精神の領域において、「病気」という捉え方をすること自体が、すでに精神医学の「イデオロギー」に捕らえられていることを明らかにする重要な記事です。加えて、精神医学に関して、「オカルト」的なものを抜かすことができない理由も明らかにします。
精神医学または精神医療に関しては、安易な診断とか、多量、多剤の薬物の投与など、かつてないほどに、批判や疑いの目が、向けられるようになって来ている。しかし、批判や疑いが、そのように、診断とか、治療のあり方というレベルに止まって、精神の「病気」ということそのものに向けられない限り、本当には、精神医学または精神医療が変わることには、つながらないと思う。
つまり、多くの者は、「病気」ということの、範囲の確定とか、診断の仕方には疑問を持っても、「病気」ということそのものには、疑いの目を向けないようである。しかし、既に、そのこと自体で、精神医学や精神医療の「見方」に、半分以上は捕らえられていることになるのである。
言い換えると、精神の領域において、「病気」なるものがある、と思わせた時点で、精神医学や精神医療は、半分以上は「勝利」を手中にしたようなものである。「病気」という捉え方をすること自体、「治療」を必要とする、生体的または社会的な「害悪」として、「イデオロギー」的意味をもつ。そして、それを浸透させた時点で、精神医学または精神医療は、実質的に、「世間」に対し、自らの支配領域と強制力を、確定したのである。
「世間」の側からすれば、それを「受け入れ」たのであり、最近の横暴は、その「受け入れ」につけ込む形で、好き勝手な暴走をしたものに過ぎない。その「受け入れ」を前提にして、暴走だけを問題としても、本質的に、「受け入れ」を覆すものとはなり得ない。精神医学や精神医療は、表向き、多少の改変を施すとしても、あい変わらず、世間の「受け入れ」の上に、君臨し続けることになる。
記事、『「ただの病気に過ぎない」という言説』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-e53b.html)にも書いたが、精神科医で、「精神病は、ただの病気である」、「それ以上に、何らかの意味を付与するのがいけない」という者がいる。それは、その医師自体が、「病気」なるものを、単なる、医学的な「事実」と思っているのである。だから、「病気」を「病気」とそのまま受け取って、何らの「意味」を付与しなければ、差別とか、逆に、持ち上げが生じないで、純粋に、「治療」の問題に収めることができる、と思っているのである。
しかし、それは、精神の領域において、「病気」ということ自体が、既に強い「意味」であることを、何も分かっていない。そもそも、「病気」なる「もの」は、身体医学の領域にも、それとして存在するわけではない。ただ、身体的に、その害ある状態が「見える」ものとして確認できるので、その状態を、「病気」として、医学的に、「規定」しているだけである。身体医学の領域でも、それは、やはり、医学上の「解釈」であり、一つの「意味」である。ましてや、人それぞれ、多様なあり様があり、さまざまな「評価」のあり得る、精神の領域において、人が陥る状態や人格のあり様を、「病気」として、「治療」の必要な「害悪」と規定することは、強度の「意味」となる。
むしろ、「<ただの>病気に<過ぎない>」と言うことで、その「意味」は、他の可能性を顧みられることなく、はっきりと、固定されることになるのである。
このような、「病気」ということの「イデオロギー」的意味の獲得は、歴史的に、二段階に分けてなされた、とみることができる。(記事『精神科に「やりたい放題」にさせた「システム」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html)や『「精神医学」と「オカルト」的なもの』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html)とも重なるが、新たな視点から簡単に述べる。)
まず、第一段階は、社会的に放置できない、一定のパターンの精神的状態を、医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。
この場合の「病気」は、必ずしも、身体医学的な意味の「病気」ではない。精神の「病気」であれ、何であれ、とりあえず、それを「病気」として、医学の対象に取り込み、「治療」の必要な「害悪」と、規定することが重要なのである。そして、実質的にも、その「治療」のために、「病院」に隔離したり、強制的な手段を施したりすることを、正当化し、可能にしたのである。
「病気」という規定をなすことは、歴史的に言っても、それまで「病気」とはみなされなかったものを、新たに、「病気」として捉え直すことである。そのようなものは、西洋でも、日本でも、近代以前には、多かれ少なかれ、「霊的なもの」の影響によるとみなされた。あるいは、「魔的」なものの影響といった方がよく、むしろ、全体として、「オカルト」的なものの影響という言い方が、ピッタリくる。
だから、医学に引き寄せた、「病気」という規定は、それ自体で、「病気ではない」という見方を、封じ込める意味がある。特に、それまでの、「オカルト的なものの影響」という見方を、封じるものである。それを「自明なこと」とする者には、分かりにくいことだろうが、一つの「ものの見方」の、強力な実施であり、それ自体が、「イデオロギー」的意味を強くもつものである。
ただし、このような見方は、決して、精神医学が一方的に押し付けたものではなく、当時の民衆の利害とも一致したのである。民衆もまた、「オカルト」的なものに対する、近代以前から継承する恐れや、民衆を巻き込んで沸騰する「魔女狩り」に疲弊していたことなどのため、「オカルト的なもの」を、社会から追放し、「排除」したかったからである。「精神病者」とは、「病気」という名の下に、そのような、排除すべき「オカルト」的なものを、一身に背負わされた、スケープゴート的存在ともいえる。
また、実質的に言っても、社会はもはや、全体として、「精神病者」を抱え込むだけの力量をなくしていた。何者かが、「正当な理由」と「権力」に基づき、それらの者の管理や処分を請け負うことが、社会の要請となったのである。そして、「精神医学」または「精神医療」こそが、そのある意味、「力仕事」であり、「汚れ仕事」を、委ねられたのである。
次に、第二段階は、身体医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。ここでは、もはや「病気」とは、単なる「病気」でも、「精神の病気」という曖昧なものでもなくなった。身体医学の対象と同じく、身体の病気なのであり、特に「脳の病気」とみなされたのである。そこで、精神薬のような薬物療法が、治療手段として主流となり、人手のかからない、合理的、マニュアル的な対処が可能となった。
「病気」という規定を浸透させたことで、既に半分以上勝利を収めた精神医学は、さらに「身体医学」に引き寄せた、「病気」の概念を普及させたことで、ほぼ完全なる勝利を収めた。それは、もはや、「見えない」ものではなく、「見える」病気であり、身体医学の対象と同様に、薬という物質的手段で、治療の可能なものとみなされた。また、巨大化した製薬会社と手を組むことにより、合理化された、マニュアル的対処と、それに基づく、強固で、容易には覆せないシステムを作り上げた。
ここにおいて、「病気」ということの「イデオロギー」的意味は、二重に積み重ねられ、容易に剥がされないものとなった。
そこで、もし、このイデオロギー的意味を、剥がそうとするなら、単に、第二段階のものだけではなく、第一段階のものから俎上にのせる必要があるのである。そして、実際、この第一段階のものの方が、より手ごわい相手である。「オカルト」的なものという、はっきりとは捉え難い、「目に見えない」もの、また、少なからず、恐れや嫌悪感をもたらし、だからこそ、封じ込めたものを、心理的に掘り返して、相手にしなければならないからである。
私は、「精神医学」や「精神病」を主たるテーマとする、このブログでも、「オカルト」的な話題を多くとり上げている。一般には、「オカルト」的な話題は、「精神医学」や「精神病」の問題をまじめに扱うについては、ナイナスに作用する、と思われているかもしれない。
しかし、「精神医学」や「精神の病」について、本当に踏み込んで考察するなら、「オカルト」的ものを切り離すことはできないのである。むしろ、多くのものが、それから解放されたかにみえる、現代においても、「精神医学」や「精神の病」こそ、他の何にも増して、「オカルト」の陰影を強く纏っているものである。それは、現代においても、どことなく、「タブー」の感覚、「アンタッチャブル」な印象を漂わせている。我々自身が、そこに、「オカルト」的なものを、封印して閉じ込めたからである。その問題を、本当に明るみに出そうとすれば、「オカルト」的なものの考察を欠かすことはできないのである。
精神医学または精神医療については、特に「オカルト」的なものを前面に出さなくとも、それが、もともと「優生思想」の産物であり、「イデオロギー」的なものであることを、鋭く説き明かしている者はいる。それは、それなりに、かなりの者に受け入れられつつあると思う。しかし、精神医学または精神医療が、その「優生思想」を実践できているのは、単に「洗脳」の結果だけではなく、民衆の側の「要請」なのでもある。だから、民衆自身がその「要請」に深く囚われていることに、自覚的に気づかない限り、本当には、民衆レベルにおいても、納得されることはないと思う。
言い換えれば、「精神の病気」ということについて、それを「病気」ということで、医師に委ねようとする意思があるとすれば、それはどこから生じているのか、本人またはその周りの者が、本当に納得しない限り、それを改変するということも望めないのである。
「病気」という捉え方をすることには、既にどこかに、「オカルト」的なものに対する排除の意思が働いているということである。そこに、「オカルト的」なものの何らかの現れを、漠然とでも予感するがゆえに、それから目をそらすべく、「病気」という規定に乗っかり、それで済まそうとするのである。
「統合失調」の場合は、恐らく、「病気」という規定に乗っかろうとする者は、本人ではなく、周りの者であることが大多数であろう。しかし、それは、決して本人にもないわけではなく、やはり、それが「オカルト的」なものである可能性には、強い恐れを抱いている。それで、「妄想」においては、迫害するものとして、CIAその他の、より「オカルト」的でないものが、選ばれるのである。
私自身は、ブログの記事でも述べて来ているように、「精神の病」といわれるもの、特に、「統合失調」には、実際に、「オカルト」的なものの影響が少なからず働いている、とみている。だから、本質的に、「精神の病」といわれるものを掘り下げようとするなら、当然に、「オカルト」的なものを抜かせないことになる。
しかし、そうでなくとも、歴史的に言って、「精神の病」といわれるものは、「オカルト」的なものと結び付けられて理解されて来たのであり、未開社会その他において、現在でも、多くの文化では、そのように解されているのである。また、現代の日本においても、そのように解する者、あるいは、その可能性を否定しない者は、決してそれほど少なくないはずである。
「精神の病」というものには、そのような「見方」が、長い間纏わり付いていた、または、今も纏わり付いていることは、「事実」なのであり、そのことは、現在においても、そのようなものに触れるときに、それなりに、陰影を残さないではいないのである。
だから、「精神の病」というものに、本当に「オカルト」的なものが関わるかどうかという問題はおくとしても、「精神の病」を「病気」として捉えるときには、そこに、陰影としてある、「オカルト的」なものの影響という見方を、「排除」したいという意思が働いていないかどうか。もし、(治療効果のはっきりしない)精神医療というものへの、何らかの「期待」があるとしたら、それは、陰影としての、「オカルト」的なものの影響を否定してくれることに、かかっているのではないか、ということについて、改めて考えを巡らせてみてほしい。
そうすれば、「病気」ということで済ますことの、「イデオロギー」的意味について、改めて気づくとともに、それこそが、精神医学と精神医療を支えていることに気づくはずである。そして、「精神の病」を「病気」として、「精神科医」に委ねることについて、根本的な反省も生まれ得ると思う。
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