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2013年11月

2013年11月30日 (土)

「脳科学的精神医学」について

NHKスペシャルでもとり上げられていたが、最近のうつ病治療には脳科学的な知見に基づいて、脳の異常を特定し、その部位の電気刺激法などの療法が取り入れられているようだ。

精神薬の問題が、いろいろと取り沙汰されて来たので、精神医学も、精神薬からの脱却と移行を図っている状況が、うかがえる。それは、表向きのアピール、つまり「見せかけ」に過ぎないという可能性もあるが、しかし、本格的に移行できるなら、そうしたいと、精神医学や、特に「支配層」は思っているはずである。

しかし、このような脳科学的精神医学は、しっかりとした科学的な知見に基づいたもので、これまでみて来たような、問題が多く、「いい加減」な薬物療法に比べて、すっと望ましいものではないか、という見方もあるだろう。

そこで、まず、はっきりさせておきたいのが、脳科学的な精神医学も、その発想は、これまでの「精神医学」そのものであり、むしろ、より直接に「優生思想」的である、ということである。確かに「科学的」な装いは大幅にアップしているが、科学的であるのは、その具体的な「方法」であって、もともとの「発想」ではない。むしろ、もともとの発想を、「科学的」ということを通して、より明確な形で、固定しようとするものである。

脳科学的精神医学は、「うつ」なら「うつ」の原因を、脳の「異常」ということに特定し、それを形態的に、あるいは分子、遺伝子レベルで解明しようとする。そして、それを「取り除く」なり、あるいは「改変させる」なりして、「治療」しようとする。ところが、その前提にあるのは、「うつ」なら「うつ」という状態は、悪しき「病気」なのであり、是非とも取り除かなくてはならないという、相も変わらぬ発想である。これは、これまでの精神医学と全く同じであり、むしろ、それを脳科学的に、物質レベルで固定して、目に見える形で、はっきり取り除こうというのだから、「排除」の意図が、より明確に出ている。

それは、その対象の精密さが違うだけで、早く言えば、かつての「ロボトミー」の発想と同じである。そのような明確な「取り除き」は、一旦なされれば、薬物療法以上に、元の状態への回復などということは見込めない、決定的な措置となる。

もちろん、「うつ」その他の精神疾患が、何らかの脳の「異常」を伴うということ自体は、十分あり得ることである。しかし、この「異常」とは、「うつ」その他の精神疾患の直接の現れとは限らない。たとえば、それになりやすい「気質」のようなものの、遺伝子的な特性の現れである可能性もある。分子、遺伝子レベルという精密なレベルへの着目がなされれば、ますますそのような可能性は高まる。しかし、この脳科学的な精神医学によれば、このような「遺伝子的特性」もまた、精神疾患をもたらす異常の一つとして、取り除かれ、改変されることになるだろう。つまりは、「狂気になりやすい者」の遺伝子を、取り除き、または改変するということが、なされるわけである。その発想は、まったく「断種」にも等しい。

さらに大きな問題は、これらの一見「科学的」な研究の基礎となる概念ないし資料は、まったく現在の精神医学に依存しているということである。研究そのものは、「科学的」であり得るとしても、その基礎となる概念や資料は、現在の精神医学が作り上げた問題だらけのものということである。

たとえば、「統合失調症」や「うつ病」の患者の脳に異常があるかどうかが研究されるとして、その前提となる病気の概念は、現在の精神医学が、多分に主観的(恣意的)に作り上げたものである。それでも、脳の異常が明確に取り出せれば、そのこと自体が、その病気の概念の正しさを証明するのではないかと言うかもしれない。しかし、「統合失調症」や「うつ病」とされた患者は、多量の精神薬を処方されているのが通常であり、たとえ何らかの異常が特定されたとしても、それが、「統合失調症」や「うつ病」という状態からもたらされたのか、精神薬からもたらされたのか、明確には区別できないはずである。(初めから、病気によるものと決めつけるなどは、論外である)

もし、本当に、厳密に「統合失調症」や「うつ病」とされた患者の脳の異常を特定しようというのなら、精神薬を完全に排除した、多数の事例をもって研究がなされなければならない。が、現在のところ、そんなことは不可能であるのは明白である。

これらのことが、ネグられて、ただ現在の精神医学の知見の延長に、脳科学としての「科学的」な方法によって、脳の異常が解明されたとされるなら、それは、結局、現在の精神医学の見方を、ただ科学的な「装い」をもって、正当化し、後押しすることにしかならない。

そして、実際、そうなるであろう。

初めに述べたように、問題の取り沙汰されている精神薬からの脱却は、精神医学も、支配層も早急に図りたいことである。(ただし、精神薬の使用も、いけるところまでは押し進めるだろし、在庫は何としても売りさばこうとするだろう。)

さらに、前にみたように、支配層にとっては、人間の脳や心を操作できる精神科医というのは、この上なく「使う」のに適した職種である。が、脳科学的な精神医学ほど、さらにその目的に適ったものはないのである。これまで以上に、より、直接かつ具体的に、脳を操作できることとなるからでる。それは、また、いくらでも拡張の可能性をはらんでいる。たとえば、「病的性質」の遺伝子レベルでの「排除」は、「彼らにとって都合の悪い性質の遺伝子レベルでの排除」というものに拡張できる余地があるし、コントロールのため、何か(マイクロチップなど)を脳に埋め込むなどの措置も十分想定できる。現在の精神医学より以上に、直接に「支配」という意図にそったものに、なり得るのである

だから、支配層は、多少の基礎固めを外しても、脳科学的な精神医学の実用化に力を注ぎ、急ぐであろう。それは、既成の精神医学にとっても、より科学的な装いを纏うことができるのみならず、これまでの様々な問題を糊塗し、実質上は、それまでやってきたことを正当化し、押し進めるものなので、望ましい限りのものである。

そういうわけで、この脳科学的な精神医学は、我々がよほど注意して、監視しない限り、前に、うつ病治療を初めとする、薬物中心の精神医療があっという間に広がったように、今後あっという間に浸透して、広まっていくことだろう。

気がついたときには、もはや、精神医療の中心になっているということにもなり得る。

そして、それは、現在の薬物投与以上に、我々に害をもたらす可能性が大である。そして、もとの状態への回復が困難なものである。改めて、注意を喚起しておきたい。

2013年11月21日 (木)

「うつ」と「自殺」の問題

野田正彰著『うつに非ず』でもとりあげられていたが、「執病化」(医療化)の大きな問題の一つとして、<「自殺」の問題が「うつ」の問題にすり替えられる>ということがある。この問題は、様々に複雑な問題をはらんでいるのみならず、「狂気」一般についての、根本的な問題にも通じている、重要なものというべきである。

「自殺が増える」という問題がある。そこには、さまざまな原因があるだろう。その多くは、社会的、経済的な原因だろうし、そのほかにも、様々な個人的な事情があるだろう。あいるは、それは、もっと根本的な、「実存的」な問題だったのかもしれない。こういったことが、「うつ」の状態をもたらすこと自体は、当然あるだろう。しかし、そのような状態をもたらすこともなく、自殺が決行される こともある。いずれにせよ、「うつ」ということ自体が、「原因」などと言えるものではない。

しかし、精神医学の発想では、この「自殺が増える」ということと、「うつが増える」ということが、いつのまにか結びつけられている。つまり、「自殺」の原因は、「うつ」という「病気」であることが、当然のことのようにみなされる。それで、「自殺」を減らすためにも、「うつ」を治療することが大事である、という風にもっていかれる

この発想では、「自殺」が増えれば、当然、「うつ」も増えたことになる。「うつが増える」といわれることの重要な一因が、ここにもあることが分かる。

「自殺」の問題を「うつ」の問題にすり替えることには、一つには、まさにそのような、製薬会社や精神医学の側の商戦の拡大戦略という意図があるだろう。「自殺」予防のためには、「うつ」の早期治療が大事というアピールである。

しかし、『うつに非ず』でも明らかにされているように、「自殺」は、実際には、SSRIを始めとする「抗うつ薬」の「副作用」により喚起されていることが多いのである。「抗うつ薬」が、脳を撹乱し、興奮させ、「抑制」を取り払うものとすれば、このような衝動的行動を誘発することは、当然考えられる。実際、最近では、薬の添付文書にも、このことを書くことが義務づけられている。

さらに、「抗うつ薬」による「離脱症状」(禁断症状)があまりに辛いために、それに耐え切れずに自殺する場合も多いであろう。

こういったことは、いかにも、皮肉な結果である。「自殺」予防のための手段であるはずの薬が、むしろ自殺を促しているのであるから。こうなると、「自殺」は、「うつ」が原因なのではなく、「投薬」が原因なのである、と言ってもいいはずである。

あるいは、そのような結果も、始めから見込まれたうえで、それを覆い隠すために、「自殺」は「うつ」が原因と、ことさら「強調」されていたものとも勘ぐりたくなる。

しかし、いずれにしても、<「自殺」は「うつ」という「病気」が原因で起こる>などとは言えないことは、はっきりしている

そして、このような「執病化」(医療化)の問題も、また、「自殺」という「厄介な問題」を、我々や社会が正面から問うことをしないで、精神医学に「丸投げ」し、安易に「片付け」ようとしたことに基づく、と言わざるを得ない。「自殺」が「うつ」を原因として起こるなら、それは、「病気の治療」の問題であり、それ以上に原因を問うたり、追及する必要はない。それは、要するに、「病気」のせいなのであって、後に残された者は、誰もそのことで頭を悩ますこともない。特に、身近な者は、自分の何らかの振る舞いが影響したなどという、思いを抱く必要もない。ある意味で、最も手っ取り早く、「平和的」な解決方法なのである。

そして、ここには、自殺という形で「死」が関わっていることも大きなポイントである。記事、『精神科に「やりたい放題」にさせた「システム」 』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html )でも述べたように、「死」と「狂気」には、独特のタブー意識がからまっており、それを正面から言挙げすることは忌避され、「厄介払い」への指向が強い。だから、精神医学のような特殊の業種に「丸投げ」され、その「対価」ではないが、ある意味当然の結果として、「好き放題」される基盤にもなっている。

「自殺」と「うつ」の問題は、この「死」と「狂気」のどちらにも関わるだけに、本質的なものがある。

さらに、『うつに非ず』でも、いかに「自殺」ということが、日本社会で、一般に、忌み嫌われているかを明らかにしている。たとえば、自殺者の遺族は、自殺者がアパートに住んでいた場合に、家主や不動産業者から、慰謝料を含めて、法外な損害賠償をとられるらしい。なんと、「お払い料」までとられることがある。

そこには、もちろん「死」ということ自体が、忌み嫌われることがある。しかし、事故であれ、他殺であれ、病死、老衰であれ、他の死因であれば、まだそこには、納得をもたらすもの、仕方がないと思わせるものがある。しかし、自ら命を断つという自殺は、「理由」の分からないもので、納得できず、はた目にも、理不尽で、気味の悪いものである。そして、周りや、身内の者にとっては、さまざまな思いと感情的遺恨を残すものとなる。自殺の場合、本人も「浮かばれないだろう」との意識が、どこかに働くのでもあろう。

そのように、自殺ということ自体が、何か、非常に「悪い」もので、「穢れ」たもののようにみなされる。それは、(どこかおどろおどろしい、その意味で自殺にも通じる)「狂気」に対する、反応とも、似通っている。それは誰もが、口を突っ込みたくない問題であり、目を伏せたい問題である。しかし、それが、「病気」ということで、一応の「理由」がつき、精神医療による治療の問題として、「片がつく」ならば、とりあえず「丸く収まる」のである。

自殺の場合に、そのような「執病化」(医療化)が行われることに鑑みると、実は、「狂気」の場合にも、同じことが行われていることに気づくはずである。つまり、同じように忌み嫌われる「狂気」もまた、その本当の原因なり理由が模索されることもなく、「病気」(特に「脳の病気」)ということにして、精神医学に「厄介払い」することが、とりあえずの解決方法として、行われているのである。そもそも、「精神病」ということ自体が、「執病化」(医療化)の結果なのだ、と言って来たとおりである。

要するに、簡単に言ってしまうと、これらの全体が、「死や狂気から逃げ惑うためのシステム」として機能しているということである。

もちろん、だからと言って、そこにつけ込んだ、精神医学や製薬会社、さらに「支配層」も絡む、好き放題のやり方が許される訳ではない。が、結局は、我々自身が、「自殺」あるいは、その根底にある「死」そのもの、さらに「狂気」というもの、について正面から受け止めない限り、これらに、何らの解決ということもあり得ないのである。

2013年11月13日 (水)

「支配層」と「精神医学」「製薬会社」の結びつき

前回の図にも示した、「支配層」と「精神医学」「製薬会社」の結びつきについて。

かつて、大雑把に30年ほど前は、「支配層」と結びついている産業といえば、まず「軍需産業」だった。冷戦期でもあり、国家の多額の資金を投入され、高度な重科学技術とも結びついた、いかにも華やかな巨大産業だった。「軍産複合体」として、一産業レベルを越えた、巨大な力を発揮した。

次には、「石油メジャー」だった。石油は、個人の生活から、産業社会を支えるエネルギー資源として、不可欠かつ重要なものだった。これを牛耳るものが、経済を牛耳るとも言われた。原発が普及することによって、以前ほどの力は失ったとしても、巨大な影響を与え続ける一大産業であることに変わりはなかった。

また、いくらか後には、「穀物メジャー」がそういうものとして、注目された。穀物は、当然ながら、食べなければ生きていけない不可欠の食料であり、人間の健康にかかわるという意味でも、重要な影響力をもっている。初め、メジャーが、流通を支配することが注目されたが、バイオ技術の発展により、製造業も、一大巨大産業と化した。

それらに対して、「精神医学」はと言うと、当時は、いかにも地味で、光の当たらない「業種」だった。精神病院とは、要するに、「頭のおかしい」人を隔離しておくための、(恐ろしい)施設だった。人里離れたところに、ひっそりと建っていた。子供の頃から、子供心にも、精神病院とはそのようなものだと思っていたし、周りもそうだった。そもそも、精神医学なるものが、表に取り沙汰されることなどめったになかった。

「製薬会社」も、既に重要な産業として、台頭はしていただろうが、特に注目されるようなものではなく、比較的地味な産業に過ぎなかった。「精神疾患」に関しては、そもそもまだ、薬物治療が中心的なものとして行き渡ってもいなかった。

私が、一連の体験をした20年ほど前でも、このような事態は、それほど変わっていなかったと思う。「精神病院」は、いかにも「権力的」で、「恐ろしい」ところではあるが、地味で、日蔭の存在である。それが、「支配層」と結びついているなどいう発想は、ないに等しかった。

一連の体験では、「分裂病」といわれるものについて、身をもって体験して、それが「精神医学」では、絶望的に理解不能であることを知った。もちろん、何をされるか分からない「恐さ」もあってだが、それで、「精神科」にかかるなどという発想は、完全に除外された。そうして、「精神医学」のやっていることは、一種の「虚偽」か「ごまかし」であるという、今に通じる考えになった。しかし、だからと言って、「精神医学」が、「支配層」と結びついて、陰謀めいた力を発揮しているなどと思ったわけではないのである。

その後も、大体において、そのような認識は続いた。だから、私も、「精神医学」や「製薬会社」が、「支配層」と結びついているという発想を、明白にもったのは、割と最近のことになる。

しかし、考えてみれば、「支配層」の側にしてみると、「精神医学」に目をつけずして一体何に目をつけるのだ、という話になるのである。

何せ、「精神科医」とは、人の脳または精神を、直接「いじっ」て、変えることの許される唯一の職種なのである。誰も、他人に、自分の脳や精神をいじられたいとは思わないだろう。それが、正当な業務行為として、ときに強制的なやり方で、許されるのである。

また、これは、「製薬会社」の技術力の発展によって、精神薬が普及したことにこそよるが、「麻薬」まがいの、脳と精神に大きな影響を与える薬物を、自在に投与することのできる職種なのである。いわば、「人を生かすも殺すも」自由な職種である。こんな「薬物」は、一般には規制され、一部では商売とマインドコントロールのために使用されている。それを、合法的に、正々堂々と投与することのできる唯一の職種なのである。

「製薬会社」も、もちろん、このような薬物をさまさまな視点から研究し、開発し、大量生産し、提供することのできる巨大産業である。

人を「支配」するうえで、これ以上に「使える」ものはない、というほどの代物なのである。

もちろん、これらには、軍需産業のような華やかさはないし、相変わらず、地味で表にのぼりにくい産業ではある。また、これらは、所詮「病気」に関わるものであり、一般的な産業基盤ではないともいえよう。しかし、記事『世間教の二本柱』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-dc71.html )でも述べたように、「病気」ということこそ、人を不安に陥れ、主体性を奪うまたとない機会なのである。つまり、それを拡大して、多くの者に適用することさえできれば、「支配」という意図には、十分過ぎるほど沿うものである。

また、地味で、あまり人の注目にのぼらないということは、むしろ利用するうえで、都合のよいことである。そこに働きかけ、力を及ぼすことも、表ざたにはなりにくく、まさに、「やりたい放題」の基盤となるからである。

但し、このように、「支配層」の力が及ぼされるとは、「表立って」、より権力的で、暴力的なあり方を示すようになるなどど勘違いしてはいけない。むしろ、「彼ら」は、イメージ戦略として、より「よい」もののように見せかけて、いつのまにか浸透させる術に長けている。資金力も豊富で、メディアなどを巻き込んで、洗脳効果をうまく使う。

たとえば、ロックフェラーにしてもビル・ゲイツにしても、表向きの、慈善活動家としてのイメージ作りは見事である。それだけのノウハウがあり、そのようなものを築き上げるだけの、豊富な資金力もある。

「支配層」も、そのようなノウハウを使って、かつての「精神医学」または「精神医療」の、「暗く」「陰湿」なイメージを大幅に変更し、人びとが近づきやすいものにすることに、概ね成功したのだと言える。さらに、「精神疾患」という、「不治」なるイメージをも変更しつつ、それを拡大して、多くの者に広めることに成功したのだと言える。

少なくとも、かつての「精神病院」の、「頭のおかしい人を隔離しておく(恐ろしい)施設」というイメージは、ほとんど払拭された。精神科は、文字通り、「病気を治療してくれる専門家」というイメージとなった。「病気」を治療してくれる「薬」というイメージが、その媒介となり、精神科の領域にも、大した違和感もなく、入り込むようになった。

かつての、いかにも汚く、陰湿な精神病院は、きれいで近代的な作りのクリニックに変わった。「うつは心の風邪」のようなキャッチフレーズが多く作られ、精神科を庶民の近づきやすいものにした。国はもちろん、学校や地域などにも働きかけ、多くの者を、「精神科」につなけげることを促すシステムを作り上げた。

精神科医も、ほとんどマニュアル化された、そのようなシステムにのっかるしかない事態になった。というよりも、そのようなマニュアルによってこそ、育てられるようになった。薄々事態に気づきつつ、あるいはそうと知りつつ、自らの儲けのため、意識的、半意識的に、このようなシステムを利用している者もかなりいるだろう。しかし、まだかなりの数の精神科医が、このようなシステムに気づくこともなく、能天気に乗っかり続け、あるいは薄々気づきつつも、もはやどうすることもできずにいるのだと思う。

何しろ、かつてのイメージからすれば、驚くような転換を成し遂げたのであり、それはそれで、見事と言わざるを得ない面がある。しかし、それらの「イメージ」は、あくまで「表向き」のことである。実際に起こっていることと言えば、かつてと相も変わらず、「暴力的」な事態であるのは、明白である。精神薬により、病気はより深刻化し、回復困難になる。あるいは、精神薬による「導入」によってこそ、本当に困難な「病気」が作られていく。「病気」のせいにされつつ、衝動的自殺や暴力など、社会的にも、多くの混乱や問題が巻き起こされる。

「支配層」が力づけする以上、それは当然の結果なのである。つまり、もともとの精神医学のあり様と、実質的には何も変わっていないばかりか、むしろそれが肥大化し、拡大されているのである。そのようなことは、初めから、明確に「意図」されていたことと言わねばならない

私も、こういったことは、ある意味で、知らぬ間に、「盲点」をつかれて、なされたような思いがある。私自身も、最近の精神科のイメージ作りには、多少騙されていた面かある。かつての、あからさまな排除と権力のあり方は、さすがに変わらざるを得なくなったのだろうと思っていた。薬も、新しいものは、より副作用が少なくなるのが、自然のことだと思っていた。しかし、これらは、本当に「表向き」のことでしかない。

ただ、私は、基本的には、かつての「精神医療」のイメージを持ち続けていたし、それらが払拭されるなどということはあり得なかった。しかし、昔のイメージをあまりもたない、最近の若い人たちが、こういった医療に「騙される」のも、理解はできるというものである。

「精神医学」という、人の通常問題としない、日蔭の職種こそ、これまでのどのような「派手」な産業にもまして、「支配層」が支配力を貫徹できる、格好の道具だったのである。

「精神薬」についても、麻薬などとも絡めて、いくらか勉強したが、知れば知るほど、これほど、人を支配するのに適した物質はないということが分かる。

いずれ、精神薬についても、私なりのまとめをしてみたいと思っている。

2013年11月 5日 (火)

精神的な「病」と「医療化」(図)

『うつに非ず』では、「うつ」や「発達障害」に関して、「執病化」ということを言っていた。そこでは、「統合失調」に関しては、何も述べられていない。が、もちろん、「統合失調」にもそれは当てはまる。そもそも、精神医学は、社会の問題を精神医療の問題にすり替えて処理する、「執病化」に始まるのだから、当然である。一般には、「医療化」と言った方がいいかもしれない。

このことは、次のような図で、簡単に示すことができる。

Photo
これまでにも何度も述べてきたことだから、説明の要はないだろう。

「統合失調」のみをあげているが、それは当初から、精神医学が扱う「精神的な病」の代表であり、「医療化」のターゲットそのものだったからである。いかに、「統合失調的な状況」にある、社会から逸脱する者を、社会から「排除」して、「治療」の名目のもとに、「病院」に回収して、管理、処分していくかということ。それこそが、「精神医学」の役割である。

そこから、さまざまな精神的な「病」が拡大、発展してきて、「うつ」や「発達障害」の問題も出てきた。が、これら「統合失調」ほど「逸脱的」でないものは、本来図で「例外」と示された、「回復」の方へと回されることが多いようにも思える。

しかし最近の事情は、前回もみたように、「うつ」や「発達障害」、さらにその他の「病」にしても、より「排除」の方へと方向づけられているようにみえる。「治療」や「投薬」は、むしろ、「病」をより深刻化し、人格を崩壊させ、社会への復帰を難しくする方向に働いている。あるいは、端的に、「治療」や「投薬」こそが、回復困難な「病気」を作り出している。

それは、本来、「精神医学」が「統合失調」に対して行おうとした「医療化」に、より近づいているということである。「精神医学」のもともとの「医療化」のあり様が、よりあからさまに現れ出ているのである。

だから、図では、「統合失調」に代表させて表わしたが、このことは、あらゆる精神的な「病」にも、十分あてはまることのはずである。

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