ニーチェは、100年以上前に、すべての学問は、「虚偽への意志」から生まれると見切っていた。
それは、もちろん、学問としての構築物そのものが、全くの虚偽だというのではない。「構築物」そのものは、もっともらしく、堅固な見かけをもち、それなりの体系を備えている。それは、ある世代にあるところまで進めば、次の世代がそれを引き継ぐという形で、ますます発展させることができる。
しかし、一たび、その構築物の建っている土台を見てみるならば、それは、全くの「虚偽」の上に建てられていることが判明するというのだ。
中でも、「科学」などは、槍玉に上げられている。科学は、構築物としてのもっともらしさ、堅固さは、際立っている。しかし、その分、土台の「虚偽」が、他のもの以上に、浮き彫りになるのだ。
その一例として、当時信じられていた、「原子」があらゆる存在の分割不能の最小単位である、という「虚偽」をあげている。科学的な構築物として、「原子」なるものが存在するという見かけは、確かにあるだろう。しかし、それが、「分割不能の最小単位」などというのは、要するに、我々の内部に「私」または「霊魂」という分割不能の実体があるという発想を、外界に投影したのに過ぎないという。
本来、外的な実在に、何らかの「不可分の実体」や「最小の単位」があるなどという必然性も保証もない。もちろん、人間の内部に、「私」または「霊魂」のような、分割できない不可分の実体がある保証などもない。ただ、そのような、自己の根拠としての、内的な実体が要請される限りで、それが外界に投影されて、「原子」論のようなものが出てくるに過ぎないというのだ。
これは一例に過ぎないが、要するに、「科学」という学問も、人間の営為として、人間の都合を反映した動機に、つき動かされている。そうである限り、それは、「虚偽」とならざるを得ない、ということである。このように、「動機」を暴いていくニーチェのやり方は、「動機の心理学」などとも言われる。
ニーチェは、「あらゆる」学問が、このように、「虚偽への意志」から生じているというのである。それは、「最善の学問」においても、そうであらざるを得ない。「最善の学問」とは、ニーチェ自身志していた、「哲学」のことである。哲学は、根底を論理的に疑い、とことん問い詰めていくことができる、唯一の学問である。しかし、それでも、そこには、必ず、こっそりと、ある前提が忍び込まれるといったことになる。
たとえば、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」などは、「思う」という行為には、「主体」がなければならない。この「主体」を「私」と呼ぼう。そうすると、「思う」ということから、「私はある」という結論が導き出せる。という具合に、述語には主語があるという文法の論理を、単純に三段論法の前提に忍びこませた、滑稽な論理に過ぎないとされる。
もちろん、これは、分かりやすい一例だが、要するに、どのように緻密に組み立てられた哲学も、人間の営為である限り、どこかにこのような類いの「前提」が忍び込まれて、成り立たざるを得ないということである。
ニーチェはあげていないが、科学にも、このような「前提」は多く入り込む。特に大きいものとして、科学は、その論理が成り立つ領域が、(それも理論的に構築された限りでの)「物質」という領域に限られるのに、あらゆる領域にあてはまるかのようにみなされることがある。このような「前提」も、科学の有用性を、人間の都合によって拡大する、まさに「虚偽への意志」そのものである。
このように、あらゆる学問が「虚偽への意志」から生じている。あるいは、「あまりに人間的」な動機によって、つき動かされている。そうだとしても、「精神医学」ほど、「虚偽への意志」または「動機」の見えやすい学問もないだろう。(いや、「精神医学」は「虚偽への医師」から生じているのだ、などとは言わないように(笑))
「精神医学」には、科学のようには、堅固な構築物としての見かけもないし、確からしさの基盤もない。一方、その土台である動機、意志そのものは、一般の科学などより、いかにも明白に「見え見え」のものである。要は、社会的に不都合なる者を、いかにもっともらしく、「病気」として規定し、「治療」の名の下に「管理」し、または「排除」していくかである。まさに、土台の「虚偽」が、あまりに見え見えなので、取り繕った構築物をもってしても、とても覆い隠すことができないのである。
「取り繕った」構築物とは、要するに、「科学」に引き寄せて、自らをもっともらしく装うことだが、そうすればするほど、その「虚偽」が余計に無様な顔を覗かせる。「科学」そのものが、既に「虚偽への意志」の産物なわけだが、それにひき寄せ、自らを装うことによって、精神医学は、二重に「虚偽」を重ねていることになる。
要するに、精神医学は、他の学問以上に、「必要性」にかられて生じている学問であり、人間の都合と動機そのものを反映する学問ということである。
しかし、それにしても、なぜそうなるのか。つまり、すべては「虚偽への意志」になってしまうのか。それに対して、ニーチェは、野暮な説明は一切しない。ただ、「それは生あるものであって、生を愛するからだ」とのみ述べている。
「生あるものとして、生を愛する」が故に、人間は、「虚偽への意志」によって、生きざるを得ない。いや、むしろ、「虚偽への意志」そのものでしかあり得ない。確かに、これで十分だ。これを、「結局は、人間が生きるのに都合のよいことが、<真実>として構築される」などと説明したら、野暮に過ぎるであろう。
ここで、ニーチェが、「生を愛する」とは、決して皮肉で言われているのではない。むしろ、ニーチェは、それこそが、どんな哲学も疑うことのできない、人間の最も根本の「真実」であり、あらゆる哲学は、そこから始まるべきだと考えていた。
恐らく、ニーチェは、一般の「ニヒリズム」や、ショーペンハウアーのような厭世的、「生の否定」の哲学を念頭においていたのだろう。「ニヒリズム」などと言って、すべては「無」だなど言っても、その者も、生きている以上、所詮は「生を愛している」ことに変わりはない。ショーペンハウアーのような厭世的哲学も、哲学などという営為をするのは、「生を愛している」からである。
だったら、ねじ曲げることなく、率直に、「生を愛する」ということを、全面的に肯定すること、それがニーチェのいきついた考えだった。真に、「生」そのもの、または「意志」そのものを肯定し、全面的にそこに立脚すれば、それは、「虚偽への意志」のようなねじ曲がり方はしない。それは、「生」または「意志」を受け入れることができない、「弱さ」からくる、「ルサンチマン」(怨恨)に過ぎないからである。
ただし、そうすることは、これまでの人間の営為を覆す、途方もないことである。それは、「あらゆる価値の価値転換」を意味する。そうすることは、もはや、「人間」ではなく、「超人」になることを意味するのである。「虚偽への意志」は、「生あるもの」としての「人間」にとって、本質的なもので、克服できないが、「人間」を超えて、初めて克服できるということである。
このように、ニーチェは、「人間」が「真理」に到達するなどということの「幻想性」を深く見抜いていた。
それにしても、「精神医学」ほど「見えやすい」「虚偽」もまた、「生あるもの」としての人間にとっては、やはり克服できない代物というべきなのだろうか。あるいは、「精神医学」こそが、あるゆる学問その他の人間の営為を、「虚偽」として見抜いていくことの、一つの突破口となり得るのだろうか。
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