「ふつうの狂気」にとっての第一の課題
闇や虚無の影響を受けて、「脳内快感システム」のような、生命の原理そのものが、危機の状況に陥っている状態を、「重度の狂気」ということができる。重度の統合失調やうつが典型である。
それ以外の「精神的不調」は、「ふつうの狂気」ととりあえず言っておく。本当は、「重度の狂気」こそが「狂気」なのであり、「ふつうの狂気」は、「狂気」ではないとも言えるのだが、ここでは「狂気」を二つに分けてみるため、とりあえずこう言っておく。一般のうつや、統合失調症その他の精神的不調は、すべてこれに入る。
「重度の狂気」というのは、「狂気」全般の中でも、非常にまれであり、ほとんどの狂気は、この「ふつうの狂気」に入るはずである。
「闇」や「虚無」を根源的なものとして語る、私のプログ、『狂気をくぐり抜ける』が、本当に訴えかけるものをもつのは、やはり、自ら「重度の狂気」を体験したか、何ほどかその状態を垣間見た人であろうと思う。ただ、私自身、いきなり「重度の狂気」に至ったわけではなく、「ふつうの狂気」から徐々にその深みへと陥っていったのである。だから、「ふつうの狂気」についてもまた、多くのことが述べられている。特に統合失調については、「幻聴への対処法」など、実際的対処法のようなことも多く述べている。「ふつうの狂気」にとっても、参考になることは、多いはずなのである。
しかし、「ふつうの狂気」にとっての第一の課題は、そういうことよりも、次のことであるのを、改めて明確にする必要を感じる。
「ふつうの狂気」とは、本来、自然の過程で回復し得るものである。人間は、常に環境によって大きな変動を受けているからである。言い変えると、人はそんなに長い間、狂気でいられるほど、強くはないのである。しかし、精神医療に関わることで、それは人工的な「病気」にされ、いびつな形に変形され、固定されて、容易には回復できないものとなる。だから、「ふつうの狂気」にとっての第一の課題は、いかに精神医療に関わらないかということ、もし関わらざるを得なくなってしまった場合には、その影響をいかに最小限に抑えられるかということである。
精神医療の実情を知れば知るほど、このことこそが、第一の課題とならざるを得ないのを、改めて感じる。「幻聴への対処法」などと言っても、精神薬によって、より荒廃した「病気」に追い込まれたのでは、意味がない。うつやその他の精神的不調に対する対処法というのも、すべて同じことである。
「自然の過程で回復し得る」と言ったが、それは、ときに数カ月あるいは数年に及ぶこともあるだろう。そのような長い期間(人生全体の中では決して長いとは思わないが)を、社会の中で、「不調」な状態として送ることを許す社会というものは、まずない。社会が許容しないとは、要するに、「放っておけない」ということであり、つまりは、「病院に行け」、「治療を受けろ」、あるいは「入院しろ」、ということである。
「ふつうの狂気」にも、このような社会的圧力というものが、陰に陽にかかるから、本人にしても、家族やまわりの者にとっても、それを振り払っていくことは難しい。
しかし、結局は、ここでの対応こそが、ことの次第を決めて行くのである。現在の精神医療と社会の許容度が、当分は変わらないことを前提にすれば、ここでいかに意志を強くもち、精神医療に関わらずに、自ら「狂気」と向き合っていくことを決断するかということが、重要なのである。そして、そのような意志があれば、統合失調その他の場合で、強制的に精神医療に関わらせらせれた場合にも、その影響を極力少ないものにすることは可能と思われるのである。
しかし、それにしても、このような、不自然とも言えることを貫かなくてはならない状況が、多少とも変わることが望ましいし、それは今後、ある程度は可能かもしれないと思わせる状況にはある。精神医療に対する不信は、かつてなく広がっているし、精神薬の危険性についての知識も、少しは行き渡りつつある。自分や、周りの者が「狂気」らしき状態に陥った時に、精神医療に関わることは、もはや、とても進んでするような選択ではなくなっているだろう。しかし、そうしないことは、やはり、不安を募らせることだし、相変わらず、社会の圧力もなくなりはしない。
だから、何よりも、「ふつうの狂気」は、精神医療によってではなく、自然の過程で治り得るものだということの認識が、一般に行き渡ることこそが重要である。そのためには、実際に、「ふつうの狂気」の人の多くが、精神医療にかからないようになること、そうすることで、一定の期間の後は、自然に回復することを、証明してみせることが必要である。『心の病の流行と精神科治療薬の真実』も示しているように、実際に、精神医療にかからなくなるだけでも、転機がよくなることが見込まれるのである。ただし、その場合、証人がいるか、そのことを何らかの形で表現しない限り、多くの人がそのことを知ることはできはないわけだが。
大体、「ふつうの狂気」が、「治らない」ものであるというイメージは、「重度の狂気」に対する「悪い」イメージにひきよせられて、作られた「幻想」に過ぎない。あるいは、精神医学が、精神医療によって、長期的な治療を受けなければならない、という観念を植え込むために、浸透させたものである。(※)
多くの者が、「ふつうの狂気」の者に対して、「病院に行け」というような圧力をかけるのも、このイメージがあるからだし、実際には、自分自身の問題になり得るなどとは、思ってもいないから、そういう安易なことが言えるのである。
しかし、逆に、精神医学が、このまま「がんばり」続けて、多くの者を簡単に「病気」にできるようになると、多くの者も、さすがに、自分自身の問題ではないとは言えないことに、気づかざるを得なくなる。自分自身、精神医療に関わせられる可能性が現実のものとして見えてくると、誰も、それを人に積極的に勧めなどできなくなるだろう。
いずれにしても、このような、「ふつうの狂気」に対する、作られたイメージが取り払われるには、それは、実際に、自然の過程で回復し得るものであることが、証明され、浸透される必要がある。そして、そうなれば、そのこと自体が、本人も、その狂気と自ら向き合うことを、より受け入れやすくするし、社会もそれを支援したり、許容しやすくなる。
ただし、最後に、「自然の過程で回復する」と言っても、決して楽に乗り越えられるとか、「かぜ」と同じように、放っておいてもそのうち治るということなのではないことは、確認しておく必要がある。
自然に回復すると言っても、「ふつうの狂気」にも、薄められた形ではあれ、ある種の「死」の要素があり、「生命」そのものに対する危機がないわけではない。むしろ、だからこそ、それは、「イニシエーション」として、それを「くぐり抜け」た場合には、何らかの「成長」や「深み」につながっていくものなのである。そして、その過程は、やはり一般的には、許容したくないような、目を伏せたくなるような要素にも満ちているのである。
精神医療とは、そのような「おどろおどろしい」ものを葬り去りたいという、非現実的な望みのもとに、精神薬によって、かえって、酷い状況を生み出しているものといえる。だから、「狂気」につきまとう、そういった面は、やはり「受け入れる」しか手はないのである。しかし、「いずれは乗り越えることができる」という展望があれば、それも難しいことではなくなるし、そのうえで、じっくりと、対処していくしかないのである。
※ もうひとつ、狂気のイメージに大きく貢献している重要な理由をあげなければならなかった。それは、精神薬である。つまり、精神薬による副作用や離脱症状など、精神薬がもたらしている苦痛や酷い状態が、狂気そのものから生じているとみなされるとき、狂気の酷いイメージは大きく助長される。それもまた、意図されていることと言わねばならない。
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