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2014年7月

2014年7月30日 (水)

「物語としての精神分裂病」他

精神病を知る本』(宝島社文庫)に所収されている、「物語としての精神分裂病」及び「精神病にとって「治る」とはどういうことか」は、赤坂憲雄という民俗学者(思想家)の優れた論考である。「精神医学」の「外部」から、「分裂病」(ここではこれで統一する)を思想的、歴史的、文化的などを含めた、全体的な視野から総括している。これは、「分裂病」を概観するのに、これ以上ないというほど、適当なものだと改めて思った。

分裂病を概観するのに、参照すべき本を載せた、「関連基本書籍の抜粋」という記事(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/cat22996767/index.html)にも、新たに、この本を入れておいた。(カスタネダの『無限の本質』は、記事「「捕食者」についての本」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post-967b.html)でもとり上げているし、分裂病を概観するというには、多少込み入っているので、外しておいた。)

この「関連書籍」でも、精神科医宮本忠雄の『精神分裂病の世界』というのを、基本的な書物としてあげておいた。が、これは、社会的な面や、分裂病者の内面世界など、精神科医の書いたものとしては、かなり行き届いているのだが、やはり、精神医学という視点に縛られた面が多分にある。それでは、決して、分裂病の全体像、さらに本質は、把握できないから、他にも様々な領域の本をあげているのである。

ところが、この論考は、精神医学という枠を超えて、むしろ、精神医学による「分裂病」という捉え方自体を、「物語としての精神分裂病」として第一に問題にし、さらに、それを踏まえて、「分裂病」の実質は何なのか、「治る」とはどういうことなのか、ということを考察するところまで、踏み込んでいる。さすがに、「オカルト」的なものまでには踏み込んでいないが、それは現段階で望み得ることではないかもしれない。「間の病」、「イニシエーション」という視点など、本ブログで取り上げた視点とも、かなり重なるものがある。

繰り返すが、「分裂病」を、概観し、考察するに当たっては、「精神医学」という、専門化された(「イデオロギー」の)枠の内部では、あまりに狭過ぎ、とても無理である。しかし、その枠を超えて、あるいは、その枠そのものを批判的に考察したうえで、全体的、総合的に、「分裂病」を概観するという試みは、これまでなかなかなかったと思う。

それで、これは、「分裂病」を現在において、全体として概観するのに、最も適したものだと思うので、ぜひ、多くの人に、読んでもらいたい。

もっとも、この論考は、初版が1986年で、かなり古いものなのだが、今でも、十分通用するというより、ある意味、新しいくらいの内容である。精神薬については、当時としては、十分切り込んでいけなかったろうが、その点は、内海医師等の本で、補ってもらえばよい。

「物語としての精神分裂病」とは、簡単にいうと、近代の精神医学が、作り上げた、イデオロギーとしての「分裂病像」である。近代以前には、また未開社会などでは、、一過性の錯乱現象としてしか知られていなかった現象が、長期に及ぶ、隔離、収容による「治療」を必要とする、重篤な「病気」として作り出された。

その「物語」として、特にあげられるのが、「内因性の神話」と「主体喪失の物語」である。「内因性」とは、「遺伝的な素因を想定された、何らかの身体的原因に基づく」というほどの意味で、非常に曖昧なものだが、分裂病が、原因やメカニズムが分からないにも拘わらず、「病気」として規定されるのに、この「神話」が大きく貢献した。「遺伝的な素因」というところからも、「優生思想」と結びついているのが分かる。これは、現在では、「脳の病気」、「化学的不均衡」という「神話」に、通じているものといえる。

「主体喪失の物語」とは、分裂病者を、「病者」として、人格も責任ももたない、「主体」なきものとして捉え、実際にそのように扱うことである。また、そのように、「主体なきもの」とされることによって、逆に、他の者を、「主体」として立たせる、スケープゴート的な役目を果たしたのである。

「治る」ということでは、医療的手段の介入による「治療」ではなく、自然治癒力による「癒し」ということが、基本として強調される。それは、社会や人との関係の中での、「癒し」でもある。その過程については、ベイトソンの「イニシエーション」という発想や、レインの「霊的航海」ということも、顧みられている。全体として、ほんの概観には過ぎないが、精神医学の枠を超えた、「治癒」の可能性が、示唆されているのである。

このように、現在において、「分裂病」を再考するための、基本的な書物となってしかるべきものと思う。

2014年7月22日 (火)

「捕食者」にとっての「医療システム」

前回、「そこには、実際に、引きずり込んだ者を食らう「蟻」が存在していて、それが肥えることによって、巣をますます拡大していく」と述べた。この「」が何を意味するかは、このブログを読んでいる人にとっては、すぐさま分かることだろう。

一応、言っておくと、それは、人間レベルでいえば、「精神医療」や「製薬会社」の最上層部、さらに「支配層」ということになるし、人間を越えたレベルでは、「捕食者」的存在ということになる。

ただし、「捕食者」的存在からみた場合、この「精神医療」のシステムは、決して好ましいものではないと思う。それは、大量生産を可能にし、食料の備蓄を可能にする、優れたシステムであるには違いない。しかし、これらの「食料」は、人間でいえば、ブロイラーの鶏と同様で、質のいいものとはとても言えないし、ホルモン剤や各種化学物質のふんだんに混入された、「危険」なものでもある。彼らの、「こんなの、とても食えないではないか」という、文句の声が聞こえてきそうである。

むしろ、彼らにとっては、「精神医療」のシステムに乗せられていない、社会の中の生身の「病む者」(葛藤する者)の方が、よほど食指をそそる「食料」のはずである。それは、人間でいえば、地鶏に相当し、化学物質(精神薬)に侵されていない、自然で、噛みごたえのある、触感と味を提供する。だから、彼らは、そういう者こそを、求めもする。皮肉なことに、「精神医療」が言うのとは全く別の意味で、このシステムにかからないことは、確かに、より「危険」を囲い込むことになるのは事実なのだ。

しかし、このシステムが拡大すればするほど、彼らとしても、そのようなことは望み難くなる。質の悪い、薬品漬けのブロイラー鶏で、がまんするしかなくなるのだ。

そのように、彼らからしても、このシステムは、矛盾をはらんでいる。人間の「支配層」にとって、このシステムが拡大し過ぎれば、人間の利用価値が全体としてがた落ちしてしまうのと同じである。しかし、彼らもまた、人間の「支配層」と同様に、人間たちへの支配と管理を徹底し、合理化するなら、このシステムが必要なことが分かっている。あるいは、そうしない限り、彼らの人間に君臨する立場は、いずれ覆えされるのではないかという、恐れを抱いている。彼らも、一旦、このシステムへと依存したなら、それはそう簡単には、手放せないのだ。

全体として、人間の陥ってる状況と、彼らの陥っている状況とは、ある意味併行して存在している。彼らもまた、矛盾を抜け出せない、閉塞状況にあるのであって、決して、人間の支配の上に安泰しているのではない。

今、人間の「食」が、様々顧みられているが、同様に、彼らもまた、「食」を顧みざるを得ない状況なのである。そのような状況にあっては、「人間が変わる」ということは、ただ単純に、人間だけが一方的に「変わる」ということではあり得ない。同時に、彼らも巻き込んだうえで、「彼らも変わる」ということでしか、この状況を乗り越えることは、できないのではないかと思う。

2014年7月12日 (土)

「病気」ということの「イデオロギー」的意味2

前回、「病気」ということの「イデオロギー」的意味の重要な一つとして、「オカルト的なものを排除したい」という意思があることを述べた。このような、「イデオロギー」的意味は、歴史的に、二段階に分けてなされたうちの第一段階に関わっていた。まずは、医学に引き寄せて、「病気」という規定をなすことによって、「オカルト的なものの影響」という見方を、排除したのである。

多くの者は、精神の「病気」に関わるについて、そこに、「オカルト的なものを排除したい」という意思が働いている、などとは思ってもみないだろう。しかし、このような意思は、深層領域においては、常に、働いているものと思う。それは、通常は、自覚されることがないし、意識することも、難しくなっているというだけである。それは、「病気」に塗り込められた、第二段階的な「イデオロギー」が、それに上塗りするように、糊塗されているので、第一段階的なものが、意識に上りにくくなっていることにもよっている。

そこで、これまで、記事で何度か述べて来たことだが、前回、これについては述べてなかったので、この第二段階で、糊塗された「イデオロギー」について、今回は述べたい

第二段階では、身体医学に引き寄せて、それまで「精神の病気」とされたものは、実際には、「脳の病気」であり、精神薬という物質的手段により、治療されるものである、という「イデオロギー」が浸透されたのだった。この「イデオロギー」を象徴するのが、前回もみた、「ただの病気に過ぎない」という言い方である。言い換えれば、それまでは、(精神の)「病気」としても、その原因や治療法など、謎めいたものを多く孕んだままであった。が、ここにおいて、「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされたのである。つまり、身体医学の領域に引き寄せることで、「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化されたのである。

ここにおいて、何が「排除」されているかと言えば、それは、もはや、「オカルト的なものの影響」というだけでなく、他のあらゆる「原因」や「治療法」の可能性である。もっと言えば、この「病気」について、何らかの「原因」や「治療法」を「考えること」自体が、「排除」されたのである。つまり、(脳の)「病気」ということで、それには、一つの「ケリ」がつけられ、あとは、薬物を中心とする、ほとんど自動的な治療システムに、乗せればよいだけのものとなったのである。

もちろん、この第二段階の「イデオロギー」においても、「原因」や「治療法」が、「解明」されたとまでは言っていない。しかし、「脳の病気」ということで、一つの明確な「枠組み」または「路線」は示されたのであり、「原因」や「治療法」というのも、いずれ、その枠内で、具体的に詰められればよいだけとなったのである。

このような「イデオロギー」が浸透する以前は、第一段階で、「オカルト」的なものの影響は、「排除」されたものの、それなりに「原因」が追及されたし、また、それをもたらした者への「責任」ということも、問題にされた。この「原因」ないし「責任」は、多くの場合、「親」であり、「親の育て方」の問題だった。学校、会社等の組織その他、関わった者の、直接の「影響」は、さまざまあるだろうが、実際、幼児期からの影響力という意味で、「親」に勝るものはないはずである。核家族化されたことや、社会的背景の問題もあるが、私も、親の影響が全くない、などということは考えられないと思う。

ただし、一方で、「原因」探しは、「悪者」探しということにも、つながった。精神の「病気」というのは、社会に不安と恐れをもたらすから、何らかの「悪者」を探し出して、それに責任を押し付けずにおかない。だから、「親」は、病気をもたらした「悪者」として、責任を一身に押し付けられたという面も、あるにはある。

しかし、いずれにしても、この「脳の病気」という「イデオロギー」は、このような、「病気」について、「原因」や「責任」の探求をなすことを、不必要ならしめたのである。「ただの病気に過ぎない」という言い方も、このような意味合いでこそ、最も意義をもつ。それは、社会や身の周りのものに、「原因」があるのではなく、「ただの病気」として、医学上の処置の問題に過ぎないものとなったのである

この「イデオロギー」の浸透により、「精神の病気」を、全面的に精神医療に委ねることが、ほぼ達成された。病気に関わる者、周りの者も、「責任」の問題を意識することなく、精神科医に預ければ、それで済むものとなった。

ある、社会的に不都合な者、厄介な者を、「病気」という枠に、放り込むことさえできれば、あとは、精神医療の合理的治療システムが、その者を処置してくれる。そこにあるばすの、問題を取り沙汰すこともなく、誰が責任をとる必要もない。それは、一言で言えば、自動化された、「無責任の体系」といえる

多くの者にとって、ある意味で、これ以上ないほどの、便利で、効率的な、「問題解決」のシステムを作り上げたのである。そして、そうであれば、もはや、その処置において、実際に「治療」がもたらされるかどうかは、あまり問題ではなくなる。(もちろん、「見かけ」上、「治療」がもたらされるように見えるに越したことはないが)実質上、このシステムの利益は、「治療」がもたらされるかどうかではなく、誰が責任をとるのでもなく、「病気」ということで、その問題を、そのシステムに、「厄介払い」できることにこそあるからである。

そこには、「疾病利益」とも言われるような、「病者」本人の利益も、周到に用意されてはいる。が、それより、それに関わる多くの者、または社会の利益が、優先されるのは、当然のことである。記事『「うつ」と「自殺」の問題』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-562a.html)でも、自殺の問題を「うつ」の問題とすることは、自殺にまつわる厄介な問題を、「治療」の問題にすり替えることで、多くの者が、責任や悩みの意識から解放されるものだと述べた。

しかし、この「無責任の体系」は、自殺の問題に限らず、あらゆる社会的不都合の問題にまで、拡大して適用され得るのである。そして、実際にそうなりつつある。子供の子育て上生じた不都合、学校における管理の不都合、会社等の組織の合理化における不都合などである。このシステムに依存する度合いが増えれば増えるほど、「病気」という枠は、「蟻地獄」のように範囲を広げながら、拡大し、多くの者を、そこに引きずり込んでいく。システム自体が、自己増殖し、自己拡大する要因を、孕んでいるのである。(但し、そこには、実際に、引きずり込んだ者を食らう「蟻」が存在していて、それが肥えることによって、巣をますます拡大していくことにもよっている。)

しかし、その枠が、このまま拡大していけば、いずれは、誰もが、自分の周りに、「蟻地獄」の穴へと通じる盛り上がった淵が、迫って来ていることに、気づかざるを得ないだろう。自分もまた、何らかの不都合を背負う立場になれば、その穴へと放り込まれる可能性が、みえて来るのである。

だから、この「イデオロギー」は、容易に崩せないシステムとして、築き上げられてはいるが、第一段階のイデオロギーに比べれば、そのことに気づかれやすいものといえる。実際、このシステムがどのように機能しているのか、まともに目を向けさえするだけで、そのことは、かなりみえてくるはずのものである。たとえば、病気ということに、どれだけの客観的根拠があるのか、精神疾患とされた者の「治療」ということが、本当になされているのか、、精神薬に、どれだけ治療効果があり、害悪はないのか、病院や製薬会社の利益がどれほどのもので、そのためにこのシステムが動いているのではないか、などのことが、本当に多くの者に着目されれば、その「イデオロギー」性は、意外と脆くも、暴露されざるを得ないものとなる。もともと、多くの者の「要請」と、多くの者がそのことを問題にしない、「アンタッチャブル」性によって、成り立っていたようなものだからである。

そのようにして、この第二段階的な「イデオロギー」が、取り沙汰されるようになって来ることは、結構なことであるし、実際、順序として、まず剥がされることになる「イデオロギー」は、この「イデオロギー」であることは、必然のことでもあろう。

しかし、本当は、この「イデオロギー」も、第一段階の「イデオロギー」に糊塗されているものであり、第一段階の「イデオロギー」を見えにくくしているものに過ぎない。そして、本当に、これらのことを「アンタッチャブル」にしているのも、第一段階の「イデオロギー」の方である

だから、もし、その「反省」が、このような、自動化された、暴走する「システム」に向けられるだけで、「病気」ということ、そのものに向けられないとしたら、結局は、このシステムについても、本質的に変えることには、つながらないだろう。「病気」そのものは、相変わらず、何らかの処置が必要であり続けるし、その「アンタッチャブル」性も、取り払われることはなく、本質的な追求の目が向けられることはないからである。

それで、それは、治療法や、薬物についての、多少の「改変」という程度のことに終わり、今のシステム自体、大枠として、存在し続けることになる。そして、相変わらず、「蟻地獄」として拡大し続け、第一のイデオロギーを糊塗し続けるものとなる。

2014年7月 3日 (木)

「病気」ということの「イデオロギー」的意味

精神の領域において、「病気」という捉え方をすること自体が、すでに精神医学の「イデオロギー」に捕らえられていることを明らかにする重要な記事です。加えて、精神医学に関して、「オカルト」的なものを抜かすことができない理由も明らかにします。

精神医学または精神医療に関しては、安易な診断とか、多量、多剤の薬物の投与など、かつてないほどに、批判や疑いの目が、向けられるようになって来ている。しかし、批判や疑いが、そのように、診断とか、治療のあり方というレベルに止まって、精神の「病気」ということそのものに向けられない限り、本当には、精神医学または精神医療が変わることには、つながらないと思う。

つまり、多くの者は、「病気」ということの、範囲の確定とか、診断の仕方には疑問を持っても、「病気」ということそのものには、疑いの目を向けないようである。しかし、既に、そのこと自体で、精神医学や精神医療の「見方」に、半分以上は捕らえられていることになるのである。

言い換えると、精神の領域において、「病気」なるものがある、と思わせた時点で、精神医学や精神医療は、半分以上は「勝利」を手中にしたようなものである。「病気」という捉え方をすること自体、「治療」を必要とする、生体的または社会的な「害悪」として、「イデオロギー」的意味をもつ。そして、それを浸透させた時点で、精神医学または精神医療は、実質的に、「世間」に対し、自らの支配領域と強制力を、確定したのである。

「世間」の側からすれば、それを「受け入れ」たのであり、最近の横暴は、その「受け入れ」につけ込む形で、好き勝手な暴走をしたものに過ぎない。その「受け入れ」を前提にして、暴走だけを問題としても、本質的に、「受け入れ」を覆すものとはなり得ない。精神医学や精神医療は、表向き、多少の改変を施すとしても、あい変わらず、世間の「受け入れ」の上に、君臨し続けることになる。

記事、『「ただの病気に過ぎない」という言説』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-e53b.html)にも書いたが、精神科医で、「精神病は、ただの病気である」、「それ以上に、何らかの意味を付与するのがいけない」という者がいる。それは、その医師自体が、「病気」なるものを、単なる、医学的な「事実」と思っているのである。だから、「病気」を「病気」とそのまま受け取って、何らの「意味」を付与しなければ、差別とか、逆に、持ち上げが生じないで、純粋に、「治療」の問題に収めることができる、と思っているのである。

しかし、それは、精神の領域において、「病気」ということ自体が、既に強い「意味」であることを、何も分かっていない。そもそも、「病気」なる「もの」は、身体医学の領域にも、それとして存在するわけではない。ただ、身体的に、その害ある状態が「見える」ものとして確認できるので、その状態を、「病気」として、医学的に、「既定」しているだけである。身体医学の領域でも、それは、やはり、医学上の「解釈」であり、一つの「意味」である。ましてや、人それぞれ、多様なあり様があり、さまざまな「評価」のあり得る、精神の領域において、人が陥る状態や人格のあり様を、「病気」として、「治療」の必要な「害悪」と規定することは、強度の「意味」となる。

むしろ、「<ただの>病気に<過ぎない>」と言うことで、その「意味」は、他の可能性を顧みられることなく、はっきりと、固定されることになるのである。

このような、「病気」ということの「イデオロギー」的意味の獲得は、歴史的に、二段階に分けてなされた、とみることができる。(記事『精神科に「やりたい放題」にさせた「システム」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html)や『「精神医学」と「オカルト」的なもの』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html)とも重なるが、新たな視点から簡単に述べる。)

まず、第一段階は、社会的に放置できない、一定のパターンの精神的状態を、医学に引き寄せて、「病気」という既定をなしたことである

この場合の「病気」は、必ずしも、身体医学的な意味の「病気」ではない。精神の「病気」であれ、何であれ、とりあえず、それを「病気」として、医学の対象に取り込み、「治療」の必要な「害悪」と、既定することが重要なのである。そして、実質的にも、その「治療」のために、「病院」に隔離したり、強制的な手段を施したりすることを、正当化し、可能にしたのである。

「病気」という既定をなすことは、歴史的に言っても、それまで「病気」とはみなされなかったものを、新たに、「病気」として捉え直すことである。そのようなものは、西洋でも、日本でも、近代以前には、多かれ少なかれ、「霊的なもの」の影響によるとみなされた。あるいは、「魔的」なものの影響といった方がよく、むしろ、全体として、「オカルト」的なものの影響という言い方が、ピッタリくる。

だから、医学に引き寄せた、「病気」という既定は、それ自体で、「病気ではない」という見方を、封じ込める意味がある。特に、それまでの、「オカルト的なものの影響」という見方を、封じるものである。それを「自明なこと」とする者には、分かりにくいことだろうが、一つの「ものの見方」の、強力な実施であり、それ自体が、「イデオロギー」的意味を強くもつものである。

ただし、このような見方は、決して、精神医学が一方的に押し付けたものではなく、当時の民衆の利害とも一致したのである。民衆もまた、「オカルト」的なものに対する、近代以前から継承する恐れや、民衆を巻き込んで沸騰する「魔女狩り」に疲弊していたことなどのため、「オカルト的なもの」を、社会から追放し、「排除」したかったからである。「精神病者」とは、「病気」という名の下に、そのような、排除すべき「オカルト」的なものを、一身に背負わされた、スケープゴート的存在ともいえる。

また、実質的に言っても、社会はもはや、全体として、「精神病者」を抱え込むだけの力量をなくしていた。何者かが、「正当な理由」と「権力」に基づき、それらの者の管理や処分を請け負うことが、社会の要請となったのである。そして、「精神医学」または「精神医療」こそが、そのある意味、「力仕事」であり、「汚れ仕事」を、委ねられたのである。

次に、第二段階は、身体医学に引き寄せて、「病気」という既定をなしたことである。ここでは、もはや「病気」とは、単なる「病気」でも、「精神の病気」という曖昧なものでもなくなった。身体医学の対象と同じく、身体の病気なのであり、特に「脳の病気」とみなされたのである。そこで、精神薬のような薬物療法が、治療手段として主流となり、人手のかからない、合理的、マニュアル的な対処が可能となった。

「病気」という既定を浸透させたことで、既に半分以上勝利を収めた精神医学は、さらに「身体医学」に引き寄せた、「病気」の概念を普及させたことで、ほぼ完全なる勝利を収めた。それは、もはや、「見えない」ものではなく、「見える」病気であり、身体医学の対象と同様に、薬という物質的手段で、治療の可能なものとみなされた。また、巨大化した製薬会社と手を組むことにより、合理化された、マニュアル的対処と、それに基づく、強固で、容易には覆せないシステムを作り上げた。

ここにおいて、「病気」ということの「イデオロギー」的意味は、二重に積み重ねられ、容易に剥がされないものとなった

そこで、もし、このイデオロギー的意味を、剥がそうとするなら、単に、第二段階のものだけではなく、第一段階のものから俎上にのせる必要があるのである。そして、実際、この第一段階のものの方が、より手ごわい相手である。「オカルト」的なものという、はっきりとは捉え難い、「目に見えない」もの、また、少なからず、恐れや嫌悪感をもたらし、だからこそ、封じ込めたものを、心理的に掘り返して、相手にしなければならないからである。

私は、「精神医学」や「精神病」を主たるテーマとする、このブログでも、「オカルト」的な話題を多くとり上げている。一般には、「オカルト」的な話題は、「精神医学」や「精神病」の問題をまじめに扱うについては、ナイナスに作用する、と思われているかもしれない。

しかし、「精神医学」や「精神の病」について、本当に踏み込んで考察するなら、「オカルト」的ものを切り離すことはできないのである。むしろ、多くのものが、それから解放されたかにみえる、現代においても、「精神医学」や「精神の病」こそ、他の何にも増して、「オカルト」の陰影を強く纏っているものである。それは、現代においても、どことなく、「タブー」の感覚、「アンタッチャブル」な印象を漂わせている。我々自身が、そこに、「オカルト」的なものを、封印して閉じ込めたからである。その問題を、本当に明るみに出そうとすれば、「オカルト」的なものの考察を欠かすことはできないのである。

精神医学または精神医療については、特に「オカルト」的なものを前面に出さなくとも、それが、もともと「優生思想」の産物であり、「イデオロギー」的なものであることを、鋭く説き明かしている者はいる。それは、それなりに、かなりの者に受け入れられつつあると思う。しかし、精神医学または精神医療が、その「優生思想」を実践できているのは、単に「洗脳」の結果だけではなく、民衆の側の「要請」なのでもある。だから、民衆自身がその「要請」に深く囚われていることに、自覚的に気づかない限り、本当には、民衆レベルにおいても、納得されることはないと思う。

言い換えれば、「精神の病気」ということについて、それを「病気」ということで、医師に委ねようとする意思があるとすれば、それはどこから生じているのか、本人またはその周りの者が、本当に納得しない限り、それを改変するということも望めないのである。

「病気」という捉え方をすることには、既にどこかに、「オカルト」的なものに対する排除の意思が働いているということである。そこに、「オカルト的」なものの何らかの現れを、漠然とでも予感するがゆえに、それから目をそらすべく、「病気」という既定に乗っかり、それで済まそうとするのである。

「統合失調」の場合は、恐らく、「病気」という既定に乗っかろうとする者は、本人ではなく、周りの者であることが大多数であろう。しかし、それは、決して本人にもないわけではなく、やはり、それが「オカルト的」なものである可能性には、強い恐れを抱いている。それで、「妄想」においては、迫害するものとして、CIAその他の、より「オカルト」的でないものが、選ばれるのである。

私自身は、ブログの記事でも述べて来ているように、「精神の病」といわれるもの、特に、「統合失調」には、実際に、「オカルト」的なものの影響が少なからず働いている、とみている。だから、本質的に、「精神の病」といわれるものを掘り下げようとするなら、当然に、「オカルト」的なものを抜かせないことになる。

しかし、そうでなくとも、歴史的に言って、「精神の病」といわれるものは、「オカルト」的なものと結び付けられて理解されて来たのであり、未開社会その他において、現在でも、多くの文化では、そのように解されているのである。また、現代の日本においても、そのように解する者、あるいは、その可能性を否定しない者は、決してそれほど少なくないはずである。

「精神の病」というものには、そのような「見方」が、長い間纏わり付いていた、または、今も纏わり付いていることは、「事実」なのであり、そのことは、現在においても、そのようなものに触れるときに、それなりに、陰影を残さないではいないのである

だから、「精神の病」というものに、本当に「オカルト」的なものが関わるかどうかという問題はおくとしても、「精神の病」を「病気」として捉えるときには、そこに、陰影としてある、「オカルト的」なものの影響という見方を、「排除」したいという意思が働いていないかどうか。もし、(治療効果のはっきりしない)精神医療というものへの、何らかの「期待」があるとしたら、それは、陰影としての、「オカルト」的なものの影響を否定してくれることに、かかっているのではないか、ということについて、改めて考えを巡らせてみてほしい。

そうすれば、「病気」ということで済ますことの、「イデオロギー」的意味について、改めて気づくとともに、それこそが、精神医学と精神医療を支えていることに気づくはずである。そして、「精神の病」を「病気」として、「精神科医」に委ねることについて、根本的な反省も生まれ得ると思う。

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