« 「ふつうの狂気」にとっての第一の課題 | トップページ | 幻覚剤の「使いよう」 »

2014年3月 7日 (金)

「うつ」を克服して「薬を使わない精神科医」

宮島賢也という精神科医の講演ビデオ(http://www.youtube.com/watch?v=1VpzYAdcuLM )。

自ら「うつ」にかかり、7年間薬を服用するが、薬では治らないことを確信し、薬を止め、考え方と生き方を変えることで、うつを克服したという。その体験をもとに、「薬を使わない精神科医」として、メンタルセラピーをしている。そのセラピーは、「治療」というよりも、患者本人が自ら治していくのを、「手伝う」というコンセプトである。

これも、前回みたように、狂気は、精神科医にかかることではなく、自然の過程で回復するということを証明した、一例といえる。

この人にも、狂気を「くぐり抜け」て、克服した人の特徴がよく現れていると思う。話し方なども、なかなか味があるし、話しの内容はシンプルだが、明確で力強く、一本筋が通っている。

一般に言われていることとか、他人が言うことではなく、精神的な不調をきっかけに、自ら本気で、調べたり、考えたりして、深く納得することを身につけているからと思う。逆に言えば、精神的な不調に追い込まれて、初めて人間は、本気で考えるということを始めるという、悲しい現実があるということでもあるが。

この狂気を「くぐり抜ける」ということでいうと、最近は、「狂気」そのものではなく、精神医療によって、人工的に作られた「病」を「くぐり抜ける」ことも、また、これに含まれる事態になっている。この場合、「くぐり抜ける」とは、精神薬の副作用や離脱症状と闘って、精神薬を止めることである。「精神薬を止める」ということ自体が、「狂気」の「克服」と同じような意味合いになっている、ということである。

その「病」のもとに、実際に、何らかの「狂気」がある場合、それだけでは、「回復」したことにはならないかもしれない。が、狂気と言えるようなものではないにも拘わらず、人工的な「病」にされてしまった人も多いわけである。そのような場合、この人工的な「病」を「くぐり抜ける」ことが、「狂気をくぐり抜ける」のと同じような結果をもたらし、また、「強さ」をもたらしていると思う。

私のブログにコメントをくれる人などもそういう人が多い。

宮島医師に関しては、『自分の「うつ」を治した精神科医の方法』(河出夢新書)という本も読んだが、これも、いたってシンプルな内容で、この講演をもう少し詳しくしたような内容である。(※)

「うつ」の原因は、人間関係や仕事上のストレスであることがほとんどであり、「うつ」の症状は、そのままでは、身体的、精神的に疲弊してしまうことを訴える、「警告」である。だから、「症状」は、取り除くべきものなのではなく、「浄化」するべく、必要があって起こっているのである。

ただ、そのようなストレス状況におかれても、「うつ」になりやすい人と、そうで
ない人がいる。「うつ」になりやすい人は、特有の考え方や生き方をしている。だから、それを変えることで、「うつ」を克服することことができるのである

「うつ」になりやすい人の、特有の考え方とは、「いやなこと、よくないこと」ばかりに目がいき、ネガティブな感情に囚われて、気分を落ち込ませる。また、「自分を責める」傾向があり、「うつ」になったことも、自分が弱いからだ、悪いからだと考え、ますます落ち込んでいく。

著者は、自分の場合を例に、このような考え方の基本は、親の育て方によって、植えつけられたものとしている。特に、母親の「期待」や「欲望」の押しつけが、そのような方向に沿えない自分を、価値がないものとして否定し、責める見方をもたらす。

このようなことは、確かに、家族が核家族化して、私たち高度成長期に育った世代以降、ずっと続いていることと思う。子供ができてしばらく後、夫婦はすでに実質破綻し、利害関係や体裁だけでもつものとなる。父親は、仕事に専念して、家庭を顧みない。母親は、子供にばかり関わり、自分の期待や欲望を、強く押しつけることで、生きがいを見い出していく。そのようなことは、どこの家庭にも、多かれ少なかれ見られる光景だろう。

つまり、多くの者が、「うつ」になりやすい状況が作られ、そのうえに、社会的なストレスは、ますます増えていくのだから、「うつ」が増えるということ自体は、何ら不思議でないと言わねばならない。

そこで、著者は、「うつ」にかかったことをきっかけに、これまでの考え方、生き方を見直し、それらを変えていければ、「うつ」は克服できるとしている。考え方を変えるとは、要するに、「ものごとには、必ずいい面もあるから、それをみるようにする」こと、「あるがままの自分を受け入れ、認める」こと、「誰かのためにがんばる、ということを止める」こと、などである。

要するに、一言で言えば、他人に植えつけられた考えを止めて、自分で本当に考え、欲することをする、ということに尽きると思う。それまで、自分では本当には納得していない「無理」を押しつけていたのだから、ただ、その「無理」を手放して、楽になる、ということでもある

決して、簡単なことではないが、「うつ」の苦しみが、自然と、そのような方向への転換を促してくれるということにもなる。

ただし、薬に頼ろうとすることは、そのような考え方の変換を、拒否しようとすることで、その意味でも、「うつ」を変えることにつながらないのは、当たり前と言える。

私も、多くのうつの場合に、著者の言うことが当てはまると思う。ただ、私は、前に、記事で、うつの原因についても述べていた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-de23.html)。

そこで、「虚無感」や「ニヒリズム」の抑圧が、何かのストレスをきっかけに、一気に外れて、あふれ出すことを、うつになる原因として重視した。これは、根源的な「虚無」の影響ということでもあり、まさに、「強度の狂気」について述べているようでもあるが、必ずしもそういうことではない。

つまり、著者も言うような、多くのうつの場合にも、このことが当てはまり得ると思う。

たとえば、母親が、子供に自分の期待や欲望を押しつけるのも、そのもとには、「虚無感」があり、その虚無感をごまかすべく、そうしているのである。その子供が、そのような価値観を受け継いで、それを身につけてしまうのも、やはり、それに沿ってがんばることが、もとにある「虚無感」をごまかしてくれるからである。

つまり、自分の欲望を他人に押しつけるのも、他人の期待や欲望に沿った考え方、生き方をするのも、そうすることで、もとにある「虚無感」を、意識せずにすむからである。

しかし、そのような抑圧を続けることは、内部では、「虚無感」をより強力に醸成し続ける。そこで、何かのストレスをきっかけに、その虚無感が抑え切れなくなり、表に現れて、うつの状態をもたらす。

要は、「虚無感」を受け入れずに、それから逃れるために、無理をして、奔走していたわけで、うつは、その虚無感といやでも向き合わなければならない状況をもたたらす。その虚無感を、いけないもの、追い払うべきものと決めつけないで、あるがままに認めていくとき、それは、むしろ緩和され、それから逃れる衝動をもたらさなくなる。そうして初めて、虚無感から逃れることではなく、ただ自分の考えることや欲することを動機として、行動できるようになるのだと思う。

「虚無感を受け入れる」と言うと、何かネガティブなことのようで、著者の言うような、ネガティブな思考を変えることに、沿わないようにもみえる。しかし、著者も、考え方を変える起点は、「あるがままの自分を認める」こと、と言っているが、それは、そのような、現にある「虚無感」を受け入れることでもあるはずである。「虚無感」を受け入れるからこそ、無理をせず、楽に生きていい、と思えるわけである。

だから、私の考えも、著者の言っていることと、それほど違わないことのはずである。

※ 「考え方」「生き方」を変えるということとともに、「食生活」を変えるということも重視されていて、かなり詳しく述べられている。私は、あまり食には拘りはないが、「食べる」ということは、一つの思想そのものであり、「生き方」そのものだということは、考える。「捕食者」という存在についてみても、そう思わざるを得ない。いずれまた、そういうことも、とりあげてみたい。

« 「ふつうの狂気」にとっての第一の課題 | トップページ | 幻覚剤の「使いよう」 »

精神医学」カテゴリの記事

コメント

ティエム様有難うございます。宮島先生の本を私も二年前に興味深く読み、うつで通院する知人にも読んで頂きました。

当時の宮島先生のブログで「従来の精神科とは違った窓口を作っていければと思います。」など柔らかい味わいある自己紹介を拝見しました。

その宮島氏もまた、「壮絶な闇」をくぐり抜けて来られたお一人…ティエム様の視点に、はっとする思いです。

「うつになり、何年も危険な劇薬を飲み続けた患者の体験」を持つ医師ゆえの筋の入ったお言葉と気づかされました。

一、二年前でしたか、内海聡先生のブログで「(前略)今後精神科医で生き残っていけるとすれば、宮島賢也みたいなタイプでしょう…彼は薬を使わない、(利用者が)サヨナラしようと思えば、いつでも宮島賢也からサヨナラできる。だからこそ彼は評価に値します。(後略)」(ある意味紹介文かも?)といった内容の文がありました。

内海先生はかつてそのブログに「私は恥ずかしい。恥ずかしい。私が殺した数百人の人々の存在が私を苦しめる」と心情を吐露されたことがあります。

雷と慈母の如く対照的でありながら、貴重なご活動をされる医師お二方ですが、診療も講演も実のところ「医師」ではなく「ひとりの人」としてご提案なさっているのかも知れないと、今ふと感じ始めております。

多剤減断薬に用いる処方箋の作成は法律上医師しか出来ませんが、それ以外はすべて、人として求めるなら誰もが段々と歩いていけるように思えてきました。

いま大切なことは何か?今日も啓発されます。

みるくゆがふさんありがとうございます。

私は、割と最近、ユーチューブの講演動画を見て、本を読み、宮島医師を知ることになりました。内海医師が言及していたことも、知り(気づき)ませんでした。

「薬を使わない、(利用者が)サヨナラしようと思えば、いつでも宮島賢也からサヨナラできる。だからこそ彼は評価に値します。」
というのは、とても適確な指摘だと思います。精神薬は、患者を依存させ、容易にはサヨナラできないようにさせる。逆にそれは、処方する精神科医にとっても、人を依存させ、支配するという意味で、誘惑の強い、「麻薬」のようなものということにもなりますね。

利用者が、主体性をもって、(「病気」というよりも)「状況」に関わらなければ意味がないということを、宮島医師もよく理解していると見受けられます。

「雷と慈母の如く対照的でありながら、貴重なご活動をされる医師お二方」
まさに、そういう感じですね(笑)。

精神科医の中にも、何人か、興味深い人がいたし、いると改めて思います。今度は、かなり古い人なので、御存じか分かりませんが、加藤清医師についてもとり上げようかと思っています。


コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「うつ」を克服して「薬を使わない精神科医」:

« 「ふつうの狂気」にとっての第一の課題 | トップページ | 幻覚剤の「使いよう」 »

新設ページ

ブログパーツ

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

コメントの投稿について

質問の募集について

無料ブログはココログ