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2014年4月

2014年4月20日 (日)

「幻覚剤」へのシフトが目論まれる「精神薬」

私は『幻覚剤の使いよう』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-9d96.html)という記事で、「幻覚剤」は、一時的、疑似的に統合失調症類似の状態をもたらすので、統合失調症の特に「幻覚」という状態について、ある程度体験的に理解をもたらす可能性があることを述べた。

加藤医師は、統合失調症の「治療」ということに向けても、LSDのような幻覚剤を使用したが、これは、統合失調の者にとらわれをもたらしている、内面のあり様を表に現す([相貌化」)ことを通して、資質を備えた治療者が、本人とともにそれと向き合い、精神療法的に「統合」をもたらすことの、支えをなそうというものである。

だから、それは、もちろん「幻覚剤」自体が治療をもたらすというのではなくて、まさに、使う側の「使いよう」によって、治療のための補助の効果を引き出しているのである。

しかし、私は、現在においては、加藤医師のような、達人的な「使いよう」ができる人はいないし、幻覚剤は、統合失調症の者や精神的に不調な者へ処方すれば、内部の混乱を拡大して、手に負えなくなることにしかならないので、「治療」に使うことには、全く反対である。

しかし、最近、どうも、「幻覚剤」の治療への応用ということ、さらに、一般への嗜好品としての普及ということが、精神医学的にも、また支配層的にも、押し進められようとしているようなのである

「幻覚剤」の治療への応用については、前々回の『伝統文化の儀式と幻覚剤』という記事の「コメント」にも述べていたので、再び掲載しておく。

「前のコメントで触れた、ペヨーテについて、精神薬や鎮痛剤としての使用が検討されているという記事は、これです。

http://wired.jp/2005/11/09/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B5%90%E6%9E%9C%EF%BC%9A%E5%B9%BB%E8%A6%9A%E5%89%A4%E3%80%8C%E3%83%9A%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%80%8D%E3%81%AF%E8%84%B3%E3%82%92%E6%90%8D%E5%82%B7%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84/

また、幻覚剤一般の治療臨床試験についての記事があります。

http://wired.jp/2004/10/01/%e5%b9%bb%e8%a6%9a%e5%89%a4%e3%81%ae%e6%b2%bb%e7%99%82%e8%87%a8%e5%ba%8a%e8%a9%a6%e9%a8%93%e3%80%81%e6%9c%ac%e6%a0%bc%e5%8c%96%e3%81%b8%e4%b8%8a/

いずれまた、ブログの記事にするかもですが、これについて、ここで簡単に述べておきます。

がんなどの痛みの鎮痛とうつや強迫性障害の治療が並び称され、同列に扱われているところからも、要するに、幻覚剤には、「治療」というよりも、痛みや苦悩を「紛らわせる」効果が期待されているのが分かります。現在使用されている「麻薬」より、脳や精神に与える害が少ないという点が強調されますが、「幻覚」を生むという効果そのものも、痛みや苦痛の「紛らわし」にとって有用と考えられているものと思われます。

末期がんなどの鎮痛の場合には、ある程度認められる余地もあるでしょうが、これを精神薬として使用するというのは、「幻覚」というものをなめきった、恐るべきものです。「幻覚」というのは、「お花畑」やそれこそ「妖精」のようなものを見るというものばかりではなく、恐怖に満ちた、いわゆる「パッドトリップ」も多いものです。それも、単に「幻覚」という外的な現象として、割り切って観察できるようなものではなく、本人の心を強く巻き込んでしまうだけの、「リアリティ」のあるものです。特に、うつや強迫神経症的な状況では、「バッドトリップ」も起こりやすく、冷静な対処も難しくなるはずのものです。シャーマンや加藤医師のような、全体をコントロールできる経験豊富な指導者の下でならまだしも、そのようなコントロールもなく、このような精神薬の服用をすれば、より混乱を深めることになるのは必至でしょう。

「支配層」的には、まさにそのように、現在以上に混乱を深めること、また、統合失調症と診断されるような、新たな「病気作り」を行うことが意図されていると思われます。さらには、これらのことを通して、全体として、先住民が儀式で使用するような、ペヨーテなどの幻覚剤の本来の意義を、貶めることも狙われていると思われます。」

精神薬については、特に欧米では、最近、かなりイメージがダウンし、それが結局は、「麻薬」に過ぎないことも、知られるようになってきた。つまり、依存性や中毒性のあるものであり、脳や精神にもたらす、害悪の部分が注目されるようになってきた。

しかし、「幻覚剤」については、「麻薬」とは別で、害悪はないか少ないという見方が以前からあり、イメージ的にも、「麻薬」ほど酷いものではない。『麻薬のすべて』(船山信次著)も言うように、本来、「幻覚剤」も広い意味の「麻薬」に含まれるべきものだが、一般には、「麻薬」とは別のものとして捉えられることも多い。

そのようなことから、精神医学は、精神薬のイメージアップのためにも、これまでの、「麻薬」や「覚せい剤」から、「幻覚剤」へのシフトを目論んでいると思われる。

しかし、その発想は、いかにも「安易」なものであると同時に、逆に、これまでの「精神薬」が何であったのかを、照らし出すものともなっている。要するに、「幻覚剤」において、治療効果として期待されているのは、痛みや苦悩を「紛らわす」効果であり、その点では、気分や感情の高揚のみならず、「幻覚」というはっきりした現象が伴う分、より効果が高いと目されているのだ

これは、逆に言えば、これまでの「精神薬」も、結局は、痛みや苦悩を「紛らわせ」ようとするものでしかなく、ただ、表向き、「麻薬」や「覚せい剤」として、そのことを公然と明らかにするようなことは、しないでいただけである。「幻覚剤」を使うことも、むしろ、「幻覚」という人目をひく効果を表に出してしまうので、控えていたと思われる。

しかし、精神薬のイメージがダウンして、何ものかにとって代わられる必要のある現在、もはや、なりふり構わず、「幻覚剤」を精神薬として使うことを、押し進め始めたようだ。そのためには、一般的にも、さらに「幻覚剤」のイメージが、アップしていることが望ましい。それが、危険なものとして、法的に規制されていたのでは、イメージのアップは、それほど期待できないのだ。

最近は、世界的な傾向になりつつあるようだが、アメリカの州などで、マリファナ(大麻)のような幻覚剤が、嗜好品として、解禁され始めているのも、そういったことが関係しているだろう。(一部の)「幻覚剤」は、麻薬と異なり、依存性や中毒性のない、有用な「嗜好品」である、というイメージが浸透されようとしているということである。

つまり、精神を病む者には、精神薬としての幻覚剤を、そうでない一般の者には、嗜好品としての幻覚剤を、広く普及させようということになっている

これは、一つには、もちろん、金儲けにつながることは見えやすい。が、上に述べたように、精神薬としての幻覚剤は、結局は、混乱の拡大や新たな病気作りしかもたらさないことは明らかで、支配層的には、それこそが、狙われていると思われる。さらに、一般への幻覚剤の浸透も、結局は、現実逃避か、現実からの退却しかもたらさないことを、見越してなされていると思われるのである

かつて、「幻覚剤」は、「現実」というものの捉え方そのものを変え、意識の変容をもたらすものとして、探求の道具として利用する者も現れたことを述べた。支配層も、「幻覚剤」のそのような、「現実」を越え、否定していくという可能性を秘めた要素には(強いマインドコントロール的な使い道もあることもあって)、当然警戒しており、だからこそ、幻覚剤を規制することにもなった。しかし、一方、その合法であったときの、一種の実験的な経過を通して、そのような「真摯」な探求をする者はわずかであり、しかも、そのような者も、実際には、「幻覚剤」に振り回されているという面が強いことは、十分明らかになっていたと言うべきである。一般の多くの者については、なおさらで、単なる「現実逃避」の「トリップ」しかもたらさないことは、十分見越せるものとなっていたのである。

支配層的には、そのように、一般の者に対しても、幻覚剤の、このような「現実」ということから目を反らし、退却していく効果が、期待されているのだといえる。「現実」とは、この場合、彼らが支配システムを形成していて、多くの者はただそのシステムの内部に奴隷的に捕えられている、という「事実」にほかならない

麻薬や覚せい剤については、その害悪はもはや自明なものとなっていて、精神薬の実質がそのようなものであることが知れてきた現在、いくら「病気作り」を拡大しても、それを一般の者にまで広く浸透させることは、難しい状況である。しかし、幻覚剤なら、それが不可能ではないと目されているのである。

一方、「幻覚」ということに対する嫌悪のようなものも、一般には根強くあって、幻覚剤にも、それはかなりの程度、当てはまると思われる。だから、彼らの目論見も、そう簡単には成就するものではないはずである。しかし、今後、「現実」というものが、さらに酷く、逃れようのないものとなってくるとき、麻薬ではなく、幻覚剤やマリファナ(大麻)のような嗜好品ならということで、結局は受け入れる方向に進むことは、十分考えられるのである。

2014年4月 9日 (水)

加藤清の「狂気論」「治療論」

加藤清という精神科医は、日本では珍しく、霊的なものや宗教的なものへの理解を踏まえて、分裂病へのアプローチをしていた者である。薬物療法が主流となる前の時代に活躍したという、時代性にもよるだろうが、精神科医として、治療の実績も、海外での評価も高いようだ。当然、私も前から注目はしていて、前の日記でもとりあげたことがあった。ただ、今ひとつ、分裂病の理解ということに関しては、十分つかみにくいところもあった。

しかし、今回、晩年の講演ビデオ( http://www.youtube.com/watch?v=5WXXpruRE0g )を見たり、本を読み返してみて、やはり、この人は、分裂病を深く理解していたということを改めて感じた。ビデオは、一般の人へ向けて、本ではあまり明確に語らなかったことも語っていて、貴重である。

今回の記事は、このビデオを導入にして、加藤の狂気や治療に対する考えの基本を、分かりやすく浮かび上がらせることを主眼にして述べたい。本では、多少難しい概念的な説明や、独特の感覚的な表現もあるが、これはかえって、混乱を招くもとともなるので、あまり言及しないことにする。(一応、紹介しておくと、『この世とあの世の風通し』(春秋社)という本は、対談形式で、加藤の狂気や治療に対する考え方がひと通り述られている。)

ビデオは、「狂気」というのは、(実は、あらゆる「病気」はそうなのだが)「イニシエーション」であること、「創造の病」であることを、明確に語っている。つまり、「狂気」というのは、単なる「病気」などではなく、乗り越えるべき、一つの「試練」であり、「創造」のための過程ということである。

「イニシエーション」とは、これまでみてきたように、「死と再生」の過程でもあり、それは、何ほどか、これまでのあり方における「死」を迫るものである。が、それを通して、全体として、新たに「生まれ変わ」り、生き方やものの見方の根本的な変革をもたらす。それは、単に「健康」ということではなく、もはや、「健康以上の健康」を意味する。あるいは、それは、新たな「創造」をもたらす。

加藤は、10才の頃、結核を患い、医師に死を宣告されたということで、死と本気で向き合う経験をしている。また、その際、死んだ祖父の霊を間近に体験したりもしている。それで、その後、「この世とあの世の風通し」が、よくなったという。つまり、「霊的なもの」の影響を、この世においても、身近に感じて生きるようになった、ということである。後の生き方や、分裂病理解にとっても、それが大きな基礎になっているという。(しかし、「キツネはいいが、タヌキはアカン!」というのは、いくらなんでも…(笑)。)

そのように、死と本気で格闘し、また霊的な体験をすることで、自分自身の生き方やものの見方に、大きな変革を遂げた。つまり、それ自体が、「死と再生」の、一つの「イニシエーション」となったわけで、そのとき既に、分裂病といわれるものも、このような過程と関係するのではないか、と思ったという。

本では、分裂病にとって、「死」ということが、治療にとっての大きなポイントになるということが、述べてられている。一般に、「治療」とか「改善」とか言われると、このような視点は抜け落ちてしまうだろう。しかし、これは、本当に、重要な視点である。つまり、分裂病にとっては、それまでの自分に、「死に切れる」か否かが、混乱状態から抜け出れるかどうかの、分かれ目なのである。「死に切れ」なげれば、その死にきれない自分の混乱が、あとを引きずり、新たに「生まれる」ということもできない。そのためには、それなりの苦痛や危険が伴うのは、当然のことである。

「死に切る」とは、いたって個人的な事柄であり、その者自身の問題である。ただ、その「死に切る」ために、その者の根底に働く「なにもの」か、あるいは他の者が、何らかの「支え」を提供することはできる。実は、それが、後にみるように、「治療」ということになるのである。人を、「死に切らせる」ことを「支える」などのことは、もちろん、並の人間にできることではないわけだが。

ビデオでは、沖縄のシャーマンの話や、大本教の出口なおの例がとりあげられている。そのように、シャーマニズムや禅その他の超越的体験、ユングなどに関心を寄せたのも、加藤自身の霊的な体験がもとにあり、それらが、分裂病理解のために、大きく資することを、感じ取ってのことである。実際、分裂病においては、これらの体験と何が共通し、何が異なるのかをはっきりと捉えることが、理解の鍵となる。一般の精神科医は、こういったものに、何の関心も、理解も示さないことだろうが、それは、致命的に、治療からかけ離れている。

前々回、ナバホのメディスンマンの話をとりあげたが、河合隼雄は、メディスンマンに、分裂病の場合はどうなのかという質問をしている。それに対しては、「本人が本当に治ろうとするなら、治る」というのが、答えであった。そのように、「本人が治す」というのは、よく言われることでもありながら、必ずしも、明確なことではない。

それは、単純に、自分の意志で治せるというような、簡単なことではない。メディスンマンも、癒しの儀式では、自分が治すのではなく、自分や儀式の場に、外から「聖なる力」が働いて、治ると述べているのだから、単なる「自力主義」ではない。ただ、そのような「外部的」な、一種の「他力」的な「力」が働くにしても、本人に「治る」(「生まれ変わる」)意志があって、それに協力しなければ、治ることも起こらない、ということになるだろう。

加藤も、「治療」ということには、そのような一種「他力」的な、「力」の働きを認めている。そして、それを「寂体」と呼んでいる。これは、「根源的主体性」とも言われるように、根源的には、その者本人の根底に働く力でもある。しかし、同時に、自然の背後に働いている力ともされ、いわゆる「自然治癒力」と言われるものの、実質ともいえる。だから、加藤は、治療にとって、その者を包み込むものとしての、自然環境の影響ということも、重視する。いずれにしても、それは、通常の「自己」の視点からすれば、それをはっきりと越えた、「他力」的なものである。

さらに、「寂」という言葉からも分かるように、そこには、禅などで言う、「無」という要素も含まれていて、私の言う、「虚無」や「闇」とも通じる面をみている。ただ、私がみてきたような、「破壊性」はほとんど強調されずに、全体として「支える」、「包み込む」という面の方が強調されている。つまり、「治療」ということに向けて、目的的というか、予定調和的な面が強調されている。その点は、やはり、「治療者」としての立場の影響もあることだろう。何しろ、その点においては、「虚無」というよりも、ユングのいう、「自己(セルフ)」や、木村敏のいう「根源的ないのち」に近いかもしれない。

根源的には、そのような、自己の根底でありながら、「他力」的な働きが、人を狂気に陥らせるのであると同時に、「治す」ものともなるのである。それは、「ホールディング」(包み込む)というあり方で、治療の場に作用し、狂気に陥った者を、「死」に向かわせると同時に、最終的には、新たな「統合」へと向かわしめる。

ただ、その全体としての、包み込みの「場」には、先にみたように、患者本人の意志や、自然の環境、他の者の関わりなども、大きく影響する余地がある。治療者も、また、そのような「包み込み」の「場」に、協働的に関わることで、本人の最終的な「統合」を、補助し、「支え」ていくことができるのである。

だから、分裂病の治療とは、単純な行いではなく、そのような「寂体」の働きに対して、開かれていて、協働できる、資質と経験のある者でなければできない。それは、ほとんど、癒しの儀式をとり仕切るメディスンマンと、同じような資質を必要とするともいえる。

加藤は、「セジ」(「霊位」を意味する沖縄のユタの言葉)が高くなければ、分裂病の治療はできない、と表現している。しかし、これには、もう一つ理由があって、分裂病の患者は、治療者の「霊位」を見抜くからでもある。患者が、自分より「霊位」が低いと思ったときには、その者の治療に、協力的に関わることはないのである。

このように、分裂病の治療には、その者の個性とか、資質が大きく関わるから、その方法を一般的に客観化するということは難しい。どのような場合に、治癒がなされ、どのような場合には、なされないかということについても、同様である。

加藤の、そのような「個性」というか、「資質」の一つは、興奮して騒ぎ立てる分裂病の患者を前にして、いきなりゴミ箱に入って、土下座した、という伝説的エピソードにも現れている。それで、患者はおとなしくなったという。

加藤に言わせれば、それには意味があり、自分は、「ごみ」のようなつまらない者だが、相手の「寂体」に向けて、分裂病を治してもらえるようお願いした、ということである。

恐らく、それは、後づけ的な説明である部分も多く、この行動そのものは、とっさの「知恵」として、生まれたものなのであろう。そして、実際、こういう、(分裂病者の行動以上に?)突飛な行動は、ときにショック療法的に、分裂病者を、「正気に帰らせる」ことがあるのである。もちろん、それが、本当に「効く」かどうかは、その者の「個性」または「資質」によるわけだが。

そのように、本来、分裂病の治療ということには、治療者の個性とか資質というものが、大きく左右する。そこで、そのような、厄介なものを必要とせず、ほとんどマニュアル的に対処できるように思わせる、薬物療法というものが、重宝がられることにもなるのだろう。実際、加藤本人も、その治療論も、最近は、ほとんど顧みられることもなく、薬物療法のようなものに、完全に取って代わられたということがいえる。

しかし、加藤にしても、治療の方法論が、個性や資質によるものとして、全く伝えられないことになることは、望んでいないはずである。治療の本質には、個性や資質が大きく関わるにしても、その基本的な考え方や方法論を、ある程度知識として伝えていくことは可能のはずである。

恐らく、この講演ビデオも、そのような意図のもとに、できるだけ分かりやすく、明確に語られたものと思う。

私自身も、治療者の関わるような治療論はともかく、狂気論を詳しく述べている。それは、基本的には、加藤と考えを同じくするものだが、異なる面もあり、むしろ、より具体的で総合的なものと自負している。これも、本来、語ることの難しいものではあるが、やはり、伝えられないことには意味をなさないので、できる限り、分かりやすく、明確に語ることを重視していきたいと思う。

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