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2013年10月

2013年10月31日 (木)

現在の状況 ギャグ風に

やしろ優による倖田來未のものまね風に、

「最近の精神科医の精神薬の過剰投与、本当に酷いっていうひとー?」
ハーイ

「私は精神科医になんか絶対かからないっていうひとー?」
ハーイ

「じゃ明日から、もう精神科なんかなくていいっていうひとー?」
シーン

て、なるでしょうね。

ギャグにしてますが、これこそ真の問題なのです。

→参照記事;「精神病」の「放置療法」と抵抗  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-e1b2.html

「精神医学」と「オカルト」的なもの  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html

エロかっこよくて、すいません。

2013年10月26日 (土)

『うつに非ず』/「執病化」の問題

野田正彰著『うつに非ず―うつ病の真実と精神医療の罪』(講談社)を読んだ。著者は精神科医だが、最近の精神医療の現状について、かなり踏み込んで、徹底的に批判している。これまで取り上げてきたことからすれば、全て当然過ぎるくらいのことだが、しかし、ここまで踏み込んで、はっきりと指摘できる精神科医というのは、これまでいなかったと思う。

ことに、「うつ」や「発達障害」など、安易に「病気」が作られ、多量の投薬で人格が壊されていく問題をとりあげている。その中で、「うつ」や「発達障害」は、本来「社会」の問題であるのに、それを「精神疾患」の問題にすり替えることで、済まそうとすることの本質的な問題を、はっきり指摘している。そして、これを「執病化」と呼んでいる

たとえば、「うつ」では、会社やその他の職場の、何らかの「問題」を背負わされる者が、「うつ」として仕立てあげられることが多い。最近では、会社のリストラ候補者や規律や方針に従わない学校の教師などが、上司やまわりの者によって「うつ」に追い立てられ、精神科の診療を促されるということが多く起きている。

また、学校で教師のいうことを聞かなかったり、周りと同じ行動をとれない「不適応児」は、「発達障害」ということで、精神疾患の問題にすり替えられ、精神科に預けられる。

しかし、実は、この「執病化」こそが、最近の精神医療だけでなく、そもそも精神医学の問題の「全て」と言えるはずのものである。つまり、そもそも、精神医学とは、そのような社会的に不都合な者または問題を、「病気」の問題にすり替えることによって、「厄介払い」するためにこそ生まれたものである。だから、最近の事情は、精神医学の本来の姿が、むしろ、あからさまに覗かれる状況となっているということなのだ

ただ、著者は、(内因性の)「うつ病」そのものはあるという立場だし、治療に向けて、あるべき精神医療は可能という立場のようで、そこには、精神科医としての限界も感じる。しかし、精神科医が、あえて、社会の問題にまで踏み込んで、率直に忌憚なく、真っ当な見解を述べていることには、大きな意義を感じる。

このように、社会の問題に切り込まない限り、精神の問題に何ら埒があかないことは、本来当然のことである。だが、「精神医学」という専門的な学問が、医学の一分野としてあることになると、「病気」という規定さえできてしまえば、それは、「精神医学」が扱う専門分野のようなみかけとなる。「専門分野」だから、他の学問なり、素人なりは、口出しすべき問題ではなくなる。

それは、社会の問題から、「精神医学」の問題に移され、他の身体医学上の「病気」と同じように、「治療」の問題となる。そうして、「麻薬」まがいの、人格を荒廃させる「精神薬」の投薬により、問題は人ごと「塗りつぶされ」る。とはいえ、それは、もちろん、何らの解決であるはずがないから、むしろ、実際には、問題を「拡大」させる。それは、実際、「治療」の問題としても、ますます困難をもたらし、膨らませているのである。

その意味では、「精神医学」なる「学問」ができてしまったこと、それが「医学」の一分野として、「治療」の特権をもつものになってしまったことが、問題の大きな部分を占める。そうすることによって、「問題」はますます見えないものとされ、、近づき難いものとされ、あるいは、忌避されるものとなってしまった。 

しかし、このように、実際には、問題を糊塗し、あるいは膨らませるだけの存在が、いつまでも、のうのうと存続できるというものでもない。いずれは、そのような問題は、何らかの形で表面化せざるを得ないし、多くの者も、目をつぶることはできなくなってくる。「うつ」や「発達障害」(今や「統合失調症」もそうと言えるが)が、誰にでもあてはまる「病気」であることが、誰にも(少なくとも薄々は)感じ取られるものであることも、そのようなことを助長する。このまま、厄介事の「執病化」が押し広げられていけば、誰もが、いつ精神疾患と規定され、投薬を受けて、人格を崩壊されるか、分からない状況となる。まさに、「魔女狩り」の、止めのない拡大と同じことになるのだ。

そのような状況において、「精神科医」が、その学問の内部や専門家意識で(たとえ、でしゃばらない抑制的な意味でも)何かを語っていても、それは、本来の問題には決して届くことがない。問題の「糊塗」に、ますます資するだけである。だから、著者のように、その「病気」ということ自体が、社会の問題であることを正面から認め、そこに踏み込んで、発言していくことは貴重な一歩である。

しかし、著者も言っているいるように、特に日本では、脳科学的な知見しかもたない精神科医が育てられ、臨床的な経験や能力のない精神科医のみがのさばることになる。つまり、そのような医師は、社会的な問題に切り込むような能力は、ももともと欠いているのである。

これまでにも、さまざまな問題が取り沙汰されていたにも拘わらず、ここまで投薬の問題に気づくことなく、疑問ももつことなく(恐らく、意図的または半意図的な場合もかなりあるのだろうが)、投薬し続けるという事実には、驚くべきものがある。が、それも、要するに、そのような精神科医の、社会的感覚の欠如、無知、無能のなせる技としか言いようがない。

もはや、精神医学の内部で、何かしら問題の解決はおろか、善処を期待できるような事情にはない、と言うべきである。だから、事態を重くみて、改革を図りたい(数少ない)精神科医は、もはや内部に止まらず、社会に踏み出して、社会の問題として訴えかけて行くしかない。

但し、それは、突き詰めれば、必ず、「精神医学」そのものが不要なのではないか、という論点に行き着いてしまう可能性をはらんでいる。だからこそ、これまで多くの精神科医が、控え目で中途半端な批判をすることはあっても、そこまでは踏み込むことはできなかったのである。しかし、そのようなこと(精神医学の存続意義)も含めて、もはや全体を正面から社会に問うしか、方途はない状況のはずである。

もちろん、このことは、逆から言えば、社会自体が、この問題を「精神医学」に「丸投げ」し、自ら取り扱うことを「忌避」してきたことの問題ということである。

2013年10月15日 (火)

ニーチェと「狂気」

一般には、梅毒とされているが、ニーチェは晩年、「狂気」に陥ってしまった。そこには、脳の障害の影響もあるだろうが、確かに、「発狂」したというべき面がみてとれる。そして、そうなるのは、ニーチェの気質や思想内容から言っても、まさに「そうありなん」というところがある。

私がニーチェに興味を持ったのは、思想の面からだったが、このような「狂気」に関わる面もまた、興味を喚起した大きな理由だと思う。

ニーチェは、今でこそ、現代に影響を与える重要な哲学者の一人とされている。が、当時、文献学者として一定の業績をあげた後、自らの思想活動をしてからは、学会からは「ほされた」も同然、晩年は、誰からも相手にされなくなっていたと言っていい。そのような状況も、「狂気」に拍車をかけただろう。ニーチェは、明らかに、これまで誰もなしたことのないことをなしていると、意識していた。そして、それをなし遂げたのだと、本気で思っていた。だからこそ、誰にも理解されず、「迫害」を受けるのだった。

ニーチェは、晩年には、「十字架にかけられた者」などの署名で、人に手紙を書いたりしていた。「私が人間だというのは偏見です。私はインドでは仏陀でしたし、ギリシャではディオニソスでした。…私は十字架にかかったことがあります」などの内容の手紙もある。まさに、「狂気」である。

前回みたように、ニーチェは、あらゆる学問に見切りをつけ、自分一人で、これまでの人類の営みを塗り替える、新たな試みに向かった。「あるゆる価値の価値転換」を目指し、「超人」を目指した。それは、「虚偽への意志」を乗り越えることであり、「生」そのもの、「生きんとする意志」そのものを全面的に肯定することを意味した。というよりも、むしろ「生きんとする意志」そのものに「なる」ことだった。

この「意志」とは、「力への意志」などとも言われるが、まさに、あらゆるものの根底に働く、ときに破壊的で暴力的な、「力」そのものなのである。ニーチェは、あるとき、強烈な雷が鳴るのを聞いて、そこにこの「意志」を直感したという。これは自然の根底にも働く、無目的で、限定づけられない強烈な「力」であり、人間という「弱さ」とは無縁のものである。

この「力」は、ほとんど「神」そのものと言ってよく、あるいはむしろ、人間が人間の都合で、「善なるもの」として構築した「神」などというものを超えたものである。そのようなものを目指し、あいるは、自らをそれと同一化しようとしたのである。だから、このような試みは、「神」をも超えようとする、「不遜」な試みであり、シュタイナーでいえば、「ルシファー的」な行いそのものである。

実際にも、それは、いかにも唐突で、「現実」に根ざさない、「不可能」な試みであり、挫折することの、見え見えな行いというべきものだ。このようなものに、本気でかけようとすることは、いかにも「分裂気質」的である。それが、単なる思いつきで、「いい加減」になされるなら、まだしも、ニーチェは、著作を読んでも分かるとおり、繊細であり、自分をごまかすことはできない「愚直」な性格である。だから、そのような試みは、勢い、「成功」か、さもなくば「狂気」かというところまで突き進まざるを得ない。

そのようにして、ニーチェの試みは、やはり「失敗」に帰したと言わざるを得ない。というよりも、そもそも、その試みは、「不可能」なものだった。

ニーチェにおいても、学問その他の人間の営為を、その動機から根本的に暴くという面では、大いに「真実」を発揮したが、その克服の手立てとして、何かを「打ち立てよう」とするときには、やはり、「人間」として、ある種の「虚偽」が入り込まざるを得なかったのだともいえる

著作でも、『善悪の彼岸』や『道徳の系譜』など、「動機の心理学」で人間の営為を暴くものは、研ぎ澄まされた感覚と、鋭さで、爽快に「真実」を露わにしている。が、『ツァラトゥストラ』などの、新たな哲学の構築は、もちろん魅力に満ちてはいるが、どこか、空虚に響くものがある。

「人間」が「人間を暴く」ことは、十分達成された。しかし、「人間」が「人間を超える」ことは、まだまだ身の程知らずのことに属するのかもしれない。このような状況は、我々が、否応無く、引き受けていかなければならない状況でもある。

2013年10月 8日 (火)

「虚偽への意志」と「精神医学」

ニーチェは、100年以上前に、すべての学問は、「虚偽への意志」から生まれると見切っていた。

それは、もちろん、学問としての構築物そのものが、全くの虚偽だというのではない。「構築物」そのものは、もっともらしく、堅固な見かけをもち、それなりの体系を備えている。それは、ある世代にあるところまで進めば、次の世代がそれを引き継ぐという形で、ますます発展させることができる。

しかし、一たび、その構築物の建っている土台を見てみるならば、それは、全くの「虚偽」の上に建てられていることが判明するというのだ。

中でも、「科学」などは、槍玉に上げられている。科学は、構築物としてのもっともらしさ、堅固さは、際立っている。しかし、その分、土台の「虚偽」が、他のもの以上に、浮き彫りになるのだ。

その一例として、当時信じられていた、「原子」があらゆる存在の分割不能の最小単位である、という「虚偽」をあげている。科学的な構築物として、「原子」なるものが存在するという見かけは、確かにあるだろう。しかし、それが、「分割不能の最小単位」などというのは、要するに、我々の内部に「私」または「霊魂」という分割不能の実体があるという発想を、外界に投影したのに過ぎないという。

本来、外的な実在に、何らかの「不可分の実体」や「最小の単位」があるなどという必然性も保証もない。もちろん、人間の内部に、「私」または「霊魂」のような、分割できない不可分の実体がある保証などもない。ただ、そのような、自己の根拠としての、内的な実体が要請される限りで、それが外界に投影されて、「原子」論のようなものが出てくるに過ぎないというのだ。

これは一例に過ぎないが、要するに、「科学」という学問も、人間の営為として、人間の都合を反映した動機に、つき動かされている。そうである限り、それは、「虚偽」とならざるを得ない、ということである。このように、「動機」を暴いていくニーチェのやり方は、「動機の心理学」などとも言われる。

ニーチェは、「あらゆる」学問が、このように、「虚偽への意志」から生じているというのである。それは、「最善の学問」においても、そうであらざるを得ない。「最善の学問」とは、ニーチェ自身志していた、「哲学」のことである。哲学は、根底を論理的に疑い、とことん問い詰めていくことができる、唯一の学問である。しかし、それでも、そこには、必ず、こっそりと、ある前提が忍び込まれるといったことになる。

たとえば、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」などは、「思う」という行為には、「主体」がなければならない。この「主体」を「私」と呼ぼう。そうすると、「思う」ということから、「私はある」という結論が導き出せる。という具合に、述語には主語があるという文法の論理を、単純に三段論法の前提に忍びこませた、滑稽な論理に過ぎないとされる。

もちろん、これは、分かりやすい一例だが、要するに、どのように緻密に組み立てられた哲学も、人間の営為である限り、どこかにこのような類いの「前提」が忍び込まれて、成り立たざるを得ないということである。

ニーチェはあげていないが、科学にも、このような「前提」は多く入り込む。特に大きいものとして、科学は、その論理が成り立つ領域が、(それも理論的に構築された限りでの)「物質」という領域に限られるのに、あらゆる領域にあてはまるかのようにみなされることがある。このような「前提」も、科学の有用性を、人間の都合によって拡大する、まさに「虚偽への意志」そのものである。

このように、あらゆる学問が「虚偽への意志」から生じている。あるいは、「あまりに人間的」な動機によって、つき動かされている。そうだとしても、「精神医学」ほど、「虚偽への意志」または「動機」の見えやすい学問もないだろう。(いや、「精神医学」は「虚偽への医師」から生じているのだ、などとは言わないように(笑))

「精神医学」には、科学のようには、堅固な構築物としての見かけもないし、確からしさの基盤もない。一方、その土台である動機、意志そのものは、一般の科学などより、いかにも明白に「見え見え」のものである。要は、社会的に不都合なる者を、いかにもっともらしく、「病気」として規定し、「治療」の名の下に「管理」し、または「排除」していくかである。まさに、土台の「虚偽」が、あまりに見え見えなので、取り繕った構築物をもってしても、とても覆い隠すことができないのである。

「取り繕った」構築物とは、要するに、「科学」に引き寄せて、自らをもっともらしく装うことだが、そうすればするほど、その「虚偽」が余計に無様な顔を覗かせる。「科学」そのものが、既に「虚偽への意志」の産物なわけだが、それにひき寄せ、自らを装うことによって、精神医学は、二重に「虚偽」を重ねていることになる。

要するに、精神医学は、他の学問以上に、「必要性」にかられて生じている学問であり、人間の都合と動機そのものを反映する学問ということである。

しかし、それにしても、なぜそうなるのか。つまり、すべては「虚偽への意志」になってしまうのか。それに対して、ニーチェは、野暮な説明は一切しない。ただ、「それは生あるものであって、生を愛するからだ」とのみ述べている。

「生あるものとして、生を愛する」が故に、人間は、「虚偽への意志」によって、生きざるを得ない。いや、むしろ、「虚偽への意志」そのものでしかあり得ない。確かに、これで十分だ。これを、「結局は、人間が生きるのに都合のよいことが、<真実>として構築される」などと説明したら、野暮に過ぎるであろう。

ここで、ニーチェが、「生を愛する」とは、決して皮肉で言われているのではない。むしろ、ニーチェは、それこそが、どんな哲学も疑うことのできない、人間の最も根本の「真実」であり、あらゆる哲学は、そこから始まるべきだと考えていた。

恐らく、ニーチェは、一般の「ニヒリズム」や、ショーペンハウアーのような厭世的、「生の否定」の哲学を念頭においていたのだろう。「ニヒリズム」などと言って、すべては「無」だなど言っても、その者も、生きている以上、所詮は「生を愛している」ことに変わりはない。ショーペンハウアーのような厭世的哲学も、哲学などという営為をするのは、「生を愛している」からである。

だったら、ねじ曲げることなく、率直に、「生を愛する」ということを、全面的に肯定すること、それがニーチェのいきついた考えだった。真に、「生」そのもの、または「意志」そのものを肯定し、全面的にそこに立脚すれば、それは、「虚偽への意志」のようなねじ曲がり方はしない。それは、「生」または「意志」を受け入れることができない、「弱さ」からくる、「ルサンチマン」(怨恨)に過ぎないからである。

ただし、そうすることは、これまでの人間の営為を覆す、途方もないことである。それは、「あらゆる価値の価値転換」を意味する。そうすることは、もはや、「人間」ではなく、「超人」になることを意味するのである。「虚偽への意志」は、「生あるもの」としての「人間」にとって、本質的なもので、克服できないが、「人間」を超えて、初めて克服できるということである。

このように、ニーチェは、「人間」が「真理」に到達するなどということの「幻想性」を深く見抜いていた。

それにしても、「精神医学」ほど「見えやすい」「虚偽」もまた、「生あるもの」としての人間にとっては、やはり克服できない代物というべきなのだろうか。あるいは、「精神医学」こそが、あるゆる学問その他の人間の営為を、「虚偽」として見抜いていくことの、一つの突破口となり得るのだろうか。

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