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2014年3月

2014年3月31日 (月)

妖精的な釈さん

「小さなおじさん」とお友達で有名な釈由美子さんは、カッパやダルマやUFOも普通に見えるらしい。(http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/oricon-20140330-oric2035744/1.htm)

「小さなおじさん」とは、今も友達づきあいをしているそうだが、こういう人はたまにいるし、釈さんは見るからにそうで、自分自身が「妖精族」みたいな感じの人だ。こういうのを、「妖精の病」とか言って、「病気」にしたがるのが、精神医学だが、過去の交際相手も、話を聞いて「MRIを受けに行け」と言ったというのは酷い話だ。まあ、身近な人ほど、そういう話を聞いて不安になる気持ちは分かるが、それにしてもMRIを受けてどうにかなると思うのか。

それは、私も、つっこみたいことはあって、釈さんのブログ(http://ameblo.jp/yumiko-shaku/)のタイトル、いくらなんでも「本日も余裕しゃくしゃく」はないだろうとか、そんなこと言ったら、私のブログも、「ティエムの本日もかるがるオカルト」とかしなきゃなんないだろう、とかいうのはある♪

まあ、こういうことは、楽しむぐらいの「余裕」はほしいものだ。

2014年3月23日 (日)

伝統文化の儀式と幻覚剤、分裂病

幻覚剤と分裂病について、もう少し詳しく踏み込んでみたい。

未開社会の儀式において、幻覚剤(幻覚性植物等)が使われることが多いことをみたが、そこでは、幻覚剤はどのようなものとみなされているのか。

河合隼雄に、アメリカ先住民ナバホ族のメディスンマン(治療師)との交流を通して、その治療文化を考察した、『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日文庫)という本がある。この点について、この本には、いろいろ参考になることが述べられているので、参照しながら、述べてみたい。

ナバホ族のメディスンマンでありながら、西洋医学の病院で医師と協力しながら働いているという人物は、幻覚性植物であるペヨーテについて、次のように語る。

先住民の使い方は、白人とは全く異なる。先住民にとっては、ペヨーテも「メディスン」(薬)であり、「スピリットを高めるためのもの」である。白人は、幻覚を生じるからと、ドラッグ扱いしているが、それは使い方が悪いのだ。

確かに、一般に、幻覚剤は、幻覚を生ずる薬物である、というイメージが強い。そのイメージからすると、「幻覚」とは、幻覚剤によって生み出された、脳の反応に過ぎないということにもなってしまうだろう。

しかし、幻覚剤の直接的な効果は、意識状態を変容させ、「変性意識状態」に入るということであって、「幻覚」を生じるというのは、その結果起こることというべきである。恐らく、幻覚剤は、無意識領域を活性化させるか、または、日常の意識による抑制を取り払い、意識と無意識領域を通じやすくするのだと思う。そこで、無意識領域に生じている「幻覚」が、知覚として意識にもたらされることにもなるわけである。何も、幻覚剤によって、幻覚という現象が、新たに、突発的に生まれるわけではない。

このような無意識領域は、それ自体、コンプレックスやトラウマ、記憶などの渦巻く世界で、幻覚とは、前回みたように、それらを「相貌化」するものでもあった。それは、もちろん、混乱を生みだす、危険なものともなる。しかし、無意識領域は、同時に、霊的な世界に通じる扉でもある。先住民らからすれば、それは、精霊や神々との交流を可能にする領域であり、それらとの交流を通して、「癒し」ということも起こる。そのような、霊的世界への移行を助けるものが、幻覚剤であり、すなわち「スピリットを高める」ということである。

しかし、そのような幻覚剤は、決して頼られるのではなく、前回みたように、儀式という限られた状況で、導入として使用される。つまり、そのような「変性意識状態」に入るには、必ずしも、幻覚剤に頼る必要はないし、一旦、入る「コツ」のようなものをつかめば、もはや幻覚剤を必要としなくもなるのである。

『癒しのダンス』のクン族は、3割以上が、薬物の使用なしに、自在に変性意識状態に入ることができるとされていた。これは、恐らく、初めは、幻覚剤を使用していたが、後に、それなしでも入れるようになった者を含んでいると思う。

意識と無意識の溝は深いから、変性意識状態は、初めは、何らかの補助的な手段を使わなければ、なかなか入れない。しかし、一旦、「通路」ができれば、もはやそのようなものを使わなくとも、割にすんなり入れるようになるということがあるのである

さらに、現代人は、無意識領域のコンプレックスやトラウマが強いから、それに捕まって、霊的な世界への扉を開けることは難しい。(それがゆえの、「自らの内面を知る」という意味の幻覚剤の使い方も出てくるわけだが。)が、先住民は、現代人に比べれば、そのようなものに捕まる度合いは少なく、変性意識状態に入れば、割とすぐに霊的な世界に移行しやすいということもあるだろう。

河合は、「変性意識状態」について、分裂病とも対比しながら、次のように述べている。

メディスンマンは訓練によって、変性意識状態になることができる。変性意識とは、通常の意識とは異なる意識状態のことで、精神病者もなるが、そのときは、日常の世界と非日常の世界が混交してしまって、現実認識が混乱してしまう。が、メディスンマンのように訓練によってなる場合には、必要な現実認識は保たれていて、明晰性を失わないところに特徴がある。禅僧が座禅をするときなども、同様のことが生じる。     (86ページ)

『癒しのダンス』のクン族が変性意識状態に入るときも、まったく同様のことがみられたわけだが、よく的確にまとめられている。

クン族の場合、変性意識状態において、明晰性を保つのには、「死と再生」ということ、つまり、「日常の自分に死ぬ」ということが、重視されていた。が、それはまさに、内面のコンプレックスやトラウマを「浄化」する、ということと通じることでもある。つまり、個人的な感情や混乱を連れ込むことなく、変性意識状態や、霊的世界へと移行できるため、明晰性が保たれるのだといえる。

さらに、メディスンマンに限らずとも、先住民は、幻覚剤を使う儀式によって、変性意識状態に慣れ親しみ、訓練ができているので、分裂病の場合のような混乱を生じることを免れるということもあるだろう。

河合は、「儀式」についても、次のように述べている。

儀式の前提としては、超人間的、超自然的な存在への信仰ということがある。そのような超越的存在に対して、人間が普通に近づくときは、たちまちにそれに圧倒されてしまう。したがって、適切な儀式を行うことによってそれに接近し、それとともに人間は非日常的なエネルギーの流れを体験する。……儀式や祈りを通じて、人間は超越的存在に触れ、それによって自分という存在が深く根づいていることを感じるし、そこから得た偉大なエネルギーによって事を運ぶことができる。   (155ページ)

分裂病などでは、超越的な存在との、予期しない、突発的な接触が起こり、まさに、「普通に近づく」のと同じで、「圧倒されてしまう」ことになる。しかし、儀式は、経験豊富なシャーマンなどの指導のもと、集団で、厳格な手続のもとに、超人間的、超自然的な存在との接触を可能にする。幻覚剤も、そのような儀式の中に組み込まれて、使用される。そのように、予め、混乱が最少に抑えられるようにコントロールされた中で、とり行われるのである。

そして、シャーマンの儀式に限らず、多くの者の参加する儀式にも、何ほどか、「死と再生」のイニシエーションの要素がある。それで、そのような儀式を通して、小さな日常の自分に「死ぬ」機会が、多くの者に与えられる。そのようなことから、変性意識状態においても、分裂病のように混乱しないことが可能となっているわけである。

ところが、分裂病では、それまでに、変性意識状態を体験する機会もなく、死と再生のイニシエーションなどの経験もなく、いきなり、超越的存在との接触を生じるわけで、ただ圧倒され、混乱するだけに終わったとしても不思議ではない

そこで、前回述べたような「幻覚剤の使いよう」だが、これは単に、客観的に、「分裂病の幻覚について理解に資する」というためだけのものなのではない。その経験を通して、自らが、分裂病または類似の状態になったときに、大きな混乱をもたらさないため、という意味もあるのである

幻覚剤の体験自体は、分裂病そのものではなく、疑似的なものだが、それは、変性意識状態や幻覚について、少なくとも、全く未知のものではなく、一種の免疫をつけさせてくれる。そこで、そのような体験がない場合より、混乱は抑えられる可能性が出くるのである。

その意味でも、貴重なものであり、決して危険に比して、なす意味の薄いものではないはずである。

2014年3月16日 (日)

幻覚剤の「使いよう」

麻薬とは、脳と精神を依存させ、荒廃させる「毒物」であり、だからこそ、支配の道具となるものでもあった。それを踏まえたうえで、麻薬にも「使いよう」があるかというと、それはあると思う。しかし、それは、かなり限定された条件のもとに、一時的にでしかあり得ないことになるはずである。

たとえば、生命の危機である末期のがんや、大ケガなどのときの鎮痛剤や、精神薬としては、「治療」としてではなく、どうしようもない危険回避のための「沈静」を期して、一時的に使用する、などのことである。

そのほか、これは前の日記でも書いたが、LSDなどの幻覚剤は、統合失調状況の特に「幻覚」というものを、多くの者が、体験的に理解する手立てとして、利用できると思う。もちろん、これも、限定した条件のもとに、一時的に使用するものとしてである。

統合失調が理解されない大きな理由の一つは、「幻覚」というものが、全く理解されることもなく、ただ、観念的に「誤った知覚」とされ、取り除かなくてはならないものとして扱われていることにある。「妄想」もそうだが、それは、やはり、その基礎に「幻覚」があるからである。

要するに、「幻覚」は、多くの者の「現実認識」を揺さぶるもので、忌み嫌われ、「排除」すべきものと決めつけられている。抗精神病薬が、治療方法として頼られるのも、それを取り除いてくれるかのように、みなされてるいるからである。

このような状況では、統合失調が理解されるなどということは、あり得ない。

LSDについては、かつてまだ合法であった頃に、これを意識の研究や精神療法に利用した者がかなりあった。J.C.リリーやティモシー・リアリー、S.グロフなどである。日本でも、加藤清という精神科医が、精神療法に利用して、かなりの業績を上げた。

J.C.リリーらは、日常的な意識状態を越えた、「意識の諸相」を研究するのに、LSDを利用した。が、加藤は、分裂病の理解と治療のためという、かなり絞った視点からの利用だった。これは、興味深いもので、加藤のように、経験に基づいて、それこそ「うまく」使える者がいれば、それなりの効果をあげられることが示されている。この、加藤の狂気論と治療論については、次回にでもまた取り上げたい。

ただ、言えるのは、これを「治療」に使えるのは、まさに加藤のように、自らも多くの経験をしていて、十分危険も承知のうえ、「支配」の要素を入れ込むことなく、全体をコントロールできる者だけである。ほとんど、達人的な要素を必要とするので、もはや非合法化されて、使われる機会もなくなった現在、これを治療に使える者は、皆無に近いと言わねばならない。

だから、私としては、「治療」ではなく、統合失調の「幻覚の理解に資す」という、一点に絞ったものとしたい。もっとも、これにしても、使う側には、十分の資質と、経験が必要になるのは当然である。

加藤は、LSDは人間の内面にあるものを、「相貌化」するという。つまり、人間の内面にあるものを、姿、形として、見えるものとして現し出すということである。また、通常は表に現れない、「多次元性」を明らかにするという。通常の知覚世界のような、一次元的なものには収まらない、現実の多様な次元を同時に映し出すということである。

加藤は、これは、統合失調の幻覚と同じではないとしつつも、多くの類似性があるとしている。

私も、統合失調の幻覚は、「捕食者」のような外部的存在によって作られることが多いとしているのだから、LSDの幻覚とはかなり違うと思う。しかし、前に、無意識領域の「原幻覚」を、意識領域に知覚として引き出したのが、「幻覚」だと述べたように、意識化された幻覚というものは、無意識領域にあるものの、「相貌化」とも大いに関わっている。つまり、それは、内面にある、コンプレックスやトラウマ、記憶、体験などとも絡み合って出て来ている。また、加藤の言う「現実の多次元性」というのも、特に、視覚的な幻覚では、統合失調の性質そのものでもある。

だから、その類似性も、かなり高いのである。

実際、LSDでも、人によっては、自分を迫害する声を聞くなど、まさに統合失調症そのままのような体験をするであろう。

しかし、何より、重要なのは、その「リアリティ」の感覚であり、幻覚が、単なる「誤った知覚」ではないことを、肌で感じることである。それは、単純に、「現実ではない」とか、「誤った」などとは、もはや言えなくなるのである

それだけでも、幻覚の見方が変わり、統合失調症への偏見のいくらかが、減少するはずなのである。

LSDの反応は、人によって、また状態によって、相当異なるもので、必ずしも、このような意味ある幻覚が生じるとは限らないだろう。が、それでも、何ほどか「変性意識状態」というものに入ることによって、それがどういうものかを知るだけでも、随分違うものと思う。日常的意識と異なる意識の状態があり、それが、魅せられる要素とともに、かなり混乱に満ちたもので、知覚や現実としても容易には捉え難いものであること、などの体験である。

こういった体験は、統合失調症の世界を、それほど異様で、かけ離れたものとは、思わせなくなる。

幻覚剤は、これまでみてきたところでも、たとえば、ドンファンがカスタネダに対して、非日常的な知覚体験をさせるために、導入として使っていたものだし、『瘉しのダンス』のクン族が、ダンスにおいて変性意識に入るのに、導入として使うこともあったものである。そのほか、未開民族の様々な儀式でも、導入として使われることが多い。

しかし、彼らは、幻覚剤の効果とともに、それが依存性をもつこと、非日常性の体験をするために、それに頼るようになったのでは、本末転倒であることをよく理解していたのであろう。儀式のような、限られた状況のもとで、しかも、「導入」として「一時的」にのみ、使用しているのである。

だから、統合失調の幻覚の理解に資すための使用としても、そのような、条件をはっきりさせることと、一時的な使用であることを明白にすることが重要である。

加藤清も、精神科医や医療関係者を対象に、統合失調症理解のためにLSDを処方することが多かったようだが、基本は、そのような対象に限った方がいいのかもしれない。そのうえで、希望する者には、一般にも広げていけばいい。

LSD体験をすると、自らの内面の「相貌化」を、さらに深く読み解きたくなり、あるいは、その「多次元的な世界」を、さらに深く探求したくなるかもしれない。しかし、繰り返すが、これを、そのような「治療」的、意識探求的な方法として使用することは、現在のところ難しいと言わねばならない。

あくまで、「幻覚の理解に資すため」に止めたい。

2014年3月 7日 (金)

「うつ」を克服して「薬を使わない精神科医」

宮島賢也という精神科医の講演ビデオ(http://www.youtube.com/watch?v=1VpzYAdcuLM )。

自ら「うつ」にかかり、7年間薬を服用するが、薬では治らないことを確信し、薬を止め、考え方と生き方を変えることで、うつを克服したという。その体験をもとに、「薬を使わない精神科医」として、メンタルセラピーをしている。そのセラピーは、「治療」というよりも、患者本人が自ら治していくのを、「手伝う」というコンセプトである。

これも、前回みたように、狂気は、精神科医にかかることではなく、自然の過程で回復するということを証明した、一例といえる。

この人にも、狂気を「くぐり抜け」て、克服した人の特徴がよく現れていると思う。話し方なども、なかなか味があるし、話しの内容はシンプルだが、明確で力強く、一本筋が通っている。

一般に言われていることとか、他人が言うことではなく、精神的な不調をきっかけに、自ら本気で、調べたり、考えたりして、深く納得することを身につけているからと思う。逆に言えば、精神的な不調に追い込まれて、初めて人間は、本気で考えるということを始めるという、悲しい現実があるということでもあるが。

この狂気を「くぐり抜ける」ということでいうと、最近は、「狂気」そのものではなく、精神医療によって、人工的に作られた「病」を「くぐり抜ける」ことも、また、これに含まれる事態になっている。この場合、「くぐり抜ける」とは、精神薬の副作用や離脱症状と闘って、精神薬を止めることである。「精神薬を止める」ということ自体が、「狂気」の「克服」と同じような意味合いになっている、ということである。

その「病」のもとに、実際に、何らかの「狂気」がある場合、それだけでは、「回復」したことにはならないかもしれない。が、狂気と言えるようなものではないにも拘わらず、人工的な「病」にされてしまった人も多いわけである。そのような場合、この人工的な「病」を「くぐり抜ける」ことが、「狂気をくぐり抜ける」のと同じような結果をもたらし、また、「強さ」をもたらしていると思う。

私のブログにコメントをくれる人などもそういう人が多い。

宮島医師に関しては、『自分の「うつ」を治した精神科医の方法』(河出夢新書)という本も読んだが、これも、いたってシンプルな内容で、この講演をもう少し詳しくしたような内容である。(※)

「うつ」の原因は、人間関係や仕事上のストレスであることがほとんどであり、「うつ」の症状は、そのままでは、身体的、精神的に疲弊してしまうことを訴える、「警告」である。だから、「症状」は、取り除くべきものなのではなく、「浄化」するべく、必要があって起こっているのである。

ただ、そのようなストレス状況におかれても、「うつ」になりやすい人と、そうで
ない人がいる。「うつ」になりやすい人は、特有の考え方や生き方をしている。だから、それを変えることで、「うつ」を克服することことができるのである

「うつ」になりやすい人の、特有の考え方とは、「いやなこと、よくないこと」ばかりに目がいき、ネガティブな感情に囚われて、気分を落ち込ませる。また、「自分を責める」傾向があり、「うつ」になったことも、自分が弱いからだ、悪いからだと考え、ますます落ち込んでいく。

著者は、自分の場合を例に、このような考え方の基本は、親の育て方によって、植えつけられたものとしている。特に、母親の「期待」や「欲望」の押しつけが、そのような方向に沿えない自分を、価値がないものとして否定し、責める見方をもたらす。

このようなことは、確かに、家族が核家族化して、私たち高度成長期に育った世代以降、ずっと続いていることと思う。子供ができてしばらく後、夫婦はすでに実質破綻し、利害関係や体裁だけでもつものとなる。父親は、仕事に専念して、家庭を顧みない。母親は、子供にばかり関わり、自分の期待や欲望を、強く押しつけることで、生きがいを見い出していく。そのようなことは、どこの家庭にも、多かれ少なかれ見られる光景だろう。

つまり、多くの者が、「うつ」になりやすい状況が作られ、そのうえに、社会的なストレスは、ますます増えていくのだから、「うつ」が増えるということ自体は、何ら不思議でないと言わねばならない。

そこで、著者は、「うつ」にかかったことをきっかけに、これまでの考え方、生き方を見直し、それらを変えていければ、「うつ」は克服できるとしている。考え方を変えるとは、要するに、「ものごとには、必ずいい面もあるから、それをみるようにする」こと、「あるがままの自分を受け入れ、認める」こと、「誰かのためにがんばる、ということを止める」こと、などである。

要するに、一言で言えば、他人に植えつけられた考えを止めて、自分で本当に考え、欲することをする、ということに尽きると思う。それまで、自分では本当には納得していない「無理」を押しつけていたのだから、ただ、その「無理」を手放して、楽になる、ということでもある

決して、簡単なことではないが、「うつ」の苦しみが、自然と、そのような方向への転換を促してくれるということにもなる。

ただし、薬に頼ろうとすることは、そのような考え方の変換を、拒否しようとすることで、その意味でも、「うつ」を変えることにつながらないのは、当たり前と言える。

私も、多くのうつの場合に、著者の言うことが当てはまると思う。ただ、私は、前に、記事で、うつの原因についても述べていた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-de23.html)。

そこで、「虚無感」や「ニヒリズム」の抑圧が、何かのストレスをきっかけに、一気に外れて、あふれ出すことを、うつになる原因として重視した。これは、根源的な「虚無」の影響ということでもあり、まさに、「強度の狂気」について述べているようでもあるが、必ずしもそういうことではない。

つまり、著者も言うような、多くのうつの場合にも、このことが当てはまり得ると思う。

たとえば、母親が、子供に自分の期待や欲望を押しつけるのも、そのもとには、「虚無感」があり、その虚無感をごまかすべく、そうしているのである。その子供が、そのような価値観を受け継いで、それを身につけてしまうのも、やはり、それに沿ってがんばることが、もとにある「虚無感」をごまかしてくれるからである。

つまり、自分の欲望を他人に押しつけるのも、他人の期待や欲望に沿った考え方、生き方をするのも、そうすることで、もとにある「虚無感」を、意識せずにすむからである。

しかし、そのような抑圧を続けることは、内部では、「虚無感」をより強力に醸成し続ける。そこで、何かのストレスをきっかけに、その虚無感が抑え切れなくなり、表に現れて、うつの状態をもたらす。

要は、「虚無感」を受け入れずに、それから逃れるために、無理をして、奔走していたわけで、うつは、その虚無感といやでも向き合わなければならない状況をもたたらす。その虚無感を、いけないもの、追い払うべきものと決めつけないで、あるがままに認めていくとき、それは、むしろ緩和され、それから逃れる衝動をもたらさなくなる。そうして初めて、虚無感から逃れることではなく、ただ自分の考えることや欲することを動機として、行動できるようになるのだと思う。

「虚無感を受け入れる」と言うと、何かネガティブなことのようで、著者の言うような、ネガティブな思考を変えることに、沿わないようにもみえる。しかし、著者も、考え方を変える起点は、「あるがままの自分を認める」こと、と言っているが、それは、そのような、現にある「虚無感」を受け入れることでもあるはずである。「虚無感」を受け入れるからこそ、無理をせず、楽に生きていい、と思えるわけである。

だから、私の考えも、著者の言っていることと、それほど違わないことのはずである。

※ 「考え方」「生き方」を変えるということとともに、「食生活」を変えるということも重視されていて、かなり詳しく述べられている。私は、あまり食には拘りはないが、「食べる」ということは、一つの思想そのものであり、「生き方」そのものだということは、考える。「捕食者」という存在についてみても、そう思わざるを得ない。いずれまた、そういうことも、とりあげてみたい。

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