« 「ドーパミン仮説」について1 | トップページ | 支配の道具としての「麻薬」 »

2014年1月18日 (土)

「ドーパミン仮説」について2―私の考え

私は、自分の体験から、「統合失調状況」においては、ドーパミンとは限らないが、類似の伝達物質の過剰が生じているとみている。

ブログの体験のところで述べたように、自分自身で、脳が異常な興奮、覚醒状態にあり、強い負荷がかかっていることが実感できる。それも、今すぐにでも壊れそうなほどの感覚で、脳の中で、炭酸飲料が発するような、「シュワー」という音が実際に聞こえるのである。それは、実際に、脳の中で、何か微細な物質が異常に活動して動いている、という感覚である。(※1)

どのようなときにそれが感じられるかというと、一言で言うと、「何か漠然と起こっていることを、明確に意識にのぼらせよう」と奮闘するときである。

これも何度も述べたように、「統合失調状況」は、いきなり「幻覚」やら「妄想」やらが起こるわけではなく、「何か分からないが、何かこれまでの体験からして未知の驚くべきことが起こっている」という漠然とした感覚から始まる。つまり、それは、「無意識の領域」から始まるので、初めは、それを具体的に意識化することができない。だたし、それが、全くの「無意識」であるならば、それを意識しようとすることも起こらない。それが、無意識に留まっているにしても、何らかの形で、意識を捉えているが故に、漠然とでも、未知で異常な事態が起こっていることに気づくのである。

そして、そのような漠然とした感覚は、強く心に引っ掛かり、恐怖や不安、焦燥、とらわれ、などをもたらすので、とても放っておくことができない。つまり、何としても、意識に上らせて明確なものにしたいという、強い衝動が生じる。それで、それを意識に上らせようと、奮闘することが起こる。

これには、具体的には、2つの場面がある。1つは、起こっていることを、「知覚」として、明確な形で、意識に上らせようとすることである。つまり、形あるものとして見たり、はっきりした言葉として聞くなどの形で、捉えるものである。微細な印象や言葉を、神経を過敏にし、感覚を研ぎ澄まして、明確に捉えようとするので、過度の覚醒、集中が必要になる。これが、明確に捉えられると、即ち、「幻覚」や「幻聴」として、はっきりと、見えたり、聞こえたりするものとなる。

もう一つは、起こっていることの「意味」を探ろうというものである。それは、起こっていることについての「解釈」であり、「思考」である。それは、通常の思考ではなく、「想像力」を異常に高めた、過度の集中、覚醒状態での、高速かつ異常な「思考の連鎖」となる。当然脳はフル回転で、酷使される。そして、そのような「解釈」、「思考」が形をなすと、ある「妄想」として、結実されることになる。(※2)

このような、異常な「思考の連鎖」は、実際の例をみてもらう方が分かりやすい。そのような例は、統合失調者の手記などにもみられるが、モーパッサンの小説『オルラ』の主人公のものが、リアルで真に迫っている。『オルラ』という未知の存在との出会いに関して、繰り広げられる、異常な「思考の連鎖」が、焦燥感と恐怖に彩られながら、迫真的に描かれているのである。

このように、無意識領域で、漠然と起こっているある出来事を、意識に上らせようと奮闘することにおいて、強度の神経過敏状態、過度の覚醒状態、脳の異常興奮状態が起こる。その状態においては、「ドーパミン」とは限らないが、類似の伝達物質が、過剰に生じているとみられるのである

だから、それは、単純に、「幻覚」や「妄想」に伴って起こるということなのではない。また、もちろん、「幻覚」や「妄想」の原因となるということなのでもない。

そのような状態は、精神医学でも、一応着目されていて、「過覚醒」などといわれる。しかし、これは、統合失調症という病から必然的に生じる、症状などとはみなせない。それは、「無意識領域で起こっているある出来事」が捉え難く、耐え難いので、それに対抗すべく、明確な形で、意識に上らせようとする、強い衝動から生ずるのである。つまり、「統合失調状況」に対抗しようとする反応から生じるのであって、「統合失調状況」そのものから生じているのではない。

ただし、そのような、「過覚醒」状態によってこそ、結果として、「幻覚」や「妄想」が、意識に明確な形をとって現れるようになる、ということはいえる。「過覚醒」状態 は、「幻覚」や「妄想」を「生み出す」のではなく、漠然とした形で生じている、それらの基を、「幻覚」や「妄想」という形で、はっきりと「引き出す」のである。

このように、「幻覚」や「妄想」というのも、「統合失調状況」そのものから生じたものではなく、やはり、それに対抗すべく、生み出された反応なのである。その意味では、「幻覚」や「妄想」を、「統合失調症」の「症状」と単純にみることも、間違っている。「過覚醒」状態は、「統合失調状況」に対抗する反応なので、単純に取り除いたり、抑えればよいというものではないそれは、「幻覚」や「妄想」についても同じこと、ということである

ただし、そのようにして、意識に明確な形として現わされた「幻覚」や「妄想」が、もともとの「統合失調状況」を、正確に表しているかというと、そのようなことは、まずない。むしろ、それは、恐怖や不安、焦燥感、思い込み、想像力の過多などのため、ねじ曲げられて、現わされる。また、それは、「捕食者」等の存在により、初めから、「虚偽」のものとして植え付けられることも多い。さらに、最悪なのは、そのようにして意識に上った「幻覚」や「妄想」を、現実の物理的世界そのものの出来事と、混同してしまうことが起こる。

このようなことから、「幻覚」や「妄想」は、少なくとも、この物理的世界の現実からは、「間違ったもの」とみなされることとなる。それが、「幻覚」や「妄想」は、「病気」によって生じる「症状」だというような、烙印を押される理由にもなる。それが、社会的に不都合を来たすことがあるのは事実であり、そこには、一定の理由があると言わざるを得ない。

しかし、これらの、「幻覚」や「妄想」の不都合な面は、「過覚醒」状態からもたらされるというものではない。「過覚醒」状態そのものは、無意識に漠然と生じている、「幻覚」や「妄想」のもととなる状況を、意識に上らせようとする衝動から生じるのであって、「幻覚」や「妄想」の内容そのものとは、直接関わらない。

ただし、「過覚醒」状態がなければ、「幻覚」や「妄想」がはっきりとした形で、意識に上ることはなかった、という可能性はある。しかし、既に、何らかの形で、意識を捉えて、囚われを生じていたからこそ、明確に意識に上らせようという衝動が生じるのである。だから、「過覚醒」状態を抑えたからといって、「幻覚」や「妄想」が生じない、ということにはならない。それは、漠線とした形で、無意識領域に留まりつつ、何ほどか意識を捉えて、囚われを生み続ける。それは、明確に意識化された「幻覚」や「妄想」より、害が少ない、などという保証は少しもない。

むしろ、それは、明確に意識に上ることがない分、修正の可能性も少なく、長期的に居座り続けることになる。さらに、それは、常に、意識に上ろうという衝動を起こし続けるから、その都度、それを抑え込もうとすれば、その葛藤も激しいものとなり、無理が起こる。つまり、「過覚醒」状態を抑えることで、内部に抑え込むことによっては、何ら解決にはならないということである

「過覚醒」状態というのが、脳に対して、苛酷な状況を引き起こすのは事実である。場合によっては、脳をシャットダウンさせるような事態を引き起こし得るし、それが恒久化することもあり得ると思う。つまり、「精神薬によるのではなくとも」、精神活動を大きく荒廃させることは、あり得ることになる。

しかし、無意識領域と意識領域の溝は、非常に深く、「過覚醒」状態のような、異常な意識状態(一種の「変性意識状態」)にならない限り、無意識領域にあるものを、意識にもたらすことが難しいのも、事実である。むしろ、問題は、「過覚醒」状態そのものではなく、その「質」のようなものである。「過覚醒」状態にあって、感覚を研ぎすませながら、恐怖や焦燥感、思い込み、想像力、また捕食者等の存在による惑わし等に振り回されないで、できるだけ、冷静な観察と明晰な思考を維持できなければならない。(『瘉しのダンス』で、クンの癒し手たちは、ダンスの沸騰により、変性意識状態に入っても、冷静に癒しがなされなければならないのと似ている。)

基本的には、無意識領域に生じていることが、意識領域に囚われを起こし、耐え難くなっている以上、たとえ「過覚醒」状態になるとしても、それに何らかの形を与えて、意識に上らせる必要がある、ということである。それは、もはや、抑えることはできないし、もはや、抑えるべきものでもなくっなっているのである

しかし、それは、危険な状態であることに変わりなく、それに振り回されれば、いくらでも、社会的に「不都合」な、「幻覚」や「妄想」を膨らませ得る。だから、できる限り、冷静な観察と明晰な思考によって、慎重かつ正確に、見極められなければならない。そうして、そのようなものとして、意識に上らせたうえで、それに対処すべく、努めなければならない。意識に上らせない限りは、それに対処するということもまた、起こり得ないのである。

ダスカロスは、統合失調症における、このような異常状態を、過剰に流れ込んだ、(霊的な)情報を脳が処理できない状態として述べている(『太陽の秘儀』)。それは、確かに、いくら脳をフル回転して、集中、覚醒度を高めても、常に追いつかない量の情報が、脳に流れ込んでいると感じられる状態である。つまり、起こっていることの全体を、正確に意識領域にもたらすことは、そもそも不可能なことなのである。そのことは、一方で、十分押さえておく必要がある。無理に、完全な把握に拘ることは、脳を酷使するだけである。ただし、起こっていることの「概要」をつかむことは、できないことではないのだし、それをつかまない限り、その状態に対処したり、それから解放されるということも起こり得ないのである。

精神薬との関連の話に戻ると、要するに、ドーパミンまたは類似の伝達物質の過剰は、「過覚醒」状態においては、確かに生じているとみられる。だから、精神薬によって、ドーパミンの活動を抑えることによって、「過覚醒」という状態が抑えられるという可能性は、あり得る。従って、また、それが、はっきりと意識化される形での、「幻覚」や「妄想」を抑えることにつながることも起こり得る。

しかし、それは、それらのもととなる「状況」そのものを抑えることにはならないし、むしろ、それへの囚われを、強めることになる。そして、それを意識化しようとする衝動、つまり「過覚醒」をもたらそうという衝動を、かえって常に呼び起こすことになる。

だから、本当に、内部的な囚われをもなくして、それらを抑え込もうとするのなら、認識活動や感情活動など、精神活動一般をも抑え込まなければならない。実は、それこそが、強力かつ長期的に、精神薬を作用させることによって、精神薬が事実上なそうとしていることである。それは、実質、ロボトミーがなそうとしたことと同じであり、当然の結果として、精神活動全般の荒廃が起こる。それを、「治療」と称しているのが現状なのである。

要は、その者の精神活動全般を犠牲にしてでも、薬の力で強引に、「統合失調状況」なる「未知のもの」、あるいはそれへのへの囚われを、抑え込んでしまいたいということである。そこには、「統合失調状況」なるものへの、ある種の「敵意」と「恐怖」が確実にある。

そのような方向に対抗するには、「統合失調状況」を無理に抑え込むべく、蓋をするのではなく、それを、できるだけ明確な形で、意識に上らせることが必要である。そのうえで、それについてよく観察し、対処していくことを学ばなければならない。それには、「過覚醒」状態という危険は、一応受け入れることも必要となる。ただ、そこから生じる危険を、できるだけ少なくしていくよう努めるしかない。

これらは、一朝一夕にはできることではないが、そのような方向が一般に志向され、経験が積まれることによって、決して難しいものではなくなるはずである。

(※1)このような脳の異常状態は、もしかしたら、「過覚醒」状態そのものではなく、脳がそれに対抗しようとして、脳の機能を抑制することから生ずるのかもしれないとも思う。しかし、いずれにしても、それは、「過覚醒」状態と密接に結びついて生じていることである。

(※2)幻覚と妄想の関係(図)

Photo_2

記事「「妄想」の基には「幻覚」があるということ」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post-7e0f.html)では、「妄想」は、「幻覚」という知覚を基礎にして生じた「解釈」である、ということを述べた。が、今回の考察のように、正確に言うと、そのような「幻覚」や「妄想」のもとには、無意識領域で生じているある「状況」があり、それを知覚として意識領域に上らせたものが、「幻覚」であり、思考、または意味として意識領域にのぼらせたものが「妄想」であるとした方がよい。そのような「幻覚」や「妄想」のもとにある「状況」は、「原幻覚」とも表現し得る。ただし、そのようにして、意識領域にのぼった「幻覚」もまた、さらに「妄想」の基礎として「解釈」の対象になるのは確かである。そして、そのような「妄想」が、逆に「幻覚」という「知覚」を生み出すもとともなる。つまり、「幻覚」と「妄想」は、互いに相乗効果で、果てしなく膨らんで行く傾向がある。その結果、それは、もともとの「原幻覚」からは、大きくかけ離れたものともなる。

« 「ドーパミン仮説」について1 | トップページ | 支配の道具としての「麻薬」 »

精神医学」カテゴリの記事

コメント

ティエムさま こんばんは
深く頷きながら何度も何度も読み返しました
こうやってティエムさまにコメントを書いている今があるのは狂気をくぐり抜けた(脱した)からであって
くぐり抜けることができなかったらコメントすることはできなかったのだなぁと感慨深いものがあります
今まさに狂気の最中にいる人たちや脱することができなかった人たちを想うことがあります
ここを教えてくださったホタルさんもよくお話になることです
脳の異常な興奮状態(死に直結する)を2度ほど経験しました
1度目は精神薬の服用は全くないときで2度目は精神薬の断薬後でした
脳の異常な興奮状態でベランダから飛び降りる行動を身体が勝手にとるのを抑えるのに必死でした
客観的な自分が必死で抑えるのです(すごい力でしたので主人にも身体を抑えてもらいました)
精神薬の服用なしで起こった原因は自分の中にあります
それを助長したのは 私の場合は水銀やアルコールなのだと考えています
今 時を経て 自分に起こったことの全貌がようやく理解でき
そのタイミングでティエムさまの記事を読むことができたのは本当に有難いことだと思っております
少し前から自分の中にあった原因と向き合い蓋をとって解決する作業を始めています
あの異常な不安や恐怖がないのです
おそらく手放すということができつつあるのだと感じています(すでにできているのかもしれません)
この不安や恐怖も水銀やアルコールのように脳の異常な興奮を助長しますね・・
小さいときから私が経験してきた摩訶不思議の数々はこの不安や恐怖が小さかったからへっちゃらだったのかもしれません
「幻覚」を見てもそれを自他にかかわらず助長しなければそれは通り抜けることができます
そこに捉われるということは原因があるということです
解決策は薬ではなく 助長する要因の排除と自分の中の原因の究明と解決であるということ
ティエムさまの記事が狂気の最中にいる人たちに届くといいなぁと強く思います
追伸
わたしは音楽にたくさん助けられてきました
ティエムさまの音もまた魂をゆさぶる音でございました<(--)>

千里さんありがとうございます。

千里さんのように、服薬によるものとそうでないもの(水銀等の影響は考えられるにしても)の両方を経験しているというのは、貴重なことと思います。精神薬による反応によって、統合失調症を認定されてしまう場合があるように、私も、精神薬による反応と統合失調状況との近さを改めて感じています。いずれ記事にもしたいと思います。

私も、狂気、特に統合失調状況の最中にある人に届けばよいという思いは持っていますが、それがいかに難しいかということも、自分の場合を振り返っても、痛感します。文字そのものが読めない時期もあり、たとえ読んだとしても、自分の「囚われ」の観点以外から読むことは、まず無理だからです。やはり、一定の時期は、「くぐり抜ける」しかないのだと思います。その時期は、「最悪の事態」が避けられればよい、ということで満足するしかないでしょう。千里さんの言うように、客観的な自分が、ぎりぎりで抑えるかもしれないし、他人の力に助けられるかもしれません。状況によっては、「一時的に」精神薬の力を借りることも「あり」と思います。

そのように、一定の時期をくぐり抜けた後に、初めて、自分の体験を客観的に振り返る可能性が出てくるのだと思います。ただ、可能性としては、予め、このようなことが知識として行き渡れば、狂気の最中にある人にも、ある程度の助けとなる可能性があります。しかし、それも現状では、難しいことでしょう。

趣味的な自己満足に近いですが、音楽の方も聴いて下さって、ありがとうございます。

ティエムさま こんにちは

>状況によっては、「一時的に」精神薬の力を借りることも「あり」と思います。
精神薬の力よりは「ナイアシン」のほうがいいかもしれません
精神薬よりも穏やかに過覚醒を抑えます
実際に両方飲んだ感想です
ナイアシンも順を追って調べていけばいろいろなことが分かります
単体で売っているものもありますが作用は人それぞれですし 事前に知識を得ておくことが大事だと思います
わたしの場合は複合ビタミンBのサプリメントでも効能を感じることができます
狂気の最中に入っていくのはわたしの場合段階があって 客観的な自分を保ちながら徐々にあっちへ引っ張られていく感じで だんだんと客観的な自分が小さくなっていく感覚でした
なので初期のうちなら記事を読むこともできるかもしれません
ただティエムさまのおっしゃるように とても難しいことですね・・
どうしたらいいのだろうかとそこはいつも胸の痛むところなのです
パートナーや親から助けを得ることがベストですが それもまた皆無に等しいのが現実ですね・・

サプリメントについては、全然知りませんが、精神薬に変わるようなものがあるなら、それに越したことはないと思います。

これも記事にするかもですが、もし精神薬を一時的にでも使用するなら、かなりきつい条件をつけるべきでしょう。基本的には、「治療」ではなく、「危険」を回避するために使うのであることを明確にすること、使う側も使われる側も、「毒物」であり、「麻薬」であることを明白に認識したうえで使うことなどです。当然、緊急時に「一時的」のみで、長期的な使用はあり得ないことになります。

ティエム様

こちらのブログがとても興味深く、集中して読ませて頂いてます。

漠然とした感覚に「言葉を与え落ち着かせようとすること」は、よく私も経験します。
いくら、言葉を費やしても言葉が追いつかない。しかし、その感覚は時には強烈な感覚、時にはヒタヒタとした感覚、
まぁ、それ以外にもいろんな感覚が発生し、とにかく言葉で処理するのが追いつかないのです。
ただ、その感覚に圧倒されてしまうというか。

その時は、独語?(まだ、統合失調の知識が足らず、定義が不確かで間違った使い方だったらすいません。→とにかく、独りで部屋で一人でしゃべりまくってる時があります。それを独語だと思っています。)が激しくなります。
統合失調のHPを見るに、「まわりくどく細部にこだわりすぎる話」「魔術的思考」など書いてあると、自分の事だと妙に納得してしまいます。
「現実」と「ファンタジー」が入り混じった話を、かなり真剣に独語している自分がいます。

精神疾患で有効と言われているミーティング会場(ナラティブセラピー:語り治療)などで、話すときは、言いっぱなし聞きっぱなし、というルールもあり、独壇場のごとく、「現実」と「ファンタジー」を織り交ぜて話してしまいます。それは快感でもあり、止まらないことが多いです。

他方で、相対的にというか、双方向で相手と普通に話すことが苦手です。

やはり、社会生活は相手と双方向で意思伝達することも大事で、こちらの方はソーシャルトレーニングなどを利用し、少しずつマシにはしていきたいな、と思っています。

しかし、自分の独語癖については、自分の個性かも?と受け入れようかとも思っています。
変わった表現かもしれない、という自己客観視さえあれば、TPOで使い分けができるかもしれませんし・・・
(ただ、現在、TPOをコントロールできず困っている自分もいますが・・・)

迫りくる感覚の増大(それは不安や恐怖、といった根源的なものなのかもしれませんが)
それを、自分なりにファンタジックに表現する自分も、嫌いではないのです。
一人遊びといえば一人遊びですし。

よって、統合失調状況を、抑え込むのでなく、蓋をするのでもなく、なんとか意識に上らせる
というご意見に、とても共感いたしました。

長文すいませんでした。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/575359/58964157

この記事へのトラックバック一覧です: 「ドーパミン仮説」について2―私の考え :

« 「ドーパミン仮説」について1 | トップページ | 支配の道具としての「麻薬」 »

新設ページ

ガジェット時計Part11(光る玉・バージョン) - ガジェットダウンロードするなら、ガジェットギャラリー
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ