よく、テレビでも、誰かが未開社会の取材に行ったときなど、歓迎の儀式として、夜通し火を囲んで踊るということが行われたりする。これは、あくまで、文字通り「儀礼的」な催しであり、真の儀式をまねた模擬的なものに過ぎない。
しかし、リチャード・カッツ著『<癒し>のダンス―「変容した意識」のフィールドワーク』(講談社)という本は、この未開社会の「火を囲んで踊る」という一見単純な儀式の真の意味を、フィールドワークによって深く突っ込んで明らかにしてくれている。
そこには、人類またはあらゆる文明の、宗教、芸術、医術、シャーマニズムの原点といえるような、多様で密度のある内容が詰め込まれており、改めて驚かされる。また、私的には、「統合失調的状況」と通じる要素が多分にあることにも、注目される。
このフィールドワークは、1968年から、かつてホッテントットと言われた、カラハリ砂漠のクン族に対して行われたものである。ただ、当時、既に西洋文明の流入により、失われようとしていた要素も多くあるという。ブルキナファソのダガラ族のイニシエーション体験を綴った『ぼくのイニシエーション体験』(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post-4fe9.html)とともに、貴重な記録といえる。
この「踊り」は、火を囲んで、共同体の者たちがそのまわりを取り巻き、女は主に歌い、拍手をして盛り上げ、男が踊る、ということを夜通し続ける単純なものである。しかし、それは、「ヒーリングダンス」とも言われるように、多様な「癒し」をもたらす。それは、個々の者の「病気」を治療するというだけでなく、共同体全体の「癒し」でもある。それは、共同体に生まれた、さまざまな軋轢や溝を解消するということも含むのである。
この踊りのもつさまざまな側面は、それぞれに興味深いのだが、ここでは、個々の病気の癒しということと、「統合失調的状況」に通じる要素のみに着目して述べてみたい。
個々の者の病気を治療するのは、特定の「シャーマン」ではなく、踊りの中で「キア」と呼ばれる「変性意識状態」に入って、神々または精霊と交流する「踊り手」である。
「キア」に入ると、普段「見えない」ものが見え、「病者」の悪い部分が見えるようになる。「キア」の状態では、「ヌム」と呼ばれる「霊的エネルギー」が強力に活性化し、これを「病者」に「入れる」ことによって、病気に治癒がもたらされれる。また、そもそも「病気」とは、神々または精霊によってもたらされるものなので、「踊り手」は「キア」の状態で、神々や精霊と交渉して、病気を治療することを促すのである。
しかし、その「踊り手」は、儀式が終われば共同体の単なる一員であり、「シャーマン」のような特別な地位につくこともない。共同体全体が一体となって行う、この「ダンス」という儀式の「場」において、そのような「癒し手」が生みだされるだけなのである。(ただし、資本主義的な交換の原理の導入により、当時既に、報酬をとって治療する治療師も現れてはいた。)
「ヌム」という「霊的エネルギー」は、いわゆる「気」そのものだが、むしろ「クンダリニー」に近いといえる。普段みぞおちと背骨の基底部に宿っているが、儀式の「踊り」の沸騰により熱をもち、上昇して、頭蓋骨の底に達すると「キア」が始まるという。
この「キア」という特別の意識状態、一種の超越的な状態が、「癒し」の重要な鍵となっているわけだが、これには誰もが入れるわけではない。(ただし、クン族では、女の3割、男の7割が入れるようになるという。)そこには、克服しなければならない「壁」がある。「キア」に入る前の段階では、さまざまに強烈な身体的苦痛を伴う。また、「キア」という未知の状態に入ることは、強度の恐怖をもたらす。それは、まさに「死」そのものを意味し、それを超えるには、実際に「死ぬこと」しかないのだという。
このような、「キア」に入るときの状況については、クンの「踊り手」たちの話を交えながら、次のようにうまくまとめられている。少し長いが、引用しよう。
キアの体験は、解放と自由の感覚だけでなく、存在を根底から揺るがすような痛みと恐怖をもたらす。キアが始まるとき、「ガビシ」(横隔膜と腰の間の特に脇腹の部分)とみぞおちが、焼けるように痛むと、クンたちは繰り返し語る。ある癒し手は、自分がはじめてヌムを体験したときのことを、こう語る。「ヌムが胃に入った。ガビシに入ったヌムは熱く、痛く、まるで火のようだ。私は驚き、泣き叫んだ。」
キアの体験は、肉体的な変化にとどまらない。別の苦痛と恐怖に満ちている。カウ・ドゥワは、とても明瞭に表現している。「キアに入るとき、怖ろしいのは死ぬことだ。死んでしまうのではないか、死んで帰って来られないのではないか、が恐ろしいのだ。」
再生のない「死」のイメージは、ほかのどのような文化に生きる者にとっても、クンにとっても、同じようにひどく恐ろしいものである。「癒し」を学ぶ者が、自分の「死」に直面し、「喜んで」死ぬことかできるようになると、ヌムへの恐怖は克服され、キアを体験するための突破口になる。このとき「再生し、戻って来られる」という確信は、不可欠ではないにしても、大きな助けになる。
カイカイの老練な癒し手であるトゥウィは、キアにおける死と再生を、こう語る。
「心臓が止まる。死ぬ。思考は無になる。呼吸はむつかしい。いろいろなものが見える。ヌムにかかわりのあるものを見る。精霊が人間を殺すのを見る。燃えるにおい、腐った肉のにおいがする。それから、癒しをはじめる。病気を取り出す。治して、治して。治す。それから生き返る。目の玉ははっきり、人間を見る。」
(74ページ)
著者は、このように、よくクンの話を聞き出しているが、単なる聞き取り的な取材だけでなく、自分自身でも、この踊りを体験し、「キア」に入るということの意味を実体験しようと試みている。たが、残念ながらそれは適わなかったようである。しかし、この「キア」ということ、あるいは、それに入るプロセスの、重要な意味を見抜き、そこへ深い突っ込みをもって迫ろうとしている。それで、その過程は、「統合失調的状況」とも通じる面が多くあることが、明らかになってもいるのである。。
「キア」と呼ばれる状態は、「変性識状態」を意味しているが、それは、単に意識が変容した状態(幻覚的な知覚を得る状態)にあるというだけではない。その状態の中で、錯乱することなく、病人の治癒や、神々、精霊との交渉のできる、明瞭に「意識」的な振舞いのできる状態にあることを意味している。そして、そのような状態に至るために、超えなければならない「壁」が、「死ぬこと」というのである。(※)
このような、変性意識状態、またはそれに入る前の、苦痛を伴う混沌とした状況というのは、「統合失調的状況」と非常に似ている。クンの癒し手の言葉を聞いても、その共通性は明らかのはずである。しかし、統合失調的状況では、ある程度「変性意識状態」に入るとは言え、「キア」にみられるような、明瞭な「意識的」な振舞いを可能にする要素に欠けている。つまり、それは、「キア」のように、「死ぬこと」という「壁」を超えられずにいるわけである。そのために、混沌とした、混乱状態に留まって、抜け出し難く足掻いているのが、「統合失調的状態」ということになる。それに対して、「死ぬこと」の壁を超えて「キア」に入った癒し手は、癒しの儀式を終えると、そこから抜け出して、「人間」として「生き返る」のである。
この「死ぬこと」と「生き返る」ことについては、「死と再生」という言い方がよくされる。このブログでも、ときにこの言い方を使っている。ところが、この言い方は、特に「死」ということの、実質的な意味を見失わしめ、単なる「概念」に堕すおそれがある、人類学や臨床心理学などでも、この「死」のことを、よく「象徴的な死」などと表現する。それは、文字通り、肉体的に帰って来ない「死」と区別する意味で、模擬的、象徴的な「死」ということが強調されるのだろう。しかし、その「死」は、決して単なる「象徴」などではない。実質的には、肉体的な「死」と同じ。あるいは、むしろ、その「死」のより深みに降りていくことであり、だからこそ、「肉体的な死」に留まらないというのが、本当のところである。
著者も、多少この「象徴的死」という概念にとらわれていたためか、クンのいう「死」の意味をはっきりと捉え難かったようで、クンの癒し手に対して、さかんに質問を繰り返す。それに対する、クンの癒し手の答えは次のようである。
「キアで死ななければならない、と言ったことがありましたね。それは本当に死ぬ、ということですか。」
「そうだ」
「本当に死ぬということですか。」
「そうだ」
「地面の下に埋葬される時の死、ということでしょうか」。私はもう言葉に詰まっている。
「そうだ」カウ・ドゥワは熱く答える。「まさにそれだ」。
「同じなのですか」
「そうだ、同じだ。それがおれの言っている死だ」。彼は言い切る。
「何の違いもないのでしょうか」私はもはや懇願している。
「それが死だ」彼はきっぱりと、しかし優しく答えてくれる。
「もう二度と戻って来られない死ですか」。私は自分の論理の網の端を、何とか握ったままでいようとしている。
「そうだ」彼は単純にそう答える。「同じくらいひどいことだ。われらすべてを殺す死だ」
「しかし、癒し手はまた立ち上がり、亡くなった人は立ち上がりません」。私の言葉は新たな疑問に吸い込まれていく。
「そのとおり」カウ・ドゥワは微笑み、静かに答える。「癒し手はまた生き返るのだ」。
(170ページ)
※ クンによれば、癒し手になるには、「はじまりのキア」ではなく、「完全なキア」に入ることが、必要という。この言い方が、この辺のことをよく指し示していると思う。つまり、日常の状態から、ダンスを通して、「キア」という意識状態に入っていくわけだが、「完全なキア」とは、さらに日常の意識から離れて、深く「キア」そのものの意識状態へと入っていくことである。その過程では、当然、日常の意識を構成している「日常的な自我」が「死ななければならない」わけである。そのような、日常的な自我意識こそが、深く「キア」に入ることを恐れ、混乱をもたらし、足を引っ張るものだからである。
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