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2013年10月26日 (土)

『うつに非ず』/「執病化」の問題

野田正彰著『うつに非ず―うつ病の真実と精神医療の罪』(講談社)を読んだ。著者は精神科医だが、最近の精神医療の現状について、かなり踏み込んで、徹底的に批判している。これまで取り上げてきたことからすれば、全て当然過ぎるくらいのことだが、しかし、ここまで踏み込んで、はっきりと指摘できる精神科医というのは、これまでいなかったと思う。

ことに、「うつ」や「発達障害」など、安易に「病気」が作られ、多量の投薬で人格が壊されていく問題をとりあげている。その中で、「うつ」や「発達障害」は、本来「社会」の問題であるのに、それを「精神疾患」の問題にすり替えることで、済まそうとすることの本質的な問題を、はっきり指摘している。そして、これを「執病化」と呼んでいる

たとえば、「うつ」では、会社やその他の職場の、何らかの「問題」を背負わされる者が、「うつ」として仕立てあげられることが多い。最近では、会社のリストラ候補者や規律や方針に従わない学校の教師などが、上司やまわりの者によって「うつ」に追い立てられ、精神科の診療を促されるということが多く起きている。

また、学校で教師のいうことを聞かなかったり、周りと同じ行動をとれない「不適応児」は、「発達障害」ということで、精神疾患の問題にすり替えられ、精神科に預けられる。

しかし、実は、この「執病化」こそが、最近の精神医療だけでなく、そもそも精神医学の問題の「全て」と言えるはずのものである。つまり、そもそも、精神医学とは、そのような社会的に不都合な者または問題を、「病気」の問題にすり替えることによって、「厄介払い」するためにこそ生まれたものである。だから、最近の事情は、精神医学の本来の姿が、むしろ、あからさまに覗かれる状況となっているということなのだ

ただ、著者は、(内因性の)「うつ病」そのものはあるという立場だし、治療に向けて、あるべき精神医療は可能という立場のようで、そこには、精神科医としての限界も感じる。しかし、精神科医が、あえて、社会の問題にまで踏み込んで、率直に忌憚なく、真っ当な見解を述べていることには、大きな意義を感じる。

このように、社会の問題に切り込まない限り、精神の問題に何ら埒があかないことは、本来当然のことである。だが、「精神医学」という専門的な学問が、医学の一分野としてあることになると、「病気」という規定さえできてしまえば、それは、「精神医学」が扱う専門分野のようなみかけとなる。「専門分野」だから、他の学問なり、素人なりは、口出しすべき問題ではなくなる。

それは、社会の問題から、「精神医学」の問題に移され、他の身体医学上の「病気」と同じように、「治療」の問題となる。そうして、「麻薬」まがいの、人格を荒廃させる「精神薬」の投薬により、問題は人ごと「塗りつぶされ」る。とはいえ、それは、もちろん、何らの解決であるはずがないから、むしろ、実際には、問題を「拡大」させる。それは、実際、「治療」の問題としても、ますます困難をもたらし、膨らませているのである。

その意味では、「精神医学」なる「学問」ができてしまったこと、それが「医学」の一分野として、「治療」の特権をもつものになってしまったことが、問題の大きな部分を占める。そうすることによって、「問題」はますます見えないものとされ、、近づき難いものとされ、あるいは、忌避されるものとなってしまった。 

しかし、このように、実際には、問題を糊塗し、あるいは膨らませるだけの存在が、いつまでも、のうのうと存続できるというものでもない。いずれは、そのような問題は、何らかの形で表面化せざるを得ないし、多くの者も、目をつぶることはできなくなってくる。「うつ」や「発達障害」(今や「統合失調症」もそうと言えるが)が、誰にでもあてはまる「病気」であることが、誰にも(少なくとも薄々は)感じ取られるものであることも、そのようなことを助長する。このまま、厄介事の「執病化」が押し広げられていけば、誰もが、いつ精神疾患と規定され、投薬を受けて、人格を崩壊されるか、分からない状況となる。まさに、「魔女狩り」の、止めのない拡大と同じことになるのだ。

そのような状況において、「精神科医」が、その学問の内部や専門家意識で(たとえ、でしゃばらない抑制的な意味でも)何かを語っていても、それは、本来の問題には決して届くことがない。問題の「糊塗」に、ますます資するだけである。だから、著者のように、その「病気」ということ自体が、社会の問題であることを正面から認め、そこに踏み込んで、発言していくことは貴重な一歩である。

しかし、著者も言っているいるように、特に日本では、脳科学的な知見しかもたない精神科医が育てられ、臨床的な経験や能力のない精神科医のみがのさばることになる。つまり、そのような医師は、社会的な問題に切り込むような能力は、ももともと欠いているのである。

これまでにも、さまざまな問題が取り沙汰されていたにも拘わらず、ここまで投薬の問題に気づくことなく、疑問ももつことなく(恐らく、意図的または半意図的な場合もかなりあるのだろうが)、投薬し続けるという事実には、驚くべきものがある。が、それも、要するに、そのような精神科医の、社会的感覚の欠如、無知、無能のなせる技としか言いようがない。

もはや、精神医学の内部で、何かしら問題の解決はおろか、善処を期待できるような事情にはない、と言うべきである。だから、事態を重くみて、改革を図りたい(数少ない)精神科医は、もはや内部に止まらず、社会に踏み出して、社会の問題として訴えかけて行くしかない。

但し、それは、突き詰めれば、必ず、「精神医学」そのものが不要なのではないか、という論点に行き着いてしまう可能性をはらんでいる。だからこそ、これまで多くの精神科医が、控え目で中途半端な批判をすることはあっても、そこまでは踏み込むことはできなかったのである。しかし、そのようなこと(精神医学の存続意義)も含めて、もはや全体を正面から社会に問うしか、方途はない状況のはずである。

もちろん、このことは、逆から言えば、社会自体が、この問題を「精神医学」に「丸投げ」し、自ら取り扱うことを「忌避」してきたことの問題ということである。

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コメント

ティエム様、いつも有難うございます。
「うつ」についての文、うなずきながら読みました。

昨日の朝刊に特大広告「うつは体の病気でもある」と、色々作り話が並べられておりました。無理を遠そうという悲壮ささえ感じております。

精神医療問題をテーマとするブログ「やたがらす」の10月掲載文に、
「米精神医学界2008年次総会の衝撃」が載りました。こちらを全新聞の一面広告に出せたらどんなに良いかと。

より良い精神医学などと、そんな実在しないものを有るように思いこむのを、気づいた人からやめる、回りに伝える、これは致命的に大切だと感じます。

強大な宣伝力を誇るように見えても、もはや精神医学界は裸の王様の一群だと沢山の方々が気づいています。

みるくゆがふさんありがとうございます。

指摘されなければ気づかない人も多いようですが、「精神医学界は裸の王様の一群」同然の状態になってきていると思います。もはや一大宣伝活動も、自ら墓穴を掘ってるかのような観がありますね。

ただ、「王様」にいなくなられては困る人も、まだまだ多くいるのだと思います。実質はともかく、「狂気」を何とか始末してくれるかのようなみかけをもつ「権威」を欲しているということですね。

お久しぶりです。
是非、ティエムさんにご紹介したいサイトがあるので見てもらえばと思います。
『宝瓶宮占星学』というサイトなのですが、占星学の視点から世界の動きを捉えていています。
ティエムさんのブログと匹敵する内容だと思うので、ご参考までに。
それではまたコメントします。

トシさん。お久しぶりです。

紹介のサイトは、ざっとですが見ました。かなり本格的な占星学のサイトであること、現在の状況が占星学の観点からいっても大きな転換点であることはよく分かります。ただ、私は占星学には詳しくなく、興味も少ないこともあって、特に印象に残るようなものはありませんでした。

もし何か特に興味深い記事等あるようだったら教えてください。


http://www.aqast.net/112kinmirai2-real1.html
の記事はシャーマニズムに通じるところがあると思いました。
記事の一番最後の部分が重要で、
『霊能力』に対して宇宙の法を司る力を『法力』と呼ぶのですが、
このブログの方は法力を霊識と呼んでいるようです。

私は魔術について詳しいのですが、霊能力者の受ける発信源はアーリマンやルシファーなのではないかとみています。それに対して法力師は愛からインスピレーションを受診します。魔術に黒魔術と白魔術があり

黒魔術=霊能力者
白魔術=法力師

と考えると分かりやすいかもしれません。
黒魔術は基本的に相手の心を乱す事をしますが、それに対して法力師は愛を持って
毎日はつらつと明るく元気に暮らすことが基本で、その上で叡智を身につけることで
黒魔術の陽動を跳ね返すわけです。

私の結論としては宇宙は愛のエネルギーであるため、愛のある人と共鳴するのではないかと考えます。以前に「考えるな、感じろ」と言ったのは人間的なエゴイズムにもとづいた偽りの愛ではなく、宇宙摂理の真実の無償の愛を感じろという意味で書きました。
しかしそうした真実を忌み嫌う存在もいることも確かであり、その存在をティエムさん
は捕食者と表現していると思っています。
なぜ人が狂気に陥るかというのは捕食者が真実に到達するものを排除しようとしているのではないかと感じます。


以下、記事から抜粋
========================================================================
《 新スピリチュアリズム「霊識」と21世紀ビジョン 》
ここでいう「新スピリチュアリズム」は、19世紀後半に生じた心霊主義とは異なります。
そういったオドロオドロした意味を持たずに、もっと現実の宇宙自然波動や人間の深層意識による覚醒なので、ここからは「霊識」という言葉を使います。
今後の世界を方向づける重要な表現なので、「霊識」の定義を書いておきます。
人は誰でも「意識」を持っています。
その意識は、知性を伴う「知識」によって、物事を判断していくことになります。
しかし、人間の知識は完全ではありません。
より正しく判断していくためには、人間の心理を含む物事の道理を踏まえた悟性を伴う「見識」にまで高めていかなければなりません。
さらには、いくら見識を持っていたとしても、そこに身を捨ててでも世のために物事を成していこうとする信性を伴った「胆識」に至らなければ事を成しえません。
そして、これから重要になってくるのは、胆識に基づく行動だけではなく、深い霊性や精神を伴った「霊識」です。
「霊識」に至れば、現実の事象の奥にある真実を無意識のうちにでも見抜いたり、感応することが可能になります。
時空を超えて、世界の人々と共鳴することができるようになるのです。
21世紀の星の動きからは、「霊識」に向かって意識世界や精神世界を深化させていくディレクションが進んでいきます。
21世紀は始まったばかりですが、今後は「霊識」をうながす現実世界の出来事が生じていくことになります。

One-Point ◆ 意識ある人は悟らなければなりません。全員である必要はないのですが、「霊識」に通じる人が多くなればなるほど、世界は良いほうに動いていきます。すでにお感じだと思いますが、逆にそうでない場合には、逆説的に「霊識」をうながす出来事が起こっていきます。どちらを選択するかは、意識を持った「感性人間」たちがポイントです。

トシさんありがとうございます。

基本的な趣旨は分かりました。

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