LSDその他の幻覚剤による、「幻覚体験」を表した本というものがある。私が読んだ範囲でだが、いくつか紹介してみたい。
1 オルダス・ハクスリー著 『知覚の扉』(平凡社ライブラリー)
著者は、小説家で、『すばらしい新世界』という、現代の状況を見事に映し出した逆ユートピア小説は、前にも紹介したことがあった。そこでは、ソーマという「麻薬」が、皮肉な意味合いで出てくる。『知覚の扉』は、その後の著者の、メスカリンによる幻覚体験(知覚の変容体験)を綴ったものである。文学者らしい、巧みな(しかしときに過剰な)表現力で、それを伝えていることには、率直に驚かされる。
しかし、それは、著者自身が予想したような、主観的で、非現実的な幻想世界というものではなかった。それは、客観的な「現実」そのものが、それまでの知覚世界を一新し、内から光り輝くような、強烈なリアリティと意味のもとに蘇る、というものだった。そこには、生命の鼓動すら感じとられ、一瞬一瞬の新たな創造に立ち会うかのようである。また、禅のいう「悟り」とは、まさに、現に立ち現れている、「それ」(個々の事物)そのものであるということが、手を取るように分かる。その知覚状態においては、「それ」は、もはや、自己と別物なのではなく、自己と「一体」のものとして立ち現れているのである。
この体験を通して、著者は、メスカリンのような幻覚剤を、禅の悟りのように、自己を超越する体験をもたらす、有用なものとみなすようになったようだ。
幻覚剤において、このような意味で「知覚の扉」が開かれ、強烈な「リアリティ」の体験をすること自体は、いくらもあるはずのことである。それは、確かに、その「知覚体験」という現象のみに着目するときには、禅などの悟りの表現として表わされるものと、同一のものと言っていい。要するに、この知覚の瞬間には、自己と世界との間に立ちはだかる「自我」という覆いが、取り払われているのである。それで、事物の本来の「リアリティ」が、強烈に立ち現れると同時に、それは、本来の自己と同一のものとして、感得されることにもなるのである。
ただし、それはまた、統合失調のような幻覚体験でも、多かれ少なかれ起こることである。統合失調状況においても(もともとの自我の脆弱さが影響することも多いだろうが)、また、自己と外界を境界づける「自我」は、大きく揺らぎ、または失なわれ、その区別を失わしめるような、強烈な「幻覚」が起こるからである。
幻覚体験そのものは、そのような、「自我」というものを当然の枠組みとしている日常の知覚体験とは異なり、「自我」が揺らぎ、または外れたときの、一つの必然的な「知覚体験」であり、客観的なものであるということを、押さえておくべきである。それ自体には、(プラスであれ、マイナスであれ)変な「価値づけ」は、なされるべきではない、ということである。
しかし、著者も言うように、そこには、事実上、「天国」と「地獄」と言ってもいいような、大きな質的な差が生じることがあるのも事実である。
著者は、この「幻覚」体験を通して、分裂病についても、非常に的確な理解をなしていることには驚く。少し長いが、引用してみよう。
精神分裂病者は罪深い人間という存在の上に絶望的な病というおまけのついた人間である。その病とは、常識という自家製の世界-便利な概念や共有された象徴や社会的に容認された習慣で成り立っているまったき人間の世界-にあって(正気の人間が普通そうしているようには)、内面及び外面のリアリティから逃避することのできない、その不可能性である。精神分裂病者は絶えずメスカリンの効力の下にある人間に似ている。従ってまた、あまり聖なる存在でないためにそれと直面して生き続けることのできないようなリアリティ経験から完全に逃れることができず、しかもそのリアリティが原初的事実の中でも最も動かしがたい事実であるがために言葉による説明で片づけることもできず、また単なる人間の眼で世界を見ることをそれが許さないためその徹底した異質性、その燃えるような意味の激しさを人間の悪意、いや宇宙の悪意の表れとすら解釈せざるを得ないほどに怯えることになり、殺人的暴力から緊張型分裂病つまりは心理的自殺に到るさまざまな必死の対抗手段に走るのである。それも一度下向線を、地獄への道をたどりはじめるとおそらく止まることは不可能であろう。 (73頁)
つまり、分裂病者は、リアリティへの感覚が鋭くあるため、通常の人間のようには、日常の世界に収まることができないが、かといって、聖者のように、それの取り払われた本来のリアリティの世界にも、落ち着くことができず、その「悪意ある」恐怖に対抗すべく足掻いて、混乱を深めていくしかない、ということになる。分裂病者の、どちらつかずの「中間的な位置」というか、一種の「中途半端さ」をよく言い表している。
著者自身、体験中には、このような、「居心地のよい象徴の世界(日常の世界)に慣れている精神には耐えられないほどの大きなリアリティの圧力にうちひしがれ、崩壊するという恐怖」は、感じており、ただ、「健康」な人間として(そばに語りかける妻の存在があったことにもより)、それに囚われずに済んでいる。
しかし、一方、著者自身も理解しているように、幻覚剤による体験は、あくまで、幻覚剤によって、一時的にもたらされた「反応」に過ぎないのは、明らかである。その者本人が、内発的に生み出したものではなく(その意味では、一応、内部的なものから生み出される統合失調の幻覚体験より、外部的なもの)、その後も、幻覚剤に頼らずに、生み出される保証は、何もないものである。そして、もし、その体験を求めて、幻覚剤に頼るようになるとすれば、それはただの依存症をもたらすに過ぎない。
著者は、自己超越の欲求は、人間に普遍的にあるものであるにも拘わらず、現在の状況として、それを適えるような環境がなさ過ぎることこそが、問題だとしている。それで、アルコールやその他の害の多い薬物への依存も、多く起こることになる。メスカリンのような害の少ない幻覚剤は、一時的な体験だとしても、有意義なものをもたらすはずだとしているのである。
しかし、著者自身の場合は、そうであったとしても、メスカリンによる幻覚体験が、一般にそのように有意義なものになる保証は、あまりにもなさ過ぎる、と言わざるを得ない。そして、そのことは、後の例をみても、明らかのはずである。
2 『意識の中心』 ジョン・C・リリー著 (平河出版社)
著者は、イルカの研究でも有名な脳科学者ジョン・C・リリーで、この本は、LSDによる幻覚体験や、その他の方法による変性意識の体験を通して、意識の状態について、様々に探求したことを綴ったもの。
著者もハクスリーのように、LSD体験により、初め、外的な現実について、強烈なリアリティの蘇りを体験する。しかし著者は、その後も様々に、LSDやその他の方法によって変性意識の体験を重ね、外的な現実に限らない、内的外的な様々な領域(空間)にトリップし、それらの領域の様相や、そのときの意識の状態を明らかにしている。そこには、天国的なものから、地獄的なものまで、様々含まれる。そして、それらを意識のレベルの諸相として、段階づけることを試みている。
著者は、二度目のLSD体験のとき、昏睡状態に陥り、自ら気づかないうちに、自らを傷つけ、酷い傷害を負わせるという体験をしている。そのことを通して、人間には、無意識の奥に「自己破壊的なプログラム」があることを知る。LSDその他の幻覚剤体験において、自己を破壊するような衝動的行動が起こることがあるのは、そのためとしている。
また、LSD体験による幻覚世界には、自己の内部にあるものの「投影」ということが、多く起こることにも気づく。いわゆる「バッド・トリップ」、地獄的な体験というものは、自己の内部のプログラム(信念体系)が起こしているということになるのである。
著者のLSD体験の特徴は、一時的な天国的体験や、非日常的なトリップにあるのではなく、このような地獄的な幻覚体験を通してこそ、自己の無意識に働いているプログラム(信念体系)を知り、それを克服していくことで、全体として、体験の質を変えていくこと、意識のレベルを高めていくことを学ぶというものである。
これは、加藤清のいう「相貌化」と非常に近いもので、LSDによる幻覚体験を通して、内面にあるものを浮かび上がらせ、その統合を図るという精神療法にも近いものがある。
ただし、もちろん、著者の場合は、自分自身にそれを施しているのであり、初め、人間のガイドをそばにおいていたが、後に、それもなく、自分一人で行うようになる。全く、危険な試みであるのは確かで、それに振り回されないためには、自分自身の抑制力と、観察力、意志力が頼りになる。ただ、見えない世界のガイド2人の存在は、常につきまとってたいたようである。
このような点では、管理された状況での実験というよりは、むしろ、統合失調的状況をくぐり抜けることにも、似ている。著者のした最悪の地獄的体験は、実際、統合失調状況における、「幻覚-妄想」体験と酷似している。
それは、著者が「コズミック・コンビューター」と呼ぶものに、閉じ込められる体験である。それは他の誰かの巨大なコンピューターで、彼はその中の極めて小さなプログラムに過ぎない。しかし、この巨大なエネルギーの内蔵されたコンピューターには、一つとして意味をなすものがない。
「私は、他のプログラムの中を漂う一つのプログラムとして、そのコンピューターの中を旅した。そのコンピューターの端から端まで移動した。いたるところに、私自身に似た実体を見出した。それらの実体もまた、いかなる意味も愛も人間的価値もまったくないこの巨大な宇宙的陰謀、このエネルギー物質のコズミック・ダンスにおける従属的プログラムであった、そのコンピューターは完全に情を欠いており、よそよそしく恐ろしかった。コンピューターの外側にある究極的なプログラマーの層は、悪魔自身の化身だったが、彼らもまたプログラムに過ぎなかった。この地獄を去る望みも機会も選択の余地も永遠に存在しなかった。」
ハクスリーによれば、このような宇宙的陰謀の世界は、強烈な「リアリティ」を受け入れられず、悪意あるものと受けとることから、来るものだった。そのような面は確かにあるが、それはまた、著者自身の信念が見せている世界でもある。著者は、決して「唯物論者」でも「虚無主義者」でもないが、心の奥の隠された層には、そのようなものが蠢いていたのである。似たものを体験する、統合失調状況の者にも、同じことが言えるだろう。
しかし、著者は、そのような地獄的体験をくぐり抜けることによってこそ、高い意識状態に至るのであり、その状態において目覚めていることができるのだとするのである。そのことを述べた部分を、引用してみよう。
私は、意識を失わなかったし、苦痛に耐えました。宇宙の果てでシャイタン(悪魔)と対面し、その恐怖に耐えました。意識的に悪魔とともにとどまり、意識を投げ出さなかった。意識的にその中にその真っ只中にとどまったのです。そして、それが学ぶべきことなのです。意識的に悪魔のふところに入っていけるようになるまでは、サトリ6(グルジェフのいう意識の振動数+6の状態)の深みや高みに意識的に入っていくことはできない。[パチンコ効果、すなわち上昇するためのバックスイング、ないしダウンスイング、トランポリン効果ともいう]
それが力の生じる場所なのです。はるかなる深淵で、無意識に逃げ込むことも、「眠る」ことも、忘れることもできないあなたに向かって、悪魔が投げつける不潔極まりない真の汚物。そして、それが、あなたが眠りにつく理由なのです。そうした状態では、目覚めていることがあまりにも辛すぎる。苦痛は法外なもので、恐怖は信じ難いものです。恐怖と苦痛。けれども、-6や-12の中で目覚めていることのできない者は、+6や+12のサトリの中で目覚めていることもできない。
(269頁)
これは、統合失調状況を、「死と再生」の「イニシエーイョン」とみることとも、通じるものである。
ハクスリーでは、天国と地獄とは、人の違いにより生まれるという面が強かった。しかし、リリーでは、それは、誰もの心の中にある性質であり、その者の状況や成長度の違いにより、違う表れをして来るというものに過ぎない。リリーは、一時的な体験ではなく、幻覚剤その他の方法により、変性意識の体験を積み重ねることによって、そのことを明らかにしたということがいえる。しかし、LSDのような幻覚剤は、変性意識をもたらす重要な手段ではあるが、LSDそのものが、そのような世界を見せているわけではないのである。
リリーの、このような地獄からの「反転」体験は、私の、一連の体験をくぐり抜ける体験とも非常に似ているし、意識の状態の説明も、それともよく符合する。私もまた、長引く地獄的状況が、「宇宙的死」を迎えるまでにいたり、そこで「闇」または「虚無」と接触し、それに包まれることによって、一瞬だが、+6に相当する「自己としての点」を体験した。それは、すぐさま、48と呼ばれる中立的状況に戻されたが、そのとき、もはや、地獄的状況は、一切吹き飛んでしまっていたのだった。
そして、リリーも言うように、その「悪魔」とともにどとまる地獄的状況では、意識を失うことはなく、意識とともにあり続けた。というよりも、その状況で、何か自力でできることがあるとしたら、もはやそれしかなかったというのが本当のところである。それは、もう少し具体的に言えば、「とにかく見極めよう」、「とことん見極めてやろう」という意志としてあり続けた。それにより、何とか、完全には、「狂い」の中に意識を巻き込まれずに、済んだのである。そして、「宇宙的死」を迎える状況まで、意識をあらしめてくれることになったのである。
だから、LSD体験においても、そうなのだろうが、統合失調的状況で、最終的にできることは、それだけなのである。
※ http://enneagramassociates.com/PDF/ennea_study_no3.pdf の20べージに、「意識の諸レベル」について単純化した図がある。
なお、
状態48 人間の生命コンピュータ
状態+24 基本的専門家の状態
状態+12 至福の共有
状態+6 自己としての点
状態+3 古典的なサトリ-創造者の一員としての本質
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