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2014年1月

2014年1月28日 (火)

支配の道具としての「麻薬」

「精神薬」というのは、麻薬や覚せい剤と同様のものなのであった。要は、神経の働きを抑制し、沈静させる(麻薬、ダウナー系)か、神経を興奮させ、意欲を高める(覚せい剤、アッパー系)かによって、精神状態の不具合に対抗しようとするものである。

これは、一時的には、効くというより、「ごまかし」の効果があるかもしれないが、長期的には、依存性、中毒性を生じ、脳の機能を麻痺させ、精神状態の荒廃をもたらす。本来、「麻薬」や「覚せい剤」にほかならないのであるから、当然といえば当然である。

そこで、改めて、「麻薬」というのは、一体何なのか。どのように、使われているのか。さらに、そもそも、人間の脳内には、βエンドルフィンのような、「脳内麻薬」とも称される物質があるが、そういうものがあるとは、どういうことなのか。などのことが、問われてくる。

船山信次著『麻薬のすべて』(講談社現代新書)によれば、「麻薬」なるものは、容易に定義できるものではなく、かなり曖昧な概念である。作用としても、「抑制剤(ダウナー系)」もあれば、「興奮剤(アッパー系)」もあり、「幻覚剤(サイケデリック系)」もある。依存性や中毒性の程度も様々であり、成分としても一定していない。

事実上、法的な規制の必要などから、その都度規定されているが、何が麻薬であるかのはっきりした科学的基準というものがあるわけではない。

要は、「麻薬か否か」というよりも、「麻薬的なもの」が、ある範囲にわたってあり、それを全体として押えたうえで、規制の必要などから、事実上、その都度、範囲を確定していくしかないことになるだろう

向精神薬は、麻薬より程度は弱いとされているが、麻薬の一種とみなされる。マリファナやある種のハーブは、麻薬か否かという議論があるが、それも、単純に決められることではない。ただ、それらが「麻薬」と類似の性質をもつのは、明らかであって、規制という観点から言うなら、どのレベルまでの「麻薬的なもの」を規制するかという、社会的な判断によるしかない、ということである。

もちろん、「規制」ということには、それによってこその「価値」の高まりや、支配層」などによる、「独占」という問題も絡むから、規制すればいいという単純な問題ではない。

ただ、この本の著者もそうだし、他の薬の一般的な解説書でもそうだが、「薬は本来毒だが、使いようで薬になる」とか、「麻薬も恐れるだけではなく、うまく使うことが重要」などという言葉が、安易に出て来る。

「使いよう」とか「うまく使う」というのは、どういうことか。具体的に示されなければ、単に現状の使用方法が、なし崩しに肯定されることにしかならないだろう。また、「恐れない」などというのも、その本当の「怖さ」を、自ら体験してでもいない限り、説得力に欠く。

私も、「うまく使う」こと自体は、何も否定しないし、うまく使える場合はあると思うが、これについては、またいずれ述べ、今回は、「麻薬」というものの「使われ方」の、本質的な面を、ざっと概観しておきたい。

それは、一言で言うと、「支配の道具」ということに尽きる。麻薬は、快感をもたらし、苦痛を減らす。あるいは、覚せい剤のように、精神を高揚させ、生きる意欲を高める。それは、人を依存させ、中毒にする。それを止めれば、禁断症状が現れ、それなしには、いられなくする。いきおい、それを得るためなら、言うことも聞き、何でもするようになる。そういったことが、それを「提供」し、「使用」する側にとって、支配の道具に結びつくのは、みえやすいことである。

マフィアややくざにとっては、麻薬は、商売の道具として、資金源でもあるが、組織として、下部の者を奴隷的に働かせるときの、道具として、常套手段でもある。それを使うものが、使われるものに対して、優位な立場に立つのである。それは、精神薬を使う、精神科医と患者の関係にも、当てはまる。精神科医は、精神薬を使うことによって、患者に対し、事実上優位な立場に立つということもまた、精神科医が、精神薬を投与することに固執する理由にもなっている、とみられる。

また、麻薬は、そのように人を依存、中毒に陥らせることによって、脳の活動を麻痺させ、精神活動を、荒廃させる。それが多くの者(集団)に対してなされるとき、その集団は全体として、弱体化する。それは、批判精神や改革への意欲、真実への探求欲などを失わしめる。だから、その集団に敵対する側にとって、あるいは、その集団を支配する側にとって、これを使うことは、都合の良いことである。

典型的なのが、「阿片戦争」で、イギリスは、アヘン貿易の利益を護る名目で、清にアヘンを浸透させることで、民衆を全体して弱体化させ、戦争を有利に運び、支配を及ぼそうとした。

同じことは、現代の社会の「支配層」にもいえる。もはや、「麻薬」そのものは、その「害」があまりに知れ渡っているので、あからさまには使えないにしても、類似のものは、いくらでも、使える余地がある。「麻薬」の概念または範囲は、曖昧なことを述べたが、それが逆に、明白に「麻薬として」規制されていないものは、「麻薬」でないかのようなイメージを行き渡らせることにもつながる。精神薬が典型的なものであり、様々な食品添加物や、砂糖、嗜好品などもそうである。

これらは、麻薬そのものより、効果が強力でないとされる(そうとも限らないはずだが)が、むしろ、支配される側の弱体化を図るという、支配層の側の意図には、より沿うものである。あまりに強力なもので、弱体化または荒廃が行き過ぎることは、支配する側にとっても、得策ではない。最低限、今のシステムを維持するだけの仕事は、支配される側にも、こなしてもらわねばならないのである。ただし、そういったことも、結局は、支配層の意図次第である。最終的には、単純に、大量の命を奪うことも、いくらでも意図され得るということである。

さらに、LSDなど「幻覚剤」といわれるものは、リアリティある「幻覚」をもたらすことから、日常的な感覚からはかけ離れた、特異な「信念」を植え付けることを可能にする。オウムで、「イニシエーション」に使われ、教祖への帰依を強める「マインドコントロール」に、利用されたことは有名である。統合失調症の者が、「幻覚」においてこそ、特異な「妄想」を形成するのも、似たようなことである。

このような「幻覚」から生まれる「信念」は、単に「非日常的」というだけでなく、ある種の「宗教性」や「超越性」をはらんだ、強固なものともなるので、一旦形成されると、容易には崩れない。それは、人を深いところからつき動かす、原動力ともなるのである。つまり、支配層の側からは、単なる「マインドコントロール」という以上に、人格を彼らの都合のよいように変える、強力な「人格変換」の道具となるということである。

このように、「麻薬」と称されるものは、支配層にとって、「支配の道具」となる要素に満ちている。そして、実際に、そうであるからこそ、大量に収穫、精製され、一方で規制しつつ、独占的に利用されている。精神薬もまた、その一つということである

ところが、人間の脳内には、そもそも、βエンドルフィンのような、「脳内麻薬」と呼ばれる物質、また、トーパミンのような「快感物質」と呼ばれる物質が存在している。それらが、苦痛を和らげたり、快感を高めて、人間の感情や意欲をつき動かしている。「麻薬」のような外部から与えられる物質が、効果を発揮するのも、そもそも内部に、そのような脳内物質が働く機構があるからである。

これらの脳内物質が、人間にあるということは、どういうことなのか。その問題を抜きに、「麻薬」の問題の本質は、語れないはずである。

そして、それは、これまでみてきたように、「麻薬」が、支配層にとって「支配の道具」となるということと、ある種、並行してある現象とみなければならない。つまり、これらの脳内物質もまた、「支配の道具」として植え付けられ、利用されている可能性がある、ということである

一般の「進化論」的発想によれば、それらもまた、「自然淘汰」の結果、人間が自ら身につけたものということになるのだろう。確かに、苦痛の軽減や快感をもたらす物質の獲得は、結果論的には、一応、生き延びるのに都合のよい条件ということは、言えそうである。しかし、人間が、バイオテクノロジーによって、他の生命をいくらでも、人間の都合に合わせて操作できるようになった今日、人間を越える生命体が、人間に対して、そのような「操作」をしていないと考えることの方が、難しい。また、人間が「新しい」生物を作り出すように、そもそも、人間というものも、そのようにして、「作られた」ものである可能性はいくらもある。

ここでは、このことには、これ以上立ち入らないが、いずれにしても、「麻薬」が、苦痛を軽減したり、快感を高めることによって、人を依存させ、行動をコントロールするように、人間の脳内に埋め込まれた、「脳内物質」は、「苦痛を和らげたり、快感を高めて、人間の感情や意欲をつき動す」ということによって、人間の行動を支配していることは、疑うべくもない。

もし、人間が多くの生命を支配しようとするように、人間もまた、その上に立つ生命によって支配されているのだとすれば、このような「脳内物質」を植え込み、それによって意欲や感情を操作することほど、目的に適うことはないのである。

要するに、これらは、「苦痛を避ける」とか「快感を高める」ということによって、行動の方向性が予め設定されているということであり、まさに、フロイトのいう「快感原則」である

人間のあらゆる行動が、この原理により、方向づけられているといえる訳だが、この観点からは、学問とか思想というのも、同じように方向づけられる。ニーチェは、「あらゆる学問は虚偽への意志から生ずる」、と言ったが、それも、「生あるもの」として、このような方向性が植え付けられているからといえる。「真実」ではなく、「生きるのに都合のよいこと」、「苦痛ではなく快感をもたらすもの」が、「正しい」ものとして、築き上げられ、行き渡るのである。

この観点からは、「神秘体験」とか、臨死体験にもよく出て来る「光の体験」なども、快感を高め、生存欲を高める、「報酬」ということがいえる。実際、それに伴って、βエンドルフィンのような、「脳内麻薬」が分泌されているはずである。

さらに、広く「幻覚」なども、「幻覚剤」を使用する場合と同様、生存欲や、行動、思想を支配する重要な道具となっている。側頭葉を電気刺激すると、さまざまな幻覚を見るという実験があるが、人間はそのように、もともと、幻覚を見るようなシステムを植え付けられているということである。

このような、脳内物質の設定は、基本的に、人間の生きる意欲を高め、活動的にさせるように働く。人間が生きて、活動することとは、実際は、支配する側にとって、都合の良いことをなさせるということである。たとえば、それは、感情の振幅を高めることにより、「捕食者」的な存在にとっての食糧を生み出すし、また、宇宙を動かし続ける燃料(ルーシュ)を生み出す

さらに、「捕食者」などの存在によって、直接「幻覚」がもたらされる場合もある。それは、幻覚剤などよりも、人間の内面の動きに沿った、より直接的で効果的な幻覚をもたらすことができる。それによって、混乱や苦痛も深められる訳だが、それも結局は、彼らにとっての「食糧」や「ルーシュ」の生産に資すことになる。統合失調状況にみられるものが、その典型である。

このように、「麻薬」の問題は、突き詰めていくと、人間という存在そのものに対する、「支配の構造」をも、浮き彫りにすることになる。というよりも、むしろ、「麻薬による支配」というものは、人間を支配する存在による、人間支配の構造を、人間の支配層が、さらにたちの悪い仕方で真似て、人間の被支配層に対して、適用したものというべきなのである

そうしてみると、麻薬や精神薬というものには、人間という存在そのものに絡む、一筋縄ではいかない、根源的な問題が、潜んでいることが分かる。精神薬の問題が、いろいろ取り沙汰されつつも、そう簡単には、止められたり、解決がもたらされたりしないのも、そのような根源的な問題に関わっているからだろう。

それは、単に、利用されている側の多くの者が、それが、本来「麻薬」であることを知れば、解決するなどという、単純な問題とはならないということである。だから、このように、「麻薬」とは何かということを、本質的なレベルで考えるということも、必要になってくるだろう。

2014年1月18日 (土)

「ドーパミン仮説」について2―私の考え

私は、自分の体験から、「統合失調状況」においては、ドーパミンとは限らないが、類似の伝達物質の過剰が生じているとみている。

ブログの体験のところで述べたように、自分自身で、脳が異常な興奮、覚醒状態にあり、強い負荷がかかっていることが実感できる。それも、今すぐにでも壊れそうなほどの感覚で、脳の中で、炭酸飲料が発するような、「シュワー」という音が実際に聞こえるのである。それは、実際に、脳の中で、何か微細な物質が異常に活動して動いている、という感覚である。(※1)

どのようなときにそれが感じられるかというと、一言で言うと、「何か漠然と起こっていることを、明確に意識にのぼらせよう」と奮闘するときである。

これも何度も述べたように、「統合失調状況」は、いきなり「幻覚」やら「妄想」やらが起こるわけではなく、「何か分からないが、何かこれまでの体験からして未知の驚くべきことが起こっている」という漠然とした感覚から始まる。つまり、それは、「無意識の領域」から始まるので、初めは、それを具体的に意識化することができない。だたし、それが、全くの「無意識」であるならば、それを意識しようとすることも起こらない。それが、無意識に留まっているにしても、何らかの形で、意識を捉えているが故に、漠然とでも、未知で異常な事態が起こっていることに気づくのである。

そして、そのような漠然とした感覚は、強く心に引っ掛かり、恐怖や不安、焦燥、とらわれ、などをもたらすので、とても放っておくことができない。つまり、何としても、意識に上らせて明確なものにしたいという、強い衝動が生じる。それで、それを意識に上らせようと、奮闘することが起こる。

これには、具体的には、2つの場面がある。1つは、起こっていることを、「知覚」として、明確な形で、意識に上らせようとすることである。つまり、形あるものとして見たり、はっきりした言葉として聞くなどの形で、捉えるものである。微細な印象や言葉を、神経を過敏にし、感覚を研ぎ澄まして、明確に捉えようとするので、過度の覚醒、集中が必要になる。これが、明確に捉えられると、即ち、「幻覚」や「幻聴」として、はっきりと、見えたり、聞こえたりするものとなる。

もう一つは、起こっていることの「意味」を探ろうというものである。それは、起こっていることについての「解釈」であり、「思考」である。それは、通常の思考ではなく、「想像力」を異常に高めた、過度の集中、覚醒状態での、高速かつ異常な「思考の連鎖」となる。当然脳はフル回転で、酷使される。そして、そのような「解釈」、「思考」が形をなすと、ある「妄想」として、結実されることになる。(※2)

このような、異常な「思考の連鎖」は、実際の例をみてもらう方が分かりやすい。そのような例は、統合失調者の手記などにもみられるが、モーパッサンの小説『オルラ』の主人公のものが、リアルで真に迫っている。『オルラ』という未知の存在との出会いに関して、繰り広げられる、異常な「思考の連鎖」が、焦燥感と恐怖に彩られながら、迫真的に描かれているのである。

このように、無意識領域で、漠然と起こっているある出来事を、意識に上らせようと奮闘することにおいて、強度の神経過敏状態、過度の覚醒状態、脳の異常興奮状態が起こる。その状態においては、「ドーパミン」とは限らないが、類似の伝達物質が、過剰に生じているとみられるのである

だから、それは、単純に、「幻覚」や「妄想」に伴って起こるということなのではない。また、もちろん、「幻覚」や「妄想」の原因となるということなのでもない。

そのような状態は、精神医学でも、一応着目されていて、「過覚醒」などといわれる。しかし、これは、統合失調症という病から必然的に生じる、症状などとはみなせない。それは、「無意識領域で起こっているある出来事」が捉え難く、耐え難いので、それに対抗すべく、明確な形で、意識に上らせようとする、強い衝動から生ずるのである。つまり、「統合失調状況」に対抗しようとする反応から生じるのであって、「統合失調状況」そのものから生じているのではない。

ただし、そのような、「過覚醒」状態によってこそ、結果として、「幻覚」や「妄想」が、意識に明確な形をとって現れるようになる、ということはいえる。「過覚醒」状態 は、「幻覚」や「妄想」を「生み出す」のではなく、漠然とした形で生じている、それらの基を、「幻覚」や「妄想」という形で、はっきりと「引き出す」のである。

このように、「幻覚」や「妄想」というのも、「統合失調状況」そのものから生じたものではなく、やはり、それに対抗すべく、生み出された反応なのである。その意味では、「幻覚」や「妄想」を、「統合失調症」の「症状」と単純にみることも、間違っている。「過覚醒」状態は、「統合失調状況」に対抗する反応なので、単純に取り除いたり、抑えればよいというものではないそれは、「幻覚」や「妄想」についても同じこと、ということである

ただし、そのようにして、意識に明確な形として現わされた「幻覚」や「妄想」が、もともとの「統合失調状況」を、正確に表しているかというと、そのようなことは、まずない。むしろ、それは、恐怖や不安、焦燥感、思い込み、想像力の過多などのため、ねじ曲げられて、現わされる。また、それは、「捕食者」等の存在により、初めから、「虚偽」のものとして植え付けられることも多い。さらに、最悪なのは、そのようにして意識に上った「幻覚」や「妄想」を、現実の物理的世界そのものの出来事と、混同してしまうことが起こる。

このようなことから、「幻覚」や「妄想」は、少なくとも、この物理的世界の現実からは、「間違ったもの」とみなされることとなる。それが、「幻覚」や「妄想」は、「病気」によって生じる「症状」だというような、烙印を押される理由にもなる。それが、社会的に不都合を来たすことがあるのは事実であり、そこには、一定の理由があると言わざるを得ない。

しかし、これらの、「幻覚」や「妄想」の不都合な面は、「過覚醒」状態からもたらされるというものではない。「過覚醒」状態そのものは、無意識に漠然と生じている、「幻覚」や「妄想」のもととなる状況を、意識に上らせようとする衝動から生じるのであって、「幻覚」や「妄想」の内容そのものとは、直接関わらない。

ただし、「過覚醒」状態がなければ、「幻覚」や「妄想」がはっきりとした形で、意識に上ることはなかった、という可能性はある。しかし、既に、何らかの形で、意識を捉えて、囚われを生じていたからこそ、明確に意識に上らせようという衝動が生じるのである。だから、「過覚醒」状態を抑えたからといって、「幻覚」や「妄想」が生じない、ということにはならない。それは、漠線とした形で、無意識領域に留まりつつ、何ほどか意識を捉えて、囚われを生み続ける。それは、明確に意識化された「幻覚」や「妄想」より、害が少ない、などという保証は少しもない。

むしろ、それは、明確に意識に上ることがない分、修正の可能性も少なく、長期的に居座り続けることになる。さらに、それは、常に、意識に上ろうという衝動を起こし続けるから、その都度、それを抑え込もうとすれば、その葛藤も激しいものとなり、無理が起こる。つまり、「過覚醒」状態を抑えることで、内部に抑え込むことによっては、何ら解決にはならないということである

「過覚醒」状態というのが、脳に対して、苛酷な状況を引き起こすのは事実である。場合によっては、脳をシャットダウンさせるような事態を引き起こし得るし、それが恒久化することもあり得ると思う。つまり、「精神薬によるのではなくとも」、精神活動を大きく荒廃させることは、あり得ることになる。

しかし、無意識領域と意識領域の溝は、非常に深く、「過覚醒」状態のような、異常な意識状態(一種の「変性意識状態」)にならない限り、無意識領域にあるものを、意識にもたらすことが難しいのも、事実である。むしろ、問題は、「過覚醒」状態そのものではなく、その「質」のようなものである。「過覚醒」状態にあって、感覚を研ぎすませながら、恐怖や焦燥感、思い込み、想像力、また捕食者等の存在による惑わし等に振り回されないで、できるだけ、冷静な観察と明晰な思考を維持できなければならない。(『瘉しのダンス』で、クンの癒し手たちは、ダンスの沸騰により、変性意識状態に入っても、冷静に癒しがなされなければならないのと似ている。)

基本的には、無意識領域に生じていることが、意識領域に囚われを起こし、耐え難くなっている以上、たとえ「過覚醒」状態になるとしても、それに何らかの形を与えて、意識に上らせる必要がある、ということである。それは、もはや、抑えることはできないし、もはや、抑えるべきものでもなくっなっているのである

しかし、それは、危険な状態であることに変わりなく、それに振り回されれば、いくらでも、社会的に「不都合」な、「幻覚」や「妄想」を膨らませ得る。だから、できる限り、冷静な観察と明晰な思考によって、慎重かつ正確に、見極められなければならない。そうして、そのようなものとして、意識に上らせたうえで、それに対処すべく、努めなければならない。意識に上らせない限りは、それに対処するということもまた、起こり得ないのである。

ダスカロスは、統合失調症における、このような異常状態を、過剰に流れ込んだ、(霊的な)情報を脳が処理できない状態として述べている(『太陽の秘儀』)。それは、確かに、いくら脳をフル回転して、集中、覚醒度を高めても、常に追いつかない量の情報が、脳に流れ込んでいると感じられる状態である。つまり、起こっていることの全体を、正確に意識領域にもたらすことは、そもそも不可能なことなのである。そのことは、一方で、十分押さえておく必要がある。無理に、完全な把握に拘ることは、脳を酷使するだけである。ただし、起こっていることの「概要」をつかむことは、できないことではないのだし、それをつかまない限り、その状態に対処したり、それから解放されるということも起こり得ないのである。

精神薬との関連の話に戻ると、要するに、ドーパミンまたは類似の伝達物質の過剰は、「過覚醒」状態においては、確かに生じているとみられる。だから、精神薬によって、ドーパミンの活動を抑えることによって、「過覚醒」という状態が抑えられるという可能性は、あり得る。従って、また、それが、はっきりと意識化される形での、「幻覚」や「妄想」を抑えることにつながることも起こり得る。

しかし、それは、それらのもととなる「状況」そのものを抑えることにはならないし、むしろ、それへの囚われを、強めることになる。そして、それを意識化しようとする衝動、つまり「過覚醒」をもたらそうという衝動を、かえって常に呼び起こすことになる。

だから、本当に、内部的な囚われをもなくして、それらを抑え込もうとするのなら、認識活動や感情活動など、精神活動一般をも抑え込まなければならない。実は、それこそが、強力かつ長期的に、精神薬を作用させることによって、精神薬が事実上なそうとしていることである。それは、実質、ロボトミーがなそうとしたことと同じであり、当然の結果として、精神活動全般の荒廃が起こる。それを、「治療」と称しているのが現状なのである。

要は、その者の精神活動全般を犠牲にしてでも、薬の力で強引に、「統合失調状況」なる「未知のもの」、あるいはそれへのへの囚われを、抑え込んでしまいたいということである。そこには、「統合失調状況」なるものへの、ある種の「敵意」と「恐怖」が確実にある。

そのような方向に対抗するには、「統合失調状況」を無理に抑え込むべく、蓋をするのではなく、それを、できるだけ明確な形で、意識に上らせることが必要である。そのうえで、それについてよく観察し、対処していくことを学ばなければならない。それには、「過覚醒」状態という危険は、一応受け入れることも必要となる。ただ、そこから生じる危険を、できるだけ少なくしていくよう努めるしかない。

これらは、一朝一夕にはできることではないが、そのような方向が一般に志向され、経験が積まれることによって、決して難しいものではなくなるはずである。

(※1)このような脳の異常状態は、もしかしたら、「過覚醒」状態そのものではなく、脳がそれに対抗しようとして、脳の機能を抑制することから生ずるのかもしれないとも思う。しかし、いずれにしても、それは、「過覚醒」状態と密接に結びついて生じていることである。

(※2)幻覚と妄想の関係(図)

Photo_2

記事「「妄想」の基には「幻覚」があるということ」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post-7e0f.html)では、「妄想」は、「幻覚」という知覚を基礎にして生じた「解釈」である、ということを述べた。が、今回の考察のように、正確に言うと、そのような「幻覚」や「妄想」のもとには、無意識領域で生じているある「状況」があり、それを知覚として意識領域に上らせたものが、「幻覚」であり、思考、または意味として意識領域にのぼらせたものが「妄想」であるとした方がよい。そのような「幻覚」や「妄想」のもとにある「状況」は、「原幻覚」とも表現し得る。ただし、そのようにして、意識領域にのぼった「幻覚」もまた、さらに「妄想」の基礎として「解釈」の対象になるのは確かである。そして、そのような「妄想」が、逆に「幻覚」という「知覚」を生み出すもとともなる。つまり、「幻覚」と「妄想」は、互いに相乗効果で、果てしなく膨らんで行く傾向がある。その結果、それは、もともとの「原幻覚」からは、大きくかけ離れたものともなる。

2014年1月10日 (金)

「ドーパミン仮説」について1

新年初めの記事になる。

これまで、「狂気」または「統合失調状況」の本質を中心に述べて来たわけだが、去年は、精神医学や精神薬の問題を掘り下げて述べることが多かった。「精神医学や精神薬の問題」とは、要するに、「精神医学」が、「狂気」または「統合失調状況」に関して、紡ぎ出してきた、「幻想」または「虚偽」ということである。

これらの「幻想」「虚偽」がのさばっいている限り、「狂気」または「統合失調状況」の本質ということに目が向けられ、探られることはない。だから、これらの「幻想」や「虚偽」を暴くことも、このブログの意図することの一部となる。

特に、現代の精神医学を支えている「幻想」「虚偽」の代表格が、「ドーパミン仮説」(うつ病の場合「モノアミン仮説」)と「精神薬」になると思う。これらの「「幻想」「虚偽」の背後には、「精神疾患」なる「病気」が存在するという、さらに大きな「幻想」「虚偽」がある。しかし、この背後の「幻想」「虚偽」を支えるのもまた、「ドーパミン仮説」と「精神薬」によるところが大きいので、これらの「「幻想」「虚偽」をしっかりと暴いておくことは、重要である。

「精神薬」については、既に十分述べたので、今回は、「ドーパミン仮説」について述べたい。「ドーパミン仮説」とは、統合失調症は、「ドーパミン」と呼ばれる神経伝達物質の過剰によって生じる、という仮説である。

統合失調症の治療薬は、「抗精神病薬」であり、これは、ドーパミンの受容体を塞いで、ドーパミンの活動を抑えようというものである。それにより、ドーパミンの過剰(不均衡)が抑えられ、均衡が図られるとするのである。

このような仮説と、治療方法としての「精神薬」が、互いに補い合って、現代の精神医学に、根拠や意義のようなものをもたらしている。

非常に、単純明快ではあり、これが信じられるなら、「狂気」やら「精神病」やらと言うのも、何のことはない。ただの「神経伝達物質の不均衡」に還元できるのである。それは、本来、「精神薬」の開発・発展によって、治療されるべきものとなる。精神疾患、特に統合失調症が、「治療不能の謎めいた病気」とみなされたことからすれば、大きな「進歩」であり、「恩恵」である、と思われるのも無理がない面もある。

しかし、既に述べたように、また、最近の多くの研究が明らかにするように、このような仮説にも、精神薬の治療効果にも、根拠がない。つまり、これらは、多くの者の単なる願望と、それにつけ込んだ、支配層及び、製薬会社、精神医学の複合が作り上げた、「幻想」であり、「虚偽」に過ぎない。結局は、こういった「幻想」「虚偽」が、より多くの「病気」を作り出しているのだし、精神疾患なり、精神の問題の本質を、深く追及することを阻んでいるのは、間違いない。

そこで、「ドーパミン仮説」だが、これは、もちろん何ら証明されたものではない、単なる仮説である。しかも、この仮説の根拠は、『もう少し知りたい統合失調症の薬と脳』にも述べられてるとおり、薬をいろいろ試してみた結果、たまたま、ドーパミン抑制作用を有する薬が効いたとされることから、統合失調症はドーパミンの過剰によって生じるに違いない、と推察されたものである。

そもそも、初めの出発点の、「薬が効いた」ということすら怪しいのに、その後も、論理の単純化と飛躍のみで成り立っているようなものである。

薬が効くということの論拠が怪しいことは、既に何度もみてきた。確かに、一時的には、興奮状態にある統合失調症の者を、沈静する効果はあるかもしれない。しかし、これは、ドーパミンが過剰であろうが、過剰でななかろうが、ドーパミンを抑制する薬の作用の結果として、あり得ることであって、これから直ちに、統合失調症の者はドーバミンが過剰である、などというこどか言えるはずがない。

また、長期的には、服用している薬を止めると、再発率が高まるということが、薬が効くことの根拠としてよくあげられる。しかし、この「再発」なるものも、起こっている現象を、もともとの病気に結びつけて、主観的に解釈したものに過ぎない。むしろ、これは、『心の病の流行と精神科治療薬の真実』でみたように、脳の薬に対する補償作用としての、「リバウンド効果」によるものと解した方が、よほど説得的である。また、投薬の長期的な転帰の研究によっても、薬を止めたり、飲まなかった者の方が、転帰が良いという結果が出ている。薬は、治療に効果を及ぼすというより、むしろ慢性化させ、悪化させているのである。

いずれにしても、これらは、薬が、統合失調症の者の脳の伝達物質の過剰を抑制して、均衡をもたらした、などどは信じられない結果である。むしろ、脳の伝達物質が過剰でもない者に、ドーパミンを抑制する薬を長期的に作用させた結果、脳の機能がマヒし、崩壊したものとみざるを得ない。

しかし、今後の研究によっては、統合失調症において、ドーパミンの過剰がみられるということが、はっきりと示されることは、あり得ることである。

その場合でも、「ドーパミンの過剰」なるものが、「統合失調症」という状況と関連して、見つかったというだけであって、それが、「統合失調症」という病気を生み出した「原因」などとは、とても言えない。なぜ、並行して起こっている現象を、「原因」とみなさなければならないのか。脳で生じている現象は、それに対応する「精神的現象」の「原因」いうことが、初めから決まっているのだろうか。

これは、前にも例としてあげたが、たとえば、「怒り」という現象においても、ノルアドレナリンなどの伝達物質が過剰に生じているだろうが、その「怒り」の「原因」は、ノルアドレナリンの過剰だと言うのと同じである。そこで、ノルアドレナリンの過剰を抑えることができれば、確かに、一時的には、「怒り」という身体反応は、みかけ上抑えることができるかもしれない。しかし、その「怒り」の本当の「原因」が明らかにされない限り、その「怒り」は、本当には取り除けないし、何度となく繰り返されるはずである。      

それを、ある意味の「原因」と認めるにしても、それは、せいぜい、みかけ上の、あるいは、表面的な「原因」であって、さらにより深い「原因」が探られなければ、意味のないものである。

この仮説は、先ず何よりも、精神薬の効果が、「原因」のレベルから作用すると言いたいがために提出されたもの、というのはみえやすいことである。しかし、それはおくとしても、一般に、「原因」が分からないという状態は、落ち着かないもので、それを認めることは、医学上、また治療上も望ましくないということはあるだろう。「原因」としては、できるだけ、単純明解で、対処可能な「原因」を見つけ出したい、という志向があるのも分かる。つまり、その「原因」は、扱いにくい、精神的なものなどでなく、客観的に操作可能な、「物質的なもの」であってほしいということである。しかし、それらは、単なる「願望」なのであって、根拠に基づくものではない。

もし、そのような「原因」以外、「原因」と認めたくないというなら、それは、本当に「原因」を追及することを、初めから放棄しているも同然である。

さらに言うと、たとえ、「統合失調症」という状況に関連して、「ドーパミンの過剰」なるものが、みつかったとしても、それが具体的に、どんな「症状」と関連して起こるのかは、何ら明らかでない。「統合失調症」で生じる、例えば、幻覚や妄想などの症状全般において、「ドーパミンの過剰」が起こるというのか。ある症状について、それが起こるというなら、他の症状との関連はどうなのか。それらの症状同士は、それなりに複雑な絡み合いをしているので、ある症状で「ドーパミンの過剰」が起こったとしても、他の症状ではそれが緩和されたり、あるいは他の、もっと重要な伝達物質の過剰または不足が生じているかもしれない。

あるいは、むしろ、「ドーパミンの過剰」なるものは、これら統合失調症の症状とされるものからではなく、それに対抗しようとする反応から、生じているという可能性もある。その場合には、「ドーパミンの過剰」を抑えようとすることは、むしろ、その対抗反応を台なしにしてしまうことになる。

いずれにしても、たとえ「統合失調症」に関して、「ドーパミンの過剰」か見つかったとしても、単純に、ドーパミンを抑制する作用を有する精神薬を与えれば、均衡が図られ、治療されるなどということになるものではない

私自身は、実は、統合失調状況においては、ドーパミンとは限らないが、多分「ドーパミンの過剰」が生じている、とみているのだが、この私の考えについては、次回に述べたい。

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