幻覚剤の「使いよう」
麻薬とは、脳と精神を依存させ、荒廃させる「毒物」であり、だからこそ、支配の道具となるものでもあった。それを踏まえたうえで、麻薬にも「使いよう」があるかというと、それはあると思う。しかし、それは、かなり限定された条件のもとに、一時的にでしかあり得ないことになるはずである。
たとえば、生命の危機である末期のがんや、大ケガなどのときの鎮痛剤や、精神薬としては、「治療」としてではなく、どうしようもない危険回避のための「沈静」を期して、一時的に使用する、などのことである。
そのほか、これは前の日記でも書いたが、LSDなどの幻覚剤は、統合失調状況の特に「幻覚」というものを、多くの者が、体験的に理解する手立てとして、利用できると思う。もちろん、これも、限定した条件のもとに、一時的に使用するものとしてである。
統合失調が理解されない大きな理由の一つは、「幻覚」というものが、全く理解されることもなく、ただ、観念的に「誤った知覚」とされ、取り除かなくてはならないものとして扱われていることにある。「妄想」もそうだが、それは、やはり、その基礎に「幻覚」があるからである。
要するに、「幻覚」は、多くの者の「現実認識」を揺さぶるもので、忌み嫌われ、「排除」すべきものと決めつけられている。抗精神病薬が、治療方法として頼られるのも、それを取り除いてくれるかのように、みなされてるいるからである。
このような状況では、統合失調が理解されるなどということは、あり得ない。
LSDについては、かつてまだ合法であった頃に、これを意識の研究や精神療法に利用した者がかなりあった。J.C.リリーやティモシー・リアリー、S.グロフなどである。日本でも、加藤清という精神科医が、精神療法に利用して、かなりの業績を上げた。
J.C.リリーらは、日常的な意識状態を越えた、「意識の諸相」を研究するのに、LSDを利用した。が、加藤は、分裂病の理解と治療のためという、かなり絞った視点からの利用だった。これは、興味深いもので、加藤のように、経験に基づいて、それこそ「うまく」使える者がいれば、それなりの効果をあげられることが示されている。この、加藤の狂気論と治療論については、次回にでもまた取り上げたい。
ただ、言えるのは、これを「治療」に使えるのは、まさに加藤のように、自らも多くの経験をしていて、十分危険も承知のうえ、「支配」の要素を入れ込むことなく、全体をコントロールできる者だけである。ほとんど、達人的な要素を必要とするので、もはや非合法化されて、使われる機会もなくなった現在、これを治療に使える者は、皆無に近いと言わねばならない。
だから、私としては、「治療」ではなく、統合失調の「幻覚の理解に資す」という、一点に絞ったものとしたい。もっとも、これにしても、使う側には、十分の資質と、経験が必要になるのは当然である。
加藤は、LSDは人間の内面にあるものを、「相貌化」するという。つまり、人間の内面にあるものを、姿、形として、見えるものとして現し出すということである。また、通常は表に現れない、「多次元性」を明らかにするという。通常の知覚世界のような、一次元的なものには収まらない、現実の多様な次元を同時に映し出すということである。
加藤は、これは、統合失調の幻覚と同じではないとしつつも、多くの類似性があるとしている。
私も、統合失調の幻覚は、「捕食者」のような外部的存在によって作られることが多いとしているのだから、LSDの幻覚とはかなり違うと思う。しかし、前に、無意識領域の「原幻覚」を、意識領域に知覚として引き出したのが、「幻覚」だと述べたように、意識化された幻覚というものは、無意識領域にあるものの、「相貌化」とも大いに関わっている。つまり、それは、内面にある、コンプレックスやトラウマ、記憶、体験などとも絡み合って出て来ている。また、加藤の言う「現実の多次元性」というのも、特に、視覚的な幻覚では、統合失調の性質そのものでもある。
だから、その類似性も、かなり高いのである。
実際、LSDでも、人によっては、自分を迫害する声を聞くなど、まさに統合失調症そのままのような体験をするであろう。
しかし、何より、重要なのは、その「リアリティ」の感覚であり、幻覚が、単なる「誤った知覚」ではないことを、肌で感じることである。それは、単純に、「現実ではない」とか、「誤った」などとは、もはや言えなくなるのである。
それだけでも、幻覚の見方が変わり、統合失調症への偏見のいくらかが、減少するはずなのである。
LSDの反応は、人によって、また状態によって、相当異なるもので、必ずしも、このような意味ある幻覚が生じるとは限らないだろう。が、それでも、何ほどか「変性意識状態」というものに入ることによって、それがどういうものかを知るだけでも、随分違うものと思う。日常的意識と異なる意識の状態があり、それが、魅せられる要素とともに、かなり混乱に満ちたもので、知覚や現実としても容易には捉え難いものであること、などの体験である。
こういった体験は、統合失調症の世界を、それほど異様で、かけ離れたものとは、思わせなくなる。
幻覚剤は、これまでみてきたところでも、たとえば、ドンファンがカスタネダに対して、非日常的な知覚体験をさせるために、導入として使っていたものだし、『瘉しのダンス』のクン族が、ダンスにおいて変性意識に入るのに、導入として使うこともあったものである。そのほか、未開民族の様々な儀式でも、導入として使われることが多い。
しかし、彼らは、幻覚剤の効果とともに、それが依存性をもつこと、非日常性の体験をするために、それに頼るようになったのでは、本末転倒であることをよく理解していたのであろう。儀式のような、限られた状況のもとで、しかも、「導入」として「一時的」にのみ、使用しているのである。
だから、統合失調の幻覚の理解に資すための使用としても、そのような、条件をはっきりさせることと、一時的な使用であることを明白にすることが重要である。
加藤清も、精神科医や医療関係者を対象に、統合失調症理解のためにLSDを処方することが多かったようだが、基本は、そのような対象に限った方がいいのかもしれない。そのうえで、希望する者には、一般にも広げていけばいい。
LSD体験をすると、自らの内面の「相貌化」を、さらに深く読み解きたくなり、あるいは、その「多次元的な世界」を、さらに深く探求したくなるかもしれない。しかし、繰り返すが、これを、そのような「治療」的、意識探求的な方法として使用することは、現在のところ難しいと言わねばならない。
あくまで、「幻覚の理解に資すため」に止めたい。
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