も、被害妄想的な発想が感じられず、だたの無頓着のところが出ているのでしょう。

「統合失調」の人も、世間で暮らす以上、最低限のルールは守るべきで、常軌を逸するような迷惑が、許されることにはならないと思いますので、必要とあれば、トラブルを恐れず、「普通に」抗議した方がいいと思います。万一、トラブルになったとしても、「世間的」には、明らかに「健常者」である知人の方が有利です。

統合失調の人は、何しろ、「世間」からすれば、ずれたことをしでかすことは、今後も予想されるので、ある程度は、包括的な覚悟がいります。しかし、迷惑をかける人は、統合失調の人に限らず、世間に山ほどいます。また。知人の方も、自分では気づかないところで、隣家や周りの人に迷惑をかけている可能性はあります。

長津様のコメントを読んで、30数年前に実家でぶら下げていた鉄製の風鈴を思い出しました。

お寺の鐘の様な響きで気に入ってましたが、ある日忽然と消えておりました。

24時間外に出してたことを悔やみ、「きっとどこかの誰かが、欲しくなって持っていっちゃったんだな」と30年思い込んでおりましたが、…もしかしたら「もううるさくてたまらん」と除去された可能性もあるなあ、と今、想像しました。

そよ風の吹く場所に下げてましたが、自分は静かで良いと一人合点してても、人様には困った騒音だったのかも知れません。真相は不明ですが、遅まきながら常識のなさを反省させて頂けましたm(__)m

さまざまな感性があります。
就寝前に穏やかなクラシックを聴くと安眠できる知人がいます、逆に「そういうクラシックを聴くと、『神経がむずむず』して落ち着かない」という知人もいます。(彼女は就寝前に「ブルーノ・マーズ」や「ちあきなおみ」を好んで聴いてます。)

人にはいろんな感覚、感性がありますから、周囲から「迷惑行為」だけに見える24時間騒音風鈴も、風鈴好きの私の主観ですが、「警戒、防御」ではない気がします。

ふうりん自体が、風雅から生まれたものですから、ご本人の趣味ではないでしょうか。

でも、夜もチリチリチリンでは非常識です。夜中などうるさくて困りますね…何とかしたい、私ならどうしましょ。

あくまで例として、このような感じでの話し合いもあるかもと想像しました。

一、1週間くらい、風鈴家族にあいさつや会釈を、心を込めて続ける。

二、お伺いし、「ご家族」(できれば大人)の方に「風鈴の音、夏らしいですね~、楽しませて頂いてます」と話したうえで、

三、「ただ、夜や強風時にもかけていると、人によっては、これが騒音に感じる方もいるようですよ。」と話してみる。(ご家族の方の反応によっても微調整)

四、続けて「わたしは昔、実家で風鈴下げっぱなしにしてたら、どうも回りにはうるさかったらしく、いつの間にか撤去されちゃいました。(或は「お叱りをいただきました」でも可)」

五、加えて「実は、テニスボールの『スコーン、スコーン』という音が私はすごく苦手なんです。主人は全く平気だと言うんですよ。人それぞれなんだな、と思いました。」などと、以前に自分の困った経験なども話題に織り込む。

(相手に寄り添いつつ、共感しあえる会話を取り持ち、そのうえで理解を求める)←何だかすごい理屈っぽい説明です

六、「何にしても、音の問題ではご近所から思いがけず苦情が来ることもあるので、日暮れと共に、家のなかに入れておくのが無難かも知れないですよ。雨ざらしより長持ちしますし。どうでしょう(折衷案)

七、こんな話してる私は、自分ちのエアコンがガタガタうるさいのに気づかないかも知れないです(笑)自分のことはなかなか分からないものなので、良かったら、気づいたことは教えてくださいませ。」
(相手が年下でもそのように話して、ご近所交流を深める心持ちを共有する)

八、「よけいなこと言ってすみません、ではまた宜しくお願いしますー」

策を弄しすぎかも知れませんね、ただ、風鈴奥さんが現在不安定で、ご家族も奥さんを気遣うご様子でしたら、配慮しながら伝えるほうが良いかと思います。(もし私が当事者なら、ありがたいです)(自己中想像かも知れません)

社会のルールやマナーを守らない行為、迷惑行為は、自他とも改善に向け努力すべきですが、人間誰しも不完全な存在で、いろんなことがある中を課題を抱えて奮闘していますから、

それゆえ想像し共感する余裕をもち、「きっと、すごーく風鈴が好きなんだねー」位のゆとりで共にうなずき合える話し合いの流れが、互いの目的達成と共存共栄につながるような気がしております。

主観満載の想像で失礼しました。テキトーにご参考にして頂けたら幸いです。
超長文すみません。♪チリンチリン♪

みるくゆがふさんありがとうございます。

私も、統合失調の人を、病院に隔離するのではなく、地域で何とか受け入れて行くようにするという、世界の流れから言っても、このような問題は避けて通れないことになりそうだな、というのを改めて感じました。

統合失調の人だからというので、こさとら厳しい目でみられるという面は多分にあると思います。ただ、これには、住宅が密集している日本の住宅事情も大きく関係しているでしょうね。

伝えるとした場合には、統合失調の人にもいろいろあり、一概には言えませんが、私の感じでは、あまり回りくどい言い方ではなく、「率直に伝える」ことが功を奏する場合もあるような気がします。単に、周りの人が、どのように思っているかについて、「無頓着」で、気が回らなかったという場合もあって、それが率直に伝われば、意外と素直にそれに従うということも、あるような気がします。逆に、日本では、当たり前の「回りくどい言い方」も、統合失調の人には、真意の理解しづらい、わけのわからない「言葉」として受けとられ、どう対処していいか分からなくなることも考えられます。

私自身は、よほどのことでない限り、わざわざことを荒立てる必要はないと思いますが、やはり伝える必要が出てくる場合はあると思います。


統合失調の人の「無頓着さ」については、この機会に、一般論ですが、改めてコメントに書いておきたいと思います。

統合失調の人の「無頓着さ」について


統合失調の人が、ときに信じ難いほどの、また異様なほどの「無頓着さ」を示すことがあるのは、確かなことといえます。「普通なら気づくはずだ」ということが、統合失調の人には、通用しないことがあるのです。

いずれ、記事にするつもりですが、簡単に言うと、この「無頓着さ」は、大きく分けて、次の2つのことから来ると思います。

一つは、「被害妄想」その他、普通は了解し得ないような、「妄想」的なことがらに囚われていて、頭がいっぱいになっているために、そういうことには気が回らない、ということです。

もう一つは、その人がどのような経過をたどってきたかにもよりますが、単純に、社会経験が少ないために、人の思いを自覚することができにくく、無頓着であるということです。特に、長期入院をしていた場合などは、なかなかこのようなことは、身につきにくいでしょう。

もし、後者である場合は、敬遠したり、怖がったりして、放っておくのではなく、はっきりと、「迷惑である」ことなどを伝えることにより、変わってくる余地はあると思います。単純に、社会経験が少ないので、周りの人の思いを、しっかりと伝えることを通して、「社会」を学んでいくことが必要です。

もし、前者である場合は、その「妄想」的なことがらが解消されない限り、そう簡単には、変わり様がないでしょう。そして、それは、他人がとやかく言うことでは、容易には、解消されないものです。そこで、医師に預けたくなるのも分かりますが、医師もそれを「治せる」わけではなく、一時的に、薬の力で強引に、抑えつけられることがあるだけです。それでも、長期にわたって薬を飲ませ続ければ、人格が荒廃するだけですし、また、病院に入院させれば、隔離できるというだけです。

これらは、その者の「無頓着さ」を解消させることにはならず、ますます社会経験から遠ざけるだけです。また、これまで述べてきたように、「精神医学」や「精神医療」をますます力づけ、拡張させるだけです。

それで、この「妄想」にどのように対処するかということが、周りの者や社会にとっても、大きな問題となるわけです。それには、単純に「恐がる」のではなく、ある程度の慣れや、経験も必要です。少なくとも、接しているうちに、ある程度の「扱い」方は、身につくはずです。

しかし、それには、基本的に、自分自身で対処する必要があるわけで、その方法は、これまでにも何度も述べて来たことです。それには、その元にある、「幻覚」(幻聴)に気づき、さらにそれが、「物理的レベル」で周りの者と「共通」の出来事として起きているのではないことを、知る必要があります。つまり、「迫害的」な「事実」があるように思われても、それは、内面の、または、違うレベルでの「現実」であって、「周りの者が物理的に起こしていることではない」ということを、自覚することです。そして、このことは、統合失調的な「幻覚」ということについて、多くの者が、予め知っている、基本的事実として知れ渡る必要があります。

そうすれば、本人も、「妄想」への囚われの度合いが減って、「無頓着さ」もいくらか解消される余地が出てくるし、少なくとも、周りの人が、「脅威」に感じる度合いも減ってくるはずです。

ティエム様、細やかなコメント有難うございます。

住宅事情は、なるほどと思いました。私の在住する市の或る農業地域では、夏になると自治会で、民家と畑沿いにざっと30個以上ものガラス風鈴を(しかも終日)下げています。

例えばそのような地域で、お年を召されたおばあさまが気の向くままにゆっくり歩いていたら、周囲は「○△さん家のおばあちゃんが『お散歩』してる」と認識すると思います。

これが都会だと恐らく、どこを歩いても『認知症らしき老人の徘徊』とみなされることでしょう。

それから、いわゆる「統合失調状態」に在る方が、どのような内面世界、不可視の世界を感受しているかを、いわゆる「物質的、心的世界以外の経験を持たない方々」が理解するには、現代社会の環境は材料がなさすぎると感じます。

これも明治維新以降、「イデオロギー」的な意図を持った強大な力で、なし崩しに排除されていき、多くの人々もそれに賛同し、理屈で排除していったようにも感じます。

私の祖母は小さい離島の生まれで、特にシャーマン的な家系でもありませんでしたが、いざという時に「幻覚」を敢えて呼び出した経験を、私に聞かせてくれたことがあります。

「いわゆる「統合失調状態」に在る方が、どのような内面世界、不可視の世界を感受しているかを、いわゆる「物質的、心的世界以外の経験を持たない方々」が理解するには、現代社会の環境は材料がなさすぎると感じます。

これも明治維新以降、「イデオロギー」的な意図を持った強大な力で、なし崩しに排除されていき、多くの人々もそれに賛同し、理屈で排除していったようにも感じます。」

全くそのとおりで、昔の伝統文化の部分を保持した祖母様のような人を、人によっては、「江戸時代で止まっている人」などといって揶揄したりします。しかし、本当は、そのように言う人こそ、(それまでの伝統文化を「迷信」ということにして、異質な西洋文明を「イデオロギー」的に受け入れた)「明治維新で止まっている人」なのです。このことも、いずれ記事にしたいと思います。


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