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2014年5月

2014年5月30日 (金)

「次元降下」して地球に生きる「金星人」

「宇宙人」と言えば、ゼータ、シリウス、プレアデス、オリオンなどの太陽系外の惑星の住人であることが、当然の前提のようになっているのが普通だろう。私自身、ずっと、そう考えて来たが、最近改めて、太陽系内の「宇宙人」も見直す必要がある、と思うようになった。

それは、オムネク・オネクというアメリカ在住の、自称「金星人」の著書、『私はアセンションした惑星から来た』(ヒカルランド)を読んでからである。

オムネクは、「金星人」であることを自称し、家族や周りの者にもそれを公言して生活し、また家族ともども、テレビに出演したり、インタビューに応じて、世間一般にも、公然とそのことを暴露している。(Youtube動画 https://www.youtube.com/watch?v=6XFdnUOMqMA 参照)

ただ、「金星人」と言っても、金星の住人ないしその居住環境は、(他の太陽系内の惑星もそうだが)ある時期から「次元上昇」して、「アストラル化」しており、物質的形態でなくなっている、ということである。ところが、このオムネクは、あえて、「次元降下」して、物質的形態となって、地球のある人物と入れ代わるように、地球人として生まれて来たというのである。それは、「魂」だけが入れ代わる、いわゆる「ウォークイン」でもなく、もちろん、単に、魂が、地球人として「転生」して来たのでもない。

それは、金星人としての自覚と記憶、経験を身につけたままの「次元降下」であり、いわば、丸ごとの「地球人化」である。しかも、一旦、「次元降下」した以上、もはや地球でいう「死」のプロセスを経ない限り、もとの「金星人」には戻れないのだという。

このようなことをするに至った理由は、一つは、彼女自身の「カルマの清算」のためであり、もう一つは、地球人に対する「教化」のためである。後にもみるが、「次元上昇」して「アストラル化」したと言っても、完璧になったわけでも、「魂」として完結したわけでもなく、本当に、輪廻を越えるには、カルマの清算をする必要があり、そのためには、地球のような「物質」的形態へと一旦は戻らなければならないらしい。

そして、それは同時に、現在地球が、金星もかつては通って来たような、破滅的な危機にあって、次元上昇する必要に迫られているので、地球人に対する「教化」の機会として、利用されたことでもあるという。

オムネクは、今まで地球で過ごすことで、レイプなどを含む、かなり強烈な試練を多く受けており、そのようなことを通して、地球人というものを、肌で理解する機会を多くもったという。もともとの金星人としての意識と、そのような地球人としての経験(過去にも地球人として転生したことがある)を踏まえて、より地球の現状に見合った、効果的な、「教化」をしようというのである。

但し、言っていることの内容自体は、たとえば、ジーナ・レイクやバーバーラ・シャーマニックなどの「チャネリング」ものと、そう変わるわけではない。要は、地球人が、宇宙全体の中で、いかに「遅れた」状態にあり、現在、破滅の危機にあるので、いかに変わらなければならないか、ということを説くものである。しかし、それは、自然、親しみやすいものになっているし、高みから、降ろされたものという感じがない。また、実際の「次元上昇」がどういうものなのかということが、金星人の生活ということを通して、具体的に述べられているのも貴重である。

「チャネリング」というものは、その主体とされる宇宙存在の方も、それを翻訳、伝達する地球人の方も、ある意味で、互いに責任をなすりつける余地のある、無責任なものである。しかし、このような、「地球人化」を通して、オムネク本人が、自分の責任で述べる内容には、少なくとも、言い逃れのできない、本気度が、込められている。彼女自身も、「チャネリング」には警戒するように言い、私は、死んでから、「チャネリング」を通して述べるようなことは絶対しない、と公言している。

私自身は、金星人の生活を通して語られる、「次元上昇」ということも、もちろん現在の地球から見れば、闘いや苦悩のほとんどない「ユートピア」のようなものだが、オムネク自身も言うように、完璧なものではなく、むしろ、「退屈」ということを、非常に恐れているのがよく伝わる。アストラル世界では、「望み」は即適うので、むしろ、望みをすぐ実現しないよう、あえて迂遠なプロセスをとることが、多くなされるという。

苦悩のない形での、「退屈」というものは、「停滞」でもあり、「袋小路」のようなものでもある。それで、金星では、オムネクだけでなく、地球への転生とか、次元降下というのは、割とよくなされることのようである。(あのニコラ・テスラも、金星から転生した人物ということだ。)「カルマの清算」という目的が言われるが、結局は、「次元上昇」しても、非物質的な過程だけでは、本当の成長は完結せず、地球のような物質的な過程を改めて必要とする、ということを意味しているかのようである

そういうわけで、私は、「チャネリング」ものや、オムネクの言うような、「次元上昇」(アセンション)ということには、あまり、積極的な意味を見出せないでいる。それは、死んでから、「霊界」や「神界」に行くことと、どれほどの違いがあるのかとも思う。但し、それは、何も、現在の物質的世界が永遠に続かなくてはならない、ということではない。それは、宇宙全体の流れからして、いずれ、通り越さなくてはならない、プロセスなのだろうとは思っている。

いずれにしても、太陽系内の「宇宙人」というのは、盲点をつかれたようで、私としては、かなり衝撃的なことだった。これまでにも、アダムスキーや、霊的レベルでは、スウェデンボルグなどが、太陽系の住人について語ってはいたが、あまり本気にとったことはなかった。

同時に、これまで、いわば「死の惑星」ということで、あまり興味を持てなかった、「太陽系」ないし「太陽系の惑星」、「月」などについても、改めて興味が喚起された。本来、「宇宙」といえば、我々にとって一番身近なのは、当然ながら、「太陽系」なのだが、それは、これまで、あまりに、「知られざるもの」(表面的にしか知られないもの、本当には興味をひかれないもの)であり過ぎたという気がする。(それも、NASAその他の国家的、または超国家的機関の情報操作によって、仕立てられていた面が強いわけだが。)

7月6日  この記事を書いた時点では、忘れていたが、ダスカロスも、『太陽の秘儀』(193p~)で、太陽系の住人について語っているのだった。やはり、かつては地球と同様に物質的形態をもっていたが、現在は、物質的形態を超えているということで、オムネクの話とかなり通じる。また、火星の住人とは、テレパシーでよくコミュニケートしているということである。

2014年5月20日 (火)

「NIGHT HEAD 」の世界

NIGHT HEAD 」(ナイト・ヘッド)は、かつて深夜のテレビドラマとしても放映され、かなりの人気があったという、オカルト的内容のドラマ。大幅にカットのある短縮バージョンだが、Youtubeにも動画がある。(http://www.youtube.com/watch?v=4AK5d7lzc1E

私は、一連の体験の後の何年か後に、レンタルショップでビデオを借りて見た。この「ナイト・ヘッド」の世界もまた、かなり統合失調的世界と通じるものがあって、衝撃があった。これを読んでいる人でも、初めて見る人は、「シャレにならない」と衝撃を受ける人も多いであろう。

話は、2人の超能力をもった兄弟が、世間にとってあまりに「危険」なため、親に見捨てられるようにして、人里離れた研究者の施設に預けられるが、そこを抜け出してこの世界と交わり、いろいろな体験をしていくというもの。兄の直人はサイコキネシスという「出す」方の力、弟の直也はリーディングという「受ける」方の力が過剰に強い。弟は、人に触れると、その人が思っていること(本音)が聞えてきたり、見えたりするのだが、それは、ほとんどが、表面とは眞逆の、「狂気」じみた、攻撃的なものである。それで、弟は、人間恐怖、人間不信に陥っていくが、この当たりも、統合失調者の幻聴世界と通じるものだ。

また、彼らは、意識の力により「マイナスのエネルギー」を引き寄せ、様々な「ネガティブ」な出来事を引き寄せるのだが、そのエネルギーが「実体化」したという存在も、たびたび登場する。その存在は、何かをしでかすというよりは、彼らの内面(トラウマ)を激しくつき、恐怖と混乱をもたらすのであり、このあたりも、統合失調的状況における「捕食者」的存在とそっくりだ。

全体としては、物質的なものから精神的なものへという、人間世界の「変革」を助ける働きを、それを阻止しようとする勢力と戦いながら行うという、「分かりやすい」テーマもある。が、このドラマの特徴は、やはり、彼らの超能力を通して、人間の「心理」というよりも「真理」をつく、どうしようもない「ネガティブさ」を、これでもかとばかりに、抉り出すように描いているところだろう。

それで、よく「暗い」と言われるようだが、「真実」というものが「暗くない」という保証は何もなく、むしろ、現代の人間の「真実」を、そのままに、脚色なく描き出しているので、そうなっているものと言うべきだ。それでも、それなりに人気があるというのは、その辺を感じ取る人も多くなっているという証しだろう。

超能力合戦など、個々のシーンには、滑稽なほど、大袈裟で、誇張された面もあり、むしろ、それが「ウケ」ているのでもあろう。しかし、そこには、「本当のこと」が、鋭く描き込まれているのだ。

※ 6月7日

「NIGHT HEAD」の4話( https://www.youtube.com/watch?v=5H15_qBtxQM )は、兄弟が、御厨から、超能力を抑えるという薬を手に入れて飲むという話。「超能力を抑える薬」というのは、非現実的な感じもするが、脳に強引に働きかければ、あり得ることではあるだろう。「幻覚剤」が調合されているというのも面白い。

直也にとっては、「超能力を抑える」とは、人の「声」を聞かなくなることであり、統合失調の場合とも通じることになる。実際、この薬は、「向精神薬」そのものであり、また、「向精神薬」を皮肉っているようでもある。

薬を飲んだ彼らは、初めは超能力が抑えられて、「普通」の状態を楽しむが、しばらくすると、「副作用」のため、かえって超能力が強くなり、混乱する。直也は、人に触れなくても、人のマイナスの「声」が、頻繁に聞こえるようになってしまう。

その後、篠原涼子演じる、マイナスのエネネルギーの実体化した存在と、一悶着あるが、結局、彼らは、そういったことを通して、「薬に頼ることはできない」。「自分らで、その力をコントロールするしかない」ということに気づく。示唆的で、「ええ話」やね。

2014年5月10日 (土)

「幻覚世界」を表した本 2-統合失調的「夢幻世界」

今回は、より統合失調状況に近い内容のものをとりあげる。ただ、いずれも読んだのはかなり昔で、今回もざっと目を通しただけなので、説明は概括的にならざるを得ない。しかし、大要は捉えていると思う。

3  ヘルマン・ヘッセ著   『荒野のおおかみ』 (新潮文庫)

『デミアン』同様、ヘッセのよく知られた、「自己告白」的内容の小説である。が、この中に出てくる「魔術劇場」というのが、夢幻的な「幻覚世界」の様相をよく表わしている。そして、それは、統合失調的状況の中で起こり得る、「現実」と「非現実」の交錯する、「中間的世界」というものと酷似しているのである。

ヘッセは、明らかに分裂気質的な傾向を備えた小説家だが、実際に、幻覚や妄想をもったのか、あるいは、何らかの幻覚剤の体験があったのかは分からない。しかし、この「魔術劇場」の描写は、かなり迫真的に、「幻覚世界」のあり様を映し出していることは間違いない。

「魔術劇場」は、小説の中では、主人公や登場人物を巻き込んだ、「現実」の出来事として組み込まれているが、そこで起こることは、「幻覚世界」としか言いようのない、「シュール」で「ナンセンス」な、「夢幻」的出来事である。その一つの象徴的な表れが、主人公が、ヘルミーネという女性をナイフで刺し殺してしまうが、ヘルミーネは結局、死んでいなかったというものだ。そして、その「死刑執行の刑」は、「魔術劇場」の「ユーモア」を解さず、武骨に「真にとった」行動をとったことに対してなされてしまう。

ヘルミーネとは、「ヘルマン」の女性形であり、ヘッセの「もう一人の自分」、あるいは「アニマ」と解されるような存在である。その存在と戯れつつ、殺してしまい、刑を受けるというのは、その「幻覚世界」で、やはり「アニマ」と名付けた「精霊的存在」と種々に戯れながら、その言葉やそこでの出来事を、ときに武骨に「真にとって」、恐怖と混乱をもよおした、自分にとっても、衝撃的なことだった。

もちろん、これらには、文学的な象徴の意味が込められているのだろうが、ここでは、それはおいておいて、客観的に、幻覚世界としての「魔術劇場」の性質に拘ってみたい。

この「魔術劇場」は、「現実」の中に、突如浮かび出た、「異次元的空間」としての建物という意味では、宮沢賢治の「注文の多い料理店」や、遠野物語に出てくる「マヨイガ」にも近い。そこで起こることは、「現実」と同じ背景と人物で、「現実」の延長上にありながら、この世ならぬ恐怖や美を伴う、非現実的な、「夢幻性」を帯びた出来事である。「現実」と「非現実」が交錯しているわけだが、その空間にいる間は、その強烈な「リアリティ」のため、それが「現実」としか思えず、ただ、その空間から抜け出たときに、初めて、それが「現実」そのものではなかったことに気づく。しかし、そこには、その空間で起こったことの、何らかの「物質的痕跡」が残っていることも多く、全くの「非現実」ではないことも分かる。

つまり、そこでの出来事は、「現実」とも「非現実」とも決められないわけで、実際に、統合失調的状況でも、このようなことが起こるのである。それは、記事では、「中間的現象」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)と呼んだが、まさに、「物理的」現象とも「非物理的」現象とも決め難い、中間的な現象なのである。

「魔術劇場」では、「死んだはずのヘルミーネ」が死んでいなかったという形で、その「非現実性」が現れているが、これは、「注文の多い料理店」で、「死んだはずの犬」が、飛び出てきて人を助けるという、「非現実的」な状況ともよく似ている。記事『「注文の多い料理店」の犬の怪』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d417.html)にも書いたように、この犬は、恐らく警告の意味合いで、「注文の多い料理店」の現出以前に、一旦、山の中に現出された「異次元的な世界」で、夢幻的に「殺されて」いたのである。

「幻覚世界」には、このように「現実」のただ中に起こりながら、「夢幻性」を帯び、「現実」そのものではないという現象も起こる。このような現象に見舞われると、まさに、「現実」とは何かが分からなくなる。

しかし、それは、「現実」ということの本質を、身をもって知らせるものともいえる。物事を、「現実」か「非現実」かなどと、(そのどちらかでしかあり得ないかのように)、決めようとすることこそ、「幻覚世界」においては、武骨で、ユーモアを欠く、「死刑」に値する行いなのた

4  テレンス・マッケナ著  『幻覚世界の真実』 (第三書館)

著者や弟のデニスが、DMTや幻覚性きのこ(幻覚成分シロシビン)によって生じた「幻覚世界」を綴った本。これが、統合失調状況で生じる幻覚に近いというのは、著者らが、初めは疑問をもちつつも、結局、その現出している「幻覚世界」そのままを、「真実」と捉えるようになり、明らかに幻覚剤に振り回されながら、その体験にのめり込んでいくことになるからである。

そこでは、幻覚剤の生み出す「幻覚世界」を、異次元的な現実を表わす「真実」そのものと受け取り、それについての「解釈」が、そのまま次の幻覚体験に反映していく。それらが、相乗効果をなして、止めなく発展していくのである。それは、起こっている「幻覚」(幻聴)を、「現実」そのものの出来事と受け取り、それを基にした「解釈」によって、迫害を受けているなどの「妄想」を形成する。そして、その「妄想」がまた、「幻覚」(幻聴)に反映されて、止めなく発展していくという、統合失調状況における「幻覚」-「妄想」の関係と非常に似たことになっている。(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-0e06.html     の※「幻覚と妄想の関係」参照)

著者らは、自分らが「見た」とおりのことが、今後誰にも客観的に起こり、宇宙が非物質的なものに変容を遂げるとか、いくつかの暗号めいた「真実」を、そのまま信じ込むようになる。個人的な体験が、ほとんどそのまま、普遍化されてしまっているのである。

その途中では、実験に参加した者の間で、これらの「幻覚世界」は、無意識領域にあるものが反映された、「幻覚」そのものに過ぎないという意見と、異次元的領域において、実際に起こっている「現実」そのものであるという意見に、二分されたという。そして、前者の考えの者たちは、結局離れて行き、後者の考えの著者らが残って、実験を続けていくのである。

しかし、ここでも、その議論は、「現実」か「非現実」かという、単純な二分法になってしまっていることが問題だ

前回のジョン・リリーは、「幻覚世界」には、内面の、隠されたプログラムや信念が反映されることを強調し、それへの注視を怠らなかった。このような視点は、マッケナらには、まったく欠けている。それで、幻覚体験をそのまま「外的現実」と受けとり、それに振り回されることになっている。しかし、リリーも、「幻覚世界」そのものは、そのような内面が反映されるという性質を帯びた、一つの「現実」であることは、厳として認めていたのである

これらのことは、次のように端的に述べられている。「心の領域においては、人が真理だと信じるものが真理である。もしくは真理となる。心の領域においては、いかなる限界も存在しない。」

「幻覚世界」は、「人が真理だと信じるものが真理となる」ような、一つの「現実世界」ということである。だから、「統合失調的状況」であれ、マッケナらの幻覚体験であれ、それが、そのような意味で、一つの「真理」であり、「現実」であることには、間違いない。全くの「幻覚」とか、「非現実」とかいうことではないのである。

あるいは、私も、何度か説明してきたが、シュタイナーの言うように、「霊界の境域」においては、その者の内面から発するものが、「霊的鏡像」となって、一つの「実体」として存在するようになる、といった霊的レベルでの説明の方が、分かりやすいかもしれない。

いずれにしても、マッケナらの「幻覚世界」は、統合失調的幻覚の世界がどのようなものか、また、それがどのように「妄想」とともに発展していくのか、という視点からみるとき、とても参考になると思う。

その場合、まず押さえるべきは、何といっても、マッケナらをそこまで「のめり込ませる」のは、統合失調的状況の場合と同様、その体験の強烈な「リアリティ」である、ということである。著者は、人の内面ではなく、DMTまたは幻覚性きのこそのものが、そのような現実を見せるということに拘っている。その強烈な「リアリティ」は、決して内面の反映で生まれるものではなく、外的に加えられた「力」だからこそなのだ、と言いたいのであろう。また、体験中、絶えず、ある「宇宙的存在」が、身近にいる感覚があった、ということも述べている。

これらのことも、また、統合失調的状況の場合と同じく、まさに、「真実」であり得る。その幻覚世界には、「内面」が反映されるのは確かとしても、その幻覚を生みだすこと自体には、確かに、何らかの外部的な存在が関わっている可能性があるからである。統合失調的状況の場合であれば、「捕食者」や類似の「精霊的存在」などである。マッケナらの場合も、あるいは、本当にDMTや幻覚性きのこそのもの(それに宿る一種の精霊的存在)かもしれないが、何らかの外部的存在が、大きく彼らの幻覚的世界に干渉したということは、十分考えられるはずである。しかし問題は、彼らは、それに、いいように振り回されていたことである。

2014年5月 4日 (日)

「幻覚世界」を表した本 1-天国と地獄

LSDその他の幻覚剤による、「幻覚体験」を表した本というものがある。私が読んだ範囲でだが、いくつか紹介してみたい。

  オルダス・ハクスリー著 『知覚の扉』平凡社ライブラリー)

著者は、小説家で、『すばらしい新世界』という、現代の状況を見事に映し出した逆ユートピア小説は、前にも紹介したことがあった。そこでは、ソーマという「麻薬」が、皮肉な意味合いで出てくる。『知覚の扉』は、その後の著者の、メスカリンによる幻覚体験(知覚の変容体験)を綴ったものである。文学者らしい、巧みな(しかしときに過剰な)表現力で、それを伝えていることには、率直に驚かされる。

しかし、それは、著者自身が予想したような、主観的で、非現実的な幻想世界というものではなかった。それは、客観的な「現実」そのものが、それまでの知覚世界を一新し、内から光り輝くような、強烈なリアリティと意味のもとに蘇る、というものだった。そこには、生命の鼓動すら感じとられ、一瞬一瞬の新たな創造に立ち会うかのようである。また、禅のいう「悟り」とは、まさに、現に立ち現れている、「それ」(個々の事物)そのものであるということが、手を取るように分かる。その知覚状態においては、「それ」は、もはや、自己と別物なのではなく、自己と「一体」のものとして立ち現れているのである。

この体験を通して、著者は、メスカリンのような幻覚剤を、禅の悟りのように、自己を超越する体験をもたらす、有用なものとみなすようになったようだ。

幻覚剤において、このような意味で「知覚の扉」が開かれ、強烈な「リアリティ」の体験をすること自体は、いくらもあるはずのことである。それは、確かに、その「知覚体験」という現象のみに着目するときには、禅などの悟りの表現として表わされるものと、同一のものと言っていい。要するに、この知覚の瞬間には、自己と世界との間に立ちはだかる「自我」という覆いが、取り払われているのである。それで、事物の本来の「リアリティ」が、強烈に立ち現れると同時に、それは、本来の自己と同一のものとして、感得されることにもなるのである。

ただし、それはまた、統合失調のような幻覚体験でも、多かれ少なかれ起こることである。統合失調状況においても(もともとの自我の脆弱さが影響することも多いだろうが)、また、自己と外界を境界づける「自我」は、大きく揺らぎ、または失なわれ、その区別を失わしめるような、強烈な「幻覚」が起こるからである。

幻覚体験そのものは、そのような、「自我」というものを当然の枠組みとしている日常の知覚体験とは異なり、「自我」が揺らぎ、または外れたときの、一つの必然的な「知覚体験」であり、客観的なものであるということを、押さえておくべきである。それ自体には、(プラスであれ、マイナスであれ)変な「価値づけ」は、なされるべきではない、ということである。

しかし、著者も言うように、そこには、事実上、「天国」と「地獄」と言ってもいいような、大きな質的な差が生じることがあるのも事実である。

著者は、この「幻覚」体験を通して、分裂病についても、非常に的確な理解をなしていることには驚く。少し長いが、引用してみよう。

精神分裂病者は罪深い人間という存在の上に絶望的な病というおまけのついた人間である。その病とは、常識という自家製の世界-便利な概念や共有された象徴や社会的に容認された習慣で成り立っているまったき人間の世界-にあって(正気の人間が普通そうしているようには)、内面及び外面のリアリティから逃避することのできない、その不可能性である。精神分裂病者は絶えずメスカリンの効力の下にある人間に似ている。従ってまた、あまり聖なる存在でないためにそれと直面して生き続けることのできないようなリアリティ経験から完全に逃れることができず、しかもそのリアリティが原初的事実の中でも最も動かしがたい事実であるがために言葉による説明で片づけることもできず、また単なる人間の眼で世界を見ることをそれが許さないためその徹底した異質性、その燃えるような意味の激しさを人間の悪意、いや宇宙の悪意の表れとすら解釈せざるを得ないほどに怯えることになり、殺人的暴力から緊張型分裂病つまりは心理的自殺に到るさまざまな必死の対抗手段に走るのである。それも一度下向線を、地獄への道をたどりはじめるとおそらく止まることは不可能であろう。   (73頁)

つまり、分裂病者は、リアリティへの感覚が鋭くあるため、通常の人間のようには、日常の世界に収まることができないが、かといって、聖者のように、それの取り払われた本来のリアリティの世界にも、落ち着くことができず、その「悪意ある」恐怖に対抗すべく足掻いて、混乱を深めていくしかない、ということになる。分裂病者の、どちらつかずの「中間的な位置」というか、一種の「中途半端さ」をよく言い表している。

著者自身、体験中には、このような、「居心地のよい象徴の世界(日常の世界)に慣れている精神には耐えられないほどの大きなリアリティの圧力にうちひしがれ、崩壊するという恐怖」は、感じており、ただ、「健康」な人間として(そばに語りかける妻の存在があったことにもより)、それに囚われずに済んでいる。

しかし、一方、著者自身も理解しているように、幻覚剤による体験は、あくまで、幻覚剤によって、一時的にもたらされた「反応」に過ぎないのは、明らかである。その者本人が、内発的に生み出したものではなく(その意味では、一応、内部的なものから生み出される統合失調の幻覚体験より、外部的なもの)、その後も、幻覚剤に頼らずに、生み出される保証は、何もないものである。そして、もし、その体験を求めて、幻覚剤に頼るようになるとすれば、それはただの依存症をもたらすに過ぎない。

著者は、自己超越の欲求は、人間に普遍的にあるものであるにも拘わらず、現在の状況として、それを適えるような環境がなさ過ぎることこそが、問題だとしている。それで、アルコールやその他の害の多い薬物への依存も、多く起こることになる。メスカリンのような害の少ない幻覚剤は、一時的な体験だとしても、有意義なものをもたらすはずだとしているのである。

しかし、著者自身の場合は、そうであったとしても、メスカリンによる幻覚体験が、一般にそのように有意義なものになる保証は、あまりにもなさ過ぎる、と言わざるを得ない。そして、そのことは、後の例をみても、明らかのはずである。

『意識の中心』   ジョン・C・リリー著  (平河出版社)

著者は、イルカの研究でも有名な脳科学者ジョン・C・リリーで、この本は、LSDによる幻覚体験や、その他の方法による変性意識の体験を通して、意識の状態について、様々に探求したことを綴ったもの。

著者もハクスリーのように、LSD体験により、初め、外的な現実について、強烈なリアリティの蘇りを体験する。しかし著者は、その後も様々に、LSDやその他の方法によって変性意識の体験を重ね、外的な現実に限らない、内的外的な様々な領域(空間)にトリップし、それらの領域の様相や、そのときの意識の状態を明らかにしている。そこには、天国的なものから、地獄的なものまで、様々含まれる。そして、それらを意識のレベルの諸相として、段階づけることを試みている。

著者は、二度目のLSD体験のとき、昏睡状態に陥り、自ら気づかないうちに、自らを傷つけ、酷い傷害を負わせるという体験をしている。そのことを通して、人間には、無意識の奥に「自己破壊的なプログラム」があることを知る。LSDその他の幻覚剤体験において、自己を破壊するような衝動的行動が起こることがあるのは、そのためとしている。

また、LSD体験による幻覚世界には、自己の内部にあるものの「投影」ということが、多く起こることにも気づく。いわゆる「バッド・トリップ」、地獄的な体験というものは、自己の内部のプログラム(信念体系)が起こしているということになるのである。

著者のLSD体験の特徴は、一時的な天国的体験や、非日常的なトリップにあるのではなく、このような地獄的な幻覚体験を通してこそ、自己の無意識に働いているプログラム(信念体系)を知り、それを克服していくことで、全体として、体験の質を変えていくこと、意識のレベルを高めていくことを学ぶというものである

これは、加藤清のいう「相貌化」と非常に近いもので、LSDによる幻覚体験を通して、内面にあるものを浮かび上がらせ、その統合を図るという精神療法にも近いものがある。

ただし、もちろん、著者の場合は、自分自身にそれを施しているのであり、初め、人間のガイドをそばにおいていたが、後に、それもなく、自分一人で行うようになる。全く、危険な試みであるのは確かで、それに振り回されないためには、自分自身の抑制力と、観察力、意志力が頼りになる。ただ、見えない世界のガイド2人の存在は、常につきまとってたいたようである。

このような点では、管理された状況での実験というよりは、むしろ、統合失調的状況をくぐり抜けることにも、似ている。著者のした最悪の地獄的体験は、実際、統合失調状況における、「幻覚-妄想」体験と酷似している

それは、著者が「コズミック・コンビューター」と呼ぶものに、閉じ込められる体験である。それは他の誰かの巨大なコンピューターで、彼はその中の極めて小さなプログラムに過ぎない。しかし、この巨大なエネルギーの内蔵されたコンピューターには、一つとして意味をなすものがない。

「私は、他のプログラムの中を漂う一つのプログラムとして、そのコンピューターの中を旅した。そのコンピューターの端から端まで移動した。いたるところに、私自身に似た実体を見出した。それらの実体もまた、いかなる意味も愛も人間的価値もまったくないこの巨大な宇宙的陰謀、このエネルギー物質のコズミック・ダンスにおける従属的プログラムであった、そのコンピューターは完全に情を欠いており、よそよそしく恐ろしかった。コンピューターの外側にある究極的なプログラマーの層は、悪魔自身の化身だったが、彼らもまたプログラムに過ぎなかった。この地獄を去る望みも機会も選択の余地も永遠に存在しなかった。」

ハクスリーによれば、このような宇宙的陰謀の世界は、強烈な「リアリティ」を受け入れられず、悪意あるものと受けとることから、来るものだった。そのような面は確かにあるが、それはまた、著者自身の信念が見せている世界でもある。著者は、決して「唯物論者」でも「虚無主義者」でもないが、心の奥の隠された層には、そのようなものが蠢いていたのである。似たものを体験する、統合失調状況の者にも、同じことが言えるだろう。

しかし、著者は、そのような地獄的体験をくぐり抜けることによってこそ、高い意識状態に至るのであり、その状態において目覚めていることができるのだとするのである。そのことを述べた部分を、引用してみよう。

私は、意識を失わなかったし、苦痛に耐えました。宇宙の果てでシャイタン(悪魔)と対面し、その恐怖に耐えました。意識的に悪魔とともにとどまり、意識を投げ出さなかった。意識的にその中にその真っ只中にとどまったのです。そして、それが学ぶべきことなのです。意識的に悪魔のふところに入っていけるようになるまでは、サトリ6(グルジェフのいう意識の振動数+6の状態)の深みや高みに意識的に入っていくことはできない。[パチンコ効果、すなわち上昇するためのバックスイング、ないしダウンスイング、トランポリン効果ともいう]

それが力の生じる場所なのです。はるかなる深淵で、無意識に逃げ込むことも、「眠る」ことも、忘れることもできないあなたに向かって、悪魔が投げつける不潔極まりない真の汚物。そして、それが、あなたが眠りにつく理由なのです。そうした状態では、目覚めていることがあまりにも辛すぎる。苦痛は法外なもので、恐怖は信じ難いものです。恐怖と苦痛。けれども、-6や-12の中で目覚めていることのできない者は、+6や+12のサトリの中で目覚めていることもできない。
 (269頁)

これは、統合失調状況を、「死と再生」の「イニシエーイョン」とみることとも、通じるものである。

ハクスリーでは、天国と地獄とは、人の違いにより生まれるという面が強かった。しかし、リリーでは、それは、誰もの心の中にある性質であり、その者の状況や成長度の違いにより、違う表れをして来るというものに過ぎない。リリーは、一時的な体験ではなく、幻覚剤その他の方法により、変性意識の体験を積み重ねることによって、そのことを明らかにしたということがいえる。しかし、LSDのような幻覚剤は、変性意識をもたらす重要な手段ではあるが、LSDそのものが、そのような世界を見せているわけではないのである。

リリーの、このような地獄からの「反転」体験は、私の、一連の体験をくぐり抜ける体験とも非常に似ているし、意識の状態の説明も、それともよく符合する。私もまた、長引く地獄的状況が、「宇宙的死」を迎えるまでにいたり、そこで「闇」または「虚無」と接触し、それに包まれることによって、一瞬だが、+6に相当する「自己としての点」を体験した。それは、すぐさま、48と呼ばれる中立的状況に戻されたが、そのとき、もはや、地獄的状況は、一切吹き飛んでしまっていたのだった。

そして、リリーも言うように、その「悪魔」とともにどとまる地獄的状況では、意識を失うことはなく、意識とともにあり続けた。というよりも、その状況で、何か自力でできることがあるとしたら、もはやそれしかなかったというのが本当のところである。それは、もう少し具体的に言えば、「とにかく見極めよう」、「とことん見極めてやろう」という意志としてあり続けた。それにより、何とか、完全には、「狂い」の中に意識を巻き込まれずに、済んだのである。そして、「宇宙的死」を迎える状況まで、意識をあらしめてくれることになったのである。

だから、LSD体験においても、そうなのだろうが、統合失調的状況で、最終的にできることは、それだけなのである。

※ http://enneagramassociates.com/PDF/ennea_study_no3.pdf の20べージに、「意識の諸レベル」について単純化した図がある。

なお、
状態48 人間の生命コンピュータ
状態+24 基本的専門家の状態
状態+12 至福の共有
状態+6 自己としての点
状態+3 古典的なサトリ-創造者の一員としての本質

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