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2014年2月

2014年2月23日 (日)

「ふつうの狂気」にとっての第一の課題

闇や虚無の影響を受けて、「脳内快感システム」のような、生命の原理そのものが、危機の状況に陥っている状態を、「重度の狂気」ということができる。重度の統合失調やうつが典型である。

それ以外の「精神的不調」は、「ふつうの狂気」ととりあえず言っておく。本当は、「重度の狂気」こそが「狂気」なのであり、「ふつうの狂気」は、「狂気」ではないとも言えるのだが、ここでは「狂気」を二つに分けてみるため、とりあえずこう言っておく。一般のうつや、統合失調症その他の精神的不調は、すべてこれに入る。

「重度の狂気」というのは、「狂気」全般の中でも、非常にまれであり、ほとんどの狂気は、この「ふつうの狂気」に入るはずである。

「闇」や「虚無」を根源的なものとして語る、私のプログ、『狂気をくぐり抜ける』が、本当に訴えかけるものをもつのは、やはり、自ら「重度の狂気」を体験したか、何ほどかその状態を垣間見た人であろうと思う。ただ、私自身、いきなり「重度の狂気」に至ったわけではなく、「ふつうの狂気」から徐々にその深みへと陥っていったのである。だから、「ふつうの狂気」についてもまた、多くのことが述べられている。特に統合失調については、「幻聴への対処法」など、実際的対処法のようなことも多く述べている。「ふつうの狂気」にとっても、参考になることは、多いはずなのである。

しかし、「ふつうの狂気」にとっての第一の課題は、そういうことよりも、次のことであるのを、改めて明確にする必要を感じる。

「ふつうの狂気」とは、本来、自然の過程で回復し得るものである。人間は、常に環境によって大きな変動を受けているからである。言い変えると、人はそんなに長い間、狂気でいられるほど、強くはないのである。しかし、精神医療に関わることで、それは人工的な「病気」にされ、いびつな形に変形され、固定されて、容易には回復できないものとなる。だから、「ふつうの狂気」にとっての第一の課題は、いかに精神医療に関わらないかということ、もし関わらざるを得なくなってしまった場合には、その影響をいかに最小限に抑えられるかということである

精神医療の実情を知れば知るほど、このことこそが、第一の課題とならざるを得ないのを、改めて感じる。「幻聴への対処法」などと言っても、精神薬によって、より荒廃した「病気」に追い込まれたのでは、意味がない。うつやその他の精神的不調に対する対処法というのも、すべて同じことである。

「自然の過程で回復し得る」と言ったが、それは、ときに数カ月あるいは数年に及ぶこともあるだろう。そのような長い期間(人生全体の中では決して長いとは思わないが)を、社会の中で、「不調」な状態として送ることを許す社会というものは、まずない。社会が許容しないとは、要するに、「放っておけない」ということであり、つまりは、「病院に行け」、「治療を受けろ」、あるいは「入院しろ」、ということである。

「ふつうの狂気」にも、このような社会的圧力というものが、陰に陽にかかるから、本人にしても、家族やまわりの者にとっても、それを振り払っていくことは難しい。

しかし、結局は、ここでの対応こそが、ことの次第を決めて行くのである。現在の精神医療と社会の許容度が、当分は変わらないことを前提にすれば、ここでいかに意志を強くもち、精神医療に関わらずに、自ら「狂気」と向き合っていくことを決断するかということが、重要なのである。そして、そのような意志があれば、統合失調その他の場合で、強制的に精神医療に関わらせらせれた場合にも、その影響を極力少ないものにすることは可能と思われるのである。

しかし、それにしても、このような、不自然とも言えることを貫かなくてはならない状況が、多少とも変わることが望ましいし、それは今後、ある程度は可能かもしれないと思わせる状況にはある。精神医療に対する不信は、かつてなく広がっているし、精神薬の危険性についての知識も、少しは行き渡りつつある。自分や、周りの者が「狂気」らしき状態に陥った時に、精神医療に関わることは、もはや、とても進んでするような選択ではなくなっているだろう。しかし、そうしないことは、やはり、不安を募らせることだし、相変わらず、社会の圧力もなくなりはしない。

だから、何よりも、「ふつうの狂気」は、精神医療によってではなく、自然の過程で治り得るものだということの認識が、一般に行き渡ることこそが重要である。そのためには、実際に、「ふつうの狂気」の人の多くが、精神医療にかからないようになること、そうすることで、一定の期間の後は、自然に回復することを、証明してみせることが必要である。『心の病の流行と精神科治療薬の真実』も示しているように、実際に、精神医療にかからなくなるだけでも、転機がよくなることが見込まれるのである。ただし、その場合、証人がいるか、そのことを何らかの形で表現しない限り、多くの人がそのことを知ることはできはないわけだが。

大体、「ふつうの狂気」が、「治らない」ものであるというイメージは、「重度の狂気」に対する「悪い」イメージにひきよせられて、作られた「幻想」に過ぎない。あるいは、精神医学が、精神医療によって、長期的な治療を受けなければならない、という観念を植え込むために、浸透させたものである。(※)

多くの者が、「ふつうの狂気」の者に対して、「病院に行け」というような圧力をかけるのも、このイメージがあるからだし、実際には、自分自身の問題になり得るなどとは、思ってもいないから、そういう安易なことが言えるのである。

しかし、逆に、精神医学が、このまま「がんばり」続けて、多くの者を簡単に「病気」にできるようになると、多くの者も、さすがに、自分自身の問題ではないとは言えないことに、気づかざるを得なくなる。自分自身、精神医療に関わせられる可能性が現実のものとして見えてくると、誰も、それを人に積極的に勧めなどできなくなるだろう。

いずれにしても、このような、「ふつうの狂気」に対する、作られたイメージが取り払われるには、それは、実際に、自然の過程で回復し得るものであることが、証明され、浸透される必要がある。そして、そうなれば、そのこと自体が、本人も、その狂気と自ら向き合うことを、より受け入れやすくするし、社会もそれを支援したり、許容しやすくなる。

ただし、最後に、「自然の過程で回復する」と言っても、決して楽に乗り越えられるとか、「かぜ」と同じように、放っておいてもそのうち治るということなのではないことは、確認しておく必要がある。

自然に回復すると言っても、「ふつうの狂気」にも、薄められた形ではあれ、ある種の「死」の要素があり、「生命」そのものに対する危機がないわけではない。むしろ、だからこそ、それは、「イニシエーション」として、それを「くぐり抜け」た場合には、何らかの「成長」や「深み」につながっていくものなのである。そして、その過程は、やはり一般的には、許容したくないような、目を伏せたくなるような要素にも満ちているのである。

精神医療とは、そのような「おどろおどろしい」ものを葬り去りたいという、非現実的な望みのもとに、精神薬によって、かえって、酷い状況を生み出しているものといえる。だから、「狂気」につきまとう、そういった面は、やはり「受け入れる」しか手はないのである。しかし、「いずれは乗り越えることができる」という展望があれば、それも難しいことではなくなるし、そのうえで、じっくりと、対処していくしかないのである。

※ もうひとつ、狂気のイメージに大きく貢献している重要な理由をあげなければならなかった。それは、精神薬である。つまり、精神薬による副作用や離脱症状など、精神薬がもたらしている苦痛や酷い状態が、狂気そのものから生じているとみなされるとき、狂気の酷いイメージは大きく助長される。それもまた、意図されていることと言わねばならない。

2014年2月15日 (土)

「脳内快感システム」と「狂気」

人間には、βエンドルフィンのような「脳内麻薬」や、ドーパミンのような「快感物質」が植え込まれている。それは、「脳内快感システム」というべきものを、形成している。これが、苦痛を避け、快感を高める方向で、人間の行動を支配している。それは、人間の生存意欲や感情を高め、人間の生存だけでなく、人間を支配する存在や、「宇宙」の存続にも資しているのだった。

それでは、この「脳内快感システム」と「狂気」とは、どのような関係にあるのだうか。

狂気でも、軽いものは、この「脳内快感システム」に取り込まれていると思われる。多少の、快感システムの混乱や異常は、むしろ、快感システムの重要性を再認識させ、その機能を高めるのだ。

しかし、重度の統合失調や、重度のうつなどの、重い狂気の場合、それらは、もはや、「脳内快感システム」の機能不全をもたらす。快感や感情の高ぶりは、ほとんどみられなくなり、生存意欲は深刻な打撃を受ける。つまり、快感システムが機能しなくなり、あらゆることが、苦痛になって、生きる意欲は減退する。

つまり、「狂気」には、「脳内快感システム」による「生存意欲の向上」と「宇宙の存続」という目的には、明らかに反するものがあるのだ。これは、「脳内快感システム」を設定した側にとっては、「想定外」であり、「許容」されない事態である。「狂気」とは、ある意味、「脳内快感システム」を植え込んで、人間を支配しようとする側に対する、「反乱」とも言えるわけだ。

なぜそのようなことが起こるかというと、これまでにも述べた来たとおり、このような重度の「狂気」には、「宇宙」の内部には収まることのない、「闇」や「虚無」の影響があるからである

記事『霊界の境域の図』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html )に示した図を見てほしい。ここで「宇宙」とは、単に、物質的、感覚的な宇宙ではなく、霊的な世界をも含んだ意味で言っている。つまり、図で、〇で囲まれた、2つの(秩序ある)領域の両方を含む。ところが、「霊界の境域」の根底にある「闇」や「虚無」は、これらの「宇宙」には含まれない、それを越え出た領域である。「狂気」において、その影響を受けるとは、そのように、「宇宙」全体の目的からも、逸脱するものなのである

だから、それが、「宇宙の存続目的」に沿うように設定された、「脳内快感システム」に逆らい、深刻な打撃を与えるのも、当然といえる。それは、むしろ、「死」そのものに、接近する。それは、単に、その個体や、生命の死に留まらず、私の場合のように、「宇宙そのものの死」へと、至るものともなる。

そういうわけで、「狂気」とは、単に、人間に忌み嫌われ、排除されるだけのものなのではない。「宇宙」という秩序に存在する、あるゆる「生命」にとっても、忌み嫌われ、排除されるべき代物なのだ。

その点では、「狂気」に大いに関わる「捕食者」も、例外ではない。捕食者は、捕食のため、結果として、人間を狂気に追い込むことになるが、決して、一気に、その深みにまで追いやるわけではない。長い間、獲物を離さず、自らの領域に止めておこうと、じわじわと、ゆっくり、執拗に、攻め立て続ける。彼らにとっても、「狂気」に陥れること自体は、本来の意図ではないのである。

「精神病」とは、人間が、操作したり治療できるものと思い込もうとして、「狂気」をそのように規定したというに過ぎない。その「精神病」の問題も、十分、一筋縄で行かない問題なのだった。しかし、「狂気」とは、それ以上に、根源的なもので、人間の容易に扱い得る代物ではないことが、改めて分かる。

ただ、同時に、もし、「脳内の快感システム」という「支配」のシステムが、足かせと感じられるなら、「狂気」は、それを抜け出す可能性を垣間見せてくれるものとはなるのである。さらに、まれなことだろうが、もし、「宇宙」全体というものが、ある種の閉塞感をもたらすものと感じられるなら、それは、それを越え出た領域というものも、垣間見せてくれることにはなるのである。

2014年2月 6日 (木)

「捕食者」の「精力剤」

齋藤勝裕著『毒と薬のひみつ』(サイエンス・アイ新書)は、毒や薬、麻薬などについて、一般に言われている、ほんの基本的なことしか書かれていない。が、中には、面白い記事もあった。

たとえば、精力剤に関する記事で、精力剤として、「ヤモリの黒焼き」というのがある。まず情交中のヤモリを見つけ、それを無理やり引き離して、竹筒の中に入れるが、節を隔てて隣合わせの位置においておく。そのままで数日間たったのちに竹筒をあけると、なんとヤモリは節を食い破り、情交した状態で死んでいる。そのヤモリを黒焼きにしたのが、ヤモリの黒焼きなのである。

単に、動物の亡骸ではなく、その動物が、最大限に欲望かつ苦悩して、死ぬ瞬間の「生命力」を閉じ込めたかのような、こういったものが、やはり人間にも、精力剤として、威力を持つと信じられているのだ。「精力剤」とは、単なる、物質的な成分が問題なのではなく、「情念」や「気」のようなものこそが重要だと、やはり、人間にもそれなりに感知されているわけだ。

しかし、これって、そのまま、人間と「捕食者」の関係に入れ替えてみることができる。つまり、「捕食者」にとっての精力剤というのがあるとしたら、それは、まさに、人間がヤモリに対してなした、このような残酷な行いを、人間に対してなして作られたもの、そのもののはずなのだ。「捕食者」にとっては、直に、物質的な成分ではなく、苦悩や情念によって発せられる、「感情エネルギー」こそが問題なのだから。

こうしてみると、人間も、やはり、他の動物に対しては、「捕食者」と同じく「捕食者」的な振舞いをしていることになる。ただ、自分がそうされていることに、気づかない分、よけい愚かなだけなのだ。

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