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2013年10月15日 (火)

ニーチェと「狂気」

一般には、梅毒とされているが、ニーチェは晩年、「狂気」に陥ってしまった。そこには、脳の障害の影響もあるだろうが、確かに、「発狂」したというべき面がみてとれる。そして、そうなるのは、ニーチェの気質や思想内容から言っても、まさに「そうありなん」というところがある。

私がニーチェに興味を持ったのは、思想の面からだったが、このような「狂気」に関わる面もまた、興味を喚起した大きな理由だと思う。

ニーチェは、今でこそ、現代に影響を与える重要な哲学者の一人とされている。が、当時、文献学者として一定の業績をあげた後、自らの思想活動をしてからは、学会からは「ほされた」も同然、晩年は、誰からも相手にされなくなっていたと言っていい。そのような状況も、「狂気」に拍車をかけただろう。ニーチェは、明らかに、これまで誰もなしたことのないことをなしていると、意識していた。そして、それをなし遂げたのだと、本気で思っていた。だからこそ、誰にも理解されず、「迫害」を受けるのだった。

ニーチェは、晩年には、「十字架にかけられた者」などの署名で、人に手紙を書いたりしていた。「私が人間だというのは偏見です。私はインドでは仏陀でしたし、ギリシャではディオニソスでした。…私は十字架にかかったことがあります」などの内容の手紙もある。まさに、「狂気」である。

前回みたように、ニーチェは、あらゆる学問に見切りをつけ、自分一人で、これまでの人類の営みを塗り替える、新たな試みに向かった。「あるゆる価値の価値転換」を目指し、「超人」を目指した。それは、「虚偽への意志」を乗り越えることであり、「生」そのもの、「生きんとする意志」そのものを全面的に肯定することを意味した。というよりも、むしろ「生きんとする意志」そのものに「なる」ことだった。

この「意志」とは、「力への意志」などとも言われるが、まさに、あらゆるものの根底に働く、ときに破壊的で暴力的な、「力」そのものなのである。ニーチェは、あるとき、強烈な雷が鳴るのを聞いて、そこにこの「意志」を直感したという。これは自然の根底にも働く、無目的で、限定づけられない強烈な「力」であり、人間という「弱さ」とは無縁のものである。

この「力」は、ほとんど「神」そのものと言ってよく、あるいはむしろ、人間が人間の都合で、「善なるもの」として構築した「神」などというものを超えたものである。そのようなものを目指し、あいるは、自らをそれと同一化しようとしたのである。だから、このような試みは、「神」をも超えようとする、「不遜」な試みであり、シュタイナーでいえば、「ルシファー的」な行いそのものである。

実際にも、それは、いかにも唐突で、「現実」に根ざさない、「不可能」な試みであり、挫折することの、見え見えな行いというべきものだ。このようなものに、本気でかけようとすることは、いかにも「分裂気質」的である。それが、単なる思いつきで、「いい加減」になされるなら、まだしも、ニーチェは、著作を読んでも分かるとおり、繊細であり、自分をごまかすことはできない「愚直」な性格である。だから、そのような試みは、勢い、「成功」か、さもなくば「狂気」かというところまで突き進まざるを得ない。

そのようにして、ニーチェの試みは、やはり「失敗」に帰したと言わざるを得ない。というよりも、そもそも、その試みは、「不可能」なものだった。

ニーチェにおいても、学問その他の人間の営為を、その動機から根本的に暴くという面では、大いに「真実」を発揮したが、その克服の手立てとして、何かを「打ち立てよう」とするときには、やはり、「人間」として、ある種の「虚偽」が入り込まざるを得なかったのだともいえる

著作でも、『善悪の彼岸』や『道徳の系譜』など、「動機の心理学」で人間の営為を暴くものは、研ぎ澄まされた感覚と、鋭さで、爽快に「真実」を露わにしている。が、『ツァラトゥストラ』などの、新たな哲学の構築は、もちろん魅力に満ちてはいるが、どこか、空虚に響くものがある。

「人間」が「人間を暴く」ことは、十分達成された。しかし、「人間」が「人間を超える」ことは、まだまだ身の程知らずのことに属するのかもしれない。このような状況は、我々が、否応無く、引き受けていかなければならない状況でもある。

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コメント

ニーチェの思想は合理的に完成していました。
ただ当時の科学知識での正確な表記に苦労したのだと推測しています。
「ニーチェの馬」や、手紙の「私が人間だというのは...」などは、
ニーチェがたどり着いた地点から見える景色を正しく表現していると思っています。
そしてそこは人間にとってたどり着くのが難しい地点ではありません。
詳細は「哲学掲示板」の「人間に生きる価値はあるか」「悪人に生きる価値はあるか」「神の呪いと悪魔の祝福」に載っていますので興味がございましたらご一読ください。

「さもありなん」ですよ。

ニーチェの思想が、知的な意味で「人間」という枠組みを超え出てしまったのは分かりますし、あげられている言動や言葉が、その地点を表現していることも分かります。しかし、それは、同時に「狂気」に踏み出すことでもあったと、私はみます。おそらく、知的なもののいきつく先は、「狂気」であるということです。

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