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2013年10月 8日 (火)

「虚偽への意志」と「精神医学」

ニーチェは、100年以上前に、すべての学問は、「虚偽への意志」から生まれると見切っていた。

それは、もちろん、学問としての構築物そのものが、全くの虚偽だというのではない。「構築物」そのものは、もっともらしく、堅固な見かけをもち、それなりの体系を備えている。それは、ある世代にあるところまで進めば、次の世代がそれを引き継ぐという形で、ますます発展させることができる。

しかし、一たび、その構築物の建っている土台を見てみるならば、それは、全くの「虚偽」の上に建てられていることが判明するというのだ。

中でも、「科学」などは、槍玉に上げられている。科学は、構築物としてのもっともらしさ、堅固さは、際立っている。しかし、その分、土台の「虚偽」が、他のもの以上に、浮き彫りになるのだ。

その一例として、当時信じられていた、「原子」があらゆる存在の分割不能の最小単位である、という「虚偽」をあげている。科学的な構築物として、「原子」なるものが存在するという見かけは、確かにあるだろう。しかし、それが、「分割不能の最小単位」などというのは、要するに、我々の内部に「私」または「霊魂」という分割不能の実体があるという発想を、外界に投影したのに過ぎないという。

本来、外的な実在に、何らかの「不可分の実体」や「最小の単位」があるなどという必然性も保証もない。もちろん、人間の内部に、「私」または「霊魂」のような、分割できない不可分の実体がある保証などもない。ただ、そのような、自己の根拠としての、内的な実体が要請される限りで、それが外界に投影されて、「原子」論のようなものが出てくるに過ぎないというのだ。

これは一例に過ぎないが、要するに、「科学」という学問も、人間の営為として、人間の都合を反映した動機に、つき動かされている。そうである限り、それは、「虚偽」とならざるを得ない、ということである。このように、「動機」を暴いていくニーチェのやり方は、「動機の心理学」などとも言われる。

ニーチェは、「あらゆる」学問が、このように、「虚偽への意志」から生じているというのである。それは、「最善の学問」においても、そうであらざるを得ない。「最善の学問」とは、ニーチェ自身志していた、「哲学」のことである。哲学は、根底を論理的に疑い、とことん問い詰めていくことができる、唯一の学問である。しかし、それでも、そこには、必ず、こっそりと、ある前提が忍び込まれるといったことになる。

たとえば、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」などは、「思う」という行為には、「主体」がなければならない。この「主体」を「私」と呼ぼう。そうすると、「思う」ということから、「私はある」という結論が導き出せる。という具合に、述語には主語があるという文法の論理を、単純に三段論法の前提に忍びこませた、滑稽な論理に過ぎないとされる。

もちろん、これは、分かりやすい一例だが、要するに、どのように緻密に組み立てられた哲学も、人間の営為である限り、どこかにこのような類いの「前提」が忍び込まれて、成り立たざるを得ないということである。

ニーチェはあげていないが、科学にも、このような「前提」は多く入り込む。特に大きいものとして、科学は、その論理が成り立つ領域が、(それも理論的に構築された限りでの)「物質」という領域に限られるのに、あらゆる領域にあてはまるかのようにみなされることがある。このような「前提」も、科学の有用性を、人間の都合によって拡大する、まさに「虚偽への意志」そのものである。

このように、あらゆる学問が「虚偽への意志」から生じている。あるいは、「あまりに人間的」な動機によって、つき動かされている。そうだとしても、「精神医学」ほど、「虚偽への意志」または「動機」の見えやすい学問もないだろう。(いや、「精神医学」は「虚偽への医師」から生じているのだ、などとは言わないように(笑))

「精神医学」には、科学のようには、堅固な構築物としての見かけもないし、確からしさの基盤もない。一方、その土台である動機、意志そのものは、一般の科学などより、いかにも明白に「見え見え」のものである。要は、社会的に不都合なる者を、いかにもっともらしく、「病気」として規定し、「治療」の名の下に「管理」し、または「排除」していくかである。まさに、土台の「虚偽」が、あまりに見え見えなので、取り繕った構築物をもってしても、とても覆い隠すことができないのである。

「取り繕った」構築物とは、要するに、「科学」に引き寄せて、自らをもっともらしく装うことだが、そうすればするほど、その「虚偽」が余計に無様な顔を覗かせる。「科学」そのものが、既に「虚偽への意志」の産物なわけだが、それにひき寄せ、自らを装うことによって、精神医学は、二重に「虚偽」を重ねていることになる。

要するに、精神医学は、他の学問以上に、「必要性」にかられて生じている学問であり、人間の都合と動機そのものを反映する学問ということである。

しかし、それにしても、なぜそうなるのか。つまり、すべては「虚偽への意志」になってしまうのか。それに対して、ニーチェは、野暮な説明は一切しない。ただ、「それは生あるものであって、生を愛するからだ」とのみ述べている。

「生あるものとして、生を愛する」が故に、人間は、「虚偽への意志」によって、生きざるを得ない。いや、むしろ、「虚偽への意志」そのものでしかあり得ない。確かに、これで十分だ。これを、「結局は、人間が生きるのに都合のよいことが、<真実>として構築される」などと説明したら、野暮に過ぎるであろう。

ここで、ニーチェが、「生を愛する」とは、決して皮肉で言われているのではない。むしろ、ニーチェは、それこそが、どんな哲学も疑うことのできない、人間の最も根本の「真実」であり、あらゆる哲学は、そこから始まるべきだと考えていた。

恐らく、ニーチェは、一般の「ニヒリズム」や、ショーペンハウアーのような厭世的、「生の否定」の哲学を念頭においていたのだろう。「ニヒリズム」などと言って、すべては「無」だなど言っても、その者も、生きている以上、所詮は「生を愛している」ことに変わりはない。ショーペンハウアーのような厭世的哲学も、哲学などという営為をするのは、「生を愛している」からである。

だったら、ねじ曲げることなく、率直に、「生を愛する」ということを、全面的に肯定すること、それがニーチェのいきついた考えだった。真に、「生」そのもの、または「意志」そのものを肯定し、全面的にそこに立脚すれば、それは、「虚偽への意志」のようなねじ曲がり方はしない。それは、「生」または「意志」を受け入れることができない、「弱さ」からくる、「ルサンチマン」(怨恨)に過ぎないからである。

ただし、そうすることは、これまでの人間の営為を覆す、途方もないことである。それは、「あらゆる価値の価値転換」を意味する。そうすることは、もはや、「人間」ではなく、「超人」になることを意味するのである。「虚偽への意志」は、「生あるもの」としての「人間」にとって、本質的なもので、克服できないが、「人間」を超えて、初めて克服できるということである。

このように、ニーチェは、「人間」が「真理」に到達するなどということの「幻想性」を深く見抜いていた。

それにしても、「精神医学」ほど「見えやすい」「虚偽」もまた、「生あるもの」としての人間にとっては、やはり克服できない代物というべきなのだろうか。あるいは、「精神医学」こそが、あるゆる学問その他の人間の営為を、「虚偽」として見抜いていくことの、一つの突破口となり得るのだろうか。

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コメント

精神医学は「必要性」にかられて生じている学問…との考察については、さらに「誰が」「何のために」必要としているか、明確にしておきたいところです。「精神」と「医学」の修飾に幾重にも覆い隠されたそれは、K医師…もとい、U医師の著書により、白日のもとにさらされました。

精神医学を擁護する立場からはしばしば「では、昔の『座敷牢』『憑き物落とし』の時代に戻るのが良いのか?」との反論が起こります。

しかし、『座敷牢』は「家族が、世間の目から『本人』を隠すため、家族や一家の体裁を保つため」に用いられ、『憑き物落とし』は一例として、単独あるいは複数にて『本人』に執拗な暴力を与えて、命に危険が及ぶギリギリの状態まで追い込むことで『憑き物』を落とす(しばしば命を落とす)結果を引き出すものであったことを考察すると、「座敷牢」=「閉鎖病棟、拘束、強力劇薬投与」、「憑き物落とし」=「電気ショック、強力劇薬投与」という有り様になります。

一方で、明治生まれの方から、「子供を亡くして身も世もなく錯乱した奥さんを、温泉で一年近く養生させ治した」話も聞いたことがあります。その時代、その家庭、その人により、いろんなやり方を模索して人は生きて来ました。。

西洋で生まれた精神医学の、発祥目的やおぞましい歴史の詳細はU医師(特にどなたとは言いませんが内海聡医師です)の著書が教科書的存在とも言えますのでここで述べるのは差し控えますが、太古の昔から人間が「狂気」を社会共同体においても家族や個人の単位においても、多種多彩な受け止めかたや対応(こんな表層的な表現ではない程の豊潤な精神世界がありますのに)をとっていた、そのような観点は精神医学擁護派の方々はほとんど持ち合わせていないように思います。

長くなりましたが、この辺りを押さえたところから静かに心を整えて、ニーチェの踏み込んでいった…胸の締め付けられるような思索の端に触れていきたいと思います。

自分の体験から恐縮です。小学生の頃「夏は何故暑いのか?」を考え続けたことがあります。

頭が痛くなるほど考え、本をめくり、科学図鑑に天体のさし絵で説明があり「科学的」には分かったような気分になりながら、

「そうではない。何故、夏は暑くなる必要があるのか、何のために暑さは起きるのか、人間は何故、暑さを感じねばならないのか」と、思考が広がりすぎて手がつけられなくなってしまいました。

深刻な思考の行き詰まりに陥った私は、悠々とお茶を飲む祖母を見つめ「教えて、夏は何故暑いね?」と問いかけました。

祖母は小学校もあまり通えなかった明治の田舎の人です。一瞬驚いたように目を見開いた彼女は私を凝視し、数秒後自信に満ちた笑顔で言い渡しました。「夏だからさ!」

二十年近い歳月が流れて、食事中におのが手を凝視し、「こうして食べたり飲んだりするのも、不思議なつくりごとのようではある。」としみじみ語る祖母の姿がありました。

浅学を省みず想像します、ニーチェはこの「生あるものであって、生を愛するから」にたどり着いたとき、ホッ…と、安堵の呼吸をひとつ(ひとつだけ)ついたのかも知れないと。

いま私の心が「生あるものであって、生を愛するから」の言葉に自然と寄り添ってみたくなるのは、元来人間がそのように「つくられている」ことの暗示を示しているからです。

次第に思考は失速しながら遥かなものを臨む「想い」にその座を譲っていき、ついに「虚偽への意志」は、肯定否定を越えた「意志ある虚偽」となります。

やや飛びますが、日本の地に想いを巡らせてみます。日本の四季の極微な移ろいに、「意志ある虚偽」をみます。茶会の所作に「意志ある虚偽」をいただきます。居合の演武の立ち回り、端正な振舞いに「意志ある虚偽」を感じとります。船出の漁師さん方の手綱を巻く手先の美しさも、「意志ある虚偽」のありようです。

もしもニーチェが日本の存在を哲学の指先で触れたなら、何処へ歩かれたことでしょうか。

仰ることの趣旨を理解しているか分かりませんが、「意志ある虚偽」というのは、ニーチェの目指したどこか硬直な、「虚偽へと屈折しない意志」とは異なり、「生あるもの」としての「虚偽」への「諦め」と「受容」に根ざした、独特のあり方で、興味深いですね。

それは、「虚偽」であることを越えるものではないにしても、ニーチェのような狂気にいたらないための、「日本的知恵」とも「日本的機微」ともいえる気がします。

「かつて」の日本には、そのような「知恵」または「機微」が生きていたということを改めて感じます。ところが、現在の日本においては、「精神医学」はもちろん、大半の人が、それを単純に「真実」だと思っているだけの、ただの「虚偽への意志」であることは明白です。

あえて言えば、最近、いわゆる「悟り」というのも、広い意味での、そのような「意志ある虚偽」の一種といえる気がしています。

有難うございます。

「硬直した」は実に言い得て妙です。
「硬直」の対義語は「柔軟」、いえ「自在」とでも呼ぶのでしょうか。

諦めと受容の旅路に、静かな悟りをみる「意志ある虚偽」…突き詰めない日本の智恵は西洋思想的な視点からはたやすく批判されるかも知れませんが、浅はかな思考の放棄や逃避などと並べられない、どこか遠い遥かなものを感じます。

…ニーチェが和服を召して、里村の日暮れに佇む姿を思います。もしも日本を知ったなら、彼は終焉の地をこの国に望んだかも知れない、と。

「生を愛するからだ」の言葉一つで、拙い私のニーチェ観が温かく大きくなりました。有限な肉身を持つ私たちにも、虚偽と意志を生きる私たちにも、いまだ気づかない何か豊かな生命があると、そっとこの言葉は示しています。

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