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2013年9月

2013年9月30日 (月)

「狐に化かされる」こと/一時的な「幻覚」「妄想」状態

前の日記でも書いたことだが、かつての日本で、あったはずのものがなくなったり、ないはずのものを見たりしたときに、「狐に化かされる」という捉え方がよくされた。つまり、非日常的な「幻覚」「妄想」状態に捕らえられたときに、あれは「狐に化かされた」のだということで、納得し、それ以上それに捕われないで済むことができていた。これは、なかなかの「知恵」だったというべきである。

「狐」とは、文字通り動物の狐というよりは、さまざまな「精霊」的な存在を「狐」に代表させて呼んでいたのだろう。これは、決して、狐の「せい」にしたということではなく、狐の能力または知恵に敬意を払ってのもので、別に狐が「悪者」にされているわけでもない。本人も、それ以上そのことに捕らわれないで、その状態を引きずらないで済むことができる。

もっとも、そのような「幻覚」「妄想」状態も、一時的なものではなく、継続して起こるものとなると、さすがに、「狐に化かされる」では済まされなかっただろう。そのような場合には、「悪霊」や「動物的な霊」または「神」に、「憑かれる」ということになるし、それなりの対処が必要になる。実際、多くの者によって、そのように解された。

現代においても、このような一時的な「幻覚」「妄想」状態というのは、よくあることと思われる。特に、思春期の頃は、それまでの自我も不安定になり、何かしら、「幻覚」「妄想」状態に捕らえられるということは、起こり得ることである。そのようなときに、精神科にでもかかったり、連れて行かれたりしたときには、その状態は、「統合失調症」などと診断され、投薬もなされ、本当に、継続して治らない「統合失調症」に仕立てられる可能性がある。本来、一時的な現象であったにも拘わらずである。

前回みたように、現在では、「統合失調症」という診断をすることの敷居は、相当下がっていると思われるので、そのような傾向は、余計に高まる。

そのようなときに、かつての日本人がしたような、「狐に化かされる」という捉え方に相当する、何らかの「納得」の方法を持っていることは、大きく資するはずである。現代では、「狐」そのものという捉え方は難しいかもしれないが、まあ、捕食者的な「精霊」でもいいし、「妖精」やいたずら好きの「宇宙人」でもいい。そういった、人間以外の存在に、一時的な「幻覚」「妄想」状態に陥らされることは、いくらでもあり得るという理解が必要である。

あるいは、思春期の頃でいうと、それは、一種の「イニシエーション」(通過儀礼)的な出来事という理解もできる。実際、「未開社会」などでも、成人儀礼が行われるのは、この思春期の頃が多く、それは、実際に、その時期に、自我が揺らいで、一時的にでも、「霊界の境域」に侵入しやすくなっているからである。儀式は、そのような状況を利用して、大人としての新たな生を始める前に、実際に、「霊界の境域」を体験し、「死の体験」ともいえるものを一時的にさせるものである。

だが、現代でも、自我の揺らぐ、思春期の頃には、そのような儀式がなくとも、いわば自然の過程として、「霊界の境域」に一時的に侵入し、「幻覚」「妄想」状態に陥るという可能性は、十分あるのである。

だから、思春期の頃には、そのような「自然の」「イニシエーション」的な出来事も起こりやすいという理解も必要となる。そのうえで、「狐に化かされる」のと同様、あまりそれに捕らわれずに、通り越すべき自然の過程なのだとして、受け止めることが必要となる。

2013年9月22日 (日)

「分裂」から「統合失調」へ

「統合失調」という言葉と「分裂」という言葉については、何度か述べた。(たとえば、『「統合失調症」という名称』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-e246.html)「統合失調」という言葉は、本来、人格が「解離」した状態、つまり、外部的に現れたものであれ、内在的なものであれ、多数の解離した人格に分断している状態をいうのにふさわしい。

その意味では、人間は、すべて「統合失調症」である。「統合」された唯一の人格ではなく、解離した人格をもっているのは明らかだからである。

その「統合失調」が、一時的にではなく、真に「回復」され、「統合」されるには、人間は「分裂」を通り越さなければならない。「分裂」は、「統合失調」より、さらに深く「分裂」を来たした状態である。それは、確かに、より「病的」であり得る。しかし、それが通り越され、「くぐり抜け」られるなら、それはより深いところから、真の「統合」をもたらす可能性がある。すなわち、そうして初めて、人間の通常の状態である「統合失調」から、抜け出す可能性がある。

しかし、現実の医療の場において、「分裂病」から「統合失調症」へと名称が変わったことは、「統合失調症」という診断の手軽な適用と、精神薬の拡張しか生まなかった。それは、「分裂」や「統合失調」ということの意味を、何ら再考させるものではない。ただ、「レッテル」としての病気の枠組みを、事実上広げたというだけである。(図参照)

ただ、それも、本来、人間は「統合失調」であることを考えれば、ある意味、「必然」の成り行きと言えなくもない。そのようにして、皮肉な形で、人間の実情が露わにされているとも言えるわけである。

図) 「分裂病」から「統失」へ

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2013年9月10日 (火)

クンの「癒し」と「西洋医学」

前回言ったように、クン族の「ヒーリング・ダンス」という「癒し」は、単に、個々の者の病気を治癒するというだけでなく、共同体全体の「癒し」も含んでいる。

さらに、それだけでなく、この「癒し」は、彼らを取り巻く、人や環境との関係での、「不均衡」を回復するというような意味合いも含んでいる。特に、彼らにとって、「病気」や天災のような災害も、神々との関係で生じるものなので、「神々との関係」を調整する(ときに闘う)というのが、重要な位置を占めている。要するに、彼らの「癒し」とは、生きるうえでの、あらゆる側面に関わる、まさに「全体的」な「癒し」なのである。

さらに、このダンスには、前回みたように、癒し手として「キア」という変性意識状態に入るために、日常的自我を超えて、自己超越を果たすという意味合いもあるので、一種の宗教的な修練でもある。また、当然ながら、単純に、芸能としての「踊り」や「音楽」として、楽しまれるものでもある。

著者も、このダンスや「癒し」に込められた、多様な意味合いについて、次のように言っている。

クンの人びとにとって、癒しとは、単なる治療や医療をこえている。たしかな健康をもたらし、身体的、精神的、社会的、霊的レベルの向上を目ざすものだ。癒しは、個人、集団、周囲の環境、さらに宇宙の全体にかかわる行為なのである。癒しは、すべてを根底から統合し、増進する力であり、クンの文化に広くいきわたっている。       60ページ

クンの癒しは、人間のあらゆる側面、状況を踏まえ、その全体に取り組む。癒しの目的には、病人の身体的苦痛を和らげること、癒し手自身が学ぶこと、キャンプのもめごとを解消すること、神々と世界のあいだに正しい関係を打ち立てることが含まれている。どれか一つを特に目指していたとしても、じっさいには、癒しはすべてに影響する。クンにとって問題なのは、ただの「治療」ではなく、「癒す」かどうか、「疾患」だけでなく、「病」も癒せるか、ということだ。      84ページ

このようなものに比すれば、西洋医学などというものは、くそみたいなものであることが明らかであろう。「くそ」と言って悪ければ、全く部分的で、皮相なもの、小手先のものである。

もちろん、この「癒し」は、西洋医学でいうような「治療」という意味合いも含んではいる。ただ、疾患とは、「患者が環境のなかで生きるうえで生じた、不調和のあらわれに過ぎない」から、そのような環境との全体的な調和の回復をはかる「癒し」によって、解消されると考えられているのである。

そして、実際に、ヒーリング・ダンスによって、結核や感染症のような疾患も、治ってしまうことがあるのを著者も確認している。このヒーリング・ダンスとは別に、薬草やマッサージといった治療法も副次的には使われることがある。さらに、当時、既に、抗生物質のような、西洋医学の治療法もいくらかもたらされてはいた。しかし、彼らにとって、治癒の中核にあるのは、あくまでも、共同体全員で行うヒーリング・ダンスなのである。

西洋医学では、感染症などを「病気」の代表として恐れ、「治療」や「予防」に血眼になる。しかし、クンのある癒し手は、指の傷の感染症についてだが、「そんなものはほうっておいても治る」ので、特に「癒し」で「抜いた」りはしないという。現に、クン族は、このような対応や、ヒーリング・ダンスを中核とする「癒し」によって、一万年以上続く文化を存続させてきたわけだから、この言葉は重い。

しかし、このヒーリング・ダンスも、もちろん万能なわけではない。というよりも、むしろ、「癒し」というのには、「患者の死」も含まれる、といわれることに注目される。「癒し」とは、「死」によって新しい調和がもたらされるということも、含んでいるのである。もちろん、癒し手は、治癒に最善を尽くすが、「死ぬべきものは死ぬ」こと、死期が来て、「神々がその世界へ引きとっていく」こともまた、調和のある事実として、受けとられている。クンが言うには、「癒して、神が助けることもある。癒し、癒し、癒しても、患者が死んでしまうこともある。」

この点は、前回みたように、癒し手は、「キア」という意識状態に入る時点で、既に「死」を受け入れ、克服していることも大いに関係しているだろう。これは、「死と再生」の意味合いのある儀式をもつ「未開民族」すべてに言えるわけだが、彼らの多くは、「死」に慣れ親しんでいる訳で、近代人のように「死」を忌避しているわけではない。だから、「治療」といっても、「死」そのものが、敵視されたり、失敗とみなされているわけではないのである。

西洋医学との関係では、先にみたように、当時既に抗生物質などの治療薬も入っていて、ヒーリング・ダンスと併行して使われることもあるという。著者は、これは、西洋医学の効果もある程度認めたうえで、彼らのヒーリング・ダンスに融合して取り込んでいるというようなことを言っている。

しかし、私は、この点は疑問である。著者も、彼らの文化にとって、贈り物の交換である「互酬性」が、互いを支える重要なシステムとして働いていることを指摘している、贈り物は、それ自体に重要な意味があるので、拒んではならないのである。恐らく、西洋人がもたらした、というより、強く「押し付け」た抗生物質などの治療薬は、異民族による「贈り物」として、意味を認められているのだと思う。つまり、それ自体の効果がどうこうというよりも、贈り物として、敬意を表されているということである。

それは、彼らからすれば、「対等の関係」を前提とした敬意の表明である。彼らも、初めは、西洋人が、彼らより優れているとの独断的な思想をもち、一方的にものごとを「押し付け」てくることなどは、思いもよらなかったであろう。

しかし、結局、西洋文明は、そうやって、遂には彼らの文化を駆逐するまでにいたったのである。ヒーリング・ダンスなどの伝統的な「癒し」の力によって、感染症には、敗れることのなかった彼らも、西洋文明という破壊力には、無残にも打ち破られたわけである。

2013年9月 3日 (火)

「<癒し>のダンス」

よく、テレビでも、誰かが未開社会の取材に行ったときなど、歓迎の儀式として、夜通し火を囲んで踊るということが行われたりする。これは、あくまで、文字通り「儀礼的」な催しであり、真の儀式をまねた模擬的なものに過ぎない。

しかし、リチャード・カッツ著『<癒し>のダンス―「変容した意識」のフィールドワーク』(講談社)という本は、この未開社会の「火を囲んで踊る」という一見単純な儀式の真の意味を、フィールドワークによって深く突っ込んで明らかにしてくれている。

そこには、人類またはあらゆる文明の、宗教、芸術、医術、シャーマニズムの原点といえるような、多様で密度のある内容が詰め込まれており、改めて驚かされる。また、私的には、「統合失調的状況」と通じる要素が多分にあることにも、注目される。

このフィールドワークは、1968年から、かつてホッテントットと言われた、カラハリ砂漠のクン族に対して行われたものである。ただ、当時、既に西洋文明の流入により、失われようとしていた要素も多くあるという。ブルキナファソのダガラ族のイニシエーション体験を綴った『ぼくのイニシエーション体験』(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post-4fe9.html)とともに、貴重な記録といえる。

この「踊り」は、火を囲んで、共同体の者たちがそのまわりを取り巻き、女は主に歌い、拍手をして盛り上げ、男が踊る、ということを夜通し続ける単純なものである。しかし、それは、「ヒーリングダンス」とも言われるように、多様な「癒し」をもたらす。それは、個々の者の「病気」を治療するというだけでなく、共同体全体の「癒し」でもある。それは、共同体に生まれた、さまざまな軋轢や溝を解消するということも含むのである。

この踊りのもつさまざまな側面は、それぞれに興味深いのだが、ここでは、個々の病気の癒しということと、「統合失調的状況」に通じる要素のみに着目して述べてみたい。

個々の者の病気を治療するのは、特定の「シャーマン」ではなく、踊りの中で「キア」と呼ばれる「変性意識状態」に入って、神々または精霊と交流する「踊り手」である。

「キア」に入ると、普段「見えない」ものが見え、「病者」の悪い部分が見えるようになる。「キア」の状態では、「ヌム」と呼ばれる「霊的エネルギー」が強力に活性化し、これを「病者」に「入れる」ことによって、病気に治癒がもたらされれる。また、そもそも「病気」とは、神々または精霊によってもたらされるものなので、「踊り手」は「キア」の状態で、神々や精霊と交渉して、病気を治療することを促すのである。

しかし、その「踊り手」は、儀式が終われば共同体の単なる一員であり、「シャーマン」のような特別な地位につくこともない。共同体全体が一体となって行う、この「ダンス」という儀式の「場」において、そのような「癒し手」が生みだされるだけなのである。(ただし、資本主義的な交換の原理の導入により、当時既に、報酬をとって治療する治療師も現れてはいた。)

「ヌム」という「霊的エネルギー」は、いわゆる「気」そのものだが、むしろ「クンダリニー」に近いといえる。普段みぞおちと背骨の基底部に宿っているが、儀式の「踊り」の沸騰により熱をもち、上昇して、頭蓋骨の底に達すると「キア」が始まるという。

この「キア」という特別の意識状態、一種の超越的な状態が、「癒し」の重要な鍵となっているわけだが、これには誰もが入れるわけではない。(ただし、クン族では、女の3割、男の7割が入れるようになるという。)そこには、克服しなければならない「壁」がある。「キア」に入る前の段階では、さまざまに強烈な身体的苦痛を伴う。また、「キア」という未知の状態に入ることは、強度の恐怖をもたらす。それは、まさに「死」そのものを意味し、それを超えるには、実際に「死ぬこと」しかないのだという。

このような、「キア」に入るときの状況については、クンの「踊り手」たちの話を交えながら、次のようにうまくまとめられている。少し長いが、引用しよう。

キアの体験は、解放と自由の感覚だけでなく、存在を根底から揺るがすような痛みと恐怖をもたらす。キアが始まるとき、「ガビシ」(横隔膜と腰の間の特に脇腹の部分)とみぞおちが、焼けるように痛むと、クンたちは繰り返し語る。ある癒し手は、自分がはじめてヌムを体験したときのことを、こう語る。「ヌムが胃に入った。ガビシに入ったヌムは熱く、痛く、まるで火のようだ。私は驚き、泣き叫んだ。」
 キアの体験は、肉体的な変化にとどまらない。別の苦痛と恐怖に満ちている。カウ・ドゥワは、とても明瞭に表現している。「キアに入るとき、怖ろしいのは死ぬことだ。死んでしまうのではないか、死んで帰って来られないのではないか、が恐ろしいのだ。」
 再生のない「死」のイメージは、ほかのどのような文化に生きる者にとっても、クンにとっても、同じようにひどく恐ろしいものである。「癒し」を学ぶ者が、自分の「死」に直面し、「喜んで」死ぬことかできるようになると、ヌムへの恐怖は克服され、キアを体験するための突破口になる。このとき「再生し、戻って来られる」という確信は、不可欠ではないにしても、大きな助けになる。
 カイカイの老練な癒し手であるトゥウィは、キアにおける死と再生を、こう語る。
「心臓が止まる。死ぬ。思考は無になる。呼吸はむつかしい。いろいろなものが見える。ヌムにかかわりのあるものを見る。精霊が人間を殺すのを見る。燃えるにおい、腐った肉のにおいがする。それから、癒しをはじめる。病気を取り出す。治して、治して。治す。それから生き返る。目の玉ははっきり、人間を見る。」
                           (74ページ)

著者は、このように、よくクンの話を聞き出しているが、単なる聞き取り的な取材だけでなく、自分自身でも、この踊りを体験し、「キア」に入るということの意味を実体験しようと試みている。たが、残念ながらそれは適わなかったようである。しかし、この「キア」ということ、あるいは、それに入るプロセスの、重要な意味を見抜き、そこへ深い突っ込みをもって迫ろうとしている。それで、その過程は、「統合失調的状況」とも通じる面が多くあることが、明らかになってもいるのである。。

「キア」と呼ばれる状態は、「変性識状態」を意味しているが、それは、単に意識が変容した状態(幻覚的な知覚を得る状態)にあるというだけではない。その状態の中で、錯乱することなく、病人の治癒や、神々、精霊との交渉のできる、明瞭に「意識」的な振舞いのできる状態にあることを意味している。そして、そのような状態に至るために、超えなければならない「壁」が、「死ぬこと」というのである。(※)

このような、変性意識状態、またはそれに入る前の、苦痛を伴う混沌とした状況というのは、「統合失調的状況」と非常に似ている。クンの癒し手の言葉を聞いても、その共通性は明らかのはずである。しかし、統合失調的状況では、ある程度「変性意識状態」に入るとは言え、「キア」にみられるような、明瞭な「意識的」な振舞いを可能にする要素に欠けている。つまり、それは、「キア」のように、「死ぬこと」という「壁」を超えられずにいるわけである。そのために、混沌とした、混乱状態に留まって、抜け出し難く足掻いているのが、「統合失調的状態」ということになる。それに対して、「死ぬこと」の壁を超えて「キア」に入った癒し手は、癒しの儀式を終えると、そこから抜け出して、「人間」として「生き返る」のである。

この「死ぬこと」と「生き返る」ことについては、「死と再生」という言い方がよくされる。このブログでも、ときにこの言い方を使っている。ところが、この言い方は、特に「死」ということの、実質的な意味を見失わしめ、単なる「概念」に堕すおそれがある、人類学や臨床心理学などでも、この「死」のことを、よく「象徴的な死」などと表現する。それは、文字通り、肉体的に帰って来ない「死」と区別する意味で、模擬的、象徴的な「死」ということが強調されるのだろう。しかし、その「死」は、決して単なる「象徴」などではない。実質的には、肉体的な「死」と同じ。あるいは、むしろ、その「死」のより深みに降りていくことであり、だからこそ、「肉体的な死」に留まらないというのが、本当のところである。

著者も、多少この「象徴的死」という概念にとらわれていたためか、クンのいう「死」の意味をはっきりと捉え難かったようで、クンの癒し手に対して、さかんに質問を繰り返す。それに対する、クンの癒し手の答えは次のようである。

「キアで死ななければならない、と言ったことがありましたね。それは本当に死ぬ、ということですか。」
「そうだ」
「本当に死ぬということですか。」
「そうだ」
「地面の下に埋葬される時の死、ということでしょうか」。私はもう言葉に詰まっている。
「そうだ」カウ・ドゥワは熱く答える。「まさにそれだ」。
「同じなのですか」
「そうだ、同じだ。それがおれの言っている死だ」。彼は言い切る。
「何の違いもないのでしょうか」私はもはや懇願している。
「それが死だ」彼はきっぱりと、しかし優しく答えてくれる。
「もう二度と戻って来られない死ですか」。私は自分の論理の網の端を、何とか握ったままでいようとしている。
「そうだ」彼は単純にそう答える。「同じくらいひどいことだ。われらすべてを殺す死だ」
「しかし、癒し手はまた立ち上がり、亡くなった人は立ち上がりません」。私の言葉は新たな疑問に吸い込まれていく。
「そのとおり」カウ・ドゥワは微笑み、静かに答える。「癒し手はまた生き返るのだ」。
                          (170ページ)

※ クンによれば、癒し手になるには、「はじまりのキア」ではなく、「完全なキア」に入ることが、必要という。この言い方が、この辺のことをよく指し示していると思う。つまり、日常の状態から、ダンスを通して、「キア」という意識状態に入っていくわけだが、「完全なキア」とは、さらに日常の意識から離れて、深く「キア」そのものの意識状態へと入っていくことである。その過程では、当然、日常の意識を構成している「日常的な自我」が「死ななければならない」わけである。そのような、日常的な自我意識こそが、深く「キア」に入ることを恐れ、混乱をもたらし、足を引っ張るものだからである。

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