伝統文化の儀式と幻覚剤、分裂病
幻覚剤と分裂病について、もう少し詳しく踏み込んでみたい。
未開社会の儀式において、幻覚剤(幻覚性植物等)が使われることが多いことをみたが、そこでは、幻覚剤はどのようなものとみなされているのか。
河合隼雄に、アメリカ先住民ナバホ族のメディスンマン(治療師)との交流を通して、その治療文化を考察した、『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日文庫)という本がある。この点について、この本には、いろいろ参考になることが述べられているので、参照しながら、述べてみたい。
ナバホ族のメディスンマンでありながら、西洋医学の病院で医師と協力しながら働いているという人物は、幻覚性植物であるペヨーテについて、次のように語る。
先住民の使い方は、白人とは全く異なる。先住民にとっては、ペヨーテも「メディスン」(薬)であり、「スピリットを高めるためのもの」である。白人は、幻覚を生じるからと、ドラッグ扱いしているが、それは使い方が悪いのだ。
確かに、一般に、幻覚剤は、幻覚を生ずる薬物である、というイメージが強い。そのイメージからすると、「幻覚」とは、幻覚剤によって生み出された、脳の反応に過ぎないということにもなってしまうだろう。
しかし、幻覚剤の直接的な効果は、意識状態を変容させ、「変性意識状態」に入るということであって、「幻覚」を生じるというのは、その結果起こることというべきである。恐らく、幻覚剤は、無意識領域を活性化させるか、または、日常の意識による抑制を取り払い、意識と無意識領域を通じやすくするのだと思う。そこで、無意識領域に生じている「幻覚」が、知覚として意識にもたらされることにもなるわけである。何も、幻覚剤によって、幻覚という現象が、新たに、突発的に生まれるわけではない。
このような無意識領域は、それ自体、コンプレックスやトラウマ、記憶などの渦巻く世界で、幻覚とは、前回みたように、それらを「相貌化」するものでもあった。それは、もちろん、混乱を生みだす、危険なものともなる。しかし、無意識領域は、同時に、霊的な世界に通じる扉でもある。先住民らからすれば、それは、精霊や神々との交流を可能にする領域であり、それらとの交流を通して、「癒し」ということも起こる。そのような、霊的世界への移行を助けるものが、幻覚剤であり、すなわち「スピリットを高める」ということである。
しかし、そのような幻覚剤は、決して頼られるのではなく、前回みたように、儀式という限られた状況で、導入として使用される。つまり、そのような「変性意識状態」に入るには、必ずしも、幻覚剤に頼る必要はないし、一旦、入る「コツ」のようなものをつかめば、もはや幻覚剤を必要としなくもなるのである。
『癒しのダンス』のクン族は、3割以上が、薬物の使用なしに、自在に変性意識状態に入ることができるとされていた。これは、恐らく、初めは、幻覚剤を使用していたが、後に、それなしでも入れるようになった者を含んでいると思う。
意識と無意識の溝は深いから、変性意識状態は、初めは、何らかの補助的な手段を使わなければ、なかなか入れない。しかし、一旦、「通路」ができれば、もはやそのようなものを使わなくとも、割にすんなり入れるようになるということがあるのである。
さらに、現代人は、無意識領域のコンプレックスやトラウマが強いから、それに捕まって、霊的な世界への扉を開けることは難しい。(それがゆえの、「自らの内面を知る」という意味の幻覚剤の使い方も出てくるわけだが。)が、先住民は、現代人に比べれば、そのようなものに捕まる度合いは少なく、変性意識状態に入れば、割とすぐに霊的な世界に移行しやすいということもあるだろう。
河合は、「変性意識状態」について、分裂病とも対比しながら、次のように述べている。
メディスンマンは訓練によって、変性意識状態になることができる。変性意識とは、通常の意識とは異なる意識状態のことで、精神病者もなるが、そのときは、日常の世界と非日常の世界が混交してしまって、現実認識が混乱してしまう。が、メディスンマンのように訓練によってなる場合には、必要な現実認識は保たれていて、明晰性を失わないところに特徴がある。禅僧が座禅をするときなども、同様のことが生じる。 (86ページ)
『癒しのダンス』のクン族が変性意識状態に入るときも、まったく同様のことがみられたわけだが、よく的確にまとめられている。
クン族の場合、変性意識状態において、明晰性を保つのには、「死と再生」ということ、つまり、「日常の自分に死ぬ」ということが、重視されていた。が、それはまさに、内面のコンプレックスやトラウマを「浄化」する、ということと通じることでもある。つまり、個人的な感情や混乱を連れ込むことなく、変性意識状態や、霊的世界へと移行できるため、明晰性が保たれるのだといえる。
さらに、メディスンマンに限らずとも、先住民は、幻覚剤を使う儀式によって、変性意識状態に慣れ親しみ、訓練ができているので、分裂病の場合のような混乱を生じることを免れるということもあるだろう。
河合は、「儀式」についても、次のように述べている。
儀式の前提としては、超人間的、超自然的な存在への信仰ということがある。そのような超越的存在に対して、人間が普通に近づくときは、たちまちにそれに圧倒されてしまう。したがって、適切な儀式を行うことによってそれに接近し、それとともに人間は非日常的なエネルギーの流れを体験する。……儀式や祈りを通じて、人間は超越的存在に触れ、それによって自分という存在が深く根づいていることを感じるし、そこから得た偉大なエネルギーによって事を運ぶことができる。 (155ページ)
分裂病などでは、超越的な存在との、予期しない、突発的な接触が起こり、まさに、「普通に近づく」のと同じで、「圧倒されてしまう」ことになる。しかし、儀式は、経験豊富なシャーマンなどの指導のもと、集団で、厳格な手続のもとに、超人間的、超自然的な存在との接触を可能にする。幻覚剤も、そのような儀式の中に組み込まれて、使用される。そのように、予め、混乱が最少に抑えられるようにコントロールされた中で、とり行われるのである。
そして、シャーマンの儀式に限らず、多くの者の参加する儀式にも、何ほどか、「死と再生」のイニシエーションの要素がある。それで、そのような儀式を通して、小さな日常の自分に「死ぬ」機会が、多くの者に与えられる。そのようなことから、変性意識状態においても、分裂病のように混乱しないことが可能となっているわけである。
ところが、分裂病では、それまでに、変性意識状態を体験する機会もなく、死と再生のイニシエーションなどの経験もなく、いきなり、超越的存在との接触を生じるわけで、ただ圧倒され、混乱するだけに終わったとしても不思議ではない。
そこで、前回述べたような「幻覚剤の使いよう」だが、これは単に、客観的に、「分裂病の幻覚について理解に資する」というためだけのものなのではない。その経験を通して、自らが、分裂病または類似の状態になったときに、大きな混乱をもたらさないため、という意味もあるのである。
幻覚剤の体験自体は、分裂病そのものではなく、疑似的なものだが、それは、変性意識状態や幻覚について、少なくとも、全く未知のものではなく、一種の免疫をつけさせてくれる。そこで、そのような体験がない場合より、混乱は抑えられる可能性が出くるのである。
その意味でも、貴重なものであり、決して危険に比して、なす意味の薄いものではないはずである。
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ティエム様
前回に続き今回の記事、繰り返し拝読しております。
変性意識…変性意識にいざなう幻覚剤として最も人類に慣れ親しまれているのは、やはりお酒でしょうか。
(現代文明的生臭さであえて言うなら)記事にある「人工的幻覚剤」については、脳に及ぼす影響が懸念されると思われます。(アルコールが「水溶性」で容易に体外排出可能なのに対し、中枢神経作用薬は「脂溶性」で排出し難くかつ毒性も著しい、など)
ああなまぐさい。失礼しました。
先住民族の長い歴史と叡知に培われた「薬の使いよう」を、現代社会に生まれ育った人間が将来の医療などで「社会のニーズに合わせて用いる」ことは、現状ではなかなか実現しづらいと考えます。
文章を読み理解し、うなずきながら、次第に心に言い知れぬ寂しさが広がっております。
……若い日のこと、私は友人らと川原を散策しながら、靴などを脱ぎ捨てて裸足で歩きました。他の2人も同じようにし、ごつごつした大小の石をひととき裸足で踏み歩きました。
再び靴下、靴を履きながら彼女達は口々に「靴の有り難さがわかった」
その時の寂しさ…私は「靴を履かずこのままいつまでも裸足でいたい」と感じておりました。
太古の先祖の力がまだ残存していた感覚と、いまのあまりに貧弱な自分、得たものとひきかえに喪われたものの大きさ。
文中の用語にすら悲しさを感じます。「変性意識」…地球全体のなかに生かされた私たち人にとっての真実の「変性意識」とは、こちら側の「見えなければ存在は無いとする唯物観、人間が好き勝手に欲望を膨張させる意識」ではないのかと思います。
(勿論どこの心理学にもかような解釈はありません)
ナバボやクンの世界ならいざ、こちら側の精神医療の分野で擬似的体験や導入のきっかけを持たせる試みは、ティエム様の志とは異なる扱いに弄ばれゆくことでしょう。現代社会という巨大な閉鎖病棟内での物珍しい実験として。
しかし、静かに世の流れが少しずつ方向を換えつつあるのを感じてもおります。風を感じます。
もう少し考えてみます。
投稿: みるくゆがふ | 2014年3月31日 (月) 08時30分
みるくゆがふさんありがとうございます。
そうですね。私も、基本的には同じ考えですし、この記事も、現実には「無理だろう」と思いつつ書いてました。薬の怖さをよく知っている人にとっては、なおさらその思いが強いだろうと思います。
ただ、『分裂病者と生きる』(金剛出版)などを読んでみると、これは1990年頃に過去を振り返って述べているのですが、加藤医師のLSD療法に強い興味と志しをもつ精神科医やセラピスト、医療関係者も、当時はかなりいたことが肌で感じられます。分裂病理解への意欲が、当時にはそれなりのものがあったということです。
しかし、逆に、現在加藤医師のような、達人的治療法を施せる者はもちろん、一時的な体験のための使用法としても、幻覚剤をうまく使える者は、ほとんどいないだろうこと。分裂病理解の志や意欲をもつ医療関係者も、ほとんど見つけることが難しいだろうことを考えると、やはり、現実には成り立ち難いだろうと改めて感じます。
また、ネットで、精神薬や鎮痛剤として、麻薬の代わりに依存性、中毒性の少ないペヨーテ(幻覚成分メスカリン)のような幻覚剤を使用することが、検討されているという記事を読みましたが、これは「幻覚」をなめているとしか思えず、やはり幻覚剤を医療に使用するとなると、このような「安易」な使い方しかあり得ないものと思わざるを得なくなってもいます。
「幻覚」や「変性意識」が疑似的にでも理解されない限り、「統合失調症」への「本能的」差別は、決してなくならないと思いますし、そのために、これ以上のものはないものを、自然界が用意してくれていることも確かなことです。ですが、やはり(そのような意味で)使える者と、使おうとする者がいなければ、当然それも成り立たないわけで、残念ながら、現状では難しいということになると思います。
結局、「使いよう」ということを言うなら、こういう「使いよう」はある、ということ
を、ただ書き止めただけということになるかと思います。
まあ,私が何か「希望」めいたことを述べるときは、いつもそのようなスタンスで述べていることが普通ではありますが。
投稿: ティエム | 2014年3月31日 (月) 21時38分
前のコメントで触れた、ペヨーテについて、精神薬や鎮痛剤としての使用が検討されているという記事は、これです。
http://wired.jp/2005/11/09/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B5%90%E6%9E%9C%EF%BC%9A%E5%B9%BB%E8%A6%9A%E5%89%A4%E3%80%8C%E3%83%9A%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%80%8D%E3%81%AF%E8%84%B3%E3%82%92%E6%90%8D%E5%82%B7%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84/
また、幻覚剤一般の治療臨床試験についての記事があります。
http://wired.jp/2004/10/01/%e5%b9%bb%e8%a6%9a%e5%89%a4%e3%81%ae%e6%b2%bb%e7%99%82%e8%87%a8%e5%ba%8a%e8%a9%a6%e9%a8%93%e3%80%81%e6%9c%ac%e6%a0%bc%e5%8c%96%e3%81%b8%e4%b8%8a/
いずれまた、ブログの記事にするかもですが、これについて、ここで簡単に述べておきます。
がんなどの痛みの鎮痛とうつや強迫性障害の治療が並び称され、同列に扱われているところからも、要するに、幻覚剤には、「治療」というよりも、痛みや苦悩を「紛らわせる」効果が期待されているのが分かります。現在使用されている「麻薬」より、脳や精神に与える害が少ないという点が強調されますが、「幻覚」を生むという効果そのものも、痛みや苦痛の「紛らわし」にとって有用と考えられているものと思われます。
末期がんなどの鎮痛の場合には、ある程度認められる余地もあるでしょうが、これを精神薬として使用するというのは、「幻覚」というものをなめきった、恐るべきものです。「幻覚」というのは、「お花畑」やそれこそ「妖精」のようなものを見るというものばかりではなく、恐怖に満ちた、いわゆる「パッドトリップ」も多いものです。それも、単に「幻覚」という外的な現象として、割り切って観察できるようなものではなく、本人の心を強く巻き込んでしまうだけの、「リアリティ」のあるものです。特に、うつや強迫神経症的な状況では、「バッドトリップ」も起こりやすく、冷静な対処も難しくなるはずのものです。シャーマンや加藤医師のような、全体をコントロールできる経験豊富な指導者の下でならまだしも、そのようなコントロールもなく、このような精神薬の服用をすれば、より混乱を深めることになるのは必至でしょう。
「支配層」的には、まさにそのように、現在以上に混乱を深めること、また、統合失調症と診断されるような、新たな「病気作り」を行うことが意図されていると思われます。さらには、これらのことを通して、全体として、先住民が儀式で使用するような、ペヨーテなどの幻覚剤の本来の意義を、貶めることも狙われていると思われます。
投稿: ティエム | 2014年4月 2日 (水) 18時28分
紹介していただいた本と著者を同じくする本を見つけては読んで思考をめぐらせています。
ある方から課題をいただいているのですが、解決策を目指して頭の中をいっぱいにしています。
みるくゆがふさまの裸足のものがたりと「靴を履かずこのままいつまでも裸足でいたい」という感覚に痛く共感いたします。極端になりますが、たとえば足が血だらけになっても生きている実感と感覚に研ぎ澄まされていたいと思います。
「使いよう」をいい使いようになれるよう私なりに切磋琢磨いたします。
・・・拙い文章で大変申し訳ありません。桜に酔ってしましました。
投稿: かもめ | 2014年4月 2日 (水) 20時25分
ティエム様、ありがとうございます。
「支配層」の混乱への誘導、病気作りの意図にも困ったものです。何でんかんでん、そっちに持って行ってしまうチエと執念…あの世までお金を持っていける訳ではないのに気の毒なことです。
先住民、古代人、宗教人、霊能者、洞察あるひとびと、恐らく加藤清氏も、すべて、人間の「こころ」「狂気」の意味を深く探りゆく方々には、共通した世界観が内在されているように、拝察致します。
現代文明の経済学、医学、「なに学かに学」の枠を消去し地球全体を静観する「心眼」、人が長いながい時間を生き繋いできた「智慧」を自らの内に、人びとの内に見いだす「心眼」です。
(霊眼、というべきものかも知れません)
幻覚剤を用いて、「不可視な人間の精神世界」を偏見を持つ人びとへの理解の手立てにする手段、また狂気のただ中にある人を、幻覚剤を用いて「あっちの世界」から「こっちの世界」に呼び戻そうとする治療、
どれも現代文明においては裏の分野、秘密の分野であり、個々の人間が志を持ち、互いに自らにその責を負う意志を持ち、行動する。
地球のどこかで真摯な向き合いが今日もあるのでしょう。「志を護るため」にはそれで良いのだと思います。
どのような精神文化でも、身体的文化でも、「ほんもの」が大々的に公表、発表されることはありません。
個人的には私は「幻覚剤など、諸々の薬物」を、この先の人生で何の目的にも発想していません。
今もなお、過去に服用した「強烈な向精神薬」の残骸が依存の記憶と共に、己の体内からバッド・トリップの気配と共に、暗くささやき出すのが分かるからです。
ヤクの作用により、「等身大の自己が混乱喪失する」……そのような状態を肯定しなめてかかるとまず破滅しますね。私には既に人生の禁じ手の感があります。
世界観の端っこに立つ、風や花、地面の冷たい確かさ、それらは以前にも増して可視不可視の生命力を伝えます。謙虚な想いに導いてくれます。
すみません長くなりました。
かもめさん。ありがとうございます。
子を得て、一緒にはだしで遊んだ日々、少々の傷なら次第に足が慣れて強くなりますよ。何千年も先祖がそうやって歩いてきたことですから。まあ、ハイヒールの類いは履けなくなりますね(笑)
恐れ乍ら、遠くにいても、一緒にいるよな気持ちで桜を眺めています
(*´▽`)(*´-`)良い花見になりました。
投稿: みるくゆがふ | 2014年4月 3日 (木) 19時15分
みるくゆがふさんありがとうございます。
加藤清氏を次回とりあげるつもりですが、すでに先取り的に理解を示して頂いた感じですね。
幻覚剤は、あくまで「導入」手段であり、「媒介」手段に過ぎないことを確認しておきたいと思います。「幻覚剤」なしにも、同様の体験をする人はいくらもいます。また、「分裂病」状態における、意識の異常性や、幻覚について、それなりに推察のできる人にとっては、疑似的な体験をする必要もないものです。みるくゆがふさん自身も、そのような体験をすでにされているのと同様のものと察せられます。
要は、幻覚剤にでも頼らない限り、理解のりの字ももてる可能性のない人が、多すぎるということです。それもまた、精神薬が普及して、「精神病=精神薬で治療する脳の病気」というイメージがてきあがってしまったことによるのでしょう。それで、分かった気になり(分かったことにされ)、実質的な理解には、もはや興味がいかなくなってしまったということです。
かもめさん。ありがとうございます。
どなたの著書か分かりませんが、よければ、また感想などを述べてもらうと、他の人の参考になるかと思います。
投稿: ティエム | 2014年4月 3日 (木) 23時38分
みるくゆがふさま
ありがとうございます。優しいお言葉に幸せを感じつつ、最近涙もろくて、雨の中散りゆく桜と同化します。こちらのブログを携帯で探そうとしたときに表題を思い出せず、ハンドルネームの検索も可能か?と印象に深く残っていたので検索いたしました。深く広く素敵な意味で感激してしまいました。
住居の密集したところに住んでいますが、なるべく子供と自然に触れる機会を作りたいと思います。
ティエムさま
生田哲「脳と心を支配する物質」船山信次「麻薬のすべて」からイメージが膨らみ
船山信次の著書を数冊読んでいます。今まで解剖学ばかりを読んでいたので繋がらなかった部分が、麻薬の作用する視点から働きがだいぶ見えてきました。図解もあわせて読んでみたのでより具体的になりました。静止画面から動画になった感じです。
スピルチュアルはどうにも肌に合わなく、かといって普通?の方とこういう話ができるわけでもなく理路整然としかし感覚ありきで説明されていることに大変有難く思います。ですがいざ自分が思考と感覚と理性と同時に表現しないといけないと思うとあまりの拙さに泣きそうになります。思考は言葉にしないと落ちてこないのですよね・・・がんばります。
投稿: かもめ | 2014年4月 4日 (金) 01時57分
はじめまして。
記事を読んで、共感する部分がありました。
変性意識の話題は、私の周りでは誤解を受けやすいです。
意識状態について知っている方の意見を聞きたいと思っています。
よろしければ私の考えをブログにまとめてあるので見て頂けないでしょうか。
突然のお願いですが、よろしくお願いします。
投稿: なつき | 2014年5月19日 (月) 10時24分
なつきさん、ありがとうございます。ブログの記事、興味深く読ませてもらいました。
それまでの自分の環境や経験に沿って思考された前半部分、瞑想を通じて「こころ」(この場合「本当の自分」と言ってもいいですね)を直に捉えるという大きな体験をされたことが中間に来て、それをもとにして、さまざまな知識と照らし合わせて思考された後半部分という構成も、バランスのとれたよくできているものだと思いました。
ほぼ全体として納得しますし、共感する部分も多かったです。「悟り」を「ホメオスタシス」の観点から説かれた部分は、特にそうで、これは、狂気のような過程を通り越す場合によく当てはまりますし、私の最近の記事で触れたジョン・C・リリーの場合にも、全く当てはまりますね。
私との対比で言うと、私は、10代の頃は(なつきさんとも共通するものが多いと思いますが)唯物論者で、すさんだ生活をしていて、心などは「ない」と思っていたも同然ですが、20代に入ると、なつきさんのように直に体験的に捉えるのではなくて、本などの知識を通してだったのですが、「こころ」があるということに気づき、いろいろ探求することになりました。「知識」の方に相当傾いていたわけですが、ブログでも述べた30のときの一連の体験によって、初めて、そのような知識以前の、なつきさん風に言えば、本当の「こころ」というものを、直に捉えることになったわけです。ただ、その過程では、知識や信念を落とすことにも、相当な苦労(苦悩)が伴いました。
なつきさんのように、「知識」より「体験」が先行したことは、幸いなことで、知識に振り回されずに、知識をよく「使う」ことができるという意味でも、よいことだったと思います。実際、簡潔な文章の中でですが、見事に知識を「使われ」ている様は、多くの人にも伝わると思います。
今後は、より発展した思考を展開されるのかもしれませんが、今現在簡潔にまとまった形で述べられている文章を、いわば「序章」として、もう少し広げて行くというようなことをしても、多くの人に理解のとっかかりの増える、面白いものになるかもしれませんね。
また、初めの『ロバのまま』のタイトルの下の説明の部分に、「ある体験により、こころの存在に気づくということを通して」というような記述も入れておいた方がいいのでは、ということは思いました。これは、その説明の部分を読んで、以下の本文を読むかどうか判断する人が多いので、恐らくその方が本文を読む興味をひかれる人も多いだろうという、事実上の理由からです。別に入れない方がよいということであれば、そうされて一向に構わないですが。
投稿: ティエム | 2014年5月20日 (火) 23時18分
読みに来て頂いて本当にありがとうございました。
私はこの体験を通して、「ホメオスタシス」が看護の基本ということに気づきました。このことは一番最初に習いますが、当事はピンと来ずに病気やケガはお医者さんや薬が治しているような気がしていたからです。
「ホメオスタシス」ってとても不思議なんですね。
私とティエムさんの対比の部分はとても参考になりました。私は知識を取り込むことに関しては苦手意識があった分、知識に振り回されるというようなことは避けられたと思います。私の意識の変動は比較的浅く、幻聴や幻覚を体験したこともありませんでした。悟りの瞬間もとても静かなものでした。しかし、この程度が大きくなればなるほど苦悩が増えるという予感があったのは確かで、そのように苦しむ方がどんなに辛いかということを思うと心がキリキリとします。
私の境遇は今の時代では珍しくもなんともないですが、だからこそ、とても身近でこのように苦しむ方が増えてもなにも不思議ではないと思いました。また抜け出そうにもとても窮屈な現状が取り巻いているようです。
このように考えたので文章を書きました。
私は、あいかわらず無力で人格は小学生のころから一つも成長してないようです。さらに悪いのは嘘をつく癖が抜けないことです。困ったときには決まって愛想笑いでしのぐみたいなことをしてしまいます。私は人の世話をしている場合ではないのですが、どうにか知識のある方や信頼のある方に助けを求めたいと思いました。
ロバのままに載せた文章は小さな嘘もつかないように気をつけました。今の私がこれ以上手を加えると、理想とか色々なもので話がそれてしまいそうです。私がもっと他の事を経験したりして成長できる日がくればもっと説得力のある方法でこのことを伝えていけるかもしれません。
この話の対象は、様々な境遇の皆です。本当は日本とか外国とか関係ないことです。なので、興味がない方でも怖がらずにこの話ができることが大切だと思っています。このように考えてあえて説明書きを少なくしていました。でも、読んでくれる方がおられないうちは説明書きをつけた方がいいように思いだしました。よく考えてみます。
本当にありがとうございました。
ティエムさんのブログもまたじっくり読みに来ます。
投稿: なつき | 2014年5月24日 (土) 07時02分