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2013年9月30日 (月)

「狐に化かされる」こと/一時的な「幻覚」「妄想」状態

前の日記でも書いたことだが、かつての日本で、あったはずのものがなくなったり、ないはずのものを見たりしたときに、「狐に化かされる」という捉え方がよくされた。つまり、非日常的な「幻覚」「妄想」状態に捕らえられたときに、あれは「狐に化かされた」のだということで、納得し、それ以上それに捕われないで済むことができていた。これは、なかなかの「知恵」だったというべきである。

「狐」とは、文字通り動物の狐というよりは、さまざまな「精霊」的な存在を「狐」に代表させて呼んでいたのだろう。これは、決して、狐の「せい」にしたということではなく、狐の能力または知恵に敬意を払ってのもので、別に狐が「悪者」にされているわけでもない。本人も、それ以上そのことに捕らわれないで、その状態を引きずらないで済むことができる。

もっとも、そのような「幻覚」「妄想」状態も、一時的なものではなく、継続して起こるものとなると、さすがに、「狐に化かされる」では済まされなかっただろう。そのような場合には、「悪霊」や「動物的な霊」または「神」に、「憑かれる」ということになるし、それなりの対処が必要になる。実際、多くの者によって、そのように解された。

現代においても、このような一時的な「幻覚」「妄想」状態というのは、よくあることと思われる。特に、思春期の頃は、それまでの自我も不安定になり、何かしら、「幻覚」「妄想」状態に捕らえられるということは、起こり得ることである。そのようなときに、精神科にでもかかったり、連れて行かれたりしたときには、その状態は、「統合失調症」などと診断され、投薬もなされ、本当に、継続して治らない「統合失調症」に仕立てられる可能性がある。本来、一時的な現象であったにも拘わらずである。

前回みたように、現在では、「統合失調症」という診断をすることの敷居は、相当下がっていると思われるので、そのような傾向は、余計に高まる。

そのようなときに、かつての日本人がしたような、「狐に化かされる」という捉え方に相当する、何らかの「納得」の方法を持っていることは、大きく資するはずである。現代では、「狐」そのものという捉え方は難しいかもしれないが、まあ、捕食者的な「精霊」でもいいし、「妖精」やいたずら好きの「宇宙人」でもいい。そういった、人間以外の存在に、一時的な「幻覚」「妄想」状態に陥らされることは、いくらでもあり得るという理解が必要である。

あるいは、思春期の頃でいうと、それは、一種の「イニシエーション」(通過儀礼)的な出来事という理解もできる。実際、「未開社会」などでも、成人儀礼が行われるのは、この思春期の頃が多く、それは、実際に、その時期に、自我が揺らいで、一時的にでも、「霊界の境域」に侵入しやすくなっているからである。儀式は、そのような状況を利用して、大人としての新たな生を始める前に、実際に、「霊界の境域」を体験し、「死の体験」ともいえるものを一時的にさせるものである。

だが、現代でも、自我の揺らぐ、思春期の頃には、そのような儀式がなくとも、いわば自然の過程として、「霊界の境域」に一時的に侵入し、「幻覚」「妄想」状態に陥るという可能性は、十分あるのである。

だから、思春期の頃には、そのような「自然の」「イニシエーション」的な出来事も起こりやすいという理解も必要となる。そのうえで、「狐に化かされる」のと同様、あまりそれに捕らわれずに、通り越すべき自然の過程なのだとして、受け止めることが必要となる。

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文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

ティエムさま こんばんは

思春期の頃に関した記事をお書きになるとあったので楽しみにしておりました
一体どのくらいの人がこういった体験をしているのだろうと時々思うことがあります
捉われず 通り過ぎていく人
幾度も幾度も繰り返しそこへ引き戻される人
たった一度であっても捉われたが故 自ら堕ちていく人
わたしの場合 幾度となくあったそれはお腹の中に息子が入ってからさらに力を増し
産み落としてからも続き でも捉われることはありませんでした
たった一粒の安定剤から保たれたバランスを大きく崩していったように思うのです
自然の中で起こる摩訶不思議は自然に触れ自然の中で治癒していく
後になって そうであったのにと理解しました
費やした10年は長く 同じような体験をし始めている息子を見ていると
そこを通りすぎた自分が同じ場に存在しているのかいささか疑問になったりします(笑)
こういった話を自分以外の人と話せる日がくるとは思ってもいなかったことでした
冷静に客観的に 適切に言語化される能力にはいつも驚きます
ティエムさまは まだ狐に化かされることはあるのでしょうか?

千里さんありがとうございます。

思春期の頃の話、誰もが体験し得る、一時的な「幻覚」や「妄想」の話として取り上げましたが、人によっては、もっと広くまた深いさまざまな体験があると思います。

私の場合は、「捕食者」との初めの強烈な出会いが、「金縛り」という形でしたが、思春期の頃でした。

「自然の中で起こる摩訶不思議は自然に触れ自然の中で治癒していく」
まさに、そういうことですね。「社会の中で起こる摩訶不思議」もあるでしょうが、それもまた、「社会の中で癒される」しかなく、どちらにしても、薬で癒されるなどということはないはずですね。

私は、最近もたまにですが、「狐に化かされる」ことがあります。ちょっとやちょっとでは、「物理」的「現実」のレベルの出来事なのか、「霊的」または「異次元」的なレベルでの出来事なのか区別がつきにくいこともあります。まさに、「狐につままれる」ということになりますが、慣れたこともあり、とらわれることはありません。

ティエム様長文すみません。

十数年まえ都会から田舎に引越が決まった時、近所のおばちゃんから真顔で「お宮さん、ご近所さん、あと狐にもちゃんとご挨拶してね!」と言われました。

おばちゃんは静岡ご出身で、子供のころ「茶畑の真ん中を、『オット、ひゃーオットット』と裾をまくっておっかなそうに歩く人」を見たそうです。

それを大人達が「あれは狐に化かされて、畑を川と思わされて、ああやって一時間も歩いてるんだ。」と言ってニヤニヤ見守って。(すごい余裕)

「キツネに挨拶…どうすれば?」

「ひまな時に、引越先の畦道や空き地を歩きながら、小さく割ったお煎餅やあられを、素知らぬ顔してその辺にポンポンまいて、小さい声で『引越しましたのでよろしく』と言えば大丈夫。」

「あと、『よろしくお願いします』は言ってはいけないのよ。『オレ達お願いされたし、じゃあ何かやるか〜』と狐が関わってきたら良いことにならないから、くれぐれも用心してね。

怖がる必要はないけれど、先に住んでいる者への礼儀を尽くしておけば悪さしないからね」

「有難うおばちゃん!…ところでタヌキとかは?」「タヌキは、何も無ければ特にかまわなくていいんじゃない?あたしも聞いたことないし」

そして夏引越‥‥‥忙しさについつい挨拶を先延ばしにしていた私は、引越三ヶ月め、とうとう「家族ごと化かされかけて」しまいました。

(秋の夕暮れ、国道沿い人気のないバス停に、美人が二人直立不動で立っていました、不自然なくらいに笑顔で、パッチリ目を見開いて、こちらが近づいた時、二人同時にパクパクッと口を合わせて「#&*@¢」単語をしゃべったのです)

下腹に力をいれ、子供みなに、後ろ見ちゃだめ!前だけ見て歩きなさい歩きなさいそれそれ!と日暮れの田舎道を(賑やかに騒がせながら)逃げ帰ったのでありました。

もやのかかった様な異様な雰囲気、しかし何かしら美人二人の態度には、どこかこちらを慮る雰囲気がありました。恐らく子連れであったためと思われます。私一人だったらどうなっていたか(汗)

翌日、徳用割れ煎餅大袋を買ってきて、ちぎっちゃ撒き撒き歩いたのは言うまでもありません。半袋撒いて、残り半袋を子供達とおやつしながら「狐話一部始終」しました。(それはお母さんがわるい!と叱られた)

さらにそれから二日後の真夜中、家の前に来て「コォーーンーーーコォーーンーーー」と何度も大声で鳴いてくれました。初めて狐の鳴き声を聞きましたが、すぐわかりました、お礼を言いに来たんだと。

狐の鳴き声を聞いたのはあれ一度きりでした。

(後に男の子二人が中学生になりやはり夕暮れに、同じ国道沿いの鬱蒼とした崖から、音質明瞭で言語不明な(わざと日本語に似せたような声色の)女性の美声が響いて来たそうです。あれ?と聞いてると、次第に誘うように近づいてきたので、総毛立って二人全速力で逃げたそうです)

不可視の世界があるのが常識の環境で育ったおかげで、彼らもようやく思春期〜青年期己の内のつらい時期を乗り越えつつあります。

幻覚、異常、病気といわれ悩む世の子供達に伝えたい。病気じゃないよ!そういう不思議なことも世の中には本当にあるんだよ‥‥‥

埋もれさせてはならない言い伝えは身近にふんだんにあり、子供達は真剣に聴き入り感受します。語り継いでいきたいです。

「注文の多い料理店」の変性意識についてもありますが、次の機会に。

何かのご参考になれば幸いです。長々失礼しました。

みるくゆがふさん貴重なお話ありがとうございます。まさに、今に生きる「日本昔ばなし」の現代版という感じですね。

狐が美人の2人組に化けて出て会った話も、羨まし…いや凄いですが、

「ひまな時に、引越先の畦道や空き地を歩きながら、小さく割ったお煎餅やあられを、素知らぬ顔してその辺にポンポンまいて、小さい声で『引越しましたのでよろしく』と言えば大丈夫。」

「あと、『よろしくお願いします』は言ってはいけないのよ。『オレ達お願いされたし、じゃあ何かやるか?』と狐が関わってきたら良いことにならないから、くれぐれも用心してね。」

という、近所のおばちゃんの「知恵」には、特に感心させられました。狐との距離のとり方が絶妙ですね。神社などで、稲荷その他の自然霊に願をかけておいて、あとを放っておいたために、自然霊の怒りを買って、祟りを受けるという話をよく聞きます。そういうこと(安易に自然霊に近づき、願をかけたりすること)も、自然霊が、人間に対して敵対的になる理由の一つとなっているようです。

私も、神社などでは、敬意を表して参拝はしますが、願をかけることはしません。

このような「知恵」が、今現在もまだ受け継がれているとしたら、それは凄いことだと思います。ただ、マンガ版「日本昔ばなし」も、まさに、子どもたちにこそ、新鮮な刺激と、どこか「真実味」をもって受け入れられたと思いますが、このような話も、現在では、むしろ、子供の方が敏感に「真実味」を感じ取って受け入れたりするのかもしれないですね。

私も、この話に関連して、河合隼雄の昔ばなしについての興味深い研究を思い出したので、いずれ記事にしたいと思います。

おはようございます。
たまたまこちらのブログを紹介している他の方のブログから来ました。

迷信はただの昔話だと思って、狂気や精神疾患を受け入れているのではありません。
その話をしたおばさんの出身地の静岡では精神医療被害が破滅的にひどすぎます。
そうしたひどい精神医療を良くしようとする精神科医が激変しています。
静岡の実際は、「あの人精神病だから、相手にしない方がいいよ」それを狐が憑いているから相手にするなと喩えて
逃げているだけです。
言葉通りに受け取ってはならない、非常に危機感を感じる実態が残っていると、話を読みまして強く考えさせられました。
東京でも、郊外ではまだまだ同じ状況があります。
狐話が迷信として社会に受け入れられていると解釈するのは間違っています。
あまりにも根深い社会問題です。

仰る通り、狐その他の、民間伝承が受け伝えられることが、即座に精神医療の問題をよくすることにつながるものではありません。また、そのような民間伝承にしても民間治療にしても、今は「精神病」と考えられている状態にある人を、残酷に突き放す(ときに差別する)面があることも事実でしょう。それは、西洋でも「魔女狩り」などとして現れ、近代に移行する前の時期に酷かったようですが、日本でも、江戸の後半期から近代にかけて、「犬神憑き」などの差別がありました。今も、そのような面を強く受け継いでいる地方は、相当あることと思います。(私は、ブログの他の記事でも、これらのことを何度もとり上げています。)

人間が、異質なもの、理解しがたいものへの恐怖をもつ限り、昔であろうと、現在であろうと、このような問題がなくなることはないでしょう。確かに根の深い問題です。

しかし、民間伝承や民間治療にそのような否定的な面しか認めず、迷信として捨て去るのも、あまりに一方的で視野狭窄な見方と思います。実際、現在の精神医療の問題は、物質的なものしか顧みないことに発している面が多いはずです。そこで、民間伝承や民間治療のような伝統に、精神的、霊的な意味で、それなりの意義(知恵)かあったことを顧みること自体は、必要なことと思っています。

さっそくお返事をいただきまして、ありがとうございます。
西洋の魔女狩りは有名ですね。
「犬神憑き」については、あの森田正馬先生が憑きものの精神病学ということで、神経症治療に役立てたという話を読んだことがあります。
森田療法を考案する時に、民間治療の方法や考え方を上手に取り入れたということです。
良い方へ柔軟性を持って寛容に受け入れられるといいですね。
特にアメリカのDSM分類にはいいかげんにやめてほしいと思いますので。
DSM分類批判は、薬学部出身で医学部の先生をしている薬理学の井上先生がエキサイトでブログを開いていた記憶があります。

はるか様、大切なコメントを読ませていただきました。有難うございます。

先日のコメントを書く時私は「道理から外れた『霊媒思想』を肯定する、と受けとめられる」危険性に最も気を遣いながら体験を文章化しておりました。

しかし文章力至らず、却って有害な情報になり恐ろしい事態を招きかねなかった、と反省致しました。

様々な学び方があるなか、ティエム様のブログは私にとっては「不可視の世界を、地に足をつけて過不足なく学び、現実世界を生きる上で大切な道理を考える」そのような場所です。

近年とくに「静岡県」の精神医療は、「富士モデル=不治も出る」などむごい状況と伺っております。

私自身も身内も後遺症は残存しています、つくづく精神医療の恐ろしさを知りました。

文中の「静岡出身のおばちゃん」について、特定事項を避けつつ、補足させてくださいませ。

十数年前、引越のアドバイス当時、おばちゃんは60歳代でした。現在は80歳をとうに越えておられます。2年ほど前に久しぶりに電話で楽しくお話をしました。

おばちゃんは若い頃静岡からかなり遠方のの小規模都市に嫁ぎ、体調不良から頭痛薬を使用したのが次第に裏目に出て副作用に悩まされ、長年非常にご苦労されました。

日本古神道系の信仰に入られ健康を回復、以来西洋医療を控え医食同源や自然農法を学ばれて健康を取り戻されました。

霊能者でも健康増進に関連する職業従事者でもなく普通の主婦で、人情と気概を持ったおばちゃんです。世話ずきで悩んでる人の話を聞いたり、若いお母様方に子育てで声かけたりしてくれました。

耳を傾けるお母様もおられれば、ちょっと小うるさいと敬遠する方もおられました(笑)

年齢を逆算して頂ければご理解頂けるかと思います、おばちゃんの幼少期は戦前で、この20数年の精神医療には関わりはありません。

(おばちゃんが5、6歳の頃に見たという)茶畑を狐に化かされて歩く人、「一時間もああして歩いている」と余裕で見ている大人、この意味は、(おばちゃんの説明をかいつまんで書きます)

化かされた人が必死で茶畑を歩いてるうちは、いくら説得したってとめようたって、誰にも止められない。(体験的に大人は知っている)遅かれ早かれそのうち、くたびれて動けなくなる。それからみなで連れて帰ろう。

それだから、大人たち(智恵ある大人たち)ニヤニヤしながら、しかし離れずちゃんと見守っていた。という内容です。

大人たちは、彼が化かされてしまった理由も大だたい察しているでしょう。勿論一方的な悪行はいけませんが、この悪さをする狐にも言い分がある、何がしかの道理があることも、雰囲気で分かっているようです。

祠を粗末に扱う、住みかの林を断りなく畑にされるなど、あちらから見れば、腹立たしい場合もあるかも知れません。その辺りの間合いはかなり絶妙で、とても文では表せません。

(狐なんてただの動物だから有り得ない、と言われれば身も蓋も無いハナシです…)

化かされて、大変して、回復した人、ポカンとした人、日本中にたくさんいると思います。

(見事に化かされた人は、化かしが終わった途端に、夢から覚めたようにキョトンとしているものだそうです。)

絵本で読んだおはなし‥夜な夜な畑を荒らす狐の噂を聞いて、力自慢のお侍がやって来ました、

夜中に畑で待ち伏せし‥出た!!

格闘し追いかけ、とうとう穴掘って逃げるヤツを地面から引きずり出して、捕まえ退治した!

夜が明けました。お侍さん意気揚々と獲物を肩に引っ提げて、村に入っていき大声で言いました。

「どうだ見ろ!こんなデカイ狐を退治したぞ!ワッハッハ!!!」


「お侍さん

そりゃ大根だ」


どこの世界にも、ものの道理に近い行動をとる大人もいれば、あまりにも道理から外れる行動をとる大人もいると思います。私は決して、田舎だけが良い、田舎で伝えられるものだけが正しいとは思いません。都会には都会の良さがあります。

道理に沿った智恵が伝承されている地域(コミュニティー)もあれば、道理から外れた地域もあると考えます。世界じゅう、色々あると思います。

道理に合うもの沿うものを掬い上げる、道理から外れているものに気をつける、生活(信仰や習慣も含め)や学習で身につけていく、そういう、感じです。

おばけーっ!「となりのトトロ」でおばあちゃんのことば…

ほう、ススワタリが出たなあ。今頃引越しの相談でもぶっているのかなあ?

DSMにかかると、登場人物ほとんど要診察ものになります。

地上からDSMはなくなるでしょう。

陰湿な風習や信仰について…現在でもたまに、「憑き物を落とすと称して、複数で殴る蹴るの暴力を振るう」等の傷害事件がニュースで報じられることがあります。
40年も昔ですが、オカルトや超能力がブームになり、テレビ番組で隠しカメラ取材映像「怪しい村の風習(詳細は不明ですが)」が放映され、霊媒信仰的な陰湿さに恐怖を感じました。

多種多様な霊的対応、信仰、から暴力的な「憑き物落とし」に至るまで、各々霊性としての正邪はさておき、一応効果性があるから、(表沙汰にしたくない、精神病院にだけは、

「どうか、精神病院にだけは!」、入れないで治してあげたい、などの理由もあるかも知れません)

密かに行われている面はあると思われます。

何かしら「霊」が存在し憑いていると仮定する場合、痛みなど本人が強いショックを受け、本人に憑いていた霊が驚いて、あわてて憑依をやめ抜けた…=本人が静かになった、

これを「治った、効果あり」としている可能性があります。そのまま良くなればいいですが、聞いただけ話なので具体的にはわかりませんが、根本問題が解決に向かわなければ、二度、三度と憑依されることもあるそうです。

(…精神医療の「電気ショック」に、似ていませんか?再燃にも、似ている感じがします。)

(顕著な暴力性、無思考無責任、対話なし、霊性や人間性の執拗な否定、雰囲気の陰湿さ、思想的向上の無さ‥‥似ているような……)

私は精神科通院経験があります。急性期の部屋に家族に連れられ歩いて入院した方が、家族と別れ保護室に案内された直後に、

不意打ちにいきなり大勢で抑えつけられ、叫ぶ[これでは誰だって叫ぶと思います]有無を言わさず拘束点滴される実態を目の当たりにしました、必要だから拘束します云々と医師に言われ、家族は泣いておられました。

(後にご家族は「精神科は今日も、やりたい放題」を紹介され減断薬に成功、本人は完全社会復帰しました。自分が内から操られてしまう苦しさも、保護室の出来事も、鮮明に覚えているそうです。この貴重なご経験から私も学びました)

(読んで記憶が蘇るなど、つらい思いをなさった方、申し訳ありません。私もつらい記憶があり、自分の無知と不明故に責任を感じ、これを書いています)

更に薬物、薬物…20年30年薬浸けの人が病棟の奥にいる実態、あまりの実態をいくつも見ました。

玄関をいくら近代的にしても、おどろしい内実が奥へと続く現代の一般的精神医療には期待していません)

私の見知った経験では、入院した本人一名に5、6人が対応しなければ抑制拘束は不可能な方もおられましたした。

さまざまな精神医療関連資料、体験談の中では、元学生バイト経験者さんがこう書いていました。「猛禽の眼の新入院患者が反抗的で、9人掛かりだった…彼は慕う親分の面会に号泣し、一転して薬物治療に従順になった。…やがて猛禽の眼は、死んだ眼になって廊下を往復するようになった…」

(男性看護師曰く「急性期の患者さんは、普通のチカラじゃあないよ」)この言葉に私は、

「憑依霊が出す力は霊的なものだから、とり憑かれた人が形相変えて大の男に次々殴り掛かるんだ、5人がかりでも中々抑えられない」と、おばちゃんが信仰している古神道の指導的立場の方が語ったのを思い出します。私はここでも多くのことを学びましたが、ここでは割愛します。

(おばちゃんからおすすめ頂いた本、「霊性に目覚める若者たち」(ハート出版)に、若者の霊的目覚めの可能性、匿名信仰団体で憑依霊と向き合い問題解決を図った実例が報告されており、ご参考になる内容があるかもと存じます。

執筆は狩俣恵常氏、宮崎大学教授です。文中で精神医療に否定的な見解を数行示しておられました。

狩俣教授は奇しくも、私の祖母と同郷の、宮古島のご出身です)

すみません、長くなってしまいました。

「民間治療、民間伝承のような伝統に、それなりの意義(知恵)があったことを顧みること自体は、必要なことと思っています。」
ティエム様のコメント文に賛同させていただきます。幼い眼で妖精やトトロを感じ神様や御先祖様を大切に思う子供大切達の眼を、心霊スポットで騒いだり怪しいドラッグに惹かれたりさせて曇らせるわけにはいかない。伝承の宝石を拾い上げます。そしてのりとを唱えます。DSMはなくなるなくなるなくなるかならずなくなるーーー。

道理に沿った智恵が伝承されている地域(コミュニティー)もあれば、道理から外れた地域もあると考えます。世界じゅう、色々あると思います。

道理に合うもの沿うものを掬い上げる、道理から外れているものに気をつける、生活(信仰や習慣も含め)や学習で身につけていく、そういう、感じです。

おばけーっ!「となりのトトロ」でおばあちゃんのことば…

ほう、ススワタリが出たなあ。今頃引越しの相談でもぶっているのかなあ?

DSMにかかると、登場人物ほとんど要診察ものになります。

地上からDSMはなくなるでしょう。

陰湿な風習や信仰について…現在でもたまに、「憑き物を落とすと称して、複数で殴る蹴るの暴力を振るう」等の傷害事件がニュースで報じられることがあります。
40年も昔ですが、オカルトや超能力がブームになり、テレビ番組で隠しカメラ取材映像「怪しい村の風習(詳細は不明ですが)」が放映され、霊媒信仰的な陰湿さに恐怖を感じました。

多種多様な霊的対応、信仰、から暴力的な「憑き物落とし」に至るまで、各々霊性としての正邪はさておき、一応効果性があるから、(表沙汰にしたくない、精神病院にだけは、

「どうか、精神病院にだけは!」、入れないで治してあげたい、などの理由もあるかも知れません)

密かに行われている面はあると思われます。

何かしら「霊」が存在し憑いていると仮定する場合、痛みなど本人が強いショックを受け、本人に憑いていた霊が驚いて、あわてて憑依をやめ抜けた…=本人が静かになった、

これを「治った、効果あり」としている可能性があります。そのまま良くなればいいですが、聞いただけ話なので具体的にはわかりませんが、根本問題が解決に向かわなければ、二度、三度と憑依されることもあるそうです。

(…精神医療の「電気ショック」に、似ていませんか?再燃にも、似ている感じがします。)

(顕著な暴力性、無思考無責任、対話なし、霊性や人間性の執拗な否定、雰囲気の陰湿さ、思想的向上の無さ‥‥似ているような……)

私は精神科通院経験があります。急性期の部屋に家族に連れられ歩いて入院した方が、家族と別れ保護室に案内された直後に、

不意打ちにいきなり大勢で抑えつけられ、叫ぶ[これでは誰だって叫ぶと思います]有無を言わさず拘束点滴される実態を目の当たりにしました、必要だから拘束します云々と医師に言われ、家族は泣いておられました。

(後にご家族は「精神科は今日も、やりたい放題」を紹介され減断薬に成功、本人は完全社会復帰しました。自分が内から操られてしまう苦しさも、保護室の出来事も、鮮明に覚えているそうです。この貴重なご経験から私も学びました)

(読んで記憶が蘇るなど、つらい思いをなさった方、申し訳ありません。私もつらい記憶があり、自分の無知と不明故に責任を感じ、これを書いています)

更に薬物、薬物…20年30年薬浸けの人が病棟の奥にいる実態、あまりの実態をいくつも見ました。

玄関をいくら近代的にしても、おどろしい内実が奥へと続く現代の一般的精神医療には期待していません)

私の見知った経験では、入院した本人一名に5、6人が対応しなければ抑制拘束は不可能な方もおられましたした。

さまざまな精神医療関連資料、体験談の中では、元学生バイト経験者さんがこう書いていました。「猛禽の眼の新入院患者が反抗的で、9人掛かりだった…彼は慕う親分の面会に号泣し、一転して薬物治療に従順になった。…やがて猛禽の眼は、死んだ眼になって廊下を往復するようになった…」

(男性看護師曰く「急性期の患者さんは、普通のチカラじゃあないよ」)この言葉に私は、

「憑依霊が出す力は霊的なものだから、とり憑かれた人が形相変えて大の男に次々殴り掛かるんだ、5人がかりでも中々抑えられない」と、おばちゃんが信仰している古神道の指導的立場の方が語ったのを思い出します。私はここでも多くのことを学びましたが、ここでは割愛します。

(おばちゃんからおすすめ頂いた本、「霊性に目覚める若者たち」(ハート出版)に、若者の霊的目覚めの可能性、匿名信仰団体で憑依霊と向き合い問題解決を図った実例が報告されており、ご参考になる内容があるかもと存じます。

執筆は狩俣恵常氏、宮崎大学教授です。文中で精神医療に否定的な見解を数行示しておられました。

狩俣教授は奇しくも、私の祖母と同郷の、宮古島のご出身です)

すみません、長くなってしまいました。

「民間治療、民間伝承のような伝統に、それなりの意義(知恵)があったことを顧みること自体は、必要なことと思っています。」
ティエム様のコメント文に賛同させていただきます。幼い眼で妖精やトトロを感じ神様や御先祖様を大切に思う子供大切達の眼を、心霊スポットで騒いだり怪しいドラッグに惹かれたりさせて曇らせるわけにはいかない。伝承の宝石を拾い上げます。そしてのりとを唱えます。DSMはなくなるなくなるなくなるかならずなくなるーーー。

みるくゆがふ様、貴重な話をいただき、ありがとうございます。
そのおばあさまは古神道の信仰で食事療法や運動療法で良くなられたのですね。あとは、否定的に考えずに、「こういうこともある」と受容される環境の人々の中で、おばあさまも器が広くなられた。
憑依霊の存在については、わたしは一概に全面否定はしませんので(生きている人間の想念の恐ろしさや集団心理の恐ろしさを身をもって知っていますので。医療関係者でさえ、集団心理における圧力を国家免許を持っていることで悪用して医療現場で正当化している傾向があります)、ひとまず置いておいて、時々見かける祠をむやみやたらと扱うのには懸念を感じます。実際に土木建築関連の仕事をしている人にとっては、例え担当する人が大学工学部卒であっても、ていねいに扱います。いわく付きの土地だという目安だからです。神主さんを呼べない場合は、近くの大きな神社のお札とお酒とお菓子を供えて、簡単なお願いをしてから土木建築関係の現場を行うという話は聴きます。ですから、そのあたりについては、だいたいわかりますから、偏見ではみませんので心配しないで下さい。
しかし、人間は「火事場の馬鹿力」といわれるように、究極に追い込まれると本来考えられている以上の力が出ます。動物的な防衛力ですね。それを「気が狂った」とか「憑依霊がついている」というのは、非科学的だと思います。みるくゆがふさんが話していたように、集団で叩いて押さえつけるという、集団での狂気が正当化されます。これは宗教団体や地域の集団にしても、医療機関にしても考え方は同じです。医療機関の場合は、国家免許があるから堂々と医療の名の下に行うことが正当化されているのであり、問題は同じです。恐怖心で「火事場の馬鹿力」が出るのは当然のことであり、それを病気にしてはいけません。ティエムさんが何回か仰っているような、寛容な対応、これこそ、実は精神医療において最大に重視すべき視点だと考えています。

古神道で重要視されている、医食同源や運動療法や、ものごとをありのままに受け取りあれかこれかと結論づけないという(ただし、憑依霊という考え方は除きます。穢れの問題など、集団やコミュニティにおける人権差別問題と結びつけられていますので、ここでは否定します)民間の知恵は、東京帝国大学医学部出身で、その後、東京慈恵会医科大学の教授になられたものの、東京帝国大学ではなかなか博士号が取れず、しかも理解を示してくれたのが、九州帝国大学の教授の先生だったという、大変な思いをしながら我が身をもって実践をしてきた、森田療法の産みの親である、森田正馬先生関連の本を読みながら、できることを実践しています。森田療法自体、かなり酷なことも要求されますので、そこまで厳密にしなくてもいいのではないかと、弟子の先生達や孫弟子の先生達の間では解釈と応用力が異なります。森田療法関係の本を読みますと、DSM分類は参考的なものとして位置づけた方がよいと受け止められます。応用範囲が広い療法ですし、「ものごとにとらわれず、これが良い、それ以外はすべて悪い」という二元論で考えてはならない、とにかく「体調が悪い時は悪い時の自分自身をよく観察するように」という、医師も腹を据えて治療をしなければなりませんが、体調を崩した人(いわゆる患者さん)も自己治療を勧める、症状や状況には寛容であって、腹も据えなければならないという、西洋医学や中国医学とも違う、実生活に根ざした独特な療法だと思います。
東京慈恵会医科大学関係の精神科医の先生は総じて森田療法を学びますので、寛容なのですが、医師の数が少ないですね。森田療法に関心を持つ人自体は少なくないのです。
ものごとを二元論で扱う、DSM診断とそれに基づく精神神経科の治療がすさまじい地域では医師や看護師の考え方が短絡的でひどいと感じていますが、静岡では不治の病扱いにされていますか。そういう地域や自治体は日本国内でも少なくないと思います。東京大学経済学部から東京大学医学部へ学士入学した(現在は学士入学制度は廃止)石川先生が、大昔の静岡はそうではなかった、みるくゆがふさんが話に聴いたような、寛容な時代だった、それがどうして無くなってしまったのか、東京都内で最も精神神経科医療が進んでいる東京都立松沢病院で勤務した時でさえ、これでは患者さんはよくならないと残念に思ったと岩波新書で述べています。だからこそ、今こそ、森田療法で大切にされている、民間の良き知恵を取り入れた、前向きに寛容な見方と治療や支援の進め方の長所を精神神経科での治療において見直す機会だと思います。人間はだれしも同じ平坦な感情で生きているのではありませんし、少しの波や悩みがあって当然です。社会的理解や支援も、寛容になれる、日本の風土だからこそ、アメリカ式のDSM分類方式とそれに頼りすぎの治療法では限界があると考えます。

みるくゆがふさん、はるかさん、ありがどうございます。どちらの情報も、それぞれに興味深く、貴重なもので、精神医療との関わりからいっても、とても建設的なものと思います。また、実質的には、互いに見方の相反はほとんどないといってもいいことに気づかされますね。

私も、はるかさん同様、みるくゆがふさんのコメントを読んで、人間の残酷さ、特に集団が異質な者に対して、攻撃性を向けるたがを外され、「病気」であれ「憑依」であれ、それを正当化する理由を得たとき、どれたけ残酷になれるかということを、改めて感じさせられました。この集団の暴力性という点では、「民間の共同体」あるいは「世間」も、「病院」も、ほとんど同根ということですね。

結局は、人間が変わらない限り、何も変わらない(たとえ霊的な知恵が見直されることがあったとしても)ということかと、悲観的な気分にもなってしまいますが。

それはそうとして、みるくゆがふさんの仰っていた近所の「おばちゃん」は、やはりそこら辺のありふれた「おばさん」ではなかったのですね。私も、そうであったら、凄いことだと言いましたが、やはり現在においては、どのような地方でも、そこまで一般の人が霊的な知恵を当たり前のように身につけているということは、あり得ないでしょうね。はるかさんも、そのように、そのおばさんの言は、その地方の人びと一般にまで広げて解釈することはできないということを、言わんとされたのだと思います。

「霊的なものの見方」と言えども、時代により、行き渡り方や濃淡に差があり、また「共同体」においても、個々人のレベルでは、その受けとめ方に差があります。「魔女狩り」や「犬神憑き」の話をしましたが、それらは、それ以前の「昔」ではなく、近代に近い時期に起こっているのであり、「共同体」に、貨幣経済などの異質の価値観が入ってきて、人びとに価値観の揺らぎが生じたときに起こっています。つまり、実際には、霊的な価値観が揺らいで、その実質が失われようとしているときに、起こっているのです。「憑依」とか「魔女」という言葉が、その実質を離れて、独り歩きし、実際には、異質の者を「排除」することを正当化する方向に使われ出したということだと思います。それはもう、その時点において、その後精神医学が、「精神病」とか「病気」という言葉(レッテル)を使ってやり出したことと、ほとんど違わないものとなっていたということです。

それを、一部の者は、かつては「魔女」や「憑依」などの「迷信」が信じられていたから、そんな残酷なことが起こったので、現在は、合理主義や科学の見方でそんな「迷信」は否定されているし、それらは正しく、医学的に「病気」と規定されているので大丈夫だ、なとととぼけたことを言いますが、全然そんなことではなく、むしろ、精神医学は、初めから、そのような「排除」のあり方を受け継いで存在し、しかもより巧妙にそれを覆い隠す術を身に付けるものとなった、ということなのです。

いずれにしても、そうだとすれば、「霊的なものの見方」も、「魔女狩り」や「犬神憑き」のようなことが起こる以前には、共同体において、それなりに実質的に機能していたのかもしれず、そのように表面的にではなく、実質的に捉えられている限り、やはりそれなりの「知恵」は内包していたのだろうと思います。もちろん、否定的な面、あるいは「おどろおどろしい」と言ってもいい面は、つきまとうのであり、その面をしっかり見つめることも必要ですが、そのような「知恵」の面を、今後、顧みるということは可能なことではあるでしょうね。

この問題は、とても興味深く、大事なものですので、またいずれ記事でも述べたいと思います。

はるか様、お言葉をお寄せいただき有難うございます。正直共感することが殆どです。

(この問題についてこれでやめにしますが、整理のため少し書かせてください。○ょういと言う表現も使いません。今までも便宜上使っていたところもあり、森羅万象には何一つ無駄はないと考えております。)

(ブログ主のティエム様、駄文づらづらお許しくださいませ)

差別問題に関して、生まれ育った環境で聞いたことがなく、授業や啓蒙運動等を受けた記憶もありません。今回も??の連続です。(私は祖父母が宮古島出身、沖縄県内の高校卒業後30年本土暮らしの主婦です)

沖縄県民には人を差別する意識はあるか?勿論あります、大ありです。人間ですから。実際には世間でも家庭でも色んなことがあります。

(一応、「いちゃりばちょーでー」行き会えば兄弟、などと諺もありますが)

高校時代級友との会話
私「沖縄の人間は、都会人、田舎人、島じま、村の大小に至るまで、人をやたら蔑んでからかうのが好き過ぎると思わない?私思うよ」
友「確かにそうだよねー、なんであんなに普通に冗談で言うのかねー」

私「言われた方は傷ついてるのが分からないはずよー」
友「でも言わない人は、言わないよ。私も言わないよ、自分が言われたら嫌だからー」

私「うーん、つい私も言ってるけどさー…自分が誰かに言われると腹立つ、だから気分良くするためにさー、自分より下の人を作って、蔑んでるのかねー」
友「(キッパリ)そこを何とかするのが、人間じゃない?」私「…(赤面)」

しかし、差別の質が違う…何か違うのです……これは雰囲気、うまく言いにくいです。言うほど間違えてしまいそうなので控えます。

鎖国、村八分、その他、何百年何千年の何かがあるのでしょうか。

これまでにも「はばかられる雰囲気そのもの」が、差別問題の双方の不幸を表しているように感じ、外様(!)である私はこの問題についてあえて学ばずにおりました。

主人もよく知らないものですから、ある日出先で関連の話を耳にし「有り得ない…驚いた…」と半日寝込んでしまいました。「酷いを通り越している。お前は聞かないほうがいい」

非常にデリケートな問題、けれども道理は別のところにあるかも知れない、いずれ肉体を脱げば本当の魂は、誰もがピカピカかも知れません……と脳天気をお許しください。

森田先生のお話はほんのわずか見た記憶があります。同様に、日本独自の内観法もです。ティエム様のブログで加藤清医師の存在を知り、内海先生のブログで宮島賢也医師の存在を知り、

ぶっちゃけ、ギリシャ哲学もウントもフロイトもユングも生まれてきたように、日本から独自の「ジャポネスク・新・精神医学」が生まれてきていけないという法律はない訳ですから、

世界じゅうの叡知も参考にしつつ、日本の豊かで多種多様な「精神のありようの求めかた」を花咲かせて、

人それぞれが自由に自分の生きるよすがに出来る、そんな国になりたいな、ならなくちゃ、ぜったいなってやるー

「精神」の二文字が、本来の言葉に復活するよう祈願します。長々とすみません。有難うございました。

追伸、大事なことです(これが本文)

おばちゃんの言葉のなかで最も大切なことば、

「礼儀を尽くして」

おばちゃんはよく、「宇宙は礼儀でできているんだって」とおっしゃっていました。思い出して、秋の日にも心ポカポカです。

ティエム様からのお言葉も読みました。有難うございます。気づかないうちに、すごいおばちゃん、すごい環境で暮らさせていただいてたのですね。

みるくゆがふさんありがとうございます。

沖縄で育っておられるのてすね。ユタの伝統が今も残り、医師と共存するといわれてますが、やはり、そこでは本格的な差別というか、本当に人間について悲観的になるような出来事は、見聞きしないでいられるのですね。(あるいは、そのようなことも、背後に道理や意味があって起こっているので、いずれ解消するものとして、あまり深刻に受け取らずにいられるという態度が自然に身についている、という風にも見受けられますが。)それは、まさに昔の共同体のよきところが、今も存分に残っているということになるのではないでしょうか。

近所の「おばちゃん」の話も、まさに沖縄のような場所での話なら、何かすんなりそういうものなんだろうなあとして、聞けていたと思います。しかし、静岡ということですが、どこかの一地方の、そこら辺のただのおばちゃんが(ということは、ほとんど周りの誰もがということですが)、狐を邪険にもせず、かといってた媚びもせず、絶妙な態度を身につけているのだとしたら驚きだなあと思った次第です。

(私も今地方に住んでますが、そんなことはないですから。ただ、狐に化かされたり、憑かれたりという話は、私が東京に住んでいた中学時代の当時にも、結構見聞きはしたのですよ。加藤医師もユーチューブの動画で狐や狸の話をしていましたが、その当時は、結構身近でリアルな話として、広まっていたものと思います。この点については、また記事でも述べようかと思いますが)

やはり、地域で自然に身についた知恵というよりは、自分で特に学ばれて、身につけていたということになるんですね。

恐縮です。これからもどうぞ宜しくお願い致します。

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