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2014年5月10日 (土)

「幻覚世界」を表した本 2-統合失調的「夢幻世界」

今回は、より統合失調状況に近い内容のものをとりあげる。ただ、いずれも読んだのはかなり昔で、今回もざっと目を通しただけなので、説明は概括的にならざるを得ない。しかし、大要は捉えていると思う。

3  ヘルマン・ヘッセ著   『荒野のおおかみ』 (新潮文庫)

『デミアン』同様、ヘッセのよく知られた、「自己告白」的内容の小説である。が、この中に出てくる「魔術劇場」というのが、夢幻的な「幻覚世界」の様相をよく表わしている。そして、それは、統合失調的状況の中で起こり得る、「現実」と「非現実」の交錯する、「中間的世界」というものと酷似しているのである。

ヘッセは、明らかに分裂気質的な傾向を備えた小説家だが、実際に、幻覚や妄想をもったのか、あるいは、何らかの幻覚剤の体験があったのかは分からない。しかし、この「魔術劇場」の描写は、かなり迫真的に、「幻覚世界」のあり様を映し出していることは間違いない。

「魔術劇場」は、小説の中では、主人公や登場人物を巻き込んだ、「現実」の出来事として組み込まれているが、そこで起こることは、「幻覚世界」としか言いようのない、「シュール」で「ナンセンス」な、「夢幻」的出来事である。その一つの象徴的な表れが、主人公が、ヘルミーネという女性をナイフで刺し殺してしまうが、ヘルミーネは結局、死んでいなかったというものだ。そして、その「死刑執行の刑」は、「魔術劇場」の「ユーモア」を解さず、武骨に「真にとった」行動をとったことに対してなされてしまう。

ヘルミーネとは、「ヘルマン」の女性形であり、ヘッセの「もう一人の自分」、あるいは「アニマ」と解されるような存在である。その存在と戯れつつ、殺してしまい、刑を受けるというのは、その「幻覚世界」で、やはり「アニマ」と名付けた「精霊的存在」と種々に戯れながら、その言葉やそこでの出来事を、ときに武骨に「真にとって」、恐怖と混乱をもよおした、自分にとっても、衝撃的なことだった。

もちろん、これらには、文学的な象徴の意味が込められているのだろうが、ここでは、それはおいておいて、客観的に、幻覚世界としての「魔術劇場」の性質に拘ってみたい。

この「魔術劇場」は、「現実」の中に、突如浮かび出た、「異次元的空間」としての建物という意味では、宮沢賢治の「注文の多い料理店」や、遠野物語に出てくる「マヨイガ」にも近い。そこで起こることは、「現実」と同じ背景と人物で、「現実」の延長上にありながら、この世ならぬ恐怖や美を伴う、非現実的な、「夢幻性」を帯びた出来事である。「現実」と「非現実」が交錯しているわけだが、その空間にいる間は、その強烈な「リアリティ」のため、それが「現実」としか思えず、ただ、その空間から抜け出たときに、初めて、それが「現実」そのものではなかったことに気づく。しかし、そこには、その空間で起こったことの、何らかの「物質的痕跡」が残っていることも多く、全くの「非現実」ではないことも分かる。

つまり、そこでの出来事は、「現実」とも「非現実」とも決められないわけで、実際に、統合失調的状況でも、このようなことが起こるのである。それは、記事では、「中間的現象」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)と呼んだが、まさに、「物理的」現象とも「非物理的」現象とも決め難い、中間的な現象なのである。

「魔術劇場」では、「死んだはずのヘルミーネ」が死んでいなかったという形で、その「非現実性」が現れているが、これは、「注文の多い料理店」で、「死んだはずの犬」が、飛び出てきて人を助けるという、「非現実的」な状況ともよく似ている。記事『「注文の多い料理店」の犬の怪』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d417.html)にも書いたように、この犬は、恐らく警告の意味合いで、「注文の多い料理店」の現出以前に、一旦、山の中に現出された「異次元的な世界」で、夢幻的に「殺されて」いたのである。

「幻覚世界」には、このように「現実」のただ中に起こりながら、「夢幻性」を帯び、「現実」そのものではないという現象も起こる。このような現象に見舞われると、まさに、「現実」とは何かが分からなくなる。

しかし、それは、「現実」ということの本質を、身をもって知らせるものともいえる。物事を、「現実」か「非現実」かなどと、(そのどちらかでしかあり得ないかのように)、決めようとすることこそ、「幻覚世界」においては、武骨で、ユーモアを欠く、「死刑」に値する行いなのた

4  テレンス・マッケナ著  『幻覚世界の真実』 (第三書館)

著者や弟のデニスが、DMTや幻覚性きのこ(幻覚成分シロシビン)によって生じた「幻覚世界」を綴った本。これが、統合失調状況で生じる幻覚に近いというのは、著者らが、初めは疑問をもちつつも、結局、その現出している「幻覚世界」そのままを、「真実」と捉えるようになり、明らかに幻覚剤に振り回されながら、その体験にのめり込んでいくことになるからである。

そこでは、幻覚剤の生み出す「幻覚世界」を、異次元的な現実を表わす「真実」そのものと受け取り、それについての「解釈」が、そのまま次の幻覚体験に反映していく。それらが、相乗効果をなして、止めなく発展していくのである。それは、起こっている「幻覚」(幻聴)を、「現実」そのものの出来事と受け取り、それを基にした「解釈」によって、迫害を受けているなどの「妄想」を形成する。そして、その「妄想」がまた、「幻覚」(幻聴)に反映されて、止めなく発展していくという、統合失調状況における「幻覚」-「妄想」の関係と非常に似たことになっている。(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-0e06.html     の※「幻覚と妄想の関係」参照)

著者らは、自分らが「見た」とおりのことが、今後誰にも客観的に起こり、宇宙が非物質的なものに変容を遂げるとか、いくつかの暗号めいた「真実」を、そのまま信じ込むようになる。個人的な体験が、ほとんどそのまま、普遍化されてしまっているのである。

その途中では、実験に参加した者の間で、これらの「幻覚世界」は、無意識領域にあるものが反映された、「幻覚」そのものに過ぎないという意見と、異次元的領域において、実際に起こっている「現実」そのものであるという意見に、二分されたという。そして、前者の考えの者たちは、結局離れて行き、後者の考えの著者らが残って、実験を続けていくのである。

しかし、ここでも、その議論は、「現実」か「非現実」かという、単純な二分法になってしまっていることが問題だ

前回のジョン・リリーは、「幻覚世界」には、内面の、隠されたプログラムや信念が反映されることを強調し、それへの注視を怠らなかった。このような視点は、マッケナらには、まったく欠けている。それで、幻覚体験をそのまま「外的現実」と受けとり、それに振り回されることになっている。しかし、リリーも、「幻覚世界」そのものは、そのような内面が反映されるという性質を帯びた、一つの「現実」であることは、厳として認めていたのである

これらのことは、次のように端的に述べられている。「心の領域においては、人が真理だと信じるものが真理である。もしくは真理となる。心の領域においては、いかなる限界も存在しない。」

「幻覚世界」は、「人が真理だと信じるものが真理となる」ような、一つの「現実世界」ということである。だから、「統合失調的状況」であれ、マッケナらの幻覚体験であれ、それが、そのような意味で、一つの「真理」であり、「現実」であることには、間違いない。全くの「幻覚」とか、「非現実」とかいうことではないのである。

あるいは、私も、何度か説明してきたが、シュタイナーの言うように、「霊界の境域」においては、その者の内面から発するものが、「霊的鏡像」となって、一つの「実体」として存在するようになる、といった霊的レベルでの説明の方が、分かりやすいかもしれない。

いずれにしても、マッケナらの「幻覚世界」は、統合失調的幻覚の世界がどのようなものか、また、それがどのように「妄想」とともに発展していくのか、という視点からみるとき、とても参考になると思う。

その場合、まず押さえるべきは、何といっても、マッケナらをそこまで「のめり込ませる」のは、統合失調的状況の場合と同様、その体験の強烈な「リアリティ」である、ということである。著者は、人の内面ではなく、DMTまたは幻覚性きのこそのものが、そのような現実を見せるということに拘っている。その強烈な「リアリティ」は、決して内面の反映で生まれるものではなく、外的に加えられた「力」だからこそなのだ、と言いたいのであろう。また、体験中、絶えず、ある「宇宙的存在」が、身近にいる感覚があった、ということも述べている。

これらのことも、また、統合失調的状況の場合と同じく、まさに、「真実」であり得る。その幻覚世界には、「内面」が反映されるのは確かとしても、その幻覚を生みだすこと自体には、確かに、何らかの外部的な存在が関わっている可能性があるからである。統合失調的状況の場合であれば、「捕食者」や類似の「精霊的存在」などである。マッケナらの場合も、あるいは、本当にDMTや幻覚性きのこそのもの(それに宿る一種の精霊的存在)かもしれないが、何らかの外部的存在が、大きく彼らの幻覚的世界に干渉したということは、十分考えられるはずである。しかし問題は、彼らは、それに、いいように振り回されていたことである。

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コメント

ティエム様

前回に引き続き、読みごたえある記事を有難うございます。
有意な資料を読み解いていただけることで、思考のヒントを頂けます。

同時に、このようなテーマを甘く捉えると、おのが存在の足元をすくわれかねないことも、やはり体験的に存じ上げております。

その意味で、ティエム様の文章は読者にとって「不確かな自己の輪郭を、耐えつつ確めつつ生きる縁(よすが)」と思っております。

「ティエムのかるがるオカルトッ」「みてみてスピリチュアル♪」も読んでみたくありますが、とりあえず今はどなたかに任せといてくださいませ。

深い課題に、感想を言語化するのに時間がかかっておりますが、

〈マッケナらをそこまでのめり込ませる、…幻覚の強烈なリアリティー…〉
〈彼らは、…いいように振り回されていた、ということ〉

にはうなずけます。

科学的に白黒のみつけようと、いつしか何者かに牛耳られ深い淵に落ち込んでいったであろうさまは、霊媒師がその霊的能力に溺れ、物事を決めつけ、次第に自分の「我心」のために用いるようになれば、やがて自分の内外を崩されていく、その過程に共通するものがあるように思います。

幻覚が現実か非現実かを論議の対象にする「科学的追求」

ここで一つ、お部屋のねずみに例えてみますと、

「非現実」と主張する側は、部屋の中でぐるぐると見聞きしていることが全て、

幻覚症状が現実であるとして、どこまでものめり込んでいく側は、最後はねずみ取りで捕まってしまう…下手な例えですみません。

イコール、= をつきつめない、あえて答えを出さない叡智もあるように私は思います。

しかし、能動的であれ受動的であれ人に自然に発生する「幻覚」と、

人間の意図をもっての幻覚剤体内取り込みによりもたらされる「幻覚」は、比較を絶するもののように考えます。

さらに、「霊界のほころび」「様々な何者か」の影響によりもたらされる「幻覚など」を現代人はほとんど対処出来ていません。

目に見える世界でも究めきれないこの地球、まして不可視の世界、

小さなちいさな人間がほんの少し学んだだけでは、簡単にわかりっこないと心してかかるのが自然に感じます。

自分周辺の(幻覚を含めた)超常現象を自力で制御し操作できると錯覚した時、「霊界のほころび」などの影響が自身の隙に忍び込む可能性があるようです。

「のめり込んで」の言葉どおり、人間の内面には「負(ふ)」に惹かれる闇があるのかもしれません。

「のめり込んだ」研究者たちにとり、それだけ魅力的過ぎる幻覚のいざないがあったのでしょうか。

薬物による幻覚作用が自分自身の内にある何かを、幾重にも増幅させた幻かも知れない世界を、あてどなく彷徨しゆく姿が目に浮かびます。

研究心以上に、その魅力に“溺れまいと言い聞かせつつ、溺れていった”とは、私の深読みしすぎかも知れません。

みるくゆがふさんありがとうございます。

とりあえず、「かるがるオカルト」と「みてみスピリチュアル」への移行は考えておりませんので、ご安心下さい(笑)。(後者がどのように出てきたのかは、分かりかねましたが)。ただ、ときおり、私の趣味もあって、そんなタイトルにも沿うような内容の記事が散見することは、今後もあるかと思いますが了承下さい。

幻覚剤に関しては、安易に医薬に利用したり、嗜好品としたり、精神的なトリップの道具としたりできるような代物ではない半面、現在では恐ろしく疎遠となっている、精神領域への媒介のような役割を果たす面があるという、両義的で複雑な要素を抱えている扱いにくい問題だと思います。

ただ、マッケナ的な探求の行き方については、ジョン・リリーやスタニスラフ・グロフらが、―LSD等の幻覚剤が非合法化されたという事情にもよりますが―、彼らなりに、幻覚剤に頼らない技法を編み出すなどの方法により、十分継続性のある意識探究を続けたのに対して、あくまで幻覚剤そのものに依存しての探求であり、幻覚剤のもたらす「幻覚世界」の「魅力」にとりつかれ、翻弄されていたことは、明らかと思います。ただ、私も、その「怖さ」はもちろんですが、「魅力」も分かるだけに、身につまされるところも多いです。

ティエムさんお久しぶりです。

今回の記事、興味深く拝読しました。特に気になったのは幻覚体験が「現実」か「非現実」かという、単純な二分法になってしまっていることが問題だということです。
私は人間が通常知覚できる領域は限定的で、変性意識のときに知覚できる範囲が広がり、通常では感知できないものを認識できるようになると考えています。幻覚剤はあくまで変性意識へ導入するために使われていると思いますが、その扱いは確かに難しいですね。
私も研究者ではありませんが、自分が体験したことを見極めたいという思いは強くあります。(もちろん幻覚剤は使わずに)
幻覚体験をすることにより、自分が選ばれた人間であると錯覚することは妄想を促すことになるので気をつけなければなりませんね。

私が幻覚の体験をして学習したことは、幻覚世界に入っても法律を犯さないということです。
焦らず、嵐が通り過ぎるのを待つことだと思います。


トシさんお久しぶりです。

「私は人間が通常知覚できる領域は限定的で、変性意識のときに知覚できる範囲が広がり、通常では感知できないものを認識できるようになると考えています。幻覚剤はあくまで変性意識へ導入するために使われていると思います」

まさに、そういうことですね。通常の知覚は、「自我」により限定され、制限された知覚ですが、変性意識では、その自我が緩んだり、外れるため、知覚の範囲が広がり、通常の知覚とは異なるものになるということです。幻覚剤は、そのような変性意識へと導入する一つの手段で、オルダス・ハクスリーも、幻覚剤は、「脳の減量バルブを緩める」働きをする、と言っています。

ただ、その制限の外れた、変性意識の「知覚世界」とは、あまりに複雑かつ多様なもので、「現実」とか「非現実」とか単純に決められるような世界ではないですね。逆に言えば、我々が物質的な世界に焦点化して、普通に生きようとする限り、その制限は、少なからず必要ということにもなると思います。

しかし、精神医学は、その制限された通常の知覚のみを「正しい知覚」とし、変性意識での「幻覚」を「誤った知覚」とすることで、全く切り捨ててしまいます。これは、一種の「イデオロギー」ですね。

「焦らず、嵐が通り過ぎるのを待つことだと思います。」

私も、結局、それに尽きると思います。ただ、幻覚体験が、初めてのことだったりすると、それに圧倒されて、なかなかそうはできないことにもなります。幻覚剤である必要はないですが、何らかの方法で、疑似的、また一時的に幻覚体験をしたことがあれば、かなり違うことになると思うのです。

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